第十七話 魔女の招待
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目が覚めると、不思議な光景が広がっていた。
一面の花畑である。それも、ただの花畑ではない。
各季節ごとにしか咲かないはずの花々が一堂に会し、咲き乱れているのだ。
周囲を見渡すと険しい山々が円を描くように広い花畑を取り囲んでいる。
そして何より異様なのが、遠くに見える塔のような物体である。
尋常ではないほど高い。雲を優に貫き尚伸びている様子であった。
およそ現実の光景には見えず、アニスは自らの頬を引っ張ってみた。
「痛い……?」
痛いは痛いのだが、どことなく違和感のある痛みだ。
ぼやけているというか、何かを通していると言うか、それでいてより直接的にも感じられた。
辺りに人影はなく、レディエールもフォリントもいない。ただただだだっ広い花畑の中に突如として転移したような格好である。
途方に暮れながらも他に行く当てはなし、仕方無く塔を目指すことにした。
それにつけても見事な花畑である。色とりどりの花が最も見頃な状態で咲いている。
吹く風もなんとも心地よい。風に乗った香りに、微かな潮騒を感じた。きっと海が近いのだろう。
元いた場所は海など臨むべくもない内陸であった。相当離れた場所に飛ばされたようである。
取り囲む山脈を見るに、尋常な方法では辿り着けぬ場所なことは予想が付いた。
「あっ、あれは……小屋?」
やや歩くと、随分と年季の入った小屋が見えた。天井が苔むすほどであるが、周囲はよく手入れされており人の気配を感じる。
駆け寄って、戸を数度叩いてから声を掛けた。
「あのー、すみませーん……どなたかいらっしゃいますか?」
「はいはーい、ちょっとまっててくださいね」
想像していたよりずっと幼い声が帰ってきて、アニスは面食らった。
返事の仕方から来客にそれほど驚いていないようなのも妙だ。
こんな場所、そうそう人が立ち寄れる場所とは思えない。
或いはこの人物こそアニスをこの地に引き寄せたのかもしれない。
そう考えると自分の行動が些か無防備に過ぎた気がしたが、このまま当て所もなくふらつくよりはいくらかましといったものである。
「おまたせしました。
おや、またずいぶんかわいらしーおきゃくさまですこと」
アニスよりもずっとずっと幼い、人間で言うところの五歳児ほどの童女が顔を覗かせた。
長い黒髪を二つに結って、寒くもないのに緑色のマフラーを巻き、奇抜なデザインの赤いコートを羽織っている。
紅玉の如き真っ赤な目と、月色の曲がりくねった角を見るに魔族なのは間違いない。
だが、この愛らしさを目の当たりにして警戒できるほどアニスは冒険者に成りきれていなかった。
足をかがめて目線を合わせ、お父さんかお母さんはいますか、などと尋ねるほどである。
「くふ。
いるといえばいるし、いないといえばいません。
でも、あなたにあわせるひつよーは、イマはとくにありませんよ」
舌っ足らずだが、やけに落ち着いた口ぶりである。
そこでようやく、かつて母オリヴィエがアニスに語ってくれたことを思い出した。
『いい? アニス。
どういう理由でかは分からないけど、強い魔族は子供の姿を取りたがることが多いのよ。
だから見た目が子供なほどよく注意しなさいね』
ぞく、と背筋が震える。
仮に子供であればあるほど強いのであれば、目の前の少女はどれほどの存在なのか。
危険な雰囲気は帯びていない。しかし、もし雰囲気ですら装える魔族なのだとすれば。
アニスが思わず後ずさるのを見て、童女が再びくふ、と笑った。
「そうみがまえないでください、なにかするつもりならとっくにしてますから。
それに、アトいがいにアテがないからきたのでは?」
う、と声が漏れる。童女の見透かすような目が少し怖い。
アト、というのが童女の名だろう。そういえば名乗っていないことに気がついて、取り繕うように咳払いした。
「こほん……お見通しみたいですね、おみそれしました。
わたしはアニスと申します。ご存知かと思いますが、気付いたらここにいまして。
ここ、そもそもどこなんですか?」
「ここはエデン。"星の角"のふもとにあるシマです。
あなたはいま、タマシイだけがこっちにきてるじょーたいですね。
いわゆるゆーたいりだつ、ってやつです」
「えっ、そうなんですか!? だからなんとなく現実感がないのかな……」
先程頬をつねったときの違和感は、肉体ではないが故のことであったのかと不思議に納得できた。
星の角というのは巨大な塔のことだろう。大層な名前だが、そう呼ばせるに足る迫力があの塔にはある。
「アトはアトリア。このシマでいんきょちゅうの、しがないドラゴンです。よろしくね」
いまドラゴンって言いました……?
流石に耳を疑ったが、こんな場所にいる存在だ、そういうこともあるのだろう。
自身が魂だけの存在というのもすんなり受け入れられたのだ。
今更目の前の幼女がドラゴンだろうが神だろうが、なんということはない。
「しかし、そうですか。あなたが……ふうん。
うん、いいコそうじゃないですか。クーさんもみるメがありますね」
何やら得心げに頷かれるが、当然ながら何のことかわからないアニスは首を傾げる。
話を聞くだに、そのクーさんという人物がアニスをここに寄越したのだろう。
「にしてもじぶんでよんだクセにむかえにもこないなんて、あいかわらずヒジョーシキなヒトです。
ごめんなさいね、いきなりこんなトコによばれてびっくりしちゃいましたよね。
ついてきてください、あなたをココによびだしたちょーほんにんに、あいにいきましょう」
きゅっと手を握られ、その柔らかさに思わず頬が緩む。
この子はクーさんとやらの使い魔なのだろうか、などと考えているとむっとした顔でアトリアがアニスを見上げた。
「むーっ、いましつれいなコトかんがえましたね!?
アトはクーさんのつかいマなんかじゃありませんよ!
むしろこっちのがウエ! じょういそんざい! そこんとこよーっくおぼえておくよーに!」
考えていることを悟られたのは驚いたが、それ以上に怒り方が凄まじく可愛らしいことに衝撃を受けた。
ぷりぷりと頬を膨らませて怒る様など、人間の子供そのものである。
つい、気を許してしまうような和やかさがあった。
「ごめんなさい、あんまり可愛かったものですから、つい。
アトリアちゃ……さんは、すごいドラゴンなんですね?」
「そうです、すごいドラゴンです。アトがいなければこのセカイはまわりません。
かんしゃしてくれてもいいのですよ、ふふん」
「うんうん、すごいです! ありがとうございますアトリアちゃ、さん!」
なんとも微笑ましいやり取りをしている間に、いつの間にか塔の麓まで来ていた。
近くで見ると正に圧巻である。空を見上げてもその頂きを臨むことは出来ない。
表面に生えた夥しい量の苔が歴史の長さを雄弁に語っている。
はじめは白い石材で造られているのかと思っていたが、よく見ると薄く黄ばんでおり、象牙質であることがわかった。
「はぁー、すっごいおっきい……アトちゃん、これが星の角なんですか?」
「ええ、そうです。このホシがうまれたときからはえてる、しょーしんしょーめい、"星の角"ですよ。
いまはクーさん……"時の魔女"クェンべりのおうちになってますけど」
ときのまじょ?
……時の魔女!?
思わぬ超大物の名が出てきてアニスは思わず尻餅をついてしまった。
時の魔女クェンべりといえば"星の魔女"アンネリーゼと同じく最古の魔女の一人であり、時を自在に操る神が如き力を持つ魔女である。
魔法使いを志すものであれば誰もが一度は耳にする名前で、同時に決して逆らってはいけない存在として周知されていた。
時の魔女を怒らせると、存在そのものがなかったことにされる。
そんな噂がまことしやかに囁かれているのだ。
「え、あ、え!?
ど、どうして時の魔女様がわたしなんかを!?」
「くふ、さすがにクーさんのなまえはインパクトおっきいですね。
だいじょうぶです、おこってよびだしたワケじゃないですから。
むしろ……いえ、これはクーさんからいってもらいましょうかね」
意味深に笑んで小さな手を門に翳すと、複雑な魔法陣が幾重も現れては回転し、やがて重苦しい音を立てて門が開いた。
内部は中央にまた魔法陣、そして周囲には何に使うのかわからないガラクタが、一つ一つショーケースの中に入れられ、所狭しと展示されていた。
折れたスプーン、破れた手袋など明らかにゴミと断じて良いものから、複雑な文様の入ったキューブといった魔術具のようなものまで雑然としており、異様な光景であった。
「クーさん、がらくたをあつめるのがシュミ……というかライフワークなんです。
もっとせいりしろーってなんべんもいってるんですが、きかなくって」
「これは集めてどうするつもりなんですか?」
「とくになにも。
あつめてながめるのがスキなコなんです。
まったく、"時魔法"なんてモノをあみだしておいて、やるコトがこういうモノのほぞんなんですから、おーげさですよねえ」
アトリアはそう嘆息したが、アニスはある意味魔女らしい魔女なのだと納得し頷いた。
魔女とは欲望を叶えるために魔法を生み出す者である。物欲という分かり易い欲求は高じれば確かに魔女になりうるだろう。
ちょくちょく美術的価値の高いものもあるのでそれとなく眺めながら魔法陣の上に乗ると、アトリアが人差し指を立てて宙を突いた。
すると魔法陣が眩く光り、アニスは思わず目を覆った。光が止むと、全く趣の違う部屋が広がっていた。
全体的に赤を基調として、様々な布が四方八方に伸びている。
麻から絹まで様々な種類の素材の布が彩るのは奥にある絢爛なベッドである。そこに、物憂げな様子の美少女が腰掛けて不思議な形状の煙管を咥えていた。
中々の煙臭さだ。肺に悪そうな臭いの煙が部屋中に充満している。
うっとアニスが思わず顔を顰めると、アトリアがパンッと一拍した。すると煙が一気に縦に割れ、臭いも全く気にならなくなった。
「これ、クーさん! それがヒトをまねくたいどですかっ!
あなたがよんだんでしょうに、シャンとしなさい! しつれいですよ!」
むすっと眉を吊り上げて一喝する様はさながら母親のそれだ。
クェンベリもまた、煩わしそうに頭を掻いている様子が反抗期でやさぐれた娘のようであった。
「ああもうわかった、わかったからその頭に響く声できゃんきゃん言わないで頂戴。
全く、アトリアがいると格好がつかないわネ……」
ため息を付きながらクェンベリが気だるげに立ち上がる。奇抜な格好だ。腕を通せるように縫合した布を、同じく布で出来たベルトで留めている。
東で用いられる衣装だが、アニスはこれが初見であった。
ただ、東でもこのような着こなしは普通しない。まず帯が前側で大きく蝶結びになっている。更にその下には大きな鈴がぶら下がっており、歩く度にチリンチリンと小気味良い音を鳴らしている。
裾も本来であればきゅっとなだらかに引き絞られているべきだが、大きく開かれて白い腿が見え隠れしている。その上背丈があっていないのか余った布が床に接地し、ずるずると引き摺られていた。
だらしない格好と言えばそれまでだが、妙な色気があることも確かである。
亜麻色の髪を大雑把に二つに結った髪もどことなく儚げで、総合してミステリアスな雰囲気を大いに纏う女姓であった。
「さて。急に呼び出して悪いわネ。
アトリアから聞いてるだろうし自己紹介は省くワ。ああ、アナタも別に要らないわヨ。知っているカラ」
話し方に独特の訛りがあるが、それがどこの地方色を示しているのかは分からなかった。
それよりも、こちらを知っているということの方がアニスにとっては聴き逃がせぬ話である。
「あ、あの、どうしてわたしなんかを……?
冒険者にもこの間なったばかりで、時の魔女様にお目通りできるような人間ではないのですが……」
「そうネ。今のアナタじゃその通りだワ。
でも、……ん? ふむ。ええっと、そう。未来に賭けてるのヨ。アナタは素質があるからネ」
明らかに何かを言い換えた語りにアニスは不安そうに首を傾げる。
ふう、とクェンベリが息を一つ吐くと申し訳無さそうに眉を垂らした。
「ごめんなさいネ。あんまり言うと運命が狂うみたいだカラ、詳しくは言えないのヨ。
ワタクシたち、実はいま結構薄氷を踏むような状況になっていてネ。
まあそれはともかく、今日ここに呼んだのはちょっとした注意喚起をしたかっただけなノ」
長く垂れた袖の中に手を突っ込むと、何やら虹色の液体で満ちた小瓶を取り出した。
見ているとなんだか不安になり、アニスは思わず目を逸らした。
「それでいいのヨ。これは良くないものだカラ。
今、これを配り歩いてる奴がいるのネ。もし出会しても絶対に受け取らないで頂戴」
「あの……それ、なんなんですか?
なんだか胸がざわざわするというか、変な気分になるんですが……」
「劇薬ヨ。それもワタクシにすら効く飛び切り効果の強いもの。
本当、どうやってこんなものを作ったのかわからないケド……今これが魔女の間でかなり問題になっていてネ。
今のワタクシ、ダルそうでショウ? これのせいなノ。飲んでもないのにこうなっちゃうのヨ、このワタクシが。笑っちゃうでショ?」
笑えない。時の魔女が持っているだけで体調を崩す薬など、自分が持てばどうなってしまうのか。
アニスは背筋をゾッと震わせて、両肩を抱いた。
「もしこれを渡してくる人物に会ったら、一目散に逃げて頂戴。
倒そうとしちゃ駄目ヨ、危ないカラ。逃げる者は追わないと聞くワ。連れの二人にもそう伝えておいてネ。
言いたいことはこれで終わりだケド、あとは……そうネ。
お姉さん探し、頑張ってネ。応援してるカラ」
言われてアニスはハッとする。時の魔女ほどの人物であれば姉、リコリスの消息を知っているのではないか。
そう思って顔を上げるが、何かを言う前にふるふると顔を横に振られた。
「申し訳ないケド、それに関しては何も教えられないワ。
言った通り、今非常にデリケートな立場にあるノ。アナタとこうして会って話すことも、どちらかと言えば良くないのヨ。
此方の事を伝えるばかりでごめんなさいネ。理解してくれると有り難いワ」
そう言って頭を下げるので、腰を抜かしそうになった。
世界広しと言えども、時の魔女に頭を下げられた人など殆どいないだろう。
「そんなっ、頭を上げて下さいっ! 時の魔女様ほどの方ともなれば、複雑な事情があるのはよく分かりますので……。
わたしなんかにこうしてお話いただけるだけでも、すごい光栄なんです。
ですので、気になさらないでください」
「ありがとう、アナタを選んでよかったワ。
それじゃあアト、お願いできる?」
アニスとクェンベリが話している間、ずっと小さな光る板を弄っていたアトリアが怪訝な顔つきでクェンベリを見上げる。
「え、アトがするんですか? よんだのクーさんじゃないですか」
「言ったでショウ、いま力入らないのヨ。呼ぶだけで手一杯なノ」
やれやれ、とアトリアが肩を竦めて嘆息する。
力関係のいまいち読み辛い二人だが、なんとなくアトリアの方が上そうに見えて、アニスはなんだか可笑しくなってつい笑ってしまった。
ドラゴンと時の魔女。勇名に比べてどうにも人臭さというか、可愛らしさの抜けぬ二人である。
「まったく、なんじゃくな。それでよくさいきょーのマジョだなんてなのれますね……。
じゃあ、アニスさん。つぎはゼヒ、なまみでおあいしましょーね。
おともだちにもよろしくつたえといてください」
幼い手が差し出される。本当に小さな手だ。太陽に翳せば血管が透けて見えそうなほど柔かな手を握って、アニスは微笑んだ。
「ええ。アトちゃんもクェンベリ様も、お元気で。
本当に、お呼び頂きありがとうございました」
「気をつけてネ。世界は思ったより悪い方に転がり始めてるカラ。
頼りにしてるわヨ、虫の魔女の子」
「アニスさんのそばに、いつでもユウキがありますように!」
握手した手がぽかぽかと熱くなって、カッとアニスの意識が明滅した。
2
目が覚めると身体が横たえられており、アトリアが握っていた手はレディエールが握っていた。
それも、手を握りながらアニスのいるベッドに頭を預け、憔悴した様子のまま眠っている。
「レディさん……?」
声をかけると勢いよくレディエールが起きて、その次にはぎゅうっと今までにないほど強く抱き締めてきた。
「アニス様っ!
ああっ、よがっだ、ほんっとうに良かった……!
もうこのまま、ずっと起きないのかと……!」
「え、ええっ、なんですかどういうことですか……!?」
「アニス様っ、あなた一週間も眠っていたんですよ……私、もう本当に、どうしたら良いか分からなくて……っ」
一週間という長さにも驚いたが、何よりもレディエールの取り乱しように動揺した。
いつも毅然としたところばかりを見てきたので、こういう姿もあるのかと心底意外に思ったのだ。
そこから暫くの間、レディエールはアニスを離そうとしなかった。
抱き締める力が強くて少し苦しかったが、アニスはその頭をよくよく撫でてやった。
アトリアとクェンベリはどこかで知っている方もいるかもしれません。
どういうお話を経た状態のアトリアなのかは、今後語るかも、語らないかもしれません。




