一身上の都合
私は、部長の席へと足を運んだ。
緊張で、詰まる喉をクリアにしようと喉を鳴らしていたら、部長がこちらに気付いた。
「どうしたのぉ、金山くん。いつになく真剣な顔じゃない、か」
「部長、これを」
「ん」
部長はかけている老眼鏡を半目分だけずらして、私と私が差し出している退職願を交互に見た。
部長は、数秒の間そうしていた。
驚いているのか、困っているのか、何を考えているのか分からない。
微妙な表情から表出する思いを察せられるような関係でもない。
部長はそのうち、ピタリと動きを止めて、ぬたりとした所作で右手を前に出した。
「中を見てもいいかな?」
「どうぞ」
そう言うと、私は両手一杯に伸ばして、退職願いを部長の手元に届けた。
肝心の中身はネットから拾ってきたテンプレートな文言が並んでいるだけだ。
”この度は一身上の都合により、勝手ながら、20○○年××月△△日をもって退職いたしたく、ここにお願い申し上げます。”
こんな感じである。
部長は目を細めながら、小刻みに首を縦に振っている。
キツツキみたいだ。
もしかしたら、部長はおふざけになられているのかもしれないが、”いやいや、部長。首振りすぎでしょ”とツッコミを入れられるような関係性は築いてこなかった。
「はいっ、質問ですっ」
部長が右手を直立に挙げて、大きな声を出した。
どのくらい大きいかというと、フロア中の社員が部長と私に注目を寄せるくらいである。
私は、胸を締め付けるような羞恥に襲われた。
「部長、ど、どうされたんですか」
「いや、質問だよ。金山くん。この君の退職願いについて、僕は質問があるよぉ」
「はい、何でしょうか?」
「このさ、【一身上の都合】ってのは何だい?」
部長は【退職願】を掲げると、該当の箇所を右手でトントンと叩いて示した。
私は、頭の中でどう答えたものかと、解答をこねくり回した。
「【一身上の都合】……会社の都合ではなく、あくまで私の都合で……ということです。つまり、会社に落ち度はなく、すべて私事が原因である、と言っているものです」
「いやぁ、そんなことは無いでしょう」
「へ?」
「君が辞めたくなったことを、君だけの責任だなんて。それはね、君ね。少し横暴だよ」
「はぁ」
「そりゃ、私や会社にだって責任はあるはずだよ。君の同僚や、先輩、後輩、上司、友達、家族……そして、君が辞めるに至るまでに、沢山の人との関わりがあったはずだよ。それを、君ね。自分だけの責任だなんて、よく言えたもんだね。会社を辞めるってのは一大事なんだから。君一人の問題じゃないんだよ」
「はい、すいません」
部長の勢いに押されて、思わず謝ってしまった。
部長は続ける。
「ということで、書き直しです」
「え、書き直しですか?」
「そりゃ、そうでしょ。こんな横暴な退職願では、ちょっと辞めさせられないね」
「はぁ」
「とりあえず、さっき言ったことを反映させてみて」
部長はそう言って、私に退職願を突っ返した。