煌光の導 下
○
翌日、耀真は朝からアーバン本社に出向いていた。
梶木に連絡を取りたいと秘書室に電話をかけてみれば、定時に出社してきているとのことだった。
昨夜の梶木の傷は夜のうちに桜子が治療を施しているとはいえ、片手を切断しかけたほどの深手だ。にもかかわらず、翌朝から事も無げに出社とは、どれほどタフなのか。それとも、無理を押してまで出社しなければならないのか。
いっそ妙に感じながらもアポイトメントを求めると、あっさり承諾された。
向こうもこちらのことを気にしているのかもしれない。たとえ、異端審問官であり、研究手伝いをしているとしても、世界的軍事企業の社長ともあろう人間が何度も学生無勢に面会の許可を出すとも思えない。
エレベーターで高層に向かっている間、耀真は隣に立つ京香の様子を窺った。ギラギラと光る瞳を真っ直ぐに扉へ向け、背筋もぴんと伸ばしている。
昨日は帰宅して眠る直前までうつむいたまま口を閉ざしていたが、今朝目を覚ましてからはこの調子だ。一人にさせておくには気がかりだし、百合華とシアには別の仕事を頼んでいるし、美緒には頼りなくて頼めないし、で、連れてきてみたが……。
「大丈夫か?」
「なにがですか?」
強気な声音だ。昨夜のことからは立ち直ったのか、と苦笑した耀真は口にする問いを変えた。
「いいか? これから会うのは一応アーバンの社長だから、京香は命の恩人って立場だけれど失礼のないようにな」
「わかってますよ。私だって野生児じゃないんですから、一般常識くらい備えています」
「でも猪突猛進だからさ」
「いいじゃないですか、イノシシ。可愛いですよ」
「考えなしに言葉を吐くなってこと」
「一般常識は備えてるって。信頼してください」
「そうか。じゃ、信頼してみるか」
二人が通された社長室は以前訪ねた研究フロアの応接室とさして変わらない。ただ、本棚はなく、部屋の中央に据えられた応接セットが二回りほど高価に見えるものが置いてあるだけで、調度品の類いは一切ない。
執務机から立ち上がった梶木に促され、フロア中央のソファーで向かい合った。お茶を運んできた秘書が退室するなり、口火を切ったのは梶木の方だった。
「昨夜のことは感謝致します。お二人がいらっしゃらなければ私も命を落としていたでしょう」
「いえ、偶然そばを通りかかったのが幸いでしたよ。上のガラスが割れたのに気づいて」一呼吸置いた耀真はさらにいう。「富樫博士のことは非常に残念に思います。優秀な方でしたね」
「ええ、とても優秀なスタッフでした。この度の荷電粒子砲の実験にも……」
「わかりますよ」京香が体ごと前にのめり、割って入ってきた。「博士は優秀な方だったのはわかります。私はあの人に助けていただきましたから」
立ち上がった京香がテーブルを叩き、ティーカップがソーサーの上で跳ねる。
「あの人はジェイさんとはどんな関係なんです? 梶木社長は知っているんじゃないんですか?」
「おい、京香」と耀真が止めに入るが、意味がない。
「あの人は梶木さんのことをケイと呼んでいました。梶木さんのお名前ではありませんよね? それとも、かつての渾名だったんですか? どこで知り合い、なぜ狙われているんです?」
耀真は京香を制しながらも、梶木の様子を窺うが、彼は顔色一つ変えず、紅茶を一口すすっていた。
「私にはわかりかねます。押し入ったコソ泥、いや、テロリストでしょうか。我が社の機密を盗もうとしたのでしょう。以後、警備の方を厳重にするように指示を出したところです」
「いいえ」と京香は髪を乱して首を振る。「あの人が狙っていたのは機密などではありません。あなた、たった一人です。そういう指向性を感じました。あなたの命をここで奪う、という指向性を」
「そうはいわれましても、こちらにはまるで心当たりがないもので」
「白々しいことを……」
京香が手を伸ばしそうとするのを見、耀真は彼女の肩をつかんでソファーにほとんど引き倒す。
「耀真さん」
「いい加減にしろ」
「でも」と頑なに口を開こうとする京香を目顔で黙らせ、耀真は梶木と向かい合った。
「俺も、あの男がただの泥棒の類いだとは思えません。あなたか、この会社か、それとも富樫博士か、私怨を抱えてここに来たように感じます」
「私の仕事は兵器を生産する仕事です。我が社も、私自身も、当然人の怨念を集めていることでしょう」
「俺たちはあの男の情報を少なからず持っています」
ぴくりと梶木の眉が一度だけ痙攣した。
「お話いたしましょうか?」
「私どもに害を為す敵であるならば、情報を得ておきたいところです」
「構いませんよ。少しだけなら」
耀真は、京香の驚いた顔に頷いて続けた。
「数年前からアフリカ大陸に渡り、暗黒地帯付近で冥魔の討伐をしながら傭兵業をしていたそうです。そこでの評判はよかったそうですよ。多くの人に慕われていたそうです」
梶木の表情は動かない。一切の感情を排した顔がただ耳を澄ませていた。
「お心当たりはありませんか?」
「心当たりといえば、アフリカ大陸は世界で最も我が社の兵器が実戦投入されている地域、といったところでしょうか」
「そうですか」耀真は指を組んで前のめりにいう。「彼の情報に関してはもっと以前のものもあるのです」
「もっと以前、ですか」
梶木の小さな瞳がかすかに光を放って見えた。どこかほの暗い光だ。
「こちらにいる橘京香は数週間前まで暗黒地帯で傭兵をしておりまして、両親はまだ向こうで健在だそうです。この両親が十年以上に及ぶ傭兵生活のベテランで、この度の侵入者、向こうではジェイと名乗っていたそうですが、やつと親しくしていたとか。昔から面識があるといいます。訊いてみれば、なにか手がかりがあるかもしれません」
他にも、と耀真は指を折って数えていく。
「直近、ジェイの目的と思われるものは、やはりアーバンクラフトワークス、それと、あの現場にいたお二人でしょうか。ジェイの凶行の動機を、梶木さんがご存知ないのであれば会社の方も無関係なのでしょう。となれば、残るは富樫博士ですね。彼の過去を洗い直す必要があります。梶木さんはなにかご存知ありませんか?」
「知っていることも当然あります。が、故人といえど、個人情報に当たるものです。会社としては正規の手続きを経て頂かない限り、提供致しかねます」
「博士は昔ここの近くにあった研究所に関わっていたような話をしていましたが、確か、弥田山辺りの……」
「私は会社を預かる身です。何度聞かれようと気軽に答えるわけにはいきません」
表情同様、口もかたい。こちらの揺さぶりにまるで動じない。では、と耀真は次の話題に転じる。
「最近この辺りに出る通り魔のことはご存知ですか?」
「話には聞いております」
「ジェイの持っていた武器といい、技術といい、犯人はやつでしょう。あの被害者のことは、警察はもちろん、エリシオンでも調べることになっています。近々成果が出るかもしれません」
「それは喜ばしいことです。健闘をお祈りしていますよ」などと平気な顔でいってのける。食えない男とはこのことか、と思わせてくれる。
「お忙しいところを、時間を割いていただいてありがとうございました」耀真は立ち上がり、梶木に視線を据えた。温度のない瞳が見返してくる。「調べることは多々ありますが、すぐに犯人を追い詰めることができるでしょう。そうしたら聞き出してみせますよ。なぜアーバンに侵入したのか、富樫博士が死ななければならなかったのか。期待していてください」
「ええ、良いご報告をお待ちしております」
では、と礼をした耀真は京香を見る。彼女は不思議そうな顔で立ち上がり、あとについてきた。
アーバンの社屋から外へ出ると、日差しは肌をあぶるほど熱い。あの、と口を開いた京香の声には威勢がなかった。
「なんだよ?」
「あんなにぺらぺらと話してしまってよかったんですか?」
「別に構いやしないさ、あれくらい。むしろ、俺たちがどれほどものを知っているか、梶木さんが関係者であるなら焦るとも思ったんだが、ダメだな、あれは」
それとも、自分たちはまだ真実からはほど遠い場所にいるのか、全くの見当違いを調べているのか。
「もっと別の角度から見てみないといけないかもしれないな」
耀真が思案していると、京香は唇をかたくしていた。
「なんだよ?」
「怒らないんですか?」
「自分でもおかしなことをしたと思ってるんだろう? だから、俺が怒らないのを不思議に思う」
京香が歯を食いしばるがわかる。
「俺が怒ることもないだろう」と耀真は笑う。「京香はわかりやすいよ」
「褒め言葉に聞こえません」
「実直なのはいいところだよ。羨ましいくらいに」
「私にはちょっとわかりません」
「わかるより感じることが大事なのさ。昔の人もいってた」
耀真は腕時計を見て、首肯した。そろそろ百合華に頼んでおいた仕事も決着しているころだろう。
○
「どうだったの?」
中央庁のエントランスで、レストスペースのソファーに腰かけたシアがいう。百合華はため息とともに答えた。
「あんまり芳しくないみたいね。検問は空振り、アーバンも協力的ではないみたいだし」
昨夜、ジェイが現れたと耀真から電話をもらった百合華はエリシオンと連絡を取った。即座に検問が張られたが、今朝までに怪しい人間の報告はなし。日の昇らないうちに行われた現場検証にしてもめぼしい遺留品はなく、ジェイを目撃している社員もいない。現場にいた梶木など知らぬ存ぜぬを押し通しているそうだ。いまごろ耀真が面会をしているだろうが、上手くいっているとは思えない。
「なんで取り逃したんだって、また係長に怒られちゃった」
「その人の話は怒ってる話しか聞かないわね」
「だっていつも怒ってるもの」
百合華はガラス張りの正面入口、その先にある前庭に目をやった。早朝は肌寒さも感じたが、もうカンカンに日が照っている。
「それじゃ、次、行こうか。急がないと後手に回るかもしれないものね」
中央庁を出て、五分ばかり歩いたところに大きな病院がある。昨夜、その病院に富樫博士が運び込まれ、死亡が確認されたのだ。そこの遺体安置室の前には二人の警察官がいた。異端審問官の身分証を見せて、遺体の検分をしたい旨を話すと快く通してくれた。四角四面の簡素な部屋は真ん中にステンレスのベッドが置いてある。そこに白いシーツを被って、横たわっているのが富樫だ。
百合華は頭の側に立って、シーツをめくる。長年の重圧からようやく解放されたような、安らかな寝顔だ。
耀真からは、博士の右目を調べて欲しい、と頼まれている。
ちら、と入口を見遣ると、閉じられた扉の前に警察官が一人立っていた。監視の役目なのだろう。不用意なマネはできない。
「耀真の見立ては正しいわね」シアが百合華の耳元でささやく。「右目だけ作り物、義眼ね」
「そう」と短く応じて、ちらりと入口の方をもう一度見る。調べろといわれたがどうしたものか。思案していると、「百合華」とシアに声をかけられた。
「ほんの一、二秒、お願いできる?」
百合華は頷いて、ステンレスのベッドを回り込む。シアは遺体を挟んでさらに部屋の奥、警察官は背中の方。百合華はちょうど中間に立って警官の視線から富樫の顔を隠す。
シアは博士の右目に手を添えた。
「よろしいですか?」
うしろから声をかけられて、百合華が振り向くと、すぐそばに警察官が立っていた。視線を故意に遮られたと感じたのか、職務に真面目だな。
「ああ、はい。大丈夫ですよ」
笑顔で応じてシアに視線をやると、手をうしろに組んで微笑んでいた。博士の顔は元のまま、両のまぶたを閉じて安らかに眠っている。
シアが頷くのを完了の合図と断じ、百合華はふむふむとそれらしく取り繕って首肯した。
「ありがとうございました。確認しましたので」
「はい。お疲れ様です」
警察官の敬礼にお辞儀で返し、病院を出る。日差しの強さが増している。
「それで、シアはなにをしたの?」
「持ってきちゃった」
シアが開いた手のひらの上で目玉がころころと転がる。目が合って、百合華は飛び退いた。
「ちょ! なに持ってきてるのよ!」
「調べろっていわれたんだから、取り出して調べるのが手っ取り早いじゃない」
「調べろって、そういうことなの?」
「他にどういうことなの?」
「そうかもしれないけど、いくらなんでも……」
「別にいいじゃないの。誰かが取りに来るわけでもないし」
「まあ、博士に身内はいないって話だけれど」
シアは義眼を日に透かすようにして、瞳を覗き込んでいた。百合華にはいささか信じられない神経だ。
「それ、洗ったりしなくていいの?」
「中は空洞じゃないのね」
「知らないけど、家に入ったら手と一緒に洗ってよね」
「なにか、緩衝材のようなものがあって、中心に板のようなものがある」
「板、ねえ」
○
「板、ねえ」
耀真は卓袱台の上で義眼を転がした。
「これ、見たところ継ぎ目がありませんわね」と蘭子がいう。西條姉妹は昨夜の顛末を訊きに、つい先ほど綾薙邸を訪れたところだった。昨夜は殺人やら検問やらでゆっくりと話をするどころではなかった。いまも富樫の義眼に興味を惹かれ、ジェイの話をするのはあとに回されている。
「どうやって中のものを取り出しますの?」
「取り出すなら無理矢理に破壊するしかないわね」とシア。
「そうかもしれないけど」百合華が不満も露わにいう。「かたい樹脂の中にあるものを壊さず取り出す。このメンバーの中で、そんな繊細な作業ができる人はいないと思う」
綾薙邸に住む五人と先ほど綾薙邸を訪ねてきた西條姉妹。七人の力をもってすれば義眼を構成する樹脂を破壊するのはいとも容易い。容易すぎて中の板もろとも破壊してしまう可能性が高い。
「どうするんです?」京香が首を傾げる。
「トンカチで叩き割りましょう」蘭子が無茶をいう。
シアと百合華も議論に参加して、にわかに騒がしくなってきた。
「とりあえず」耀真は美緒に義眼を手渡した。「美緒の能力で取り出せないか?」
周囲の視線が美緒に集まる。美緒は傾いたメガネのブリッジをつまんで、位置を直し直し呟く。
「できますかねえ? これくらいの距離なら取り出せるかなあ」
美緒の空間移動の能力は場所をイメージすることが重要なのだと以前聞いたことがある。だから、目に見えない場所に出入口を作るのは近距離でも難しいと話していた。
両の手のひらでこねくり回すこと一分足らず。卓袱台の上に小さな緑色の光が現れた。転送のサインだ。成功したらしい。
「やるじゃないか」
「耀真さんに褒められてしまいました」カールしている髪を照れくさそうに撫でる。
義眼の中に封じられていたのは一枚のSDカードだ。表面にアルファベットと数字が彫り込まれているが……。
耀真が手に取る。
「中にはなにが入っているかな」
携帯端末に差し込もうとして、蘭子に「ちょっと待ちなさい」と制された。そして、SDカードを叩き落とす勢いで引ったくられる。
「なにすんだよ」
「そんな小さな画面ではわたくしたちが見られないでしょう。パソコンはありませんの?」
「うちにはないよな」
「ないね」百合華が頷く。
「文明の利器の一つくらい持ちなさい、原始人」
「ITに精通しているからって現代人だと思うな、野蛮人」
「なんですって?」
「なによ?」
卓袱台に身を乗り出した百合華と蘭子の間で火花が散る。
「お姉ちゃん、ちょっと……」
「百合華も落ち着けよ」
「あたし、パソコン、持ってますよ」美緒が手を上げる。「デスクトップとノートパソコンが一台ずつ」
「いつの間にそんな買い物を……」百合華の目も口も丸くなる。
「デスクトップなら安く作れますよ」
「作ったの?」
「そんなこと、どうでもいいですわ」蘭子が会話を遮った。「ならさっさとメガネの部屋に行きますわよ」
「メガネ……!」
ぞんざいな呼び方にショックを隠せない美緒を放って、蘭子はさっさ居間を出る。
みんなで揃って美緒の部屋へなだれ込む。入口から差し込む光だけで照らされた部屋の中は他と変わらず畳敷きだが、奥に扉ほどの大きさのモニターが二台、その半分ほどのサイズのものが右手の壁に三台、それぞれ扇状に並び、さらに入口側にいくつもの基板を連結させたパソコン本体が置かれている。
「お前、デイトレードでもしてんのかよ」
「違いますよ。オンラインゲーマーです」
左壁にある違い棚には様々なコンシュマー機が置かれ、三十年前のものから最新型、耀真の知識にないものまである。どうやらハードゲーマーらしい。知らなかった。
「わたしが知らないうちに、ウチがこんなに近代化しているなんて……」
百合華が項垂れる。
「別に構わないではありませんか。原始の生活から抜け出すいい機会ですわ」
「品性のない言動しかできない人間は野生に還った方がいいんじゃないかしら?」
「なんですって?」
「なによ?」
「もういい加減にしろよ、おまえら」
耀真が仲裁している間に美緒は薄暗い部屋の中でパソコンの電源を入れる。タコ足のUSB端子にSDカードリーダーを接続していた。
「カードはどこですか?」
「蘭子が興奮して壊しちゃったんじゃないの?」百合華が鼻で笑う。
「壊しちゃいませんわよ、ほら」
苛つきを隠すこともなくカードを放った。美緒が両手で抱えるようにキャッチする。
「なにか、ウイルス入ってないでしょうねえ」裏表眺めてリーダーに刺す。
パソコンに現れたウインドウには一つだけファイルが表示される。
「動画ですね」
みんな揃って美緒の背中越しに、青白い光を放つディスプレイを覗き込んだ。ファイルをダブルクリックして立ち上がったメディアプレイヤーに映ったものは病室のような素っ気ない、無機質な一室だった。
貧弱な照明の下、部屋の隅で一人の男がくり返し、壁に頭を打ち付けていた。音は聞こえない。男の動きがぴたりと止まり、両手が顔を覆う。肩に力が入ったように見え、パジャマに似た服装の背中が破ける。その裂け目から腕が生えた。一本、二本と、男の体より大きな腕が壁をつかみ、床を叩く。三本目の手のひらがディスプレイをわしづかみして、画面はブラックアウトする。
「なんの話なの?」
シアが首を傾げていた。
「いや、俺にもイマイチ……」ここにいる人間、誰もがいまの画像の真意を理解しきれていない。
「まだ終わっていませんね」と美緒がいうので、画面に意識を戻す。ブラックアウトした画面に、一つ、二つ、と順に白い文字がタイピングされていく。
『人が冥魔に対抗するためには、より強くならなければならない。しかし、誓約の力、冥魔の力は人知の及ばないところである。いかにこれらの力に抗するか。我々が考案した手段は人知の及ばない物質の能力を追求し、人の力で制御しようというものである。人知の及ばない物質、すなわち、冥魔を生む漆黒の霧、冥魔を強靱にするスフィア。培養細胞において、生物もこの霧を取り込むことが判明、小動物に投与し、尋常ならざる力を与えることに成功した。
人への転用。その結果が先の映像である。
デモナイズ。霧とスフィアは早い段階で人間を冥魔に変質させた。
この研究の出資者であるアーバンクラフトワークスは研究所を封印、生き残った検体を暗黒地帯にて処分を決定。
しかし、我々はこの研究のデータを研究所の跡地に建設されたエリシオン日本中央教区所属弥田山訓練場のイントラネットに移送することに成功した。以下詳細はそこに記す』
この町の地図が表示され、端にある山岳部に赤い点が灯る。弥田山訓練場の位置だ。
「これ、なんのことですか? もしかして……」京香が声を詰まらせる。
「待て待て。まだ続きがあるぞ」と耀真がいさめる。
『なお、このファイルは一度再生すると消滅する』
は、と耀真が頓狂な声を上げているころには画面の真ん中に再生ボタンが表示されている。
「ちょっと待って。本当に消えたのか?」
美緒があっちのウインドウ、こっちのウインドウとクリックをくり返し、眉をひそめた顔を振り向けた。
「ダメみたいです」
「どうしますのよ!」と蘭子が絶叫する。「あれ、あの研究施設で人を冥魔に変える研究をしていたということでしょう? その証拠になるはずの映像が消えたですって? これで不祥事が暴けるはずだったのに」
「まだ決めつけるのは早いって」耀真は蘭子の唾を腕で防ぎながらいう。「美緒、なんとか復旧できないか?」
「なんとかといわれましても……」美緒はまたあっちこっち、パソコンの中でカーソルをさまよわせる。「色々手は尽くしてみますけど、あんまり期待しないでくださいね。あたしはアマチュアで、このファイルを作ったのはきっとプロの人ですから」
「うー、そうかもな」
「かもな、じゃありませんわよ、どうしますの? 成り上がるチャンスをフイにして」
「蘭子の家は充分成り上がってるだろう」
「あなたのような下賤な輩にはわたくしたちのように高潔な家柄の事情は想像もできないのかしら」
「知りたくもないねえ、やんごとない方々のご苦労は」
「あの……」と桜子がおずおずと手を上げる。
「どうしたの?」耀真が訊く。
「京香さんとシアさんがいなくなってるんですが」
「はあ?」
いつの間にかふすまが開かれており、縁側の向こうで新緑の庭園が陽光に輝いていた。
○
ひょいと跳ねて、民家の屋根に飛び移る。
自在に宙を舞えるアダムスキーといえどもそれほどの推力を持っているわけではないから、京香一人引っ張って五十メートルばかり飛ぶのがやっとだった。
瓦の上を走りながら、アダムスキーを前方に飛ばす。ワイヤーを巻き取りながらジャンプ、民家を二軒飛び越え、次のルーチンへ。
研究所の跡地にある教会の訓練場。パソコンの液晶に表示された地図は覚えている。赤い点があったのは青空の向こうで霞んで見える山麓だ。一直線に町を駆る。
「絶対に破壊する。そんなデータは……」
人を変質させる悪魔の研究。エリシオンのイントラネットの中枢を破壊し、全てのデータを消去する。誰かが触れてしまう前であることを祈って。
快調に住宅街を疾走していると、頭上から影が落ち、するりと追い抜いていく。
鳥かな、と思ううちに、五軒先のトタン屋根に人間が降り立った。
京香は立ち止まり、アダムスキーを引き戻す。一メートル大のシールド状に展開させる。
「なんの用です、シアさん」
「一人で行ってもなにもできないのはわかってるでしょう。エリシオンの力は甘くないわよ」
「やってみなくてはわかりません」
「やってみて、失敗しました、では許されないの」
「ならどうするんです?」
「耀真ならなにか妙案を思いつくでしょう。綾薙邸へ戻りましょう」
「嫌です」きっぱりというと、シアの目が丸くなる。「あの人は鈍いんです。私とは感性が合わないんですよ」
「あなたは直情的過ぎるわね」
「どうしても退いていただけないのなら、あなたも排除します」
「排除……」シアの群青の瞳が鋭く光る。「いいわよ。あなたの未熟さを思い知らせてあげる」
ちょうどいい機会だ。彼女のことはいままで昼寝をしている姿しか知らない。ここで実力を見せてもらう。自分に負けるのならその程度と割り切り、訓練場を襲撃してアフリカ大陸へ戻る。やはり自分の居場所はあの戦場なのだ。
「せいぜい死なないように気をつけてくださいよ!」
アダムスキーを一メートル大に展開し、最大速度で回転させて放り投げる。ワイヤーをのばしながら、シアに向かって一直線だ。
どう避けるか。右か、左か。どちらに動いても余裕で追撃できる。
やってしまえ。
アダムスキーが目標に最接近したその瞬間、シアの手が円盤をつかんだ。
「えっ?」
アダムスキーがシアの白い手のひらにがっちりとつかまれ、回転することも、引き戻すこともできない。
「力量差も理解できないとはね」
シアがワイヤーを引いて、伸ばす。さらに自ら間合いを詰めてくる。
呆気に取られていた京香は距離を取ろうと足を動かしたが、戸惑いが絡みつく。
逃げたとしても対抗する装備がない。
伸びきったワイヤーが宙で身をくねらせる。ふわりと円環を作って京香を縛り上ると胴体ごと両の二の腕を締め上げる。
ひゃあ、と悲鳴を上げて転び、日に焼けた瓦の上を転がる。文字通り手も足も出ず、二階の屋根から落ちそうになったとき、パンツをベルトごとつかまれた。瞬く間に地上が遠ざかる。空を飛ぶシアにぶら下がっている。京香の位置からでは見えないが、アダムスキーはシアの手の中ですっかり萎んでいるはずだ。
「大丈夫なんですか? あれを素手でつかむなんて」
「私の能力をもってすれば、あの程度の単調な動きは止まっているに等しいのよ」
へらへらと笑う。
「確かに強い」アダムスキーが通用しないのなら勝ち目はない。
「あら」とシアが意外そうな声を出していた。「でも、私より強いやつはたくさんいるわよ」
「たくさん?」信じられない話だ。「いまのより、もっと強い人がたくさん……」
「人とは限らないけどね」
シアを見上げると、顔は遠くを向いていて、表情までは見えなかった。
「耀真はね、そういう強いやつらと戦って生き延びてきたのよ」
たおやかにうねる金髪の向こうに見えた青空から吹く穏やかな風に全身を包まれ、暖かな日差しの香りが体に満ちる。どきどきと高鳴る胸の音は緊張の音ではない。肌身に満ちていた力はもうとっくに春風にもまれて抜け落ちていった。
「もう少しだけ」とシアがいう。
「あの子のことを信じてあげてくれないかしら?」
○
「ごめんなさい」
正座した京香がうつむいたままでいう。
耀真の自室でのことだ。眺めていた携帯端末のディスプレイをオフにして彼女に向き直る。
「なにがだよ?」
「勝手な真似をしました。申し訳ありません」
「別にいいよ。誰が怪我したわけじゃないし」シアと本気で襲うほど好戦的とは思わなかったが。
「よろしいんですか?」と不思議な顔をする。
「もし、今回のことで非があるとするのなら俺たちの方だ。民間の人間に情報を漏らしたんだから」京香の黒い瞳を見据えて、ただ、と話を続ける。「京香に俺たちの仲間だって意識があるのなら、今回の件は咎めないといけない」
驚きに広がっていた京香の目口が顔の真ん中にきゅっと集まる。
「やっぱり申し訳なかったです。耀真さんたちの信頼を裏切ってしまいました」
「まあ、京香が飛び出していった理由もわかるから、仕方がないといえば仕方がない」
「では、耀真さんもなんとかしようとお考えなのですね」
京香の瞳が満点の夜空の如くきらきらと輝く。耀真は身を引いた。
「うん、西條姉妹に訓練場の中を見に行ってもらってる。もう着いてるころだから、じきに連絡が来るはずだろうよ」
「ああ、なるほど。そういえば、お二人はエリシオンの偉い人でしたね」
「母親がな。その仕事を手伝ってる関係で、訓練場に顔が利くんだと」
「それで潜入して、データを削除してしまうのですね。耀真さん、さすがの策です」
「これは策っていわない。そもそも提案したのは桜子ちゃんだ」
「でも、これで解決ですね」
「いや、まだジェイが野放しのままだから、解決には遠い」
「そうか」うつむいて一考した京香が頷いた。「そうですね。あの人には借りがありますものね」
「その件でもうじき出かけると思うから、一緒に行くか?」
「はい、ご一緒させてください」と勢い込んで返事をしてくる。
「じゃ、向こうで待ってて」
はい、と応じた京香はふすまを開けて廊下を走っていく。入れ替わりに百合華が来て、お盆に乗せた湯飲みを机に置いた。
「昔、人工誓約者の研究がされていて、その内容は廃棄されたっていう噂は、わたしもちょっと聞いたことはあるけれど、怪談話の類いだと思っていたなあ。まさか、実際に行われていて、データが残っているとは……」
「それ、有名な話?」耳を疑って訊く。
「一部のオカルトにはね。だって、話のレベルとしては、幽霊の研究をして、意思の疎通を図ろうとかいうくらいのものだよ。誰も真に受けないオカルト」
「まあ、そうかもな……」
誓約、冥魔、スフィアの研究はまだまだ事象を解析する段階だ。生物への応用など考えられない。
「それで、そのデータを保留にしておいて、どうするつもりなの?」
「それも保留かな」
西條姉妹には、万一データを見つけても触れずにそのままにしておいてほしい、と話をした。不祥事の証拠をつかみたい蘭子は嬉々として賛同し、桜子は気が進まないながらも耀真の意を尊重してくれた。
「京香ちゃんは、きっとまた怒るだろうねえ」
「あいつは直線的すぎるんだよ。頭が硬いんだ」
「でも、ひとつのことを貫こうっていうのはいいことだよ。それも、あの子は正義であろうとすることを貫こうとしているんだから」
「わかってるよ」なんとなく唇に力が入る。
「あの子は耀真に似てるよ」
「はあ?」と耀真は片眉を上げた。「どこがだよ?」
「強情なくらい自分の意志を貫こうとするところ」
「そうか?」
「そうじゃないとシアはいまごろここにいないもの」
それをいわれると真実を突いていると思う。
「でも、耀真だってあの子のこと、悪く思ってないんでしょう」
「そりゃ、悪いやつじゃないよ。まだ幼いんだ」
「耀真がいう」口元に手をやって、クスクスと笑う。
「冗談じゃないんだよ」耀真はいたたまれず、お茶を一口含む。「あいつは見所があるよ。もっと成長すれば俺なんかよりもずっと世のためになる人間だと信じてる。でも、いま問題を起こされるとその芽も潰されかねない」
「耀真は大人だね」という百合華は茶化しているとしか思えない。
「真面目な話をしてるのに」
「わたしはいいと思うよ。耀真の親心、もとい、師匠心」
「あのな、百合華……」
「わたしは耀真のこと、なんでも知ってるから」百合華が座ったままでにじり寄ってくる。「だからね……」
膝頭が触れ合いそうになったとき、手の中の携帯端末が震えた。
「桜子ちゃんだ」
通話をタップして耳にやる。百合華を見ると、不機嫌に唇を尖らせていた。
桜子からの連絡によると、イントラネットのシステムフォルダの中にそれらしいファイルがあったという。読み上げられる名前を聞いて、SDカードの表面に目をやる。予想はしていたが、表側に彫り込まれたアルファベットと数字の組み合わせの一段目はファイル名だった。二段目はパスワードか。
「どうします? クリックしてみますか?」
「いや、どうなるかわからないから、そのままにしておいてくれないか?」
「わかりました。耀真さんはこれからどうなさるんですか?」
「ジェイを探すよ。当てがあるんだ」
「なにかお手伝いすることがあれば、おっしゃってくださいね」
「ありがとう。今日は無理だけど、このお礼はいつか必ず」
「いいえ、構いませんよ。お互い様ですから」
では失礼します、と通話が切れる。
「桜子ちゃん、なんだって?」と訊いてくる百合華は平常心に戻っていた。耀真は電話の内容を手短に説明する。
「そういうわけで、俺もちょっと出かけてくるよ」
「さっき話してた当てのこと?」
「うん。京香を連れてね」
○
京香を連れて訪ねると、受付に立った青年は百年の仇敵に巡り会ったかのように顔を歪めていた。五、六個の文字にしにくい罵詈雑言を浴びせかけられたが、あまり騒ぎにならなかったのは、京香が黙っていたからだろう。彼女が別のところに意識をやっているおかげで、物事がスムーズに進む。耀真が自らの肩書きとそこから引き出しかねない脅し文句を口にすると、青年は案外あっさりと引き下がった。代わりに、いくらか年かさの男が出てきて、耀真たちを奥の個室へ誘う。
個室の壁は半分ベニヤ板とブルーシートに覆われており、修理業者が手を施した形跡はあるが、まだまだ部屋として機能しているとは思えない。
応接用のソファーに深々とふんぞり返っている恰幅のいい男が親分格なのだろう。革靴を履いた足を組みながら、タバコをくゆらせる姿は、焼けた肌の色と相まって、オットセイに似ている。その背後にがっしりとした図体の二人組が窮屈そうにスーツの中に身を収めている。
耀真と京香が三人と向かい合うように座ると、オットセイが喋り出した。
「で、今日はなんの用件だい?」
「突然押しかけて申し訳ありません」と耀真は愛想笑いを浮かべる。
「んな話はいい。さっさと用件を話してとっとと帰れ」唾を吐くようにいう。「クソガキがエリシオンの人間なんぞ連れて来やがって」
ここでも京香は口元を強張らせるだけだった。
耀真は、じゃ、と言葉を継ぐ。
「単刀直入にお話しますが、捜査にご協力していただきたいんです」
あ、と親分が舌を巻いていう。
「なんで協力しなきゃならねえんだ」
「そちらも困ってるんじゃないんですか? 例の、この辺りに出没する通り魔ってやつ」
親分の顔から表情が消えた。ぐっと硬く腕を組む。
「なんの話だ?」
「知らないわけはないでしょう。新聞にも載りましたし、全国ニュースでもやってます。それを、この辺りを仕切ってるあなた方が知らないというのはどうでしょう」
嘲笑う耀真に対して、取巻きの片方が前に出ようとしていたが、親分の一睨みで一歩下がる。
「その事件自体は知ってる。なんでオレたちが協力しなきゃならねえ理由があんのかって話だよ」
「俺たちエリシオンの人間がかかわる事件は、相手が誓約の力を持っている場合に限定されます。今回も例に漏れず。あなたたちを捕まえるような仕事は警察しか動いていませんよ。それくらいの情報は入っているでしょう」
「さてな」と親分はうそぶく。
「いいんですか? あんまり放っておくと、あなた方のテリトリーで好き勝手されますよ。もう三人、いや、四人の人間が殺されています。面目は丸潰れじゃないんですか?」
親分が顎に皺を寄せ、唸る。
「エリシオンはそれほど裏社会に精通しているわけじゃありませんからね。見つけて捕まえるまでしばらく時間がかかるかもしれません。もしかしたら、取り逃すかも」
「なら、こんなとこで与太話してねえで仕事をしてこい」
「だから、協力を頼んでるんですよ。ほんのちょっと情報を漏らしてくれれば、あとはこっちで処理しますよ。それとも、あなた方だけでなんとかしてみますか?」
風に煽られ、海の如くうねるブルーシート。波が収まるのを待って、親分は口を開いた。粘っこい声でいう。
「ま、小僧とはいえ、中央庁の人間に借りを作っておくのもいいだろうよ」
「というと、ご協力してくださるんで?」
「アイルトンホテルに数週間前からアジア系の、陰険な親父が宿泊してるらしい。仕事って雰囲気じゃねえし、おっさん一人で観光ってこともないだろう。部屋番号は七○二だ。まだいれば、の話だがな」
もうすでに発見していたのには驚いた。顔に出たかもしれないが、構わないか。
「もう見つけていたのに手は打たなかったんですか?」
「打ったよ、打ったんだよ」と顔の皺を増やす親分は相当嫌な記憶を掘り返しているようだ。「あれにちょっかいを出した若いのが手も足も出ずにぼこぼこにされてよ、落とし前つけにいった連中も返り討ちだ、情けねえ。おっと、こんな話、余所でしてみな? あんたがここに来たことバラすぜ」
「別に構いませんよ」と耀真は朗らかにいう。「なんなら、いまからそこのブルーシートをめくって叫んでいただいても結構ですよ。エリシオンの若いのが捜査協力に来たって」
親分がきょとんとした顔を向けてくる。「本気かよ?」
「俺は落ちるような地位でもありませんし、執着している仕事でもないし。海外に渡って傭兵にでもなりますよ」
親分はタバコがひしゃげるほどフィルターを噛んでいた。舌を鳴らすと、歯の隙間からため息を漏らす。
「全く面白くねえ男だな」
タバコを灰皿で揉み消すと、その手で宙を仰いだ。
「ほら、お帰りだ。そんで二度と通すな」
二人の取巻きに追い立てられてビルから出る。
「今回の手段はあんまりです」と京香が声を荒げた。
耀真は百合華にメールを送って、携帯端末をポケットにしまい、歩き出した。足音荒く、京香がついてくる。
「反社会的組織に情報提供を依頼したことか?」
「小難しい言葉を使っても騙されませんよ」京香の憤りは人通りのある道に出ても収まらない。「こればかりは仁義にもとります」
「じゃ、京香はどうやってジェイの居場所を探すつもりだったんだ?」
「それは」と京香は言葉を詰まらせる。「ホテルとか、人の泊まりそうなところを片っ端から……」
「京香が宿泊客のことを訊いても、向こうは教えてくれないだろう。コンプライアンスに反する」
「耀真さんならエリシオンの力を借りられるじゃないですか」
「ジェイって名前の、顔もよくわからない男が人を殺したって報告して、上が検討して、班会議が開かれて、チームを割り振り、ようやく聞き込み。やったとして、ジェイは十中八九偽名を使ってるから名前だけじゃヒットしない。どうするんだよ?」
「だとしても、今回のこと……」
「おまえ、いったいどうしたいんだ?」
え、と呟いた京香を立ち止まり、見据える。黒い瞳が丸くなった目の真ん中で揺れていた。
「俺はあの研究所であったことを知りたい。そのためならどんな手段も使う。梶木さんが話さないならジェイだ。あいつはいま、この瞬間にも逃げる準備をしているかもしれない」
「でも、あのデータは消したんでしょう?」
「全部消してしまえば満足か?」
「いえ、そういうわけでは……」京香がうつむいて、目を泳がせる。「私だって、あの人のことは許せません。でも、正しくないこともできません」
「俺が正義である必要なんてない。正義であるかどうかを悩む時間があるなら前に進む手段を考える」
「でも、そんな手段で得た結果にどれほどの意味があるか」
「京香は甘いんだよ」耀真は首を振る。「俺は京香が手をこまねいているうちに前へ進ませてもらう。おまえはそこで立ち止まってろ」
背中を向けて歩き出す。京香が急ぎ足で隣に並んだ。「私は」と悲しげな顔をしてぽつぽつと喋る。
「私は甘いのかもしれません。でも、耀真さんは歪んでます」
「俺が京香にアドバイスすることがあるとするのなら、京香はそのままでいた方がいい。俺は京香がいう通り、歪んでいるから」
「耀真さん……」
「俺は俺の道をただ進むだけだよ、この曲がりくねった道を」
神妙に黙っていた京香が、あの、とか細い声を出した。
「なんだよ?」
「あの人たち、耀真さんにあまり興味は持たなかったみたいですけど、今日のことは必ず耀真さんの弱みになります。耀真さんがいまいった通り、きっとしっぺ返しを食らいますよ」
「そのときは、事務所の奥にあった隠し金庫の中身を暴露するぞ、って脅し返す」
「隠し金庫?」
「応接室に案内された時点で部屋の中に隠し金庫があるのはすぐにわかった。俺の能力はそういうものだから。それをあの場でいうと反感を買うから軽く牽制しておくだけにしておいた」
京香は全身の力を息にして吐き出した。
「耀真さんは、あの人たちより質の悪い悪党かもしれません」
○
「というわけで、俺はジェイに会ってくるよ」
「危なくないの?」と百合華は眉をひそめていた。
「大丈夫だろう。色々と手は打ってみるから」
「また小賢しいことを」
「百合華と西條姉妹にはホテル周りの監視を頼むけど、俺たちが戻る前にジェイがホテルから出てきても当たるなよ」
「京香ちゃんは連れていくのね」
「顔馴染みがいた方が話しやすいだろうからな」
「シアと美緒は?」
「相手はエルの力を封じるっていう武器を持ってるんだぞ。シアは近づけられないだろ。そうなるとシアを一人にしておくわけにもいかないから、美緒にはついていてもらわないと」
ふーん、と百合華は目を細めた。口元がへの字に曲がる。「シアがあとで怒らなきゃいいけど」
それきり百合華と別れて、例のホテルの前まで来た。ネットで検索したところ、ホテルの場所は工場地区の外れ、市を縦走する国道から一本入ったところにあった。外観も内装も小綺麗に整備されているが長い築年数はごまかしきれていない。場末のビジネスホテルといったところだ。
「七○二、でしたっけ?」
京香の人差し指がホテルのエントランスから空へ、一段一段登っていく。
耀真の能力でビル全体を覆うことができるのは、まだグランディオラが発動していないか、ジェイがすでにここにいないか。
「京香、おまえ、銃なんて持ってきたのか?」
「もちろんです」と京香は尻の付け根を叩く。そこに拳銃を忍ばせているようだ。「桜子さんに訊いたらウチにあるということだったので借りてきました。耀真さんが百合華さんとお話している間に」
「そうか、西條家なら常時拳銃くらい置いてあるかもな」綾薙邸は、主の百合華が剣術と己の能力のみを恃みにしているので、無駄な武器を置いていない。「暴発しないように気をつけてくれよ」
「大丈夫ですよ。私の使い慣れている武器の一つですもん」
「ならいいけど」耀真は人差し指を振る。「予定通りに、な」
「ジェイさんに釘を刺して、ルームキーも手に入れる、ですよね。任せてください」
自動ドアを抜けて、四畳半程度のエントランスへ入る。受付の青年は、ヤクザと違い、にこやかで人当たりもよさそうだ。
京香がカウンターに張り付く。
「あの、おじさんと連絡を取りたいんですが……」
「お名前は?」と受付の青年。
「ええ、と、いつもおじさんとしか呼んでないから、なんでしたっけ?」と耀真の方を振り向く。
「京香のおじさんだろう。俺は知らないよ」
「七○二号室にいるはずなんです」
「では、お客さまのお名前は?」
「橘京香です」あと、と身を乗り出して続ける。「富樫さんからの贈り物も預かってると伝えてくださいますか?」
「かしこまりました」
青年は電話を取って、繋いでくれる。いくつか言葉を交わし、受話器を置くと奥に下がっていった。一分と経たずに戻ってきて、一枚のカードを渡してくれる。
「七○二号室の鍵でございます」さらに注意事項をいくつか話す。
「わかりました。ありがとうございます」
京香が笑顔で受け取るのを見、耀真はエレベーターの階上ボタンを押した。すぐに扉が開き、合流した京香と入る。壁に据えられたリーダーにカードで触れると、七階のボタンが反応するようになった。
「チョロいですね」
「ジェイがどこに興味を持ったのかはわからないけど、俺たちと話し合う気はあるらしいな。とりあえず前進だ」ちら、と京香に目をやる。壁に背中を預けて突っ立っている。「梶木さんのときみたいに無茶するなよ」
「わ、わかってますよ。今度こそ自制します」
軽いチャイムが鳴って、七階に着く。窓のない廊下は白熱灯の明かりも薄く、突き当たりで非常口の看板が緑色に光る。七○二号室はエレベーターを降りて、右手、二番目の扉だった。
京香が壁に寄って、扉を警戒する一方、耀真は扉の正面に立った。目を丸くした京香がひそめた声を出す。
「危ないですよ。いきなりブスッとやられたらどうするんです」
「能力は展開できる。グランディオラは発現してないよ」
「あー」と京香は腰のベルトに手をやる。アダムスキーが動くのを確認したのだろう。「なるほど、です」
「ジェイは部屋の奥だ。扉のそばにいないのはわかってるから安全だよ」
耀真が扉をノックする。「勝手に入ってこい」と部屋の中からくぐもった声が聞こえた。従って、扉を開く。タバコの臭いが鼻についた。
短い廊下の奥にあるのは採光用に取り付けられた申し訳程度の窓。そこから差し込む光を浴びた細身の男はぼさぼさの短髪を掻いていた。ジーパンに着古したワイシャツ、思いの外カジュアルな服装を着こなし、肌の張りもある。梶木と変わらない歳を想像していたが、もっと若いのかもしれない。ただ、目の奥にある暗い光は梶木と同じ、昨夜アーバンのビルで相まみえた敵とも同じ。
「あんたがジェイか」
「あいつ一人じゃないだろうなとは思っていたが、昨日のガキか。橘の娘はどうした?」
「私はここです」
京香が耀真の脇の下辺りから顔を出すのを見て、ジェイの頬が緩んだ。
「そうか。立ち話もなんだから部屋に入りな」
いわれた通りに、京香は滑るように部屋へ入る。耀真も扉を後ろ手に閉め、あとに続く。カーペットを敷いた短い廊下を行くと、八畳ほどの空間になっていた。ベッドと丸テーブルが置いてあるから、三人いるといささか手狭に感じる。
「富樫からの贈り物ってのはなんのことだ? いま持ってるのか?」
まあ、興味を惹いたのはそこだろうな、と思っても顔には出さない。予想はできていた。
「いきなり本題かよ」
「なんだい、長々とお話したいのかよ?」
したくはないな。耀真は、わかった、と首肯した。
「デモナイズという研究のデータだ。人間を怪物に変える研究、知っているか?」
ジェイの表情が険しさを帯びる。
「そのデータはどこにある? 外に持ち出せるのか?」
「どちらも答えられない。俺たちの安全のために。次はこっちから質問させてもらいたい」
ジェイの眉間に皺が寄ったのも一瞬、次の瞬間には軽い嘲笑が浮かぶ。
「いいぜ。あの研究のことを知ってるんなら、もうほとんど隠すことはないからよ」
「なら訊くけど、あんたの目的はなんなんだ?」
「その研究データを相応しい人間に渡すことだ」
京香の身が強張るのがわかった。視線をやると、顔をしかめて深呼吸を繰り返している。
「余計なこというなよ」
「わ、わかってます。わかってますよ」京香はさらに深呼吸を繰り返す。耀真はジェイに向き直る。
「その、相応しい人間ってのは?」
「まだ見つかってない。あの研究を有意義に運用できる人間。もしかしたら、そんなもんいねえかもしれねえがな」
有意義に運用できる人間、と口中に呟いて、耀真は質問を継いだ。
「アーバンを狙った理由はなんだ?」
「アーバンの代表取締役の梶木はあのデータを抹消しようとしているからだ。きっとおまえがそのデータを持っていると聞けば、あいつは血相を変えて暗殺しに来るぞ。絶対に知られるなよ」
「あの梶木さんが?」何事にも動じない梶木からはあまり考えられない。
「富樫は死んだのか?」ふと思い出したようにジェイが訊いてくる。
「死んだ」
耀真が短く答えると、ジェイは、そうか、と窓外に目を向ける。
「あなたが殺したんですよ」
ついに京香が一歩踏み出した。ダメか、と辟易したが、耀真が手を出すには至らなかった。ジェイの暗い瞳に見据えられた京香の体から力が抜けた。暗くとも、どこか柔らかい雰囲気がある瞳だった。
「いったい」と耀真が話を進める。「あんたたちになにがあったんだ?」
ふ、とジェイが笑う。
「いいぜ。話してやるよ、オレたちの見た地獄を」
○
もともとデモナイズの研究は、人間を人工的に強化し、冥魔に対抗、ひいては殲滅することだった。
最も身近な超人類に誓約者がいるが、生物学的には一般人と変わらない。現代科学では、なぜ誓約者が火だの水だの、自然法則を操れるのかわからない。だから超人類の研究には、現代科学で解明できないものの力を借りようとしたんだ。
それが黒い霧とスフィア。
こいつらも科学的な解明はされておらず、集まって冥魔を成形すること、スフィアはその核になりやすいこと、スフィアは冥魔の餌となり力となること、簡単な性質しか理解されていない。
実のところ、霧の研究はネズミの実験で良好な結果を得ていたそうだ。身体能力の向上、極地環境下での適応力、薬剤及び毒物への耐性。大きな副作用も確認されなかったことから、臨床、人体への応用が試された。選ばれたのは元傭兵や退役軍人ばかりだった。対冥魔戦を前提にした研究だから当然の人選だな。
その結果がアレだ。
人を怪物に変えるデモナイズ。のちの研究でわかったことだそうだが、黒い霧はIQの高い生物へ優先的に牙を剥く。ネズミよりサル、サルよりヒトってわけだ。つまり、地上を支配している者から順に抹殺していく。そういう機構になってるんだと。
デモナイズの始まりはオレたちの仲間の一人がおかしくなったことだった。背中がかゆいっていい出して、夜も眠れなくなったんだ。すぐに隔離されてな。そいつが第一号のはずだ。あのころ、研究所に大きな揺れがあって、何事かと訊いたら、冥魔の一匹が近くに現れて駆除されたという話だったから、まず間違いないだろう。
それから何日も経たずに、オレたちは暗黒地帯へ向かうことになった。表向きは実戦への適応試験、実際のところは廃棄処分だ。冥魔に変貌する可能性を秘めた人間なんぞパッパと始末してしまいたいのが出資元の本意だったろうが、はいそうですか、とは進まんわな。そこで暗黒地帯だ。暗黒地帯なら送り込んでも文句はいわれないし、一人も帰還しないでも不思議じゃない。デモナイズが起きたとしても、あとから駆けつけた人間にすれば、そこに冥魔がいるのは自然なことだ。こんな都合のいい場所はない。
オレたちはなんにも疑わなかったよ。元々研究が上手くいけば、実地の訓練もあるって契約だったからな。暗黒地帯の調査は通常、外縁から目視で観察するのがせいぜいだった。だがオレたちに下った指令はただの調査じゃない。外縁部から三百キロ地点での中心部の観測だ。
別にな、暗黒地帯は冥魔の巣といっても、礫砂漠ばっかりみたいな荒れた土地じゃないんだ。密林もあれば、草原もあるし、花も咲いてる。まあ、そういう植物が襲ってくることもあるし、身を隠せそうなところにいても化け物に食われることもある。常時戦場ってイメージは間違いじゃない。ぼんやりしていれば、三十分と経たずやつらの餌だ。
冥魔は音にも反応する。だから、徒歩での移動が鉄則だ。
一日、日は大した仕事じゃなかったよ。オレたちは研究の甲斐あって、肉体的にはタフに、鋭敏になっていたからな。
二百キロ地点かな、出立して五日が過ぎたころだよ。仲間の二割程度が行方不明になっていたが、それでもまだまだこれからって朝だった。近くに冥魔は見当たらず、目の前の崖の上を登れば、朱色の朝焼けがきれいに見えていたな。
仲間の一人がな、体がかゆいっていうんだ。
一滴の水も浴びてないんだから当たり前だろうって笑ってたよ。だが、そいつはかゆいかゆいって体を掻きむしって、ついには自分の皮を引き剥がしたんだ。その下から出てきたのは見たこともない化け物だったよ。
必死に撃ったね、訳がわからなくて。ゲームでもしてるんじゃないかってくらい現実がなかったが、滅多撃ちにして、その化け物の死体が消えたときに仲間の一人も消えてるんだよ。あの体がかゆいっていってたやつが。
それからは立て続けだった。体がかゆいってやつが一人、二人と増えていく。そいつらが化け物に変わっていく。そのときは嵌められたとも思わなかったね。この場所が悪い。ここは人間がいちゃいけない場所なんだ。本物の地獄なんだってな。
逃げたよ。そりゃ、無我夢中に、前後不覚になるくらい。途中仲間の死体が転がってて、そばに冥魔がいたが、あれは霧から生まれたものなのか、元同僚だったのか、いまとなっちゃわからねえ。
逃げる途中も何人かデモナイズして、生き残ったのはオレを含めて五人。誓約の力を防ぐ装備、インタラプターは、霧の力を弱めてくれるというのが研究でわかっている。それの効果を試すためにインタラプターを携帯していたのが生き残った五人だ。いまもこうしてブレスレットを巻いているから、オレもしばらくは人の形のままでいられるってわけさ。
オレたち、五人は真実を求めることにした。研究に携わった人間を拉致して尋問を繰り返し、その先で知ったものがデモナイズだ。人を悪魔に変える研究、それはすでに頓挫し、施設も廃棄されたこと、それでもまだデータは保存されていること。データの存在を知る研究者は一人死に、二人死に、最後の一人も死んじまった。まあ、ほとんどオレたちが殺しちまったんだが。
富樫のジジイがいうにはこうだ。
あの研究には人の未来と希望がある。結果、悪魔を生むことになってしまったが、あのデータを解析するだけでいい。霧の特性と対抗する、自衛する手段が浮かび上がるはずだ。もし、あのデータの悪用を恐れているのなら、それはナンセンスだ。あのデータを手に入れた者が人の命を犠牲にしてまで研究を続けるというのなら、それを世間が許すというのなら、人類とはその程度であるからだ。冥魔がいようがいるまいが、自滅することになるだろう。
我々は狂気にまみれ、悪魔を産み落とした。君たちには謝罪してもしきれるものではない。だが、百年の先の人類に光を与えることもできるのだ。
どうか、あのデータを良い方に使っていただきたい。
○
部屋に満ちた沈黙が耳に痛い。
耀真は堪えきれなくなって、それで、と口を開いた。声が出ていない。咳払いしていい直す。
「それで、富樫博士の弁に感銘を受けたあんたはあのデータを守ろうとしていて、一方の梶木さんは廃棄を目論んでいる、と」
「その通りだよ。感銘だなんて、忌々しいことに」
懐からタバコを取り出し、放り出してあったライターを手にして火を灯す。熱せられた巻紙の先端が赤々と光る。一服ののち、吐き出された紫煙が部屋を漂い、鼻腔に滑り込んでくる。
「生き残りは五人っていってたな。あんたと、梶木さんと、あとの三人はどうしたんだ?」
「三人とももう始末したよ」とジェイは事も無げに頷く。
「やっぱりか」あの通り魔に殺されたという三つの遺体、ちゃんとした意図を持って殺されていたのだ。「どうして首を切り落としたんだ?」
「表向き、デモナイズは完全処分されたといわれても、データはまだ残ってるんだ。もしかしたら、オレたちのことを知っている人間だってまだいるかもしれない。そいつにオレたちの存在を気取られるわけにはいかなかったからな。念を入れておいたんだ」
「かつての仲間だったろうに」
「もう道を違えていたんだ。敵と決めたら容赦しちゃいけないよ」
「それはわかるけど」耀真は腕を組んでいう。「だからあんたは逃げるように暗黒大陸に向かったわけだ。四対一じゃ分が悪いもんな」
「逃げるように、というよりも、実際逃げたんだ。オレの趣旨替えがバレて」ジェイはタバコをふかすと、灰皿に灰を落として呟いた。「やつらを、特にケイを殺すのは難しい。ま、おまえらが研究データを持っているんなら、あいつを殺すこともなくなったけどな」
「いや」と耀真は首を振る。「実のところ、データは消えちゃったんだ。一度再生させると自動で消去される設定になってた」
「なんだと?」ジェイの声が険しさを帯びる。
「でも、バックアップと詳細なデータが保存されている場所、開くためのパスワードも知ってる。梶木さんがデータを廃棄しようとしているっていうのは……」
「ああ、エリシオンの弥田山訓練場にあるバックアップファイルだ」
「やはりか」
「しかし、あそこのデータはコピーできないが、再生しても消えないはずだ。いや、むしろ、消そうとしても消えないはずだ」
「そうなのか?」
「富樫の同僚が一人、エリシオンに引き抜かれて、あの訓練場に配属されたんだが、そのとき、データを移すと同時に細工をしたそうだ。削除されても、別のファイルにデータの部品が寄生していて何度でも再構築されるんだとよ。寄生してるのはエリシオンの重要データだ。そこのファイルを全消去しない限り、あのデータを消すことはできない」
「それは」と耀真は顎をつまむ。「それはエリシオンの重役でも実質不可能だ。一つの施設のデータを消せって命令は無茶過ぎる」
ウイルスに対する防御も鉄壁だろう。エリシオンの戦闘関連施設といえば、一国の軍隊を凌駕する備えがある。
エリシオンの盾に守られ、消去しても復元し、開くにはアナログでしか保管されていないパスワードが必要。永遠に存在し続けるブラックボックスだ。
「なら、梶木さんはどうやってデータを葬るつもりなんだ?」
「荷電粒子砲だ」
「荷電粒子砲?」
ジェイが灰皿にタバコを押しつけて捻り潰した。
「普通の爆弾では破壊しきれないのをあいつらは悟ったんだ。イントラネットに接続されたハードの数は百を超え、メインドライブは何トンて火薬で爆破しても傷もつかねえって代物らしい。そこで荷電粒子砲だ。一帯ごと吹き飛ばすんだよ。いま、アーバンはこの辺りで巨大な大砲を作ってるだろ。あれも元々オレたちと同じ研究施設で考案されたもので、ケイは基地施設を吹き飛ばすためだけに富樫の推薦でアーバンのアドバイザーになり、社長まで成り上がって、荷電粒子砲の計画を復活させたのさ」
「確かに、あの兵器を使えば……」試射では港に上陸した大型の冥魔を瞬時に蒸散させた。山を一つ灰燼に帰することくらい簡単なのかもしれない。「でも、あれは富樫博士の造ったものだ。博士は自分たちでデータを残しておきながら破壊する兵器も造っていたのか?」
「ケイ、梶木の指示だからな。断れば虫けら同然殺される。それに荷電粒子砲が冥魔に有効な兵器であるのはすでに証明されている。人の力で冥魔を仕留めるのは博士の悲願だ」
秘密を秘密のまま命を落とすか、秘密を失う覚悟で新たな力の究明に挑むか。後者を選んだのは科学者らしいか。
「もう少し時間があれば、他に手の打ちようもあっただろうが、次の発射でデータが消し飛ぶ可能性もある。それがいまにも起こるかもしれない」
ジェイは手近にあったザックを引き寄せて探ると、部屋の隅に放り投げた。壁に掛かっていた黒い薄手のジャケットを羽織る。
「梶木さんを殺しに行くのか?」
「あいつを殺せば秘密は守られる。あとはおまえらの好きにすればいい」
「待て」と耀真が声を上げる。「まだ時間はあるんだ。しばらく荷電粒子砲は絶対に動かない。絶対だ」
「なんでいい切れる?」ジェイが嘲笑混じりにいう。
「あれはまだ重要な部分、発射に必要なエネルギーを造るための核融合炉が完成してない。いま、アメリカの方で建設途中なんだから」
「バカいうな。すでに試射は何発も成功しているんだぞ」
「いまは誓約者の能力を動力源にしてるんだ。エネルギーを生む能力、俺の能力を」
なに、と意表を突かれたジェイも思案顔を浮かべる。
「それでか、親しげに梶木さんなんて呼んだり、ジジイにデータを託されたり。おまえも関係者だったんだな」
「ああ」と耀真は頷く。「俺と、パートナーがいるんだけど、その人がいないと荷電粒子砲は動かない」
「そうかい。そいつを信じるならしばらくは安泰だな」
耀真の横を抜けて、頭二つぶんも大きな体が部屋を出ようとする。
「それでも行くのか?」
「おまえのこと、信じてねえわけじゃねえよ。俺の矜持ってやつだ」
「矜持ねえ」片眉を下げた耀真の視界の隅にきらりと光るものが映る。ジェイのシーンズとベルトの間に刺さっている銀のアクセサリーだ。あれが聖剣、グランディオラ。刃がないのはまだその能力を発現させていないからだろう。
「心配するな。オレは無駄な殺しはしねえよ。富樫のジジイは例外だけどよ」
「殺し自体、問題なんだよ」
振り返りもせず、手を振っただけで、ジェイは部屋を出ていった。
重いため息を吐いて、耀真は携帯端末から百合華に電話をかけた。
ジェイとの会話の内容を欠片も話さず、「あいつが外に出たけど、そのまま逃がしていいから」と伝える。
「いいの?」
「うん。あまりにも危ないから。それより梶木さんを探した方がいい。あいつの狙いはそこだ」
「梶木さんを? なにを話したのよ?」
「合流してから話すよ」
約束をして通話を切ると、横から声をかけられた。
「耀真さんは、あの研究が正しいことだったと思いますか?」
「はあ?」と嘆息する。「いまさらなにいってんだ?」
「だって、ジェイさんも、富樫博士も、なんだか……」
「いいか? いってることは正しくてもやってることは間違ってることなんて山ほどある。当然人殺しも止めなきゃならない、が……」ふとカーペットに視線を落として考える。「まあ、ともかく、梶木さんを見つけないと丸く収まらないから、さっさと行くぞ」
はい、と首肯した京香は小さな体を重たそうに動かした。
○
「耀真めえ、この私を楽しげなとこだけ仲間外れにするんだから。こんなにかいがいしく働いているのに!」
誓約の力を封じるグランディオラ。シアが近づくのは危ない、と耀真にいわれ、綾薙邸に置いてけぼりを喰らったのだ。最近、ほとんど能力を使う機会がないせいか、シアのフラストレーションがかなり溜まっている、と美緒にもわかる。
「しかし、耀真さんがおっしゃることももっともです。またシアさまが封じられるようなことになれば、目も当てられません」
「あのね、私が封じられたのはあのとき法王の能力をまともにくらったからよ。その力で作った搾りカスみたいな武器に接したくらいでなんとかなるわけないでしょうが」
「いや、そうかもしれませんけど、なんとかなるかもしれないじゃないですか」
「なによ、私が信じられないっての?」
「そうじゃありませんけどお……」詰め寄られると、腰も引けて目頭が熱くなる。鼻の奥がツンとする。
もう、とため息を吐いたシアは間合いを緩めてから腕を組んだ。
「美緒を責めても仕方がないわね」
「お察ししてくださり、ありがとうございます」
「そうだ」とシアが指を弾いた。「これから探索に出ましょう」
「たんさく? 一体どこへ?」
「私たちじゃ例の訓練場には入れないし、あと今回の事件に関連しているのは、アーバンの施設か。本社の方かしら、それとも研究所の方? もちろん、研究所の方よね。だって色々ケンキュウしてるんだもの、よからぬものもあるかも」
「よからぬものがあるとして、私たちみたいな部外者が入れるとは思えませんよ」
「入れぬのなら忍び込むまで」
「そんな無茶な!」と絶叫してもシアを止めるには及ばず、二人はアーバンの研究所へ来ていた。入口にICカードが必要だが、協力者であるシアは当然一枚持っている。しかし、行ける場所はホールや食堂がほとんどで、無数にある研究室には一つも入れない。
「一体どこに忍び込めば面白いものがあるのか」
シアが舌なめずりして熟考する。
「あまりにも数が多すぎて当たりもつけられませんねえ」
迂遠にいさめてみるが、シアに聞こえた素振りがない。迂遠すぎたのか、元々聞く耳持たないのか。
「とりあえず、手近なところから……」とシアはおもむろに動き出す。
「ちょっ!」
短い悲鳴を上げて、シアの手をつかんだ。
「なによ?」
「よ、耀真さんに怒られてしまいますよ」
「あの子は話のわかる子よ」
「あたしの話はわかってくださらないんですよ」
「じゃ、美緒は私に怒られるのはいいわけ?」
「よ、よくはないですけれど……」
シアの方がおおらかだから怒られてもなんとかなりそう、とは口が裂けてもいえない。
耀真からは出かける前に、シアになにかあれば美緒のメガネを自分のもとへ転送するように、といわれている。生活必需品を手放すほどだから、安易には使わないだろうという切り札だったが、もう切ってしまおうか。やや手に負えない。
美緒が一人苦悶していると、シアの青い瞳が自分のうしろに向けられていることに気がついた。
「どうかなさいましたか?」
「梶木がいたわ」
「梶木社長が?」
美緒が振り向いても、それらしい人影はない。が、シアは迷うことなく歩き出し、美緒はその背中を追う。どうやら梶木の足音を追っているらしい。廊下の向こうに見えるエレベーターを指さした。
「あれに乗ったわね。下に降りていってるわ」
二台並んだエレベーターの片割れだけが動いている。右上に設えられたLEDの表示盤には『B』とだけ映されていた。
「確かに地下に向かっているみたいですねえ」
美緒が電光表示を見ていると、シアはエレベーターのドアに近づいていった。隙間に指を差し込んで無理矢理に開く。
「ちょちょっ!」思わず首が折れる勢いで左右を見る。人がいないのは幸運だ。
「いちいちうるさいわね」
「シアさま、ご無理は禁物でございます」
「無理でもなんでもないわ。これくらい日常だもの」
「これを日常にされても困ります」
「ついて来るの? 来ないの?」
「行かないって選択肢はないんですか?」
「ついて来ないのね」
「ついて行きます」
扉の奥を覗き込むと、長大な縦穴は暗闇に満たされている。あまりにも暗く深く、奈落の底に通じているようにも思える。
「これ、降りるんですか?」
「降りるのなんて簡単じゃない」
とん、と背中を押される。
鳥肌が足元から頭へ駆け抜けていった。次いで襲い来る浮遊感に吐き気がし、呑み込んだ悲鳴と混ざって窒息しかけたとき、ぐいと腕をつかまれて脱臼しそうな衝撃が肘にかかる。空気の流れが緩やかになり、闇に慣れてきた目に映る景色も止まって見えた。足元に感触はない。心臓だけが浮き立つように暴れていた。
「し、死ぬかと思いました」
「私がいるんだから大丈夫。信じなさい」
「信じてますけど、不意に高いところから落とされたら誰だって死ぬって思いますよ」
「美緒は私を主としているのに、イマイチ忠誠心が足りないわね」
「どんなに忠誠を誓っていても死ぬときは死にますよ。それに死ぬのはイヤですよ」
「離すわよ」
「ごめんなさい、あたしが間違っていました。誓います、生涯シアさまに尽くすと」
二人はゆるゆると下降していく。
美緒の上腕筋が限界を凌駕し始めたころ、ようやくエレベーターの天井が見えてきた。その上に降り立って、シアと繋いでいた手を離す。下ろした指先がぴりぴりとして、血が通い始めたのを教えてくれる。
「どうするんですか? 行き止まりですよ」手のひらを開閉させながら訊く。
「壁があるなら壊すまで」
シアの指先が赤く光る。エレベーターの天井に這わせて円を描くと、同じ形に合板が抉れた。
「シ、シアさま……!」小さな悲鳴がダクトにこだます。
シアはまだ引っかかっている合板を踏み抜いてエレベーター内へ飛び込む。仕方なく美緒も続く。白々とした照明が照っているだけで誰もいない。エレベーターの扉は『開』ボタンを押せば苦もなく開いた。その先は楕円形の薄暗いトンネルで、十字路になっていた。縦が広いせいか、圧迫感はないが、横幅は人がすれ違うのに一杯くらいしかない。天井にある直管型ランプがコンクリート壁を照らしていた。
「なにか臭うわね」
「オバケが出そうとか?」
「そうじゃなくて……」
「機械油ですか」
「油もそうだけど、不穏な空気」
シアは脇目も振らず、真っ直ぐ進む。履いているブーツが硬いコンクリ床を叩いても音を立てないのは能力のせいか。うしろをついていく美緒も自分のスニーカーの音には注意する。
「シアさま」と名前を呼んだら、唇に人差し指を据えた彼女が険しい顔で振り向く。声をひそめていい直す。「シアさま、どこ向かってるんです? 大丈夫なんですか、これ?」
「美緒みたいに迂闊に話さなければね」
迷わず直進したシアは重厚な金属扉をゆっくりと押し開けた。
とてつもなく広い空間だ。
美緒たちが出たのは十数メートルという直径をもつトンネルの中、側面にある空中廊下だ。金網の床から下を見ると、足元を大型トラックが走り抜けていくところだった。対向してくるトラックとも簡単にすれ違い、ブレーキランプは五十メートルばかり先で緩く奥の方へ湾曲する道に従い、見えなくなっていった。
歩くたびにがしゃがしゃと床の金網が鳴る。
高速道路のトンネル工事とはこんなものか。物珍しく周りを見回していると、シアに体を引っ張られた。壁際に小さくなると、シアの指先が少し向こうの下を示す。作業員とおぼしきつなぎを着た男が数人いた。
「なんの話をしているのでしょう?」
「聞こえるけど意味はわからない。ここで研究をしていることの内容でしょうけれど、もはや、人類は私には及びもつかない高度な文明を扱うようになったものね」
がらんとした空間で、特に資材や目立ったスイッチ、計測器のようなものは見当たらない。所々の壁で赤や緑のランプが灯り、どこからともなくモーターの駆動音が聞こえる。除夜の鐘のように、低く重く響き、鳴り止む気配を感じない。
「耀真さんがいれば、ああだこうだと屁理屈をこねるんでしょうねえ」
「写真を撮っておけばいいのよ、写メよ、写メ」楽しげにガラケーを取り出した。
「シアさま、それはいけません」
「私だって美緒に教えてもらわなくても文明の利器を使いこなせるのだから……」
シアがシャッターボタンを押すと、パシャッと音が鳴る。反響しながら巨大な通路全体に拡がっていく。
「これ、音が鳴るじゃないの」
「だからいけませんっていったんです」シアはまだまだ機械に不慣れだな、やはり自分が必要だな、と満足感を覚える。「日本の携帯機器は盗撮防止のため、必ず音が鳴るようになっています」
「そういうことは先に……」
「侵入者だ!」という大声にシアの言葉はかき消された。下にいた男たちが階段を鳴らしながら、駆け上がってくる。
「逃げるわよ」
走り出すシアを追いかける。いくらもせず鉄扉が見えてきた。迷うことなく押し開き、狭い廊下に入る。今度は丁字路だ。しかし、今度の選択も迷いなく右へ。
「どこに向かってるんです?」
「こっちにもエレベーターがあるように感じる」
シアのエコーロケーションと知覚拡大によるものだろう。シアはこのエリアのマップをすでに把握しているようだ。
廊下の向こうから黒ずくめの集団がやってくる。右脇に抱えて左手で保持しているのはマシンガンに見える。こちらを確認するやいなや、集団はマシンガンを目線に構えた。
「動くなっ!」
「押し通る!」
止まらないシアに向けられたマシンガンが火花を散らす。シアは手のひらを広げて赤色の薄膜を展開、赤いスパーク光閃く中、放たれた弾丸をものともせず敵に詰め寄る。と、手のひらを向けただけで一人を吹き飛ばした。二人目に跳び蹴りをぶち込み、起き上がりざまの一蹴でもう一人、拳をみぞおちに押し込んで四人目を卒倒させる。
「どんなもんよ」
「つ、強いです……」
「さ、先を急ぐわよ」
四つの伏せった体を乗り越えて先を急ぐ。ほどなく辿り着いた広いフロアには大型トラックやフォークリフトが止まっていた。トンネルにいたものと同じだ。どうやら右手、遙か彼方にある壁と見まがうシャッターは物資の運搬口である様子。
「シアさま、あれが地上まで続いているはずです」
美緒が指さす先を見て、「うむ」とシアは頷いた。シャッターの前には五人の武装部隊。
「おまえたち、何者だ!」
問われても答えず、シアは指先をトラックに向け、光線を放つ。荷台を縦に切断されたトラックは爆発して、金属片を榴弾のごとく弾けさせる。
伏せて安全を確保する隊員たち。美緒も両腕で顔を守っていたが、脇腹にシアの腕が回り、そのまま抱え上げられた。勢いに乗って空を飛ぶ。
「誓約者だ!」
叫び声とともに銃弾が飛んで来る。しかし、銃の照準も38口径の弾も、シアの飛行速度についてくることはできず、あさっての方へ散っていく。その隙に、シアの指から放たれた光線が円を描いて、眼前のシャッターに赤い丸を縁取った。シアの体が薄膜をまとって頭からシャッターに突っ込む。一息に丸い鉄板をぶち破った。さらにエレベーターの天井をくり抜き、ダクトの中へ。高速で上昇し、エレベータードアもレーザーで撃ち破る。外はもう駐車場だった。停車しているトラックと作業員の合間をすり抜けて、青い空へ舞い上がる。
「余裕があるわ」
「さすがです。シアさま」
鮮やかとはいいがたい逃亡劇だが、難なく逃げ切ってみせたのは、さすが姫さま。
胸を撫で下ろしていると、シアの腕に力がこもった。乱暴に振り回され、悲鳴を上げる。すぐそばを角材が風を巻いて飛んできたので、さらに悲鳴を上げる。
「ちょっ、なんなんですか、いったい!」
「なにかに追跡されている」
「角材に?」
「そんなわけないでしょ」
次の瞬間、下方から鉄パイプが飛び上がってきた。シアがぐるりと旋回したのはわかったが、回転が止まらない。シアの手が脇の下ない、孤独に落下している。
「し……!」死んだ!
腹に衝撃が走り、上昇に転じる。信じられない重力と風圧に吐き気がする。でも、まだ生きている。
もうイヤ、という願いが聞き入れられたわけではないだろうが、数秒後、ふわりと宙に投げ出され、コンクリートの上をころころと転がった。指一本動かす気力もなく、そのまま地面に突っ伏していると、シアの声が聞こえてきた。
「あなた、普通の人間じゃなかったのね」
寝返りを打って、声の方を確認しようとした。どこかの工場の屋上にいるようだ。露天のコンクリートは金網で囲われ、中心に広々とした空間が設けられているものの、所々に配管が這い、ダクトが点在している。
シアと対峙している黒いスーツの男には見覚えがあった。直接話をしたことはないが、梶木社長に違いない。
「あんまりに物騒じゃないかしら?」
「あれを見られたからには、生かしておくわけにはいかない」
「あれ? あれ、というと、地下室にあったあの設備のこと?」
梶木が答えることはなく、その体が前にのめった。背中が風船のように膨らみ、白い体毛に覆われる。頭部も併せて肥大化し、肌は黒ずみ、全身に血管が浮かび上がる。
怪物だ。
赤々と充血した二つの眼球に睨まれ、美緒は頭を伏せた。
ヤバい。シアさまが危ない。
美緒はメガネを外して、能力を発現させた。緑色に光って消えたメガネは耀真の元へ届いたはずだ。こちらの居場所がわかるだろうか?
「あなたも誓約者だったのね」
「違う。我々は呪われたのだ」
先ほどより数段濁った梶木の声に、シアが首を傾げる。
「なんですって?」
梶木が動く。二メートルをゆうに超えるようになった図体はわりと俊敏だ。シアとの間合いを詰め、人の体ほどもある拳を振り下ろす。シアはステップを踏んでかわし、人差し指を伸ばした。放たれた光線が梶木の足首を焼き切る。片足を失った怪物はひざまずきながらも、拳を薙いだ。飛び上がったシアの足元を鉄拳が過ぎる。さらに放たれた光線が怪物の胴を抉り、腕を切断する。漆黒の血が飛び散り、コンクリートを濡らす。
右手、左足だけで上体を起こす怪物はそれこそ悪鬼の形相だ。
「いまならまだ助かるわ。変身を解いて降伏しなさい」
「貴様などにこの私を殺すことなどできんのだ」
上半身だけで跳ねるようにシアへ飛びかかるが、焼け石に水、うしろに下がったシアには届かない。
「なら、四肢を失うことになるわよ」
シアがさらに光線を放とうとしたそのときだった。切り落とされて転がっていた腕がぴくりと動く。
「シアさまっ!」
美緒が叫ぶと同時に、腕が飛び上がった。かろうじて反応したシアが身をひるがえしてかわしたが、反対側から足が飛んでくる。シアは腕を畳んで防いだものの、踏ん張りきれず、一緒になって飛んでいった。配管を押し潰し、ダクトを砕く。続けて起きた爆風はシアの能力によるものだろう。廃材を吹き飛ばし、巨大な足を細切れの肉片に変える。
「この程度の小細工、子供だましに過ぎないわよ」
立ち上がったシアはやや埃を被ってはいるものの、大きな怪我はなさそうだ。美緒はほっと胸を撫で下ろす。
「梶木、もう観念なさい」宣言し、左手で空を切る。「次は容赦しないわ」
「いったはずだ。貴様などにこの私を殺すことはできん」
梶木が全身に力を漲らせると、血飛沫を吹き出させながら、失ったはずの手足が生え直った。
「なっ」と絶句したシアが腕で口元を覆う。肉の焼けたような臭いも漂ってきて、美緒も内臓が裏返りそうになる。
「殺す、殺す、殺す」
梶木は四肢を地に着け、這いずりながらシアに近づく。
「ふん、どんなに再生しようと雑魚に変わりはないわ」シアが片手を高々と掲げる。ふわりと広がった金髪から赤い光の飛沫が舞い、寄り集まって光球の玉を形成した。その数は十にも登る。「ならば肉片も残さず塵にするまでのこと!」
シアが腕を振り下ろすと散開した光球が梶木を囲い、連続して爆ぜる。
激しい爆風に金網が軋み、美緒も吹き飛ばされないよう体を強ばらせる。シアはさらに光球を展開させながら、爆光の奥を見遣った。粉塵の中から黒い腕が伸びる。一本、二本、三本、四本、配管をつかみ、地を握りしめ、首を失った胴体を持ち上げる。
「その程度では、私を止めることなど叶わぬ」
前に屈んだ体の背中に無数の腕が生えていた。林になった腕の奥で赤く閃く瞳が見えてしまった。剥き出しになった背骨を生首が滑り、あるべき場所に戻る。
「どうした? 私を塵にしてくれるのではなかったのか?」
「まだっ!」
さらにシアが手を振ると、光球が梶木を狙う。爆発が起きたのは飛び跳ねた梶木の足元だ。シアは両手を向かい合わせにして力を溜める。怪物は手にしていたパイプを振りかぶり放った。放たれたシアの砲撃がパイプを蒸散させて、もろとも梶木の半身も吹き飛ばす。が、まだ、敵は生きている。左の半身だけを残した怪物は無様に落下したものの、残った手で配管をへし折り、つかむ。血を撒き散らして生え治った腕がコンクリート片をつかむ。新しい足で床を踏み締め、両手の素材を千切り、乱暴に、それでも力強く投げてくる。
光の薄膜で投擲物を防ぎながら、シアは光線を放ち、梶木の手を穿っては腕を切断する。梶木は構わず間合いを詰める。
次に起きた爆発は一際まぶしく、美緒は目をつぶった。
「これじゃキリがないわね」
シアの声が思いの外近くで聞こえた。美緒の体が浮き上がる。
「シアさま、どうするんです?」
「さっさと逃げるのよ。あんなのといつまでも戦ってられないわよ」
美緒を脇に抱えたシアが隣のビルに飛び移る。梶木も爆光をかき分け、ついてくる。本物の化け物だ。
「ど、どうしましょう、シアさま」
「どうするもこうするも……」
ふと視界の端で銀色の光がきらめいた。みるみる大きくなって、円盤の姿がはっきり見て取れるようになった。梶木を追い越し際に腕を切り落とすと上昇に転じ、青空にその色合いを浮き立たせる。
「あれ、京香さんのアダムスキーですよ」
「あの子たち、来てくれたのね」
「シア」と耀真の声が聞こえたのはシアの進行方向、美緒には見えない方向だ。シアが減速して、耀真と並ぶと、美緒を降ろした。梶木と対峙する。
「なんだよ、あれ」
屋上のコンクリートを拳で粉砕し、アダムスキーを殴り飛ばす怪物を前に、耀真の表情も歪む。
「あれは梶木よ」
「梶木さん? いや、あれは人間じゃ……、デモナイズか」
「梶木さんが冥魔になっちゃったってことですか?」
「いいえ、まだ人としての意識はある。自らの意志であの形に変身できるようよ」
「じゃあ、戻れるのか?」耀真は前に歩み出て、梶木と向かい合う。「梶木さん、まだ正気があるのか?」
「正気などあるはずもない。この呪われた身に至っては……」
「元の姿には戻れないんですか?」
「戻るとも。貴様らを葬ったあとでな」
「気でも障ったか?」
「いったはずだ。正気などない。我が身には払いきれない怨念が満ちている!」
雄叫びに震えた全身から黒い血液が噴き出す。水音を立てて、コンクリートに散る。
これが富樫たちの、人間の為したことか。美緒の全身の毛が逆立っていた。耀真は黒い血の飛沫を浴びながら、さらに一歩前に出ていう。
「ジェイはまだあなたの命を狙っています」
「なんだと?」梶木の動きがぴたりと止まる。
「俺はジェイもあなたも死なせたくない。ジェイを捕まえるために協力してほしい」
声高な唸り声が上がったかと思ったら、梶木が笑ったらしい。
「そうだな。やつと決着をつけるのもいいだろう」
「ああ」とため息を漏らした耀真は安堵したようだった。「なら協力を……」
「おまえたちはここで見届けるがいい」
「なに?」と呟いた耀真の雰囲気が緊迫した。「どういうことだ?」
「すべてが終わるということだ」
富樫の体が、元の人間のサイズにまで萎む。路地の合間に滑り込んでいった。
「待てっ!」
叫んだ耀真はあとを追う。美緒はシアに抱えられて二人で一緒に下に降りていった。薄暗い路地の中で、怪物は自らの肉体を引きちぎっていた。耀真も身をかため、立ち尽くしている。やがて、梶木の姿はなくなってしまった。
「なにをしたの?」と口を開いたのはシアだった。
「梶木さん、自分の体を引きちぎって排水溝に落としたんだ」
「そんなこと……」できるはずなくもないか、と美緒は思い直す。あれだけの再生能力があるのなら、粉微塵になった肉体を下水道で復元し、別の出口から地上に戻れる。
ただ、生々しい腐臭だけが路地を漂っていた。
○
百合華が耀真と合流してみると、彼はうつむいたまま閉口していた。ほどなく西條姉妹もやってきて、蘭子が激昂した。
「一体全体どうなさるつもりですの? 重要参考人を二人も取り逃すなど、失態もいいところですわ」
「耀真はよくやってるでしょう、蘭子は文句をいうだけなんだから」
「なんですって?」
「なによ?」
「もういいよ」と耀真が片手を上げた。「まさか、梶木さんがあんな状態になってるとは思ってもみなかった。完璧に俺のミスだ。ジェイを捕まえるとなれば、ある程度の妥協は望めると考えてたのが大きな間違いだった」
再びうつむいて首を振る。
「考えないといけないな。梶木さんがどこへ逃げたか。ジェイはどこへ向かったのか」
蘭子の顔から威勢が失せ、眉間に皺を作ると身を引いた。「ま、わかればよろしいのです」と詰まりながらいう。
でも、と桜子が暗くなりかけた場を弾んだ声で取り繕った。
「シアさんと美緒さんが無事でよかったですよ」
「そもそも」と口を開いたのは京香だ。「なんでお二人は梶木さんに追いかけられてたんです?」
「そうそう。忘れてたわ」
シアはガラケーを取り出した。
「これのせいで追いかけられてたのよ」ボタンをぽちぽち押してしばらく、耀真に押しつけた。「さっきパシャッと撮ったやつなんだけど、どうやってみるのよ?」
ガラケーを受け取った耀真がそれを弄る。その間に、シアが話す概要はトンデモナイものだった。
「アーバンの施設に侵入して、隠し撮りして、追手も叩き潰して、設備も破壊して逃げてきた、ですって?」
百合華は肩を落としてもシアは笑っている。
「ちょっとした冒険だったわよ」
「なにが冒険なのよ、ヒドい迷惑なんだから。美緒も、なんのためにシアのそばにいるのよ」
「あたしも一応ご忠告したんですよ。あ、でも、あたし、シアさまの従者でもありますから、刃向かうこともできないんですけど」
「わたしたち側なのか、シア側なのか、はっきりしないわねえ」
「これだな」と耀真がいう。百合華がガラケーの小さなディスプレイを彼の向かいから覗き込もうとしたが、蘭子が割り込んできて、頭がぶつかる。イラッとして睨むと、睨み返してくる。
「なんですの?」
「なによ?」
「これ、なんの施設です?」
振り返ると、京香と耀真が寄り添ってディスプレイを眺めている。ふと自分の頭が熱くなるのがわかった。落ち着け、落ち着け。
「これは」と呟いた耀真が額を撫でる。「これのせいで追いかけられたのは間違いないのか?」
「梶木は、あれを見られたからには生かしておけない、というようなことをいっていたわ」とシア。
「地下でものすごく広いスペースを使って作られていたようですよ」と美緒。「野球場くらい? サッカー場くらい? どっちが広いですか?」
「その比較、いま重要?」一応ツッコんでおく。
「そうか」と耀真が笑う。いったいなんだ? おかしくなったかと、心配になる。
「どうしたの。耀真?」
「これ、あれだな。粒子加速器だ。梶木さんが全部終わらせるっていってたのは、まさにそのものなんだ」
「は?」と首を傾げる。「どういうこと?」
「もう俺たちがいなくてもあの荷電粒子砲は動くんだよ。俺たちがやったことをこの施設がやってくれるんだ」
「梶木さんはいつでも訓練場を粉砕できるってこと? データも人も全部?」
耀真は頷く。
「なんてこと」と百合華は思わず絶句する。
「ならばなおさらのこと、一刻の猶予もありませんわ。早いとこ、梶木を見つけて発射を阻止しなければ」
「ジェイめ。俺をメッセンジャーに使ったな。すぐに梶木さんを探すと思って……」耀真は頭を掻きむしった。「俺が思うに、荷電粒子砲はもう起動に入ってるはずだ。じゃなきゃ、梶木はジェイと決着をつけに行かない」
地団駄を踏む蘭子はあからさまに苛立っている。
「ならどうしますの? このまま指をくわえて、みすみす悪魔の研究の証拠が消えていくのを見ていろとおっしゃいますの?」
「荷電粒子砲は破壊すればいい」と耀真。
「え?」とその場にいた全員がいう。
「せ、せっかく作ったのに、壊しちゃうんですか」と美緒が訊く。
「最悪それでも構わないだろ。もうノウハウは充分積んだだろうし、あの研究データを消されるわけにはいかない」
「耀真さんっ!」
京香が猛々しく睨む。が、耀真は唇に人差し指を添えただけで、彼女を意識の外にした。
「これから百合華と蘭子に荷電粒子砲のシステムを落としてきてもらう。美緒もサポートに行ってくれ。技術担当の人間がまだ向こうにいるだろうから、訊けば詳しいことがわかるはずだ。あの装置が人を殺そうとしていると知れば、そいつらも力も貸してくれるだろう」
「耀真はどうするの?」
「俺はシアと京香を連れてジェイを捕まえに行く。桜子ちゃんはどうする?」
「もちろん、わたくしと……」
「先輩と行きます」
「えっ!」
「そっちの方が私の能力が必要になりそうですから」
「わかった。俺たちと来てくれ」
「こ、これが姉離れというのかしら」
蘭子が涙ぐむのを無視して、百合華は訊いた。
「あの二人がどこにいるか、見当がついているの?」
「わかる。すべてを終わらせるなら選択肢は一つしかない。研究所跡地、弥田山訓練場だ」
○
朱色の空に長大な砲身が夕日を背負って黒く浮かび上がる。以前海を望んでいた砲口は九十度回転し、はるか遠くにある山の裾野を睨んでいた。
「方角は弥田山、ちょうど訓練場のある辺りか」
安綱を腰元から引き抜いて、風を集める。駆け出そうとしたとき、蘭子に襟首をつかまれた。
「なによ、蘭子」
「まさか、力業でぶっ壊そうと思っていらっしゃるんじゃないでしょうね?」
「一刻を争うんだから、一番わかりやすい方法がいいでしょ」
「あのですね、あれはまがりなりにも大型の冥魔を一撃で殲滅するほどの威力がある、有用で貴重な兵器なのです。それをそんな狭量でつまらない浅はかな思慮で壊されては困りますわ」
「ぺらぺらとよくもまあ、つまらない浅はかな言葉をささやくのね」
「お二人とも、時間もありませんし、口論は……」
「美緒は黙ってなさい」
「はいごめんなさい」
「いえ、その女のいう通りですわ」
「賛同していただけるのはうれしいですけど、その女って……」
蘭子は美緒の不満げな顔を無視して、細い腕を百合華の肩にかけてきた。頬が擦れるほど顔を寄せてくる。
「いいですの? アーバンの今回の不祥事は当然、お母様が暴いたことになる。弥田山の訓練場を間一髪のところで救ったことにもなる。当然、このあとでアーバンは責任を取らされ、監査を受けることになる。それを指示するのはお母様になりますわ。なんたって今回のことの功労者ですもの。その流れで行けば、この研究施設はお母様の管理下に置かれ、あのデカブツもお母様のものになる。これってビッグチャンスですわ」
「野心家なんだから」
「力を蓄えておくのは重要なことでしょう」ぐいっとさらに寄ってくる。頬が擦れる。
「ちょっと、近い」
「耀真のやつもいっていたでしょう。最悪、壊せ、システムを落としてこいって。都合のいいことに、忙しそうにかけずり回っている白衣の男がそこかしこにいますわ。少し尋問してみましょう」
「尋問はしないけどね、訊くくらいなら」
研究所の敷地内に立ってみると、忙しそうに駆けていく白衣の男女が何人かいるのは確かだった。蘭子を振り払った百合華はそのうちの一人、メガネをかけた頭髪の薄い中年男性に、あの、と声をかけた。よくよく向かい合ってみると、見覚えのある顔だ。荷電粒子砲の試射実験の関係者かもしれない。
「お忙しそうですが、なにかあったのですか?」と素知らぬ素振りで訊いてみる。
「申し訳ありません。いま取り込んでおりまして……」
走っていこうとする男の足に蘭子が爪先を引っかける。男は受け身を取ることもなく、盛大に転んだ。
「ちょっと蘭子」
「よろしいですか?」と蘭子は突っ伏す男に寄り添ってしゃがむ。「あの、荷電粒子砲という兵器、いま、弥田山の方角を向いていますわね? あれはどういった理由ですか?」
「そ、それはお答えしかねます」
上体を起こした男性が気まずそうに顔を背ける。
「ひょっとして、発射しようとしているのではないでしょうね? 地下に動力があって」
男の引きつった顔が蘭子の方を向く。が、すぐにうつむいた。
「もうすでに知っていることなのですわ。あなたたちが弥田山付近に狙いを定めて、荷電粒子砲を発射しようとしているのは」
「ち、違います!」と男が身を乗り出してきたので、蘭子は上体を引く。蔑むような目で禿げ上がってきている額を見つめている。男は二の句が継げず、視線を落とした。
「なにが違いますの?」と男の胸ぐらをつかみ上げ、前後に激しく揺り動かすと、男がついに悲鳴を上げた。
「もうわかっているといっているでしょう。あなたたちがあれでエリシオンの施設を吹き飛ばし、多くの人を殺そうとしていることは。さっさと停止させなさい」
「ち、違うんです。あれ、勝手に動いてるんです。システムもエラーメッセージばかりで、こちらの操作を受け付けなくて」
「操作を受け付けない?」百合華は眉を上げた。「では、停止させることもできない?」
「現在、鋭意調査中ですが、このままでは……」
「発射されると?」
男は目をそらした。
「答えてください。わたしたち、荷電粒子砲に異常があるのを知って、駆けつけたんです。なにかお手伝いできることもあるかもしれません」
「最も小さな被害で簡単に発射を阻止するにはどこを破壊すればよろしいのですか?」
「あの」と男は宙に視線をさまよわせて呟く。「地下にある粒子加速器の電源を破壊すれば、ああ、でも、あそこはいまずいぶんと高熱になっているかも……」
「高熱であるくらいなら問題はありませんわ。わたくし、誓約者ですの。幸い、数百度の熱にも耐えられます」
「本当ですか?」男の目がきらめく。
「わたくしが破壊に行きます。あと、どれくらいの余裕がありまして?」
「時間にすると、あと、三十分ほどでしょうか」男は腕時計に目を落とす。「時間がありません。そういうことであれば、仲間と作戦の要所を詰めたいので、ついてきていただけませんか?」
「構いません。急ぎますわよ」
通された研究室では白衣の男たちが数人、深刻な顔で話し合っていた。ここの研究所の上層部の方々らしく、百合華たちの来訪をことのほか喜んでくれた。
「なぜ動き出したのか、わからないのです。色々と手を施しているのですが、荷電粒子砲も加速器もこちらの端末からでは応答しないという状況で……」
「言い訳など聞いている暇はありませんわ。どうすればいいんですの?」
ここでの打ち合わせ内容は以下の通りだ。目標は地下にある粒子加速器の電源装置。エレベーターは停まっているから手動で下降。高温状態になっている地下施設へ潜入。地図を頼りに目標を見つけ、蘭子の能力をもって破壊する。
「地下施設の隔壁が機能せず、一帯が高温状態になっています。おそらく電源設備の辺りだけ無事なのでしょう。でなければ起動しないはずですから」とのこと。
「全部梶木さんの計画かしら」
「もはやそんなことはどうでもいいですわ。その電源装置を破壊するだけ」
「うーん、まあ、そうねえ」それが最も真っ当な手段かもしれない。百合華は研究所職員に向かって続けた。「万一のことを考慮して、射線上にあるすべての施設に避難勧告を行います」
沈黙する職員に向けてさらにいう。
「どちらにせよ、わたしたちが来ているのです。今回のことは周知されることになるのですから、見栄を張っている場合ではありません」
「万一などありませんわ」蘭子が胸を張る。「射線上には桜子がおりますのよ。間違っても撃たせません」
エレベーターの前に来て、閉じている扉を強引に開ける。ぽっかりと空いている空の縦穴に美緒が金属片を落っことした。
「これで下に出口ができました。脱出用のあれ、持ってますか?」
「持ってますわよ」
ひらひらと金属板で宙を仰ぐ。美緒の転移ポイントを打ち込んで、蘭子が自らの能力で二つ折りにしたものだ。
「では、これから蘭子さんを下にお送りしますね」
「ええ。頼みますわ」
集中した美緒の顔から表情が消えたとき、外で爆発音が鳴った。地鳴りが響く。
「何事?」と驚いた百合華が近場の窓に張り付くと、蘭子も上に乗ってきた。
「もう発射されたのではないでしょうね?」
「いえ、まだ早すぎます」研究員の一人がいう。
「冥魔が現れたようです!」うしろで別の研究員が叫ぶ。片手に持った携帯端末の通話口を押さえている手が震えている。「荷電粒子砲の管理施設がほとんど壊滅状態だと……」
「このタイミングで?」
「謀られましたわね。どうせ梶木のやつでしょう」
「このぎりぎりのタイミングで冥魔が生まれるようにスフィアを仕掛けておいたというの?」それほど冥魔の研究が進んでいるとは、と絶句しながら思った。「でも、砲も攻撃されるんじゃないの?」
「あれは対冥魔用兵器ということで、各所にインタラプターを使用しておりますから。冥魔は接近してきません」と研究員の一人が焦りを滲ませる。「すでに起動しているので管理施設が破壊されてもオートで発射されてしまいます。もう地下施設を破壊する他、あれを止める手段がありません」
「わかっています。百合華には冥魔の方を任せますわ」
「偉そうに命令しないで。まあやるんだけど」
安綱を引き抜いて一振り、巻き起こった風が壁を粉砕し、大穴を空ける。
「美緒、蘭子を送ったら研究員の人たちと避難していなさい」
「はい」と答えた美緒は慌てて見えたが、まあ、大丈夫だろう。
百合華は大穴から中庭に走り出て、渡り廊下の屋根まで飛び上がった。太陽はもう山に隠れてしまって、日の名残は山裾にある鮮やかなオレンジのみ。濃厚な紺色が支配するようになった空の下、巨大な漆黒の塊が蠢く。
地下の施設と荷電粒子砲から蒸気が漏れ出し、宵の口に立った景色を白く霞ませる。
怪物は注がれた怨念を絶叫にして人の世にこだまさせた。
○
弥田山訓練場といっても、敷地は一辺一キロメートルを超える。それも森に囲まれているから、細かく探せば、文字通り、日が暮れる。
「梶木がすべてを終わらせるといった以上、自分も死ぬつもりなんだろう。荷電粒子砲に巻き込まれるのなら、その射線上になるここか、ここ」携帯端末に弥田山の地図を表示させた耀真がいう。指で示したのは荷電粒子砲と訓練場を線で繋いだ表側と裏側。「こればっかりは二分の一だから、俺は桜子ちゃんと裏側を見てくる。シアと京香は表側を見てきてくれ。それでもいなかったら仕方がない、制限時間ぎりぎりまで時計回りに訓練場周辺を捜索する」
意見する理由もなく、シアはいわれるがまま捜索に出た。京香は憮然とした顔でも大人しくついてきていた。
「耀真さんの予測だとこの辺りですね」
「そうね」とシアは首を巡らせる。「その予測も当たりのようね」
へ、と呟いた京香へ、シアは唇に人差し指を当てて見せる。そしてずんずん森の中へ進んでいく。
「ちょ、待ってくださいよ」と駆け足で追ってくる。
少しすると、開けた場所が見えてきた。唐突に森の中に現れた空き地は低木すら軒並み一掃されていて、生えているのは短い雑草のみ。右手の方にある崖から見えるのは日の暮れかけた町並み。そこに一点、染みのように人の影があった。
「いたわ」
「あれ、ジェイさんです」
「さて」ここから狙撃して任務は終了だ。
人差し指を舐めたシアを追い越して、小さな背中が藪の中から飛び出した。
「あの、バカ……!」
小さな罵倒は京香には聞こえなかったらしい。日の光の下に出て、拳銃を両手で保持していた。仕方なく、シアも京香のあとを追う。
物音に反応したジェイの浅黒い顔が夕日に光る。手は腰元から十字架を引き抜き、突如現れた敵意と向かい合う。十字架の短辺から水晶が滲み出し、鍾乳石ののびるがごとく、諸刃の刃が形成されてゆく。あれがグランディオラか。
「橘のところの小娘……」ジェイは意外そうな声音でいう。
「武器を捨ててください。さもなければ、撃ちます」京香とジェイの距離は五メートルほど。「この距離では外しませんよ」
「よくここがわかったなあ」
「耀真さんの予測です」京香は銃口を視線と一体化させて、自分の周りをゆっくりと歩くジェイにじっと据え続けた。「じきに荷電粒子砲は発射されますよ」
ジェイの顔がちらりと崖の方角へ、砲台の方角へ向けられる。が、意識は変わらず京香が向ける銃口の中にある。
「あの小僧、一杯食わされたわけだ」
「ですから、もうやめてください。これ以上戦うのは無駄です」
「あの小僧はどうした?」
「え?」と京香が頓狂な声を上げるのを聞き、シアが答えた。
「来ているわよ、あなたと梶木を捕まえに。あっちの大砲の方にも手は打ってあるのよ」
「あいつは諦めてないのかい?」
「ええ。きっと色々と考えているのでしょうね。このままでは終わらせないはずよ」
「そうかい。面白い男だよ」とジェイは笑う。
「なにもできやしませんよ」京香が笑声をかき消すように叫んだ。「ここは荷電粒子砲の直撃を受けるんです。消えてなくなります」
「それでも構わないんだ」
「構わない?」京香の銃口が微かに揺れる。
「富樫が信じて託した相手なら、俺は別に文句ないからよ。あとは決着をつけるだけだ」
遠く、森の中で音がする。
ワイシャツに黒のジャケットをはおった梶木が空き地に姿を現したのだ。先ほどの激闘が嘘のように落ち着き払って、草木の合間を歩き抜けてくる。
ジェイは京香を意識と視界の外に追い払って、グランディオラを大きく振った。
「ダメです、やめてください!」
京香が音を立てて銃口を向け直す。
「そういうわけにはいかないのさ、オレたちは」
「シアさんからもなにかいってくださいよ」
「別に構わないんじゃない? これが彼らのやり方だっていうのなら。潰し合ってくれるんなら、むしろ、都合がいいじゃない」
「耀真さんだって捕まえろって……」
「私は耀真ではないもの」
「そんな……!」
「その姉さんのいう通りだよ。あとはオレたちの好きにさせてくれ」
「勝手なことをいわないで!」
京香の指が引き金を押し込んだ。発砲音とともに吐き出された銃弾はグランディオラに当たり、はね飛ばされた。わずかに動いて軌道を修正した銃口がさらに発砲を繰り返す。三発、四発、唐突に駆け出したジェイをかすめ、グランディオラに弾かれる。京香が間合いに入ったと見て取ったジェイは、もう一歩踏み込んできて、グランディオラを薙いだ。切っ先が銃口を舐める。五発目の銃弾が草地を抉る。退いた京香は拳銃を構え直すが、上段から振り下ろされたグランディオラに銃身を叩かれ、小さな手がグリップを取り落とした。
「くう……」
京香は痺れるらしい手を握り合わせていた。
「もういいかい?」ジェイは大剣を脇に下ろす。「黙って見てな」
「ジェイさん……!」
遠ざかる背中を追おうとする肩をシアがつかんだ。
「やめときなさい」
「でも……」
「あの二人のことより、自分の身を守ることを考えなさい。もう訓練所の方は騒がしくなってるわよ」そういう騒音が聞こえる。きっと荷電粒子砲の発射を知り、避難を始めているのだろう。「早いとこ耀真たちと合流して逃げるわよ」
「ま、待ってください。せめて、この決着だけでも」
「またそんなわがままを」
シアは渋い顔をしたものの、結局は肩にかけた手を離した。京香は浅く頭を下げて、背中を向けた。
まあ、どちらにしても耀真と合流するのは時間がかかる。下手に動くのもここで待っているのも変わらない気がする。シアは空気を振動させて耀真に目標を見つけた旨を連絡する。届く範囲内にいるだろうか?
ともかく、それでよしとして、京香の熱い眼差しの先を追った。
梶木がぽつりと口を開く。
「ここに、あいつらが眠っているのだな?」
「ああ、首だけだけどな。そこに埋まってるぜ」
ジェイが親指でさしたのは崖の突端だ。木枝が一本、地に突き立てられている。
「そうか」と梶木が吐息を漏らす。「私も土に還りたいものだな」
「お望み通りに」
「いや。すべてが消えるのを見届けてからだ」
ジャケットの内ポケットからアーミーナイフを抜いた。鈍色の刃が西日を照り返す。
「そんな小物で相手が務まるのかねぇ」
ジェイはコートの中に忍ばせていた仮面を被る。
グランディオラを肩に担い、思い切り振り下ろした。地面を勢いよく砕く。体軸をずらしてかわした梶木を、振り上げられた大剣が追う。次は屈んでかわされる。間合いを詰めて突き出されたナイフがグランディオラの柄に突き立ち、火花を散らす。大きく一歩退いたジェイが再び大剣を振り回し、梶木がかわしながら接近のタイミングを計る。
「梶木のやつ、生身のままね」シアがいう。
「そりゃ、男の戦いですから」と京香。
「いやいや、そうか。グランディオラに封じられているのね。冥魔の力、デモナイズの力もあれで封じられるんだわ」
「ああ、なるほど」京香はちらりとこちらに向けた目を正面に戻す。「ジェイさん、冥魔と戦いながら梶木さんを倒せる道具を探していたのかもしれません」
「それもどうやら違いそうね」シアは首を振る。「きっと、殺すことのできる道具を探していたのよ」
京香が目を丸くした顔ごと振り返る。
「梶木にはあの力があるから。なかなか死ねないものね」
ああ、とほとんどため息の声を出した京香は悲しげな瞳を交戦する二人に向ける。
振り抜かれた大剣をかわし、接近した梶木の手が懐に消える。黒い鉄塊を取り出した。拳銃だ。京香が食い入るように身を乗り出したそのとき、発砲音が一つだけ鳴る。鉛玉がジェイの肩を叩いた。のけぞった上体へ、さらに銃弾が連発される。スライドストップをかけた最後の一発がジェイの眉間に直撃し、仮面を弾き飛ばした。歯を食いしばった戦士の顔を露わにする。
ジェイの半歩下がった爪先はしっかりと地面をつかみ、両手持ちにしたグランディオラが振り抜かれた。何事もなかったかのように、立て続けに剣舞を見せる。
「シア! 京香!」
耀真の声。振り返ると、森の中から耀真と桜子が駆けてきていた。
「あいつらっ!」
シアたちを追い抜いて、剣戟を交わす二人に駆け寄る耀真に桜子が抱きついた。
「ダメです。耀真さんの能力も封じられているんですよ」
「でも……!」
「ダメです!」
さらになにかいいかけた耀真だったが、ぐっと言葉を呑み込んで目の前を見据えた。
グランディオラが振り下ろされる。もろに受け止めたアーミーナイフがへし折れ、聖剣の刀身は梶木の二の腕を圧し斬った。千切れた腕が回転しながら宙を飛ぶ。先を失った肩口から血が噴き出る。
宙を舞うアーミーナイフの刃を残った手でつかんだ梶木はジェイに突進した。距離が近い。
避け損なったジェイの左胸にナイフの切っ先が刺さる。足元鈍く後退したジェイに、梶木は追いすがり、鉄拳を放った。短い刃をさらにジェイの肉体、奥深くへ押し込んだ。
ジェイが片膝をついたのを見、耀真は桜子を振り解いて駆け寄った。
「ジェイ」
「ヘマしちまった」
「グランディオラを解除しろ。治癒の能力を持っている人間が来ている。まだ助かる」
「ダメだ。ここで解除すれば、やつの傷が回復する。ここでこいつは殺す」
「ジェイ……」
ジェイの血走った眼が梶木を睨み据える。梶木は出血の止まらない肩口を押さえたまま五メートルほど後退し、倒れるようにしゃがみ込んだ。呼吸が荒く、顔に色もない。
桜子は戸惑い、京香は険しい顔で血に濡れた草地を睨んでいる。
生と死の臭いが満ちた夕空に、突如電子音が響く。沈黙に慣れてきた耳を苛む。
○
赤ん坊だ。
ふくよかで真ん丸の顔はまさに赤子のようだ。肌も赤い。ただ、血が腐ったようなどす黒い赤だが。その上、ぬめり気もある。四つん這いの手足は人間に似ているが、間接は爬虫類のようにねじれている。なにより、異様なのはその大きさだ。五頭身の身体は十数メートルもあって、のっそりと持ち上がった手のひらは簡単に並木の一本を押し潰した。地鳴りがして、街灯が微震する。
まごう事なき化け物だ。
「臭い……」
この冥魔の臭いなのか、地下から噴き出す蒸気の臭いか。
ともかく、物理的にアンバランスそうな首の付け根を狙おう、と決めた百合華は屋上の縁を踏み切った。中庭に着地すると同時に安綱を一閃、刀身にまとった圧縮空気が冥魔の右手首を切り落とす。切断面から蛍光を帯びた血液が噴き出した。アスファルトに、芝生に、こぼれ落ちては音を立てて煙を上げると、饐えた臭いを立ち昇らせた。これが臭いの原因か。
咄嗟に飛び退いた百合華の足元に赤い液体が降りかかる。煙が上がり、路面が溶ける。体勢を崩した冥魔が液溜まりに突っ伏して、盛大に飛沫を上げた。
これくらいは風の壁で払いのけられる。
安綱を振った百合華の前で赤い飛沫が跳ね返される。
接近するのは気が引ける。が、狙いの首元を狙うのなど造作もない。敵の動きも止まっている。
大きく飛び上がった百合華は冥魔の首元直上を取ると、跳ねた勢いそのまま身を捻り、安綱を振るった。刀身がまとった圧縮空気が獲物の喉に滑り込み、胴と頭を斬り離す。鈍い音を立てて落ちた怪物の頭は、首から流れ出る血の滝を頬に浴びた。
「他愛もない」
地面に降り立った百合華は異変を感じて、大きく飛び退いた。眼前を怪物の指先が通り過ぎる。
まだ生きているのか。
考えてみれば、冥魔殲滅の証である金色の雪が降っていない。代わりに降りかかってきたのは幼い笑声だった。
周囲に視線を送ると、先ほど落とした生首が小さな口を開けて、ケタケタと笑っている。頬を赤く濡らし、口元から血を流し……。
「き、気持ち悪いなあ」
乱暴に薙ぎ払われた冥魔の腕を飛んでかわす。が、冥魔の手のひらが探していたのは百合華ではないらしかった。転がっている自分の頭をつかみ取り、高々と夕暮れの空にかかげる。それでも生首がケタケタと笑声を上げているのはホラーだ。
腕で鼻を覆い、敵の出方をしばし眺める。
ふと、あれの体内で黒く蠢くなにかが見えた。
なんだろう、と思っているうちに冥魔が動き出す。腕を振り下ろし、自らの頭だったものを研究棟の屋上に叩きつける。トマトペーストよろしくすり潰したのだ。果汁が飛び散る。
「汚いっ!」と叫んだ百合華はほとんど最大限の風を巻き起こす。研究棟の最上階付近は炎天下の氷のようにとろとろに溶ける。路面からも煙が上がる。百合華が動けるスペースも自然狭まる。甘酸っぱい腐臭が頭の奥を痺れさせる。
自傷行為に驚いていると、冥魔は全身を震わせて切断面から体液をほとばしらせる。ひときわ強烈な飛沫と一緒になって頭と手足が生え治り、赤子に似た口元から下卑な笑声が再生される。
まさか、この敵は透明な風船のような肌の中に溶解液を蓄えただけの張りぼてで、本体があるのではなかろうか。いま目にしたあれが、その本体ではなかろうか。
百合華は自身に向かって振られた腕を飛び上がってかわすと同時に斬り落とし、吹かせた風は飛び散る溶解液を弾きながら、主の体を冥魔の胴下に滑り込ませた。同時に刀身からのばした真空の刃が敵の肩口に抉り込み、股下まで一直線に切断、大量の溶解液が溢れ出す。それより早く、冥魔の下から抜け出して、空に舞い上がった百合華は敵を観察する。右半身はくずおれたが、左半身の手足にまだ反応がある。
その辺りにいるのか。
一息に下降して、腹を一閃、上下半身に切り分けてからさらに安綱を薙ぐ。薄くスライスされた冥魔の背中がずり落ちる。溶解液の飛沫と臭い蒸気と夜闇の合間、右手の指がまだ動いているのが見えた。
かかげた安綱の像が歪む。切っ先に濃縮した大気は溶解液も巻き込んでいるが、一緒くたに包み込めばいい。
「これで終わりっ!」
空気の塊を肉片の直上から叩き落として、すり潰す。
しかし、一瞬早く、肉片の中から青い塊が飛び出すのが見えた。
やはりいた。見間違いではない。
ち、と舌打ちをして獲物を探す。溶解液をかき分けて、低木の中に飛び込んだのは合成着色料の青で塗られたアメーバのような不定形の塊だ。小型犬くらいの大きさで、あの黒光りする家庭内害虫より素早く動いていた。
溶解液を撒き散らしながら倒れ伏す黒い肉塊に再生の兆しはない。あのアメーバが本体で間違いない。
安綱で低木を刈り込んでやると、アメーバが夕闇の底に逃げた。
「待ちなさい」といっても通じるはずはなく、単純な追いかけっこになる。壁を這い、芝生を駆けるアメーバは時折跳ね回って安綱の斬撃を見事紙一重でかわす。なにより、薄闇の中で暗色のものは見えにくい。移動する際に発するぺちゃぺちゃという水っぽい音を頼りに敵を探すが、正確な位置がつかめない以上、真っ当に斬りつけるのは難しい。
「耀真がいれば、楽勝なんだけどなあ」
安綱を振り、研究棟の壁を斬り刻む。しかし、アメーバは跳ねてかわすと、百合華の頭上も飛び越えていく、振り向くと同時に一薙ぎした真空刃も地面を穿っただけだ。
青いアメーバは百合華から距離を取ると、瞬く間に肥大化する。自在に身をよじって変形を始めた。最終的に落ち着いたのが赤子に似た丸い顔で、赤々とした口から笑声がこぼれ落ちる。
○
暑い、のかもしれない。
自らの能力に気がついてから、暖かい、冷たいというくらいならわかるが、暑いという感覚を失ってしまった。そんな自分をもってしても、この地下施設はやや暑いと思える。
「人間の暮らす環境ではありませんわね」
ブラウスの襟元をパタパタと揺すって服の中に風を、というより熱風を入れる。幸い、まだ布地が発火するほどの温度ではない。が、きっと水分は簡単に蒸発してしまうレベルだろう。陽炎が立ち昇り、無機質な景色が歪んで見える。
自分の肉体の水分はどうなっているのか。やや興味も湧いてきたが、思案にふけっている場合ではない。ハエが飛んでいるような低音が耳元でずっと鳴り響いているのは耳鳴りか。
「こんな不愉快な仕事、さっさとお終いにしましょうか」
ハンドルのついた重厚な扉を手刀で焼き切って抜けると、冷たい風が吹き込んでくる。打合せでは手前の、ロッカーに似た箱だということだったが、予定の通りだ。中身が配線とブレーカーであることも確認して、手を打ち合わせる。あとは破壊するだけ。
蘭子は革靴と靴下を脱ぐと半歩下がって、全身を思い切り回転させた。ふわりとスカートがめくれるのも気にせず、足を上げる。かかとが鉄板とケーブルをもろともに溶断した。ロッカー上部が跳ね飛んで、コンクリートの上を転がる。粒子加速器の近くは強力な磁場が発生する都合上、電子機器はもちろん、日頃武器として使っている金属ベルトも持ち込めず、こんな野蛮な手段になった。
一応、隣のロッカーにも手刀を叩き込んでおく。気がついたら耳鳴りも止んでいるから、あれは機械が発していた音だったのかもしれない。任務終了だ。
「楽なものですわね」
折り曲げた鉄板を取り出し、折り目を指先で焼き切る。隠されていた表面に触れると、空気から鬱陶しさが消え、非常灯の明かりも薄闇に沈む。ひんやりとした風が頬を撫でるのは、外、中庭に戻ってきたらしい。
「さ……」終わらせてきましたわよ、といいかけて、振り向こうとしたとき、目の前に黒い腕が落ちてきた。赤い蛍光の液体が撒き散らされるのを見、思わず身を退いた。
「うわ、汚らわしい」
黒い腕にはあまり近づかないことにして、百合華の姿を探すが見つからない。代わりに、うしろの建物の窓枠の中に美緒の顔を見つけた。
「蘭子さん、外は危ないですよ」
「百合華はどこですの?」
美緒が指さしたのは空の方だ。見上げると、百合華が飛んでいた。
「こんなもん放り投げてきて、危ないじゃありませんか、小娘!」
「蘭子」
百合華はちらとこちらに意識を振り向けただけで、視線をそらすことはない。安綱とか名前のついた棒きれを十字に振っている。
「たった機械のひとつを壊すのにどれだけ手間取ってるのよ」
「はん、あなただって、そんな小者にどれだけ時間をかけてますの?」
「もうじき終わるわよ」
安綱が上段から振り下ろされると、風が渦を巻く。間髪入れず、百合華の姿が宙を駆け、物陰に隠れて見えなくなった。直後、衝撃波に近い風が吹きすさび、蘭子の体を軽々飛ばす。
「いてっ!」コンクリートに後頭部をぶつけ、悲鳴を上げた。
「大丈夫ですか?」美緒が窓枠に隠れたまま、見下ろしてくる。
「うるさいですわね、大丈夫に決まってますわ」
立ち上がろうとしたとき、足元を黒い影が過ぎった。奇妙な爬虫類に見えて、ぞっと肌が粟立つ。
「蘭子、そいつをお願い!」
遠く、中庭の向こうから百合華が駆けてきた。
「そいつってどいつ?」
「その青いの!」
がさがさと低木の中から音がした。未知の塊が這い出して、宙に球体を作る。何事かと思う間もなく、百合華の放った風の塊が球体を撃ち抜いて、丸の中から先ほどの爬虫類もどきが飛び出してきた。
蘭子が一息に温度を上げた指先を振る。黒い塊はひょいと身をひるがえし、研究棟の壁を這い上る。が、百合華が風の塊を連発し、研究棟のコンクリートを破壊する。中庭に瓦礫の雨が降る。コンクリート片の中から黒い塊が出てきて闇の中へ逃げる。
「なんですの、あれ?」
「冥魔の本体よ。あれを倒さないとまたデカブツに変身する」
合流した百合華と背中合わせになって、敵を探す。どこにいる?
「いた」と走り出した百合華が安綱を振った。棒きれの先には確かに冥魔がいるが、素早くかわされる。蘭子の追撃も難なくかわす。
「なんというすばしっこさですの」
「暗くて見えないだけ、明るかったら瞬殺してる」
さらに敵を探して視線を走らせる。視界に映ったのは、美緒が窓枠を乗り越えて中庭に降りる姿だ。なんのつもりか、手に取った小さな瓦礫をひょいと投げる。百合華の足元で緑色の光がちかりと閃いた。
「百合華さん!」
「もらった!」
光に向かって安綱を突き立てる。その切っ先は転送されてきた黒い塊を貫いて、地面に張り付けた。びちびちと身を揺する冥魔は、次いで発した風の塊に押し潰されて塵となり、空に舞い上がっていった。ちらちらと金色の粒子が降ってくる。
「たまには役に立つじゃない、美緒」
「えへへへ、あたしだってたまにはやりますよう」
百合華と美緒が諸手を挙げて抱きしめ合う。
「仲のよろしいことで」鼻で笑ってやると、百合華が余裕の笑みを向けてきた。
「そういう蘭子は、ちゃんと仕事を終えてきたんでしょうね?」
「制御装置は破壊して、機械音が消えたのも確認しましたわ」
百合華が半壊した建物の窓、そこにいた研究者たちに視線をやると、白衣の男の一人が頷いていた。
「粒子加速器は起動中、かなりの重低音を発します。それが止まったとなれば……」
空気が微震する。音になって鼓膜を揺らす。
「どうしたの?」百合華が空を見上げる。「なんの音?」
「あ」と美緒が声を上げた。荷電粒子砲を指でさす。「大砲が揺れてます」
「なんで? なんで動いてるのよ?」
「わ、わたくしはちゃんといわれた通りのことをこなしてきましたわよ」先ほど話していた白衣の男を睨むと、小刻みに頷いていた。「もっと別の場所で間違いが起きてますわ」
「例えば、あれは動いているんじゃなくて、揺れているだけだ、とか」美緒が人差し指を荷電粒子砲から空に向けていう。
「それですわ。真っ当なことをいうではありませんか、メガネは」
「メガネっ!」
「あれは発射の前兆状態です」別の白衣がいう。
「じゃ、わたくしがミスったとでもおっしゃいますの?」
「いえ、もしかすると、三十から五十パーセントほどの出力で撃とうとしているのかもしれません」
「なんですって?」蘭子と百合華の声が重なる。
「じゃ、結局撃たれるの?」百合華が訊く。
「かなり出力は落ちているはずですが、弥田山を削るくらいのことは……」
百合華が走り出そうとしたところで、蘭子が手を伸ばした。腕をつかむ。
「どこに行きますの?」
「あれを破壊してくる」
「あなただって、あれに巻き込まれたらタダじゃ済みませんわよ。いつ発射されるかわかったものではありませんし」
「でも、壊さないと耀真が……!」
「わたくしの桜子だって向こうにいるのだから同じ気持ちではありますわ」
「なら、どうしろってのよ?」
「状況を連絡するのが先です」横に手を差し出した。「メガネ」
「はいはい、メガネですけど」
美緒に返してもらった携帯端末で桜子の番号を呼び出す。耳に当てる前に、百合華に引ったくられた。黒髪を向けて端末を頬に添えている。
「ちょっと、百合華……!」
「早く早く早く……」
「聞こえてませんわね」と肩を落とす。
○
「百合華さん?」
呟いた桜子はやや驚いたようだったか、そのまま携帯端末を耳に当て、通話口の向こうにいる百合華といくつか言葉を交わす。茶色の瞳が見開かれた。
「耀真さん、荷電粒子砲が動くそうです。早く避難しないといけません」
耀真はほんのわずか振り向いただけで、ジェイに、おい、と語りかけていた。ジェイの方はもう声も出せないようだ。血の気を失った唇を蠢かせても音は出ていない。
「心配するなよ」耀真がいう。「あのデータは俺が必ず守る」
ジェイの口角が上がる。それを最後に両肩から力が抜けた。少しずつ、グランディオラの刀身が欠けて、崩れていく。
「心安らかに逝けよ」耀真はジェイの細くなった背中を叩いていた。
「もう不可能だ」と呟いた梶木にその場にあった視線が集まる。梶木はしゃがんだままに、深く息を吸う。
「あれの発射を止めることなど誰にもできはしない」
「どうだかな」と耀真は笑う。「京香。円盤を最大展開させろ」
「はい?」唐突に声をかけられて、戸惑ってしまった。
「最大展開だ。早くしろ」
耀真はジェイの胸に刺さっていたナイフの刃を引き抜き、脇腹に刺し直した。再び抜くと、傷口に指を入れて体内を探る。
「ダ、ダメですよ、そんな。早く梶木さんと、ジェイさんを連れて避難するんです」
「京香、円盤の最大展開だ。早くしないと命にかかわる」
「耀真さん、もう荷電粒子砲は動いていて、いまにも撃たれるんです。いつまでもこんなところにいられません」
「何度もいわせるな」
京香は息を詰まらせて、身を退いた。背筋が震える。これほどの圧を持つ男だったか?
アダムスキーに最大展開を促すと、球場ひとつぶんを覆うほどの大きさにはなる。そのあとは耀真に指示された通り、崖の向こう、灯り始めた町の灯と海の方角に浮かぶ月の白さを隠すように仕掛けて気がついた。
「まさか、これを盾にするつもりですか?」
「ああ」
耀真が事も無げに頷くと、桜子はもちろん、梶木すら驚いているふうだった。
「むむむ無茶ですよ、あの大砲、一撃で冥魔を粉砕したんでしょう。アダムスキーなんて冥魔に比べたら薄っぺらな紙切れみたいなものです。直撃した瞬間、蒸発させられてしまいます」
「それがいいんだよ。俺とシアの能力はエネルギー、振動を操るんだ。薄い金属板はよく震えて、俺たちの力を高効率で放射してくれる。幸い、荷電粒子砲は弾丸を撃つんじゃなくて、純粋なエネルギー体を撃つ。逆相を干渉させれば理論的には無効化できる」
本気でいっているのか怪しく思うが、耀真の目はアダムスキーの向こう、荷電粒子砲の砲口を睨み据えている。正気の沙汰ではない。
「できるはずがない」梶木が唸る。「無駄死にをするだけだ」
「俺には博士の祈りとジェイの願いがあるんだ。だいぶむさ苦しいもんだけどよ」
耀真はジェイの脇腹を探っていた手を引き抜いた。黒ずんだ血に濡れた指先には一粒の石ころがつままれていた。
「スフィア、ですか……」
京香は知らず呟いていた。デモナイズの検体には黒い霧とともにスフィアが付与されている、と博士のレポートに記してあった。
「いや、人の力であれを防ぐことなどできない、できるはずがない」
「あんたは黙って見てるといいよ。できるかどうかをさ」
スフィアを握りしめた耀真の拳から青い光が粒になってこぼれ落ちる。
「さて、久しぶりに本気を出しましょうか」とシアが手のひらで宙を仰ぐ。
耀真がアダムスキーに向かって駆けていく。そこに桜子が小さく声をかけた。
「先輩……」
「ごめん、桜子ちゃん。無茶に付き合わせちゃったな」
「いえ、先輩のことは信じていますから」呆れたように笑う。この人もこんな無茶を許すというのか。
「伏せて、身を守っていてくれ。余裕があれば、京香のことも頼む」
「はい」
さ、と桜子に腕を引かれ、京香は意識を取り戻した。尋常ではないことが起こっている。
「耀真さんっ!」
すっかり離れてしまった背中に叫びかけるが、答えはなく、腕を引く力が強くなっただけだった。
「桜子さんは止めなくていいんですか? 死んじゃいますよ、耀真さんも、私たちも!」
「耀真さんは京香さんが思っている以上に強い人です。身も心も」
「どう強くたって、こんなことできるはずがありません」
「私は耀真さんのことを信じています。私たちはここで身を守ることに徹します」
「桜子さん……!」
頭が熱くなってくる。こいつら、バカなんじゃないのか?
つかみかかろうとした手が白いグローブに包まれていた。体に触れて、引き剥がそうにも糸を引くだけでほとんど動かない。
「これは……」
「京香さん、これから地面に縛りつけますけど、アダムスキーの操作に集中していてくださいね。私たちにできるのはそれだけですから」
視界が白い布地に塞がれ、肩に、頭に、圧力がかかる。膝が折れ、地に伏せる他ない。
日は沈み、夜が始まる。
○
アダムスキーの前に立った耀真は指先で金属板に触れ、深くまぶたを閉じた。数歩うしろにシアが立つのが、感覚的にわかる。彼女から常に放たれる波紋を感じる。
「耀真は私の波に集中して。発射のタイミングは私が計る」
「わかった」
シアから流れてくる波長を増幅させる。打ち返される波の強さを感じる。
「無謀だな」梶木の声がえらく遠くから聞こえてきた。「無駄に命を落とすだけだぞ」
「俺のうしろには守りたい命と願いがある」
「耀真、雑事に耳を傾けないで。外の音はすべて消して、集中しなさい」
美しく増幅されていた波の形が、気がつけば乱れている。研ぎ澄ますのだ。刃物のように。
一つ、二つ、三つ……。
来るっ!
体の内奥で燃えたぎるエネルギーを指先に集め、解き放つ。円盤を震わせる。
瞬間、光の奔流が耀真を包んだ。完全なる白色にまぶたが焼け付く。円盤の支えにした腕は燃えるように熱く、耳鳴りもひどい。強い吐き気を催して、膝を折ろうとしたそのとき、胸元に誰かの手が回り、体を支えてくれた。
○
前のめりに倒れかけた耀真の胸元に片腕を回して支えた。
円盤に触れていた耀真の右腕は血管が裂け、髪は散々に、皮膚も所々ただれて、下の筋繊維が見えている。呼吸も鼓動もあるが、だいぶ弱い。よくもまあ生きているな、というのが正直なところだ。
「桜子」
「は、はい、ただいま」
少しうしろの方にあるこんもりとした繭の中から桜子が這い出してくる。無傷のようだ。赤髪に引っかかった糸を手櫛でどけて、転がるように駆けてくる。耀真を一目見て立ちすくみ、両手で口元を覆う。
「桜子、平気?」
「は、はい。私は大丈夫です」
そばにしゃがんだ桜子の胸元に耀真を引き渡した。傷だらけの体が純白の糸に包まれていく。
シアは梶木と向かい合う。梶木は瞳の焦点が合っておらず、口もやや開いたまま、閉じられることを忘れられている。シアの視線に気づいてから徐々に現実を意識し始めたらしい。表情に現れた憤怒の感情は総身に行き渡り、震える唇から溢れ出した。
「なぜだ? なぜ私の邪魔をする?」
「なぜって、そうねえ……」
シアにしてみれば、今回のことも耀真の想いを叶えようとしたにすぎない。
「あんまりに悲しいじゃんよ」
喋ったのは耀真だ。枯れた声をまだ出せるのも驚きだったが、まだ動こうとしているのはもっと驚きだ。その身のほとんどを繭に包まれながらも、前に出ようと膝でにじり寄ってくる。治療を始めようとしていた桜子が戸惑いながらも、耀真の腕を取って肩を貸す。
「耀真、そのままでは……」
「いや、まだ大丈夫」
まだやり残したことがあるのか。死に体を引きずる姿に呆れながらも、全うさせてやろうと決め、シアは耀真のうしろに下がった。
「悲しいだと?」梶木が声を立てて笑う。「私たちに同情するというのか?」
「ああ、同情するよ」
軽くいってのけた耀真に梶木は鋭い視線を飛ばす。
「そんな安い同情がいるものかよ。この身に刻まれた呪いも怨念もわからん貴様に」
「わからんよ。俺はあんたでもなけりゃ、あんたの仲間でもないからさ」
「ならば……!」
「俺にわかるのは、人の命を使った実験がされていて、それで不幸になった人たちがいたということ。あれはまごうことなく悪魔の研究だよ。俺にできるのは、知って、覚えていること。ただそれだけだよ」
耀真が苦しげに咳き込む。桜子がその背中を擦ってやると、落ち着きを取り戻し、とつとつと話を続ける。
「憎いだろうよ、あの研究も、それをした人間も。俺には想像もできないよ。だから憎しみを捨てろとはいえない。ただ、俺はあんたとあんたの仲間がいたことを覚えていたいから、みんなに知ってほしいから、あの研究データを消したくはなかった。人の業はこういうものだと……」
「ダメだ。人はまたくり返す。命を悪魔に作り変え、己もまた悪魔となる道を再び歩む。必ず魅了される」
「また悲しいのは、あんたが気づいていないことだよ」
「なに?」
「これは俺の想像だけれど、富樫博士があんたに協力したのは、命が惜しかったわけでも、冥魔を倒す研究をしたかったわけでもない。あんたにデモナイズの研究データを託すべきだと考えたからだ。あんたの地位なら、真実を広く世間に公表し、研究を管理、統括することもできたはずだ。世間は必ず呼応する。正しいことをしようとする心に。あんたには地位と、力と、素質があったんだよ。誰よりも光り輝く正義になる素質が。その権勢を得るための足がかりを作ったのは誰か。あんたをアーバンのコーディネーターに推薦した富樫博士だ。デモナイズを体現するあんたに、あの研究に携わった人間の、過去と未来のすべてを託したんだよ。でも、あんたの選択は、すべてを忘れることだった」
「それのなにが悪い? 自らの呪いを浄化し、無に還ろうということのなにがいけない?」
「だから悲しいんだよ。人の生きた証が、唯一の証が、あんたたちの生きた証が、こうも、簡単に消されるなんて悲しいじゃないか」
耀真の生命の火が急激に弱まっていく。集中力が切れたらしい。やるべきことはやったということか。桜子も悟って、耀真を横たわらせると、治療を再開させた。耀真はまぶたを閉じて眠っているだようだった。
梶木は震える瞳を草原の一点に据え、動かない。
「梶木、もう充分ではなくて?」とシア。
「充分なことなどない」
「かなり昔の話なのだけれど、自分の望むものに変身する能力を持つ誓約者に会ったことがあるわ。他の人になったり、置物になったり、違う生き物になったり」
「だからなんだというのだ?」
「人の頭というのは思い込みの激しいもので、一度それと思い込めば、他の思考を受け入れられなくなるときもある。目の前で仲間が冥魔に変じたのは相当なショックだったはず。自分もそうなると思い込むのはとても自然なことだと思う。でも、もしかすると、あなたのその姿は、呪われたものではなく、みんなの目指したものなのかも……、人が生み出した誓約の力」
「違う!」
唐突に発した梶木の絶叫にシアは身をかたくした。
「違う違う違う違う!」瞳孔の開いた瞳が連呼し、細身の体が頭を抱えて、狂ったように身もだえる。「そんなはずがない、私を呪ったのはおまえたちだ。この身に、私たちの身に刻まれた呪いの深さ、おまえたちには知るよしもなかろうよ!」
梶木の体が黒く変色し、筋肉が膨らみ始める。
やるしかないか。身構えたそのとき、梶木の肉体が収縮を始め、人の姿に収まっていった。愕然とした人間が自らの腕を、体躯を凝視する。
「これ以上」
と、震える声を振り絞っていたのは京香だ。手には銀の十字架を握り、その短辺からのびた水晶の剣が薄闇の中で白く浮き立つ。頬を伝う滴が月の光を受けてひらめき、熱くたぎる大きな瞳から止めどなく溢れ出る。
「これ以上、戦うというのなら、私がお相手致します」
「小娘が生意気なことを」
「あなたが正しいのか、耀真さんたちが正しいのか、私にはまだわかりません。でも、耀真さんにはきっと正義の資質があるから。だから失うわけにはいきません」
小柄に似合わない大剣を両手で軽く振り回し、中段に構える。
「おまえも私を否定するのか」
「あなたを呪ったのはあなた自身かもしれない」
「違う! おまえたちの業だ」
「私は! あなたの口にそういわせて恥じない、その怨念を斬ります!」
駆け出した両者の得物がその刀身を擦過させる。きらびやかな火花が散った。
グランディオラの切っ先が芝生を打つ。
身をひるがえした梶木はナイフの刃を返し、再び京香を狙う。が、引き戻された十字架が平たい刀身を投げ出して主を守る。京香はそのまま十字架に体当たりをして、ゼロ距離にあった梶木の体をはね飛ばす。拡がった間合いを認め、回転するほどの勢いでグランディオラを薙ぎ払う。それでも、剣速が鈍い。引き下がって、容易くかわした梶木は足元のテンポを上げて京香に詰め寄った。
剣戟を交わし、さらに振り回されるグランディオラを避けた梶木が短い得物を突き出す。盾にした大剣を叩かれて後ずさった京香は腕の力任せにグランディオラを振った。しかし、自らの身長ほどもある剣には威力がない。梶木のナイフに易々受け止められる。
「哀れだな。ただの人間が我々に勝てるはずがない。おまえのいう怨念が私の力になる」
歯噛みする京香は体重と膂力の差をグランディオラの重量で補っても、まだ分が悪い。徐々に押し込まれ、飛び退いて距離を取ろうとしたところで、梶木の手がグランディオラの刀身をつかんだ。
「終わりだな、小娘」
ぐいと水晶の刃を退かしてナイフの刃を京香に向ける。鈍色の光が宵闇を裂く。
瞬間、グランディオラの刀身が消失した。京香の瞳が強く輝く。
身を低くした彼女は梶木の懐に飛び込み、十字架の短辺を男のみぞおちに叩き込む。くの字に曲がった梶木の手からナイフが落ちる。が、彼の足にはまだ力がある。元来より黒ずんで膨らみ始めた腕が京香の喉元を殴るようにつかんだ。
「がふっ」
嗚咽を漏らした京香の爪先が地面を離れた。震える手から十字架がこぼれる。
「京香さんっ!」桜子の悲鳴が星空に響く。
「動くなよ」梶木は息を切らせながらいう。「おまえたちが動けば、この女をくびり殺すぞ」
「どこまでも哀れな人」シアがうつむいて首を振る。
「貴様の哀れみなど……」
「あなたが哀れなのは、すでに負けていることに気づいていないこと」
「なんだと?」
音が聞こえる。細い刃物が宙を掻く音が。
夜の光に閃いた円盤が闇を駆け抜け、京香をつかむ腕もろともに梶木の胴を斬り裂いた。
真っ黒な血を噴き出させて、膝からくずおれる。しかし、まだかろうじて脇腹が繋がっている。復元が始まる。
地面に転がった京香は咳き込みながら、芝生に手を這わせて十字架をつかんだ。短辺から水晶が滲み出し、諸刃を形成する。
「貴様……!」
「御免」
グランディオラが梶木の胸を貫いて、芝生に突き立った。
○
「今回の件は僕にも意外だったよ。苦労をかけて済まなかったね」
「ユーグさんのせいじゃありませんよ。結局、俺の方から首を突っ込んだんです」
「そういってもらえると、僕としてはありがたいけれど。なんせ、アーバンの荷電粒子砲試験に君たちを推薦したのは僕だからね」そこでユーグは一息入れて、さらに続いた。「すでに報道されていることだけれど、アーバンには日本政府が立入検査を行っていて、本社のあるアメリカを初め、各国でも同じような動きがある。いまエリシオンはノータッチだが、今後どうなるのかわからない。それよりも僕らが処理しなければならないのが、例の研究データだ」
ぎゅっと内臓が締めつけられる息苦しさを覚える。
梶木との決戦が一週間ほど前のこと。ユーグに報告したのがその翌日だから次の展開をいまかいまかと待ちはしていた。ただこうして聞く段になるとストレスでもある。
「あれ、確認できたんですか?」
「うん。アイリをそっちにやって確認させた。どうやら間違いないらしい」
弥田訓練場のイントラネットの中には実験プロトコルから映像、画像データ、各項目の測定値等々、詳細な研究成果が認められたという。
「それで、あのデータの用途なんですけど……」
「わかるよ。僕も耀真くんと同様、公表するのが筋だと思っている。人はそれほど愚かではないと信じているからね」とはいえ、と区切り、さらに続ける。「日本にいない僕が日本に隠匿されていたデータのことを暴露するのはおかしな話だから、この仕事は西條卿にやってもらうことになるね。各方面への根回しは僕がするけど」
「その方が丸く収まるんで、俺としてもありがたいですよ」
西條姉妹の義母である、通称、西條卿にも花を持たせないと、また蘭子がうるさい。アーバンが隠匿していた悪魔の研究の暴露と解明というのは世間の賞賛を浴びて間違いないだろう。
「まあ、そんなこんなで」とユーグが通話口の向こうで陽気な声を出す。「これからアイリと西條卿は打ち合わせて大きな仕事をすることになる。僕はまだ日本への入国禁止令が解けていないから、代わりにサポートを頼むよ。なにかあれば、彼女たちの力になってあげてほしい」
「貸して足しになるほどの力もないかもしれませんが」
「そんなことはないよ。僕は耀真くんが思っている以上に耀真くんのことを高く評価している」
もしものときは頼りにしているよ、というユーグの呟きを最後に通話が切れた。
耀真は端末のスクリーンをオフにして六畳間の自室の真ん中に置いてある卓袱台に両腕を乗せた。向かい側には京香が唇を引き結んで正座している。すすす、と卓袱台の脇ににじり出て、三つ指突くと頭を下げた。
「この度は誠に申し訳ありませんでした」畳に額を擦りつけながら、ほとんど叫ぶ。「ジェイさんが死ななければならなかったのも、梶木さんの命を奪わなければならなかったのも、すべて私の不徳が致すところです」
「それを俺に謝られても困る」
「でも、耀真さんのやり方をもう少し理解していれば、お二人はまだ生きて、別の道を探していたかもしれません」頭を上げた京香がいう。
「たとえ、ジェイが死ぬ前に俺が間に合っていても、結果はそう変わらなかったと思うよ」
「ですが……!」
勢い込んで詰め寄るおかっぱ頭に、耀真は手のひらを向けた。京香は継ごうとした言葉を呑み込んで、座り直す。
「何々をしていれば、っていうのは、あり得ないことだから、無駄な話になる。未来のことを話そう」で、と耀真は話を切り替えた。「おまえ、まだここにいるの?」
「当然です。私は耀真さんの中にとても強い光を感じました。それが正義といえるものかどうか、私にはわかりませんが、その行く先を見定めたいと思います」
「ここで暮らすこと自体は、百合華がイエスといえば、俺が反対することもないけれど、弟子云々って話は……」
「大丈夫です。もう耀真さんの弟子になるのは諦めました」
お、と思う。意外に物分かりがよくなったのは、やはり今回の件で反省しているからだろうか。京香は両手の人差し指をふりふり、楽しそうに話す。
「私、シアさんの弟子になることにしました。序列的には耀真さんの下の二番弟子ですね。これからは妹弟子として、よろしくお願い申し上げます」
「そうきたか」とため息を漏らす。全然変わっていない。「俺はシアの弟子ってわけじゃないよ」
「そもそも、弟子かどうかなんて些細な問題なんですよ」
「いまさら、それもおまえのいうことか」
茶化しただけのつもりだったが、京香から明るい雰囲気がダイヤルをいじったように消えてなくなった。ちょっと狼狽える。。
「いや、ただの冗談だよ」
「冗談をいっていたのは私の方です」と京香は力なく笑う。「私はただ、耀真さんのお側にいて、見たもの、触れたもの、感じたこと、考えたこと、思ったことを知りたいと望んだだけです。弟子という言葉はその手段として都合のいい言葉を選んだだけのこと。しかし、以前はそれも上っ面だけで、私は耀真さんを試しているつもりでいました。自らの未熟を棚に上げて。愚かなものです」
でも、と呟いて顔を上げた京香の瞳は爛々ときらめいていた。一途な意志の力をその目に宿し、闇夜の星空よりも美しく、強く輝く。
「私は私の未熟と愚かさを知りました。この世界には自分の考えなど遠く及ばない、強すぎるほどの力と精神力を持つ人たちがいるのだと知りました。それこそ、心を揺り動かすほどの……。耀真さんの中にその光を、輝きを見たんです。先に続く道筋も……」
京香がうつむいたきり、口をつぐむ。そこで耀真の携帯端末がLDEを光らせて、着信を知らせてくれた。発信元はアイリで、これからのことを相談するために本日中綾薙邸を訪ねたい、とのことだった。了承の返事を送り、立ち上がる。
「これから客が来るからケーキでも買ってくるんだけど、一緒に行くか?」
こちらを見上げた大きな瞳が瞬きをくり返してから、優しく細められた。
「はい、ご一緒します!」