第三十六話 口初め
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モルデオン。
悪徳領主と名高いバゲニーゼ・モルデオンが治めていた都市の名であり、アニス達が冒険者協会の依頼を受け潜入調査を行った場所だ。
かねてより素行は悪かったようだが、怪しげな人物を招いてから更に変貌したバゲニーゼは、都市に住まう貧困層を奴隷として売却しており、その金で高価な魔術具を買い漁っていた。
奴隷は中央が制定している大禁則に当たり、見つかれば領主そのものだけに限らず、その地を治める王にも責が及ぶ大罪である。
ゆえにその調査を任されバゲニーゼを打破することでこれを解決したアニス達には、虚空の鞄という新造の冒険者パーティーには破格の報酬が授けられたのだ。
そして、目の前にいる自由の魔女こそが、中央に奴隷禁止という新たな大禁則を作らせた張本人である。
気付いたアニスが、
「あっ、もしかして奴隷の件で……?」
と尋ねれば、やっと話を聞く気になったか、とでもばかりにホルティナが息巻く。
「そのとーり!
もーほんとにびっくりしちゃったですよ、あんなに王様に言っといたのにまだそんな事する人が出てくるなんて!
だから領主のほっぺたに思いっきりパンチしてみんなを自由にしてあげないといけないのです!」
なるほど、自由の魔女なら当然の理由である。
アニス達はお互いの顔を見合わせて、苦笑いを零した。
こんな偶然、なかなかあることではない。
「えーっとね、ホルティナ。実はその件なんだけど、もう解決したっていうか……あたし達がなんとかしたっていうか……」
「『あの領主は死んだ。奴隷も今頃自由の身になっているはずだ。心配する必要はない』」
ホルティナが、呆けた顔を浮かべた。急に出された情報が飲み込めず、混乱して瞳孔が目まぐるしく回っている。
しかしそれも束の間、やがて目を輝かせながらアニスの手を勢いよく取り、上下に激しく振り回した。
「すっごーい! たった三人で街を開放したの!? 魔女でもないのに!?
すごいすごーい!! さっすがアトリアさまの祝福を受けた子!」
勢いに呑まれてされるがまま揺れるアニスはそのままに、今度はレディエールの方を向く。
レディエールは思わず顔がひきつった。突拍子もない行動に出る時の笑顔をしていたからだ。
「よしよし、じゃあお礼にあらしのマナを少しお裾分けしたげます!
この中で風のマナを持ってるのはレディちゃんだけだから、レディちゃんにあげますね!」
なんとか回避する方法はないか。レディエールの脳内で一瞬のうちに、様々な逃走プランが頭をよぎる。
今までのホルティナの言動から、真っ当な強化をしてもらえるとは思えなかった。
「あの、ええっと、今でも十分やれていますから、せっかくですが……」
と、男装しているのを忘れて思わず素で話してしまうほどだ。だが、
「あなたたちこれから魔界行くんですよね?
今までと全然勝手が違いますし、魔物もこっちの比じゃないぐらい強いですよ」
とまで言われてしまってはぐうの音も出ない。
なにより、ああは言ったがレディエール自身が現状で足りているとは思っていなかったため、この指摘は深く刺さってしまった。
「や、やっぱりそうなんですか?
魔界っていうぐらいだからそうなんじゃないかとは思ってたんですが……」
アニスが不安げに眉を垂らす。この顔がレディエールにとって決定的なものとなった。
マナを使い果たしてアニスを守ることが出来なかった。そんな未来が想像できてしまったのだ。
「……そう、ですね。魔界に満ちるマナは魔王のそれを浴びているため、それを吸う魔物も強くなると言います。
この先、"銀嵐"を一度しか使えないようでは困る場面も増えるでしょう。
申し訳ありません、ホルティナ様。ぜひ、お願いできますでしょうか」
「もうあのかっこいい話し方やめていーんです?
ふふふ、いーですよ。それじゃちょとこっち向いて、目を閉じてくださいなっ」
御者席から馬車の中に向き直して、言われるがまま瞼を閉じる。
マナを贈与する。ホルティナは簡単に言ったが、マナとは生命力そのものだ。おいそれと人に渡せるものではない。
どういう風に渡されるのか、渡された後どうなるのか。恐くもあり、興味もあった。
「んちゅ」
妙な声とともに、柔らかくて温かなものが唇に触れた。
しっとりとしたそれは朝露に濡れた花弁のようでもあり、上等な絹のようでもあった。
「……!?」
「だーめ、動かないでくださいね」
アニスが絶句して、酸素を求める魚のように口をしきりに開け閉めさせた。
得も知れぬ衝撃が脳天を貫いた心地である。アニスはこの感情を説明することは出来ず、ただ謎の衝撃が身体中を支配していた。
フォリントの、わー大胆、などという気の抜けた言葉も耳に入らなかった。
一方で当のレディエールといえば、こちらもまた激しい動揺を隠せずにいた。
唇が触れ合う程度の軽いキスであったが、中々離れない。なるほど、確かに何らかの、熱を帯びた力の奔流のようなものが体の内に流れ込んでいる――ような気はした。
しかしそれどころではないのだ。断じて、それどころではない。
えっ、私のファーストキスこれですか……?
レディエール・シルバーストーム、24歳。別に純情を気取っていた訳では無いが、捧げる相手もなし。
そこまで大切なものだとも思っていなかったが、失った途端に、猛烈な喪失感が襲ってきた。
「はいっ、これでだいじょ……あ、あれ!?
レディちゃん、泣いてる!? なんで!?」
指摘されるまで、自らの頬を下る一条の雫に気付いていなかったレディエールは大いに驚いた。
人差し指で涙を拭い、二度顔を横に振った。
「いえ、大丈夫、大丈夫です。
少し、驚いてしまっただけですので」
「そ、そう? なんか……ごめんね?
女の子同士だし、あんまり気にしないで?」
ホルティナは罰が悪そうに、それでもなんとか明るくしようと笑った。その様子からは、こういう情緒を忘れていた、というような焦りが感じられた。
悪意があったわけでも、妙な色気があったわけでもない。きっと、マナ譲渡のためにキスをするというのは、魔女の中では一般的な手法なのだろう。
レディエールはそう、考えることにした。
「次からは方法を事前に伝えるといいと思いますよ。
でも、ありがとうございます。きっとこの力は役立ててみせます」
この言葉にホルティナはいくらか安堵したようで、引き攣っていた笑みが緩んだ。
「はいぃ、よーく覚えておくです。
えーっと、こほん。
それで、いまお譲りしたのはあらしの風のマナです。
レディちゃんのそばで今まで吹いていた風とは毛色が違うと思うんでぇ、実践で使う前に色々試してみるといーですよ」
なるほど、どういった風なのですか、などと普通に会話を始めるレディエールをアニスはなんとなく見ていた。
アニスもまた、少し前に口初めを済ませたばかりであった。それもレディエールと同じように不意打ちで。
あの時レディエールは甚く憤慨していたが、なるほど。
こういう気持ちだったんですね。
頗る、面白くない。全く面白くなかったのであった。
2
「さて、ではあらしはもう行かなくちゃ。
領主が死んじゃったからと言って、全部が全部救われたとは限りません。
あらしはこのままモルデオンに様子を見に行きますよ。
それじゃ、お元気で~」
言うが早く、止める間もなくホルティナはその場を去ってしまった。
あらしのような子だったわね、とフォリントが言ったものだから、三人は大いに笑った。
笑った後に、そういえば違法入界の手助けをした件については有耶無耶にされてしまったことに気付いて、案外計算高いのではないか、などと話している内にいつの間にやら関所前までたどり着いていた。
とは言えもう空は夕染めてきており、衛士が番号の書かれた割札を並ぶ人々に配り始めた。
明日の並び順を決める札であり、即ち今日はもう通さないという意味だ。
この札を見せると宿場町の宿が多少割引いて借りられるということで、なるほど、上手い商売だわとフォリントが肩を竦めた。
アーザスの宿場町は、そのほとんどが宿屋で構成されていた。
カッサベルナ目的で大挙して訪れる客ために、とにかく部屋数を確保しなければならない。
宿代で十分潤っているのだろう、質の良い宿屋が多く、アニス達はその中でも一番上等な宿に泊まることにした。
アトリアの祝福は困難をよくおびき寄せるが、乗り越えた先の報酬が大きい。女だけの三人旅はとかく、金がかかる。金銭には不自由しないのは有り難かった。
「このクリメクの炙り締めってのはなに?」
「クリメクというのは魔界側に生息する大型の鳥で、飛ぶのではなく地を走る生き物です。
馬のような強靭な脚を持ち、凄まじい健脚を誇ります。
ただ、気性が荒いため乗るには向かず、その赤い身が滋味に富むためもっぱら食用目的で狩られる生き物です。
炙り締めというのは、新鮮な肉の外側を炙り、少し焦げ目がついた程度になりましたところを薄くスライスし、冷水にくぐらせた後大量の薬味と一緒にいただく調理法です」
「炙ってから、冷水に?」
「はい。クリメクは体温が高いため生食もできるのですが、軽く炙ったほうが獣臭さを軽減させ、風味を豊かにさせます。
冷水にごく短い時間くぐらせることで風味を維持したまま肉を引き締めることができ、食感をよくさせます。
炙りのため獣臭さを完全に消し去ることは出来ませんが、そこを薬味で打消すのです」
高級宿ともなれば、与される食事もまた他にはないものとなる。
炙っているとは言え、肉をほとんど生で食べるなど中々ないことだ。好奇心旺盛なフォリントがこれを頼み、アニスとレディエールは香草焼きを注文した。
出された料理を見て、三者とも驚いた。十枚ほどの肉の薄切りの上に、これでもかというほど薬味が山盛りに乗っているのだ。
こんなに薬味ばかり乗っていては肉の味などわからないのではないかと困惑したが、フォリントは意を決し一切れを薬味ごとフォークで差して口の中へ放り込んだ。
香草焼きが遅れて届いたが、それどころではない。フォリントが瞼を閉じ咀嚼しているさまを、アニスとレディエールはごくりと喉を鳴らして見守った。
「んーっ! なにこれ、すっごい美味しいんですけど!?
薬味ばっかりじゃんって思ったけど全然肉の味が負けてない! もうすんごい濃厚!
ぷりっぷりの身とシャキシャキの薬味がめっちゃくちゃ合って噛んでて楽しい! あたしこれ好き~!」
「そ、そんなに美味しいんですか……?」
「今まで食べたことない味よ!
特にこのクォレの薄切りがいいパンチになってんの!」
クォレというのは強い芳香と味わいを持つ薬味の一種で、球根である。
色味が黒ければ黒いほどその刺激は強く、炙り締めに使われているクォレはそれでいうとかなり強いものだ。
量を取りすぎると腹下しのもととなるが、適切な量を食せば滋養強壮にこれほどいい薬味もない。
だがこれも普通なら熱を通してから使うもので、生のものを薄切りにして食べるというのはあまり見ない。
クリメクは魔界の鳥だという。であればこの調理法もまた、魔界独自のものなのだろう。
早速食文化のギャップに遭遇したなと思いつつ、自分たちもそちらにすればよかった、と勢いよく平らげるフォリントを見て悔しさを抱く二人であった。
次話から新章突入です。
 




