第3話:犬の騎士
仕事の帰り、妹の元マネージャーと出会った。
「近くまで来たものだから」
「どちら様ですか」
缶ジュースを飲みながら、僕は彼に吐き捨てる。
通りを外れた暗い脇道。
街灯に照らされる自動販売機の前に僕らはいた。
マネージャーは苦笑し、
「あの子は……元気じゃないよね」
「さあね」
僕は元マネージャーを見る。
ひどくやつれた顔。かさついた肌。生気がない。
生きながら死んでるかのような男。
「あの頃はさ、楽しかったね」
「そっちはそうだろうよ」
「またあの頃みたいにならないかな、っていつも思ってる」
「……」
ジュースを一口飲む。
妹のいた事務所は、妹が辞めたあと一気に経営が傾いていったらしい。上層部の人間はいくつか失踪し、良い話は何ひとつない。
この元マネージャーがそのときどういう経緯を味わったかは、今の姿でなんとなく察する。
僕は侮蔑の目線を投げつけた。
マネージャーは意に介せず、
「君は? あの頃より今の方がマシ?」
「……」
「知ってるよ。ご両親はまともに稼げてないし、君は高校に行けなくなった。あの子の面倒があるから給料の安い地元の仕事しかできない」
僕は缶の中身を放った。
男の顔とスーツにジュースがかかる。彼は喋るのをやめる。
「二度と僕らの前に現れるな」
「……分かるんだ」
マネージャーが言う。
声音が若干変化していた。
僕を見るその眼差しも。
「君は同じだ。見てれば分かる」
「何が」
「あの子を見る目」
僕は缶を投げつけた。
マネージャーの頭に当たる。
彼は憐れんだ瞳で僕を眺め、そして背を向けて去っていった。
「……兄さん?」
廊下に置かれた空の食器を見下ろしていた僕に、扉の向こうから妹が呼びかける。
「なにかあった?」
「……なんでもない。この間、道を歩いてたら犬を見つけた。それを思い出してた」
「犬」
妹の声が弾む。
「どんな犬?」
「柴犬系の、たぶん雑種。耳は垂れてなくて、ピンとしてた。尻尾もふさふさで丸くて長め。犬って感じの犬」
「そっかあ」
ふふ、と妹が笑う。
「イヌイヌランド思い出すね。憶えてる?」
「そりゃな。僕が連れてったんだから」
「かわいかったよね。あんなに犬に囲まれたのはじめてだったから、すごかった」
「飼えれば良かったんだけどな」
「仕方ないよ」
父は犬アレルギーで、母は猫アレルギーだった。
ふたりは動物が嫌いだ。
「そういえば最近、モールに犬カフェが出来たらしい」
「モール? ショッピングモール? あっちの大きい方の?」
「大きい方の。猫じゃなくて犬って珍しいし、けっこう評判いいらしい」
「いいなあいいなあ」
妹は綻ぶようにはしゃぐ。
扉越しとはいえ、妹のそんな声を聞いたのはいつぶりだろう。
「イヌイヌランドって言えば、私、兄さんのことよく憶えてる」
「僕は誰かさんにせがまれて写真撮ってた覚えしかない」
「とても人懐っこくて、テンションもすごい高いハスキーがいたの。で、私その子と目線合わせようとしてかがんじゃった。そしたらその子すっごい勢いで私に飛びかかっちゃって」
「……ああ、思い出した。犬に仰向けにされたやつだ」
「そうそれ。私びっくりしてパニックになっちゃって。兄さんめちゃくちゃ怒っちゃうし、ランドの人もすごい謝ってて」
「仕方ないだろ。こっちからしたら人の妹が犬に襲われてるようにしか見えなかったんだし」
実際はそのハスキーは妹の顔を無邪気に鼻で嗅いだり舌で舐めたりしただけだった。
それだけだというのに。
「でも、あんなに怒った兄さん見たのはじめてだったから」
「……」
あのとき、駆け寄った僕が見たのは。
――――小さな悲鳴。苦鳴。凍り付いた顔。狭まった瞳孔。小刻みに震える体。
例のハスキー犬が心配げに吼えて呼びかけ、我に返るまで、浅く速い呼吸を繰り返していた妹。
僕に気付き、必死に腕へしがみついた妹。
「私が全部悪いのにね」
「何が」
「あの子は全然悪くなかったし、ランドの人達だってあんなに謝ることじゃなかったし、兄さんをあんなに怒らせるほどのことじゃなかったよ」
妹は笑う。
先ほどの弾んだ声とは似ても似つかない声で。
「犬にじゃれつかれたくらいで大袈裟な声出した私が悪かったの」
妹が言う。
「私が、悪かったの」
「違う」
僕は言った。
「悪かったのは僕だ。いきなりのことだから頭に血が上りすぎてた。ランドに文句を言いまくったのも僕だ。悪いのは僕だ。当の被害者が悪いわけない。つまり」
僕は言葉を詰まらせ、頭を必死で回し、扉の向こうへ伝えた。
「お前は何も悪くない」
そう言うと、妹はけっこうな間を置いてから、小さくそっと応えた。
「……ありがと、兄さん」
*** *** ***
地球人殺し――あの騎士のこと――を観察する。
僕はある田舎の農家の二階から、ベッドで俯せになって地球人殺しを見ていた。
透視と望遠を駆使し、見つからないように。
滞在時間を長くするため、出来るだけベッドの上で過ごす。
ちなみにベッドに俯せになった僕の下で、さらに俯せに組み伏された原住民がいた。
兎人の女。兎の耳と丸い尻尾が生えている。
この農家の住人で、唯一生かしておいた。兎人の女は一度ベッドでことを始めると抵抗なく続けるので話が早い。
なおベッド脇には他の兎人の死体が重なっている。外に放置して騒ぎになると面倒だった。
それはともかく。
観察の結果、地球人殺しは犬人の地域で主に活動していた。
犬人を襲う地球人を退治し、時々他の原住民の種族も助けに行く(最初に僕が襲われたのもこのパターン)。
魔獣が出てもやはり退治する。
地球人さえ手こずる魔獣が相手でも、地球人殺しは圧倒的だった。
その他、地球人や魔獣が出ないときでも、地球人殺しは犬人のために働いた。
森を切り拓いて畑にし、
氾濫する川があればその川の形を変えたり、
堤防を作ったり家を作ったり道を作ったり。
犬人たちは地球人殺しを讃えた。
犬人だけでなく、羊人も馬人も鳥人も。
まるで原住民の守護者のように。
「………」
僕は下に敷いた兎人の女の首をおもむろに絞め、腰を強く打ち付ける。
原住民は苦しさから逃げようと藻掻く。無駄。首の骨を折った。そのまま握り潰す。
長い耳で弧を描いて頭が床に落下。
首なし原住民に僕は変わらず腰をぶつけ続ける。
気に入らなかった。
その後も幾日か観察を続けた。
犬人の勢力圏はどんどん大きくなり、他の種族もその傘下に収めていった。
結果、地球人と衝突することが増えていった。
地球人の遊び場を地球人殺しが奪う形。
この図式に僕以外の地球人も気付いたらしく、何人かでまとまって犬人の国を襲うことが多くなった。
地球人殺しは戦った。
ときに原住民を救い、
ときに救えず、
村や町を守り、
守りきれず焼き払われ、
それでも地球人殺しは襲い掛かる地球人と戦い続けた。
僕はそれを見ていた。
幸い、地球人殺しがいる犬人の地域に近付かなければ、地球人殺しは地球人との戦いで忙しいので狙われることはない。
この惑星はかなり広いので、犬人が領域を拡大したといってもたいした影響はなかった。
なので一番無駄なく楽しむ方法は、地球人殺しとは無関係の場所で遊ぶことだ。
だというのに。
僕は何故か離れようとしなかった。
例の農家で監視し続けた。原住民の女を拉致しつつ。
僕は見続けた。
地球人殺しの戦いを。
そして地球人殺しは、その魔獣と戦う日を迎えた。
*** *** ***
地球人殺しは見上げた。
僕も見た。
その魔獣が触腕で形作ったものを。
巨大な鏡。
そこに浮かび上がった映像。
ベッドの上。
人間の男が押し倒している。
男は背中しか映らず、顔が見えない。
しかし男に押し倒されている者は見えた。
地球人殺しは見た。
僕も見た。
見てしまった。
細く、薄く、たおやかな肢体。
癖のないストレートの髪。
凍り付いた清楚な美貌。
淫りがわしいほど白い肌。
揉みしだかれる柔らかな曲線。
昔の妹。
僕の、妹。