第5話:破却
ゲボッ、グボ、と僕は床に嘔吐する。
404号室の床に吐瀉物がぶちまけられた。異臭。喉の奥が熱く気持ち悪い。頭痛が鈍く響く。
吐き戻したものの中に、赤い液体がかなり混じっている。血だ。目眩がする。
「くそが」
僕は神経が鈍くなった体に鞭打ち、なんとか家路へつく。
魔素を吸い過ぎた。まだ体に残っている。
惑星Xで吸った魔素は、地球の空気を吸うことで浄化される。
多くの魔素を浄化するにはそれだけ時間が掛かる。
浄化しきれずまた惑星Xで魔素を吸えば、どんどん体を壊していく。
酒や煙草と同じだった。
快感という意味では麻薬に近い。
誘惑に駆られる。
「……戻らないと」
僕は帰る。
妹がいるから。
*** *** ***
『今朝、○○区のマンションで男性の変死体が発見されました』
居間のテレビが告げたニュースに、僕は顔を向ける。
そして、妹の食事を作っていた手を思わず止めた。
『男性は発見時すでに息がなく、自身のものと思われる大量の出血が床一面に広がっていたそうです。外傷は見当たらず、また男性は一人暮らしでした。男性は芸能事務所に所属していることが分かっています』
顔写真が映る。
僕の知っている男。
『男性は発見されたとき、手に何か黒い紙を握っていたという情報も入っていますが、詳しいことはまだ分かっていません』
『男性の勤め先の事務所は社長含めた上層部及び取引先の関係者が次々と失踪しており、今回の事件と関係しているのか、警察は捜査を続けています』
妹の元マネージャー。
「……」
僕は調理を再開する。
「起きてるか?」
僕は扉越しに妹へ呼びかける。
朝食が載ったトレーを廊下に置き、食卓カバーで覆う。
返事はない。
扉を手でなぞった。
少しだけ目を瞑り、
僕は言う。
「……あと少し稼いだら、ここを出よう。一緒に」
返事はない。
しかし妹の気配は分かった。
だから続けた。
「誰も僕らを知らないところに引っ越して、そこで今よりもっと稼ぐ。いい医者だって見つけるし、学校にも行ける。お前は頭いいからどこにだって入れる」
そして僕は息を吸う。
地球の空気を。
妹へ言う。
「ここから出れば、なんだって出来る」
返事はなかった。
構わなかった。
僕はその場を離れ、自分の部屋に向かう。
僕の部屋の机には、一段だけ強固に鍵を掛けられた引き出しがある。
備え付けられた鍵だけでなく、南京錠とダイヤルロックも付けた引き出し。
その引き出しに、僕の稼ぎの全てが現金で入っている。
妹の稼いだ金を当然のように自分達で使う両親への対策だった。
ものすごく不便だが、そもそも工場の給料は現金で渡される。
……両親と言えば、ここのところ2人の姿を見ていない。
最後に見たのはいつだったか振り返り、僕は眉根を寄せる。
「地球人殺しに殺された日か」
あの日の夕方、2人は居間の調度品を全て倒して壊すほどの大喧嘩を繰り広げた。
そして2人とも家を出てどこかに行った。
僕はひどくうんざりして転送装置に行った(そして地球人殺しに殺された)。
みんなで、妹を置いて。
「……稼がないとな」
僕は机の上、小さな置き鏡に言った。
鏡像の自分が頷く。
出かける。
*** *** ***
工場の正門に人だかりが出来ている。
どれも見慣れた工員達だ。なぜか中に入らない。
「?」
僕は訝しみ、近付く。
正門が開いていない。
門に何かの張り紙があった。
誰かが叫ぶ。
「―――夜逃げだよクソッタレ! 社長も工場長もみんないなくなりやがった!」
「っざけんな給料日前だぞ!?」
がなり、ざわめき、怒鳴る。
僕は呆然とした。
夜逃げ? 給料は? 無職?
突然のことに頭が追いつかない。
不意に、僕のポケットで携帯電話が鳴った。
「……?」
見る知らない番号だ。
出る。
相手は名乗った。
「……警察?」
電話口の向こうで説明がなされる。
その内容は、混乱する僕の頭を容赦なく殴打した。
「父さんが、死んだ……?」
*** *** ***
父の遺体は、ある空き家の奥で見つかった。
元の住人が不意に姿を消して以降、どこからも放置された空き家。
その寝室で、父はベッドに横になって死んでいた。
大量の血液を部屋中に撒き散らし、しかし外傷はない。
死亡推定時刻によると、家を出たその日の夜に死んだらしい。
異臭がするという近隣住人の通報で、遺体が見つかった。
父は免許証を持っていたので身元特定はすぐだった。
ただし母へは全く連絡が取れなかったそうで、なので僕へ連絡がやって来た。
疲れ果てていた。
「………」
僕は数々の供述その他を終えて、警察署から自宅に帰った。
頭痛はひどくなる一方で、手足は鉛のように重い。
父の死に事件性があるかどうかはまだ分からない。病気だったのか他殺なのか、はたまた自殺なのか。
僕は父のこと、ついては家の中のことを事細かく警察から聞かれた。妹に関することも。
結局父の遺体と面会することは出来なかった。
遺体の状態がひどく、そのまま見せることは忍びないという理由だった。
もうなんでもよかった。
僕は疲れていた。
だから、自宅の自分の部屋に入ったとき、うまく状況を理解できなかった。
「……は?」
僕の部屋が、荒らされていた。
部屋の中の全てがひっくり返されている。
折りたたみベッドも椅子もハンガーラックも、置き鏡もゴミ箱の中身もぶちまけられている。
そして一番目を引いたのが、
「机、は……?」
机がない。
机が丸ごと、部屋の中から消えていた。
荒らされた部屋の中、ぽっかりと不自然な空白が出来ている。
僕の貯金が全部入った机。
それが、ない。
「………」
なぜ。
空き巣?
頭が働かない。
空き巣なら妹が危ない。
空き巣が机を丸ごと盗むか?
頭が痛い。
妹のところへ行かないと。
なんで机だけがこの部屋で価値あるものだと分かった?
妹は無事なのか?
誰がここに入った?
「――――お母さんが、もってっちゃった」
部屋の入口から、銀鈴のような声がかかる。
僕は振り返った。目を瞠る。
そこに、妹がいた。
壁に手をついて体を支えている、妹が。
ゆったりとしたネイビーブルーのネグリジェ。
そこから覗く白すぎる手足。胸元。内臓など無いみたいに薄い躰。
蒼白に沈む、冗談めいて整いすぎた顔。
煽る蠱惑の朱唇。
唾を呑む。頭が痛い。
「母さん、が?」
妹は頷く。
哀しみに濡れる瞳の色に、僕の脊髄が熱をもつ。灼かれる。
久しぶりに見た妹の顔は、ひどく白い。
生気に乏しく、血の気のない白さ。
が、あの無自覚の、妖しいまでの艶美さだけは変わっていない。
瞼ひとつ、唇ひとつ僅かに動かしただけで、こちらの喉を鳴らしてしまう。
その妹が、僕に告げる。
「お母さんが、男の人達と一緒に兄さんの部屋に入ったの。すごい音がしてた。お母さんの怒鳴り声も。物をぶつ音とか引きずる音とかがしたから、ドアを開けて見てみたら……」
机を運び出してた。
「――――」
僕はもう一度、部屋の中へ振り返る。
空白が穿たれた部屋。
何もかも壊された僕の部屋。
奪われた。
工場で我慢し、耐えて、積み上げてきたものが。
こわされた。
「は、はは……」
僕は部屋に腰を落とす。
力が入らない。
足を投げ出す。
笑いがこみあげてくる。
痛みと気持ち悪さだけが僕の中身。
涙さえ出ない。
うつむく。
僕はわらった。
わらう。
わらう。
脳みそも心も壊れたように。
わらう。
わらう。
わらう。
わらう。
わらう。
ふわり、
後ろから誰かが抱きしめる。
「―――ごめんなさい……」
甘い匂い。
やわらかな感触。
耳朶を理性ごと痺れさせる淡い声音。
「私が、止めれば良かった。あの引き出しに兄さんのお金があるって分かってたのに。お母さんが出てくところを引き留めれば良かったのに」
妹が、ぎゅっと僕を抱きしめる。
柔らかさと柔らかさでできたものが僕の頭を包む。
鼓動を感じた。
僕は固まる。
「私がもっと頑張れば良かったの……私が、あのとき、もっと頑張ってれば」
ごめんなさい、と妹は言った。
泣いている声で。
「――――私が悪いの」
「………」
そのとき、なにかがきれた。
きれた。
だいじなものが。
こわれてはいけないものが。
僕は妹から身を離し、座ったまま振り返る。
そしておもむろに妹の細すぎる肩を両手で掴み、
―――その喉に噛み付いた。
「!?」
狼狽する妹。
僕は構わず両手を妹の体の後ろに回し、強く抱きしめて押さえ込む。
か細い体はいやらしいほど柔らかかった。
こちらの腕力を受け止めるような体。
僕は喉元を噛み、舌先で柔肌をなぶる。
抵抗が弱い。
片方の手だけ離し、胸元をまさぐる。
こちらの手がとろけるほど柔らかい感触。
折れそうなほど細いのに。
その差異におかしくなる
もう片方の手が拘束しながら体のあちこちを揉んでいく。
そのまま体重を掛けて前のめりになった。
押し倒す。
華奢で柔らかいものを僕の体が潰す。
喉に噛み付いたまま。
腕で抱え込んだまま。
甘やかな匂い。くるう。
どこを触っても歓びしかない。
頭の痛みも気持ち悪さもどこかにいった。
腕の中、口と舌で感じるそれは、乾ききった喉を潤す水のようで。
今まで苦しんできたものが全て拭い去られる幸福感。
よろこびが、目からこぼれる。
涙が。
「……泣いてるの?」
それが言った。
僕は首もとから口を離し、そっちを見やった。
床に仰向けにされたそれの顔。
そのすぐそばに、
僕の顔が目に入る。
「―――……」
鏡。
机の上の置き鏡だ。
顔が映っていた。
獣欲で口元が歪み、炯々と両眼を輝かせている男の顔。
妹と僕を嘲弄してくる連中と同じ顔。
魔獣が見せた陵辱者達と同じ顔。
僕の顔。
僕。
「――――兄さんも、こうしたかったの?」
「ッ!!」
僕は電流を浴びたように跳ねて立つ。
見下ろす先に、妹がいた。
床に仰向けの妹。
しなやか髪が乱暴に広がり、
作り物のように何の感情もない貌。
乱雑にはだけられたネグリジェと、襟元から覗く白い谷間。
そして、首元に刻まれた歯形。
僕のしたこと。
妹がされたこと。
「ぅ、ぁ、あ……」
音を立てて崩れている僕の中。
「ああ、あああ……」
全部が台無しになった音。
もうどうしようもなくなった音。
僕の壊れる音。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
絶叫。
悲鳴。
自分がそれを出していることさえ感じ取れない混沌の僕。
その場に留まることが出来ず、
だから部屋から逃げた。
家からも妹からも、何もかもから逃げ出した。
妹の嗚咽を背中に浴びながら。
*** *** ***
廃工場の404号室の転送装置を起動させる。
今朝ぶちまけた吐瀉物は、なぜか完全に消え去っていた。
僕は銀色の鍵を装置に差し込む。
ナイコーポレーション製の異星転送装置はすぐに準備を完了させた。
寝台に僕は乗る。
二度とこちらには戻らない。
僕は異なる世界へ行った。
*** *** ***
霧の塔から抜け出る。
周囲は濃い雲霞。
僕は叫びながら周囲の空気を吸い込んでいく。
際限なく。
筋肉が膨れあがり、体格そのものが大型化。
肉体が膨張する。
頭の中が灼熱に染まった。
僕は視る。
今までよりずっと遠くが見られる眼で、原住民の街を発見。
犬人の街。
僕はそこへ全速力で飛翔する。
超音速で。
風景が高速で後ろへ流れ去る。
街の中心部にそのまま落下。
激突。
衝撃と爆風。
巨大なエネルギーがキノコ雲を作る。
住民の犬人達はそれだけで大半が死んだ。
僕は息をさらに吸い込む。
体中が青く灯る。火花が散った。
熱線を吐く。
青い熱線。
かろうじて形を保っていた市街地の外周部を薙ぎ払う。
生き残った犬人ごと。
爆炎と黒煙。
肉の焼ける匂い。
無限の瓦礫。
破壊。
「ははははははははははは! あははははははははははは!!」
僕は哄笑する。
解放された感覚。
誰の目も気にしなくていい。
誰のことも気にしなくていい。
誰からも咎められない場所。
ここは惑星X。
何をしてもいい世界。
「………来たな」
僕は地平線の向こうを透視する。
円形の大楯に乗り、地球人以上の速度で飛んでくる全身甲冑の騎士。
左手に方形の小楯。
右手に馬上槍。
原住民の守護者。
邪魔する者。
地球人殺し。
僕は睨む。
あれさえいなければ、僕はどこにでも行ける。なんだって出来る。
僕は自由になれる。
あれさえいなければ。
「殺してやる、地球人殺し」
そして始まる。
僕と地球人殺しの、最後の戦いが。