第二十八話 沼の戦い
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「沼小邪鬼、ですか……それは厄介な魔物が棲み付きましたね」
夕暮れ。フルストイへの道中に入った小村でひとときの休憩を取らんと、寂れた酒場に三人は腰を据えていた。
道すがら狩って簡単に解体しておいた岩鹿を出すと、根菜と一緒に甘辛く煮付けたものを出してくれた。
余りは店で使ってもらうのと引き換えに一晩宿を取らせてほしいとお願いしたところ、快く引き受けてくれたためその日は冷たい風を浴びずに眠れることとなった。
そこまでは良かったのだが、三人の胸元に光る銅と銀のプレートを見て、店主が依頼したいことがあると打ち明けたのだ。
「プデプデっていう美味い鯰のいた沼だったんだけどねえ。
もうすっかり奴らの縄張りになっちまって、近づこうものなら逆に奴らの襲われっちまうんだ。
こないだも二つ隣のエドガーが様子を見に行った時、足を齧られたて泣いて帰ってきよってねえ。
一回追い払っちまえば柵とかはこっちでなんとかできるから、ちょいと懲らしめてやってくれんですか」
グァーグは単体ではそれほど驚異的な魔物ではない。むしろ陸上ではゴブリンより動きは鈍いし頭もそう良くないため楽な部類である。
彼らを難敵せしめているのは、沼という地形にある。人や普通の獣は沼では足を取られ満足に身動きができないが、グァーグは驚くべき速さで泳ぎ回る。
また、普段沼に沈み潜んでいるため発見が難しく、気づく前に足元から飛び出てきたという話をレディエールは協会でよく耳にしていた。
慣れた冒険者でも油断すると危険な存在である。村人ではおいそれと対処できないだろう。
アニスとフォリントに視線を移せば、こくりと一つ頷きを返されたので、レディエール は店主と握手を交わした。
「今日の内にしっかりと準備をして、明日の朝片づけてしまいましょう。
いるとわかっているなら、あぶり出す方法はあります。
アニス様。グァーグをあぶり出すためには何を使えばいいかわかりますか?」
常日頃"冒険者の心得"を愛読しているアニスである。こういった知識はそろそろついている頃合いだろう。
頭の中に詰め込んだ魔物の対処方法を熱心に手繰っている様子が実に愛らしい。
「……あ、植物油です! 特に葱の香りがする油を嫌がると書いてありました!」
「その通り、よく勉強できていますね。
沼地で葱油をよく熱して臭いを広げ、怒って飛び出てきたところを叩く。
これがグァーグ討伐のセオリーです」
「もたもたしてるとまた沼に潜られて面倒なのよね。
だから速さが大事なのよ。
飛び出たのはなるべくあたしが射るけど、漏れた奴は頼んだわよ」
こん、と手の甲でレディエールの胸元を叩く。普段であれば"誰に言っているのですが"ぐらいの軽口を見せるはずだが、
「わかりました、頼りにしていますよ」
などといやに素直なため、却ってフォリントは座りが悪かった。
「ちょ、調子狂うわねえ……まあいいけど。
じゃあ明日はアニスが油を焚いて炙り出し、あたしとレディがグァーグ狩りでいいわね?
アニスは結構重要なポジションよ、うまいこと臭いを撒かないと出が悪くなるからね。
出来る?」
正直、今回はアニスの魔法は使わないだろう。油焚きもわざわざ人員を裂くようなものでもないため、アニスは待機でもよいぐらいである。
しかしそれではアニスに疎外感を与えてしまいかねないし、なにより早く実践に慣れさせないといけない。
経験を与えるために、あえてアニスを油焚き係に任命したのだ。
「わかりました、なんとかやってみます……!」
ぐっと握り拳を二つ作って意気込む様子にレディエールとフォリントは微笑み、装備の手入れをしてから休んだ。
2
昨夜の煮つけの残りを朝餉にし、油の入った革袋を店主から受け取ってから村を出た。
雨でも降っていたら延期することも考えたが、問題なく快晴である。
レディエールが持つ虚空の鞄には、大鍋、薪、油入り革袋、それから着火棒と呼ばれる激しく振ると大気中のマナに反応して先端が燃える棒と扇ぎ板を入れてある。
これらの荷物を背負って移動することを考えるとアニスとフォリントはぞっとしたが、レディエールなどは修行にならぬなどと言うので、二人は大いに呆れた。
沼は村の北東にある森の中にあり、歩きで1時間ほどとの話だ。
カルドイークで行く話も出たが、戦闘中に別の魔物に襲われる可能性を考慮して徒歩で行くことになった。
この辺りの植生は珍しいのか、道中アニスが植物を毟っては匂いをかいだり噛んだりしてつぶさに観察し、有用と判断したものはいくつか鞄の中に入れた。
沼地近くは毒によく効く薬草が多いのだそうだ。
進めば進むほど、どんどん辺りを漂う臭いが生臭くなってくる。
そもそも沼は澱んだ臭いを放つものだが、それだけでは説明できぬ悪臭である。
「思ったより臭いが強い……随分数いるようですね」
グァーグは汗腺から独特の臭気を放つ。一部には外敵を寄せ付けぬためとも、異性を寄せ付けるフェロモンともいわれているが、明らかにはなっていない。
その悪臭もグァーグが嫌われる要因となっているのだが、発見しづらいグァーグを探す目印にもなっていた。
「こりゃ苦労しそうね、念のためアニスは魔法で防御しときなさい、万が一はあるからね」
「はっ、はいっ」
銀のナイフを取り出して、甲虫の加護を自らに唱える。それから癒しの蝶を二人にかけておいた。
打てる保険は可能な限り打っておいてよい。
やや進むと、森が拓け件の沼が見えた。
ここまで近づくといよいよグァーグの臭気も強まり、一同は強く顔を顰める。
「くっさぁ、堪んないわね……そんなに大きい沼じゃないのに、どんだけいんのよこれ!」
「群れる魔物ではありますが、ここまで強く臭いを感じる群れは初めてですね……。
少し距離ありますが、安全を期してこの辺りで油を焚きましょうか」
レディエールが虚空の鞄から薪と大鍋を徐に取り出して、格子状に薪を組む。
その上に鍋を敷き、革袋に入った葱油を注ぐ。次いで着火棒を手に取り、思いっきり振り回した。
空気の摩擦の大気のマナを吸い込んで先端に炎が揺らめくと、棒をそのまま薪木に突っ込んで火種とした。
「十分に熱されて煙が立ってきましたら、これで沼方面に扇いでください。
離れているので根気がいるかもしれませんが……いけそうですか?」
扇ぎ板を手に取り、アニスは沼と鍋を交互に見比べた。
距離にして三十歩といったところか。歩けば近いが、臭いを送るには微妙な遠さだ。
「火力を上げればたぶん、いけます。
様子を見て薪を追加しますね」
「宜しくお願いします。……では、私たちも位置につきましょうか」
「うへぇ、これ以上近づきたくないなあ……なんか布出して、布。鼻覆うから」
鞄の中から手拭いを三枚取り出してそれぞれに渡してから、レディエールとフォリントは沼の岸で身を屈めた。
沼自体はその臭いとは逆に静謐そのもので、危険な魔物がうようよいるようには見えない。
時折魚や羽虫が水面に小さな波紋を立てるばかりである。
この静けさこそがヴァーグの怖いところであると、存在感を消さぬ悪臭が語り掛けてくる。
る。
沼への被害を度外視していいのであれば水銀を流すのが一番手っ取り早いのだが、店主が言っていたようにこの沼には食材となる鯰が生息している。
強引に事を進めるわけには行かないのだ。
作戦開始から三十分が経過。既に鍋から煙が上がっており、アニスが懸命に扇いでいるため沼にも香りが立ち込めてきているのだが、まだ変化が見られない。
悪臭と葱油の香ばしい香りが混ざり、却って凄まじい臭いになって三人、特に前線で構えているレディエールとフォリントを襲った。
「ど、どんだけ待てばいいのよこれ~っ、もういい加減出てきてもいい頃でしょ!?
葱油に耐性でもついてんのかしら!」
「もとよりこの作戦は根気よく待つ類いのものですし、もう少し我慢しましょう。
……ああ、でも流石に、この臭いは……頭にガンガン来ますね、喋るのつら……」
青い顔を浮かべたレディエールがちらりとアニスを振り返れば、あくせくと薪を集めて足している姿が見えた。
火の熱気と異常な臭い、そして煙を扇ぐのに体力を持っていかれてすっかり汗まみれだ。
ぜいぜいと肩を揺らして荒い呼吸を繰り返している。その分臭気も吸い込むことになり、時折咳込んだ。
アニス様の体力的にもそろそろ限界か。 やはり最初から私がやるべきだったか……?
そう考えているのを読まれたのだろう。フォリントがレディエールの肩を掴んで、ふるると顔を横に振った。
冒険者なんだからあれぐらいはやらないと、と目の動きだけで伝えると、ためらいがちにレディエールは頷いた。
その時、静まり返っていた沼の水面にぶくぶくと水泡がいくつか沸き上がり始めた。
「っ、来た来た来たっ、構えるわよッ」
矢を五本も番え、速射の構えである。レディエールも剛剣を速やかに鞘から引き抜き臨戦する。
ぼこぼこ、ぼこぼこぼこ。
水面に次から次へと上がっていく水泡の数に、勝気に眉を吊り上げさせていたフォリントもどんどんその表情を青ざめさせていく。
「ちょっ、ちょっとちょっと、お、多くない? 多すぎないこれ!?」
「多いのは分かっていたことでしょう、ほらっ、来ますよッ!」
ギャピィ、と甲高い声を上げながら怒れるグァーグが大量に沼から飛び上がる!
十や二十では効かぬ集団が一斉に飛び出す様は怖気を通り越してもはや圧巻であった。
「あーもうっ、こんなん矢が何本あっても足りないわよっ!」
半泣きになりながらもフォリントの速射は実に見事だ。
放たれた矢は次々にグァーグの頭部を貫き、連射弩もかくやといった早打ちである。
並の弓使いではこうはいくまい。フォリントに突出した弓の才があることは疑うまでもない。
しかしそれでも量が量、弓一本で対応しきれる数ではなく半分以上打ち漏らしてしまった。
「スゥー……ッ、オオオッッ!」
忽ち森中に響き渡るようなレディエールの咆哮!
声量によって注意を自らに引き付けつつ、気迫による圧のためだろう。一瞬クァーグが硬直した。
すかさず鋭い斬撃を二、三繰り出す。幅広且つ長い刃は一振りでクァーグの首を三つは斬獲せしめた。
鬼人が如き剣戟である。刃の先から迸る剣気は、弱い個体などは刃そのものに触れることなく気絶してしまうほどである。
後方からその背を見るアニスは、剣の冴えが以前にも増して鋭敏になっている様子に、レディエールの内で何か変化が起きたように感じた。
「ヒュゥッ、おっかな! その調子で頼むわよ、騎士様!」
その剣捌きにフォリントの青ざめていた表情もすっかり喜色ばみ、軽口をたたきながら矢を連続して放つ。
全く見事な連携である。次から次に襲い来るグァーグを射落とし、漏れた者を斬獲する。
その勢いたるや正に竜巻。怒りに狂ったグァーグどもも、次第に恐れをなして素っ頓狂な叫声を上げながら沼地から去っていった。
いつの間にか沼には三人と、何十かのグァーグの死体のみが残った。
荒く吐息を吐きながら交互に視線を交わしたレディエールとフォリントが、にいと共に口角を上げ互いを称賛するように手を叩き合う。
「「楽勝ッ」」
破顔する二人に、アニスは喜んで駆け寄った。
3
「こっ、こんなにいたのか!?」
一休みした後、店主をアニスの伝令蜻蛉で呼び出した。
グァーグの死体を並べると、なんと四十八体も狩っていたことが分かり大いに驚いたのだ。
「逃げて行ったのもいますから、生息数はこれより多かったですね。
早めに対策することをお勧めします。放置しているとまた住処になりますよ」
「あ、ああ、勿論そうするつもりだが……あんたらよく無事だったな!?
三人で狩ったとは思えん、冒険者ってのはみんなこんな強いのかい?
怪我一つないじゃないか!」
三人は目をぱちくりと見合わせ、肩を竦めた。
「いーえ、あたしたちが特別強いのよ!
聖蝶の園っていうパーティなの、みんなに教えて頂戴ね!」
「ま、まあわたしは今回鍋を焚いただけですけどね、あはは……」
「何を言うのですか、無傷なのはアニス様の魔法のおかげじゃないですか。
攻撃してもすぐ回復されて奴らも随分怖かったでしょうね、ふふ」
「レディも凄かったし、アニスも凄い! 勿論あたしもね!
というわけで店長さん、報酬弾んでよね~? 美味しいご飯、期待してるから!」
丁度どう報酬を支払ったらいいものか頭を悩ませていた店主は、この申し出をそれはもう、快く引き受けるのであった。




