第十六話 饗し
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普段静かな森が、珍しく鳴いている。
それは尊きものの到来を歓ぶ喝采である。
深い森の奈落から、黄金を頭上に纏った女王が姿を表す。
蜘蛛の女王ウーラスーラ。その威容は正しく支配者そのものであり、美しく、そして醜悪であった。
村人は皆一様に、あっけにとられたようにその姿を凝視している。中には腰を抜かす者もいた。
恐ろしい。これまでに見たどんなものより恐ろしいのに、目が離せない。正しく猛毒の甘露であった。
「ほぉ。
前に"子"を通して見た時は随分貧相な村だと思ったものじゃが、中々どうしてめかし込んでおる。
見窄らしいままであったらそのまま食ろうてやろうと思っておったが……杞憂だったようじゃな」
村中を見回して満足気に頷くウーラスーラに、はっと割れを取り戻した村長が前へ出た。
「お、お褒めに預かり光栄です。私、この村の長を務めておりますガルドと申します。
この度はお誕生日おめでとうございます。村中を上げお祝い申し上げます。
ささ、どうぞこちらへ。特別なお席をご用意しております」
女王が来る前に、レディエールが教えた案内の口上だ。
この村の言葉は訛りが強く、時折人によっては失礼に聞こえる表現が見受けられたため、女王が来たらこう案内するようにと教え込んでおいたのであった。
やや固く棒読み感が否めないが、一応詰まることなく言えている。及第点と言ったところか。
「うむ。此度は妾のためにこのような催しを開いてくれたことを嬉しく思う。
この会が双方にとって実りのあることを妾も願っておるぞ、クク……」
ウーラスーラが案内されたのは、瑞々しい苔と様々な花で作られた自然のマットだ。
その周りを木で飾り、少しでも見栄えを良くしようとする努力の跡が見られた。
ウーラスーラはその巨体のため、普通の椅子では駄目なのだ。
「申し訳ありません、女王が座るにしては貧相なお席ですが……」
「構わぬ。さしもの妾も一日で黄金の玉座を作れとは言わぬでな。
……ふむ、なかなか座り心地も良いではないか。気に入ったぞ、ガルドとやら。
さて。これ、森の子よ。出て参れ」
「えへぁっ、わ、わたしですかっ」
まさか呼ばれるとは思わず素っ頓狂な声を上げるアニスに、ウーラスーラはくつくつと笑った。
「お前は良い匂いがするでな、近くに置いておきたくての。
案ずるな、取って食ったりはせぬ。ほれ、もっと近う寄れ」
おずおずと近づくアニスの腕を取り、蜘蛛の身体の上に引き上げる。
豊満な乳房をアニスの頭の上に乗せ、白い腕でアニスを後ろから抱きしめ始めるのでレディエールが目を剥いた。
「じょ、女王様!?
これはちょっと、流石に恥ずかし……」
「なんじゃ、今日は妾の誕生日じゃぞ?
これぐらい構わんじゃろ、ふふ、愛い奴め」
どうやらアニスの虫に対する鎮静能力はウーラスーラのような高位の魔族にとっても気分の良いものらしい。
抱き締めながらアニスの頭に頬ずりし、頭皮の香りを楽しむように鼻を揺らすので、りんごのように顔を真赤にしたアニスがやんやんと可愛らしい声を上げた。
気恥ずかしさからぽっと体温が上がるため余計につむじから甘い香りが発せられ、ウーラスーラはそれを余さず思いっきり鼻孔にしまい込んだ。
「おうおう、甘美かな甘美かな。
お前を一目見たときから、ずっとこうしてやりたかったのよ。
クク、こうしてわざわざ来た甲斐があったというもの。今宵はたっぷり楽しませて貰おうぞ」
こっ、この変態女王……!
思わず柄に手を伸ばすレディエールを、フォリントが渾身の力を込めて止める。
自らの主人が辱められているのを目の当たりにして動かぬ者は騎士ではない。
しかし、主人が体を張っているのを義憤でもって台無しにしてしまうのもまた、騎士道に反している。
自らの信念の板挟みになったレディエールは唇をぐっと噛み締め堪える。その怒りは、顎につうと血が滴るほどであった。
一方でフォリントは、本当にあれだけで済むのかと、こちらはこちらで気が気ではない。
あの気に入られようを見れば、妾が物とする、などと言い出しかねない。
そう思われてしまっては抵抗できない身としては終わりである。
「あー……えー、っと……女王様、お楽しみのところ申し訳ないのですが、お食事をお持ちしても宜しいでしょうか?」
可哀想にすっかり調子を狂わされたガルドが、恐る恐る尋ねた。
何が怒りの琴線に触れるか分からない状態で口を挟むことほど怖いものはない。
その額にはじんわりと脂汗が浮かんでいた。
「うん? ああ、食事か。そうじゃな、持って参れ。
そうじゃったそうじゃった、今日はそれが目的じゃったわ。
危うく忘れるところであった、げに恐ろしきは森の子か……」
「わ、わたしのせいなんですかぁ……?」
「んむ。お前はちと蠱惑が過ぎるの。こんな気分になるのは久方ぶりじゃ。
妾も遂に色ボケの魔に充てられてしもうたのかの……」
「……あの。
その色ボケって、もしかして魔王フェティアゴルですか?」
「そうじゃ。
あやつと妾は同輩での。魔王の座を巡ってよう争ったもんじゃ。
初めこそ妾の圧勝じゃったが、あやつは淫魔じゃからな。
精を浴びる度にマナを増やしよるから、最終的には妾ではどうしようもなくなってしもうてな。
最期は見るも無惨にバラバラにされてしまったのよ。ここまで力を取り戻すのに二百年かかったわ、全くを持って忌々しい……」
そう語るウーラスーラの表情はどこか懐かしげで、言うほどフェティアゴルのことを恨んでいるようには見えなかった。
どちらかというと悪友を語るときのような顔である。
それはそうと、レディエールの思った通り魔王級の魔族であることが明らかになった。いよいよ怒らせればどうなるか分かったものではない。
おまけにバラバラにされても時間をかければ蘇るという知りたくなかった情報まで聞いてしまった。
穏便に帰ってもらう。その点でアニスの今いる位置は最も重要なポジションであった。
「お、お疲れ様です……。
それで……力を取り戻したら、もしかしてまた魔王になろうと思っていたり……?」
「フン、そうしてやりたいのは山々じゃがな。
当時ですら勝てなんだのに、今のあやつに勝てる気はせんよ。あれは生きれば生きるほど強くなる。
それに、ほれ。今は北の"赤子"がうるさくて魔王になれても窮屈この上ないからのう。
じゃから妾はこの辺りで静かに暮らすことにしたのじゃ。此処は妾とマナの相性が良いからの。
村人共を食えばより多くの子を産める。妾はここに蜘蛛の王国を築くのじゃ」
それのどこが静かな暮らしですかっ!
思わずそう突っ込みたくなるのをぐっと抑え、深呼吸をした。
魔族が村一つ滅ぼして自分の国を作るなど、休戦協定を何だと考えているのかなど聞きたいことはあったが、如何せん魔王級である。
常識が通用する相手ではない。来るのであれば迎え撃つまで、などと言われて余計に疲れるのが目に見えていた。
何を言うべきか言い淀んでいると、用意していた「食事」がウーラスーラに供された。
「ほう、中々立派な連中ばかり集めたの。
昨日今日でどれだけのものを出すのかと思っておったが、やるではないか」
気を良くしたらしいウーラスーラにガルドがほっと胸を撫で下ろす。
「ありがとうございます。
女王様が生と調理済みのものどちらをお好みになるかわかりませんでしたので、両方ご用意させていただきました」
「うむ、その心遣いも見事である。実際、猪を生で用意したのは慧眼である。
ああいう血の濃い獣は生で食うに限る。ああ、でも焼いたものも食らおうぞ。
人の子らに捧げ物をされるなぞ初めてじゃからな。余さず頂こうとも。
森の子よ、少し揺れるぞ。確りと掴まっておれ」
え? え? と戸惑いながらもウーラスーラの肢体にきゅっと掴まると、蜘蛛の足が猪を突き刺し、文字通り大きな下の口に運んで豪快に貪った。
蜘蛛というより肉食獣が如き口腔である。
鋭利な牙がびっしりと生えており、普通の蜘蛛のように体液を吸うのではなく肉を食らうことに特化しているようだ。
そうなるともちろん咀嚼の必要があり、成る程揺れるとはこういうことかとアニスは嫌というほど実感した。
「んむ、んむ。よお脂の乗ったいーい猪じゃ。こりゃたんと食っとるな。
どれ鹿は……少々筋張っておるが、悪くない、悪くないぞお。……んん、やはり生と比べると焼いたものは血の味わいが薄まってしまうのう。
だが歯切れは良くなっとる、これはこれで、ふむ」
用意していた肉を次から次へと口へ運び、余るかと思っていたものをあっという間に平らげた。
咀嚼中硬いものを砕く音が鳴っていたことからも、骨まで余さず貪ったようだ。
すっかり綺麗に食べ終わったウーラスーラが、満足気に鼻を鳴らす。
「うむ、よう用意したな人の子よ。お陰で腹は満ちた。
近頃森に魔獣が彷徨かんようになってな、中々食うに困っていたところよ。
鼠が如き小さき獣なぞいくら食っても満たされんからの」
「そ、それでは……!」
目を輝かせたガルドにウーラスーラは微笑んで頷きを返した。
「子は返してやろう。お前たちの献身に敬意を表して、な。
最初人と停戦を結んだなどと聞いた時は何を戯けたことを、と思っておったが、成る程成る程。
そう悪いことではないのやも知れぬな」
「それじゃあ、この村も……!」
思ったより上機嫌のウーラスーラにアニスも顔を綻ばせて尋ねた。
フォリントもレディエールもほっと胸を撫で下ろそうとした。
「いや? それとこれとは話が別じゃろう?
満足いけば子供は返すとは言った。それは守ろう。
じゃが村を見逃すとは言っておらん。暫くしたら食いに来るよ」
一瞬、言っていることの意味をその場にいる誰もが理解できなかった。
少し経ってやっとその言葉を飲み込めたのは、レディエールである。
「女王! それでは子供を助けたとは言えぬではありませんか!
結局村を襲うのであれば、子供も死んでしまいます!」
「なにか問題があるか? 約束を違えているわけではないじゃろう。
妾がした約束は"返す"というものであったからの。
命を助くとは一言も言っておらぬ」
「で、でもっ、共存を考えてくれるって言ってくれたじゃないですか……!
わたしたちのおもてなし、女王様には足りませんでしたか?
なにがいけなかったのですっ!?」
アニスが縋るようにウーラスーラに問う。碧玉の瞳からは大粒の涙が溢れて、ウーラスーラの下腹に落ちた。
「考える、とは言った。考えた結果、村を食ったほうが良いと答えを出したまでよ。
確かに饗しには満足した。見事なものじゃ、ただの一日で妾の腹を満たすなぞ並大抵の努力ではない。
じゃがこの見事な獲物、村人連中で捕らえたわけじゃなかろう?
"子"を通して見ておったが、これはお前たち旅の者が捕らえた獲物じゃ」
「た、確かにそうですが、それが……?」
「つまり、お前たちが去ればこの結果は出ないということじゃろう。
もし村の者でこの獲物を獲っていたのであれば、毎年このような宴を催すなら村を見逃してやろうと言うつもりであった。
じゃが村の連中は狩猟はぜんぶお前たちに任せた。そしたお前たちはこの村をすぐに去るのじゃろう?
であれば、村人を食ったほうが腹の足しになる」
脳天を割られたような衝撃が村中を包んだ。
先程までこちらがどのような準備をしていたのか知らないような素振りをしておいて、全部見ていたのだ。
特にフォリントとレディエールは、満足してもらうために張り切って集めたのは完全に裏目になり、全身から血の気が引いていった。
「いやっ、あのっ、でもそのっ、事前に集めておくとか!
数日前から集め始めれば、きっと」
「お前は屠ってから日の経った獲物を妾に食わせる気かえ?
血は鮮度が命じゃ。今日の供物が優れているのはそこにある。
金髪の。お前の弓は実に良い。猪以外は全て一打で屠っておったな。
黒髪の。お前の剣技の冴えも見事じゃった。的確に急所を突いておったな。
同じことが村の者に出来るのかえ?」
村中が凄まじい無力感に押し黙った。
そんな事ができるならこの村は精肉で名を上げていただろう。
沈黙が答えであると言わんばかりにウーラスーラが鼻を鳴らす。
「お前たち三人の功績は認める。故に、お前たちの命は奪わん。
じゃが村人は別じゃ。こやつらはこやつら自身の力で自らの価値を証明せねばならぬ。
妾は有能な者が好きじゃ。無能は要らぬ。
……じゃが、森の子よ。今から妾の出す問いの答えによっては、猶予を持たせてやってもよい」
絶望に項垂れていたアニスががばっとウーラスーラを見上げた。
その目は涙で泣き腫らして赤く充血している。
「な、なんですか!? わたしにできることならなんだってします……!」
「そう言ってくれると思ったよ。お前は優しい子じゃからな。
なに、そう難しいことではない。お前の血を少しばかり飲ませて欲しくての。
妾は吸血鬼ほどではないが血を好む。
特にお前のような愛いおなごの血は極上じゃ。
どうじゃろうか、吸わせては貰えぬか?」
「ちょ、ちょっと待って下さい!」
申し出に慌てて口を挟んだのはレディエールだ。
吸血鬼は血を吸うことでその者のマナを掌握し、眷属に変えるという強力な魔族である。
それがアニスにも起きてしまうのではないかと危惧したのだ。
「あなたの吸血で、アニス様に何か起こったりはしないのですか!?
その、あなたの臣下になったり……!」
「安心せい、多少マナが混ざるかもしれんが、眷属になるようなことはない。
ただ血を愉しみたい。他意はないよ」
本当ならそれを抜きにしても魔族に血を吸われるなどレディエールとしてはありえぬ選択だ。
しかし、現状これ以上にいい案が思いつかないのも事実。
眷属にはならない。そう言われてしまえば黙る他ない現状にレディエールは悔しさに歯噛みした。
「レディさん、わたしなら大丈夫です。
……女王様、猶予と言うと?」
「次の妾の誕生日まで待つ。
それまでに狩りの腕を磨くのじゃ。
そして妾の満足いく饗しを村人らのみで成し遂げた時、今度こそ村を襲うのは止めてやろう。
此度のような意地悪も言わぬ」
意地悪してるって自覚してるのがホンットにタチ悪いわねこいつ!
そう思ったのは勿論フォリントだけではない。
だが、一体誰がこれを口に出して言えようか。
「アニスさん……すんません、うちらの村のために……」
「顔を上げて下さいガルドさん、わたしの血なんかで済むなら安いものです。
女王様。その……あまり、いたくしないでくれると嬉しいです」
ふい、とほんのり涙を浮かべながら視線を逸し、吸い易いように白い首を晒す。
「お前は全く、ほんに嗜虐心を煽るのが上手いのう……そんな顔されたら吸い尽くしてしまいたくなるじゃろうが、たわけ。
少しだけちくっとするぞ、我慢せい」
自らの長い金髪を手で掬いながら、アニスの首筋に歯を立て、力を込めて差し込んだ。
鋭利で長い犬歯は容易くアニスの柔肌を貫き、じゅくじゅくと暖かな血が湧き出てきた。
「ぁっ、うあぁっ、ぁ……」
血を吸われるくらい大したことないと思っていたが、いざ吸われてみると自分自身がウーラスーラの中に取り込まれていくような不思議な感覚に陥った。
痛みこそないが、卵の黄身の薄膜を破いて、大事な中身が飛び出て行ってしまうような喪失感。
なぜか、どこか酔いに似た恍惚感がある。このまま身を委ねたくなるような淡い心地よさ。
身体が冷えていくのを感じる。それと同時に、ウーラスーラの歯が、柔らかな唇が熱いぐらいに暖かい。
冷たい、熱い、冷たい、熱い、つめたい、あつい、つめたい、あつい。
ああ、わたし、いま。
たべられてるんだ。
「……あっ、いかん。
これ森の子、起きよ、これ!」
不意に頬をびしばし無遠慮に叩かれ、薄らいでいた意識が一気に覚醒する。
「いたっ、いたぁっ!?
なにするんですか女王様!?」
じんじんと赤く腫れた頬を押さえて、涙目でアニスがウーラスーラを批難した。
先程までの陶酔感はすっかり鳴りを潜め、ただ酷い倦怠感ばかりがあった。
「お前、いま向こう側に逝きかけておったんじゃ。
いやー危ない危ない、あんまり美味すぎて吸いすぎてしもうた、かっかっか!」
「かっかっか、じゃあありませんよ!
ぁ、ぅ、声出したら、なんだか急にめまいが……」
「そりゃそうじゃ。血を吸われたんじゃからな。
暫くはゆっくりすると良い。これ黒髪の。
森の子は返す。寝かせてやれ」
意識の遠くで、レディエールとフォリントの焦ったような声が聞こえる。
ふたりにはいっつも迷惑かけてばっかりだな……。
ごめんなさい、ちょっと、寝させてもらいます……。
声に出さずそう一人ごち、アニスは微睡みの中に沈んでいった。
残酷なんだか甘いんだかよくわからない女王様です




