胸に優しいナイフを
ご無沙汰しておりました。
最近、面白い人に会いましてね。
そんなに優しくされたら、ぶっ壊れてしまいそうな程に、彼は優しい。
何をして、贖えばいいんでしょうね。優しくされたのならば、何を返すべきなんでしょうかね。
そのことばっかり考えるようになってしまいまして、私はとっても困っています。
「ねぇ、そうでしょ?」
顔こそ見えないが、瞳の奥を覗かれた気がした。
ぐっと胸にナイフが突き立てられた感覚。刃先についた毒が胸を中心にじわじわと広がっていく。痛い、痛い、痛い……。ここまで、うまくやってきたつもりなんだけどな。意識が遠のいていく。なんて受け答えしているのか、分からない。しんどい、苦しい。
「うん、大丈夫。」
誤魔化したい、誤魔化せない。「本当か?」と半笑いで聞いてくる相手の声がわんわん頭の中で反響した。
「責任とか実績とか、そんなもの関係なく、自分の好きなように楽しんでいいんだよ」
私にはそれがよく分からない。だって人様にご迷惑をおかけしないようにしなければならない。人様を楽しませなければならない。
どうして私が怒られているんだろう。確かに、周りが見えてなかったかもしれない。冷静ではなかったかもしれない。じゃあ、どうしたらよかったというのだろうか。
久々の休暇で、友人と共に遊びに出掛けた。本当に久々で、前日から楽しみで仕方なかった。楽しんでもらわなくちゃ、喜んでもらわなくちゃ、と計画を巡らすと自然と笑みが零れた。
結果、負けた。暴走した上に惨敗した。目の前が真っ暗になって、顔が引き攣ってうまく笑えない。画策した図面がバラバラと崩れて、その思考プロセスのために見聞きした情報が飛び交う。
その帰りの出来事だ。
「どうせ、楽しませなきゃ、とかそんなあたりのことを考えたんでしょ?」
冷汗が止まらない。気が付かれていたの?いつ、そんなヘマをやらかした?
人様を喜ばせることは、悟られてはならない。そんな気遣いが見えてしまえば、人様は純粋に楽しんでもらえなくなる。これは、掟。どこかの誰かに教わった、破ってはいけない掟。破ってしまえば、罰を受けなければならない。叱責、罵倒、嘲笑、絶縁……重い重い罰を、与えて。
刃物は服の上を軽やかになぞる。どこに刺そうかな、とでも言わんばかりに。刺されることが分かっていながら、私は刺されないことを必死に祈る。これは、罰なのに、必死に無駄な足掻きを。
「ねぇ、そうでしょ?」
一瞬、ヒヤッと冷たい。直後に胸が熱を帯びる。叫び出したかった。逃げ出したかった。どうして、私のことを、こんなに知っているのか。嫌な感覚が身体中に拡がる。手が、足が、腕が、目が、頭が、チリチリ、フラフラ、ガクガク、クルクル、フワフワ、する。神経や血管から嫌な思い出が流れ出す。毒だ。あぁ、毒が盛られている。足りない頭で導き出した結論はあまりにも酷だ。私を解き放とうとしている。私を殺そうとしている。私を否定して、私を肯定しようとしている。
酷くて、優しくて、苦くて、甘い、毒。
苦しくて、柔らかくて、冷たくて、温かい、ナイフ。
笑おう、笑おう。私は、理解できない。私は私として、存在してもいいと言ってくれることがさっぱり、よく分からない。だって、そんな人は今まで存在しなかったのだから。笑ってやり過ごす以外に私は選択肢を持ちえない。
でも、少しだけ、ほんの少しだけでいいから、優しく抱きしめられたかった。労いの言葉なんていらない。ただ、この胸から流れる、生暖かい何かが相手にもあることを確認したかった。皮膚を一枚隔てた向こう側に、私の求める温かさがある。ほんの数センチが、途方もなく遠い。
「そんなことしたら、お前が死ぬよ」
耳元で誰かが囁く。
構わないさ。この人に殺されるなら、私は嬉しい。
優しさに、殺される。
血みどろの服で、閉じない傷を抱えて、私は静かに涙を流した。