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i  作者: 浅葱
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昨日のこと

こんばんは、ご無沙汰しておりました。

ところで昨日の朝食の内容、思い出せます?

「あなたと初めて会った日の事はね、ずっとずっと忘れないの。」

 彼は頷いた。僕もそうだと言うように。

 「だってそれこそ衝撃的だった。だからね皆の周りではのろけないように頑張ってたんだよ。この人は私の物だって、誰にも教えやしないし、誰にも取らせないって。本当に本気で思ってたんだよ。」

 彼は微笑んだ。僕は何もかも知っていたと言うように。

 「もう昨日のことのように……」

 そこで今さら、本当に今さらなんだけど、彼と目が合った。いや、目は合ってない。長い前髪に隠された彼の目は空洞で、合うはずの目はどこにもない。優しい眼差しを降り注いでくれる目はどこにもない。

 「昨日のこと?昨日のことね。そう、昨日のこと。」

 何も言えなかった。私の心の中は恐怖と悲しみとでないまぜになった魔女のスープのようだった。彼の言葉によってかき混ぜられ、気持ちの悪い色で鍋を彩る、おぞましいスープ。

 「ねぇ、じゃあ、昨日、君は何をしていたの。僕に教えて。」

 昨日?昨日、昨日、昨日、昨日、昨日、昨日、昨日、昨日、昨日、昨日、昨日…………

 「何をしてたっけ……?」



 驚いて目が覚めた。隣には静かに寝息をたてる彼の姿。安心して、その刹那、恐怖に憑りつかれて、もう一度まじまじと顔を見つめた。さすがに見えなくなるほど重い前髪じゃないから、瞼が閉じられているのは確認できた。でもやっぱり怖いから、瞼の薄い皮膚を持ち上げてみる。よかった、ちゃんと眼球もあった。

 「何だよ。瞼をつまむな。」

 起こしてしまい機嫌の悪そうな声に払われて、慌てて手を離した。

 「ごめんね。あの言葉を使っちゃダメだったみたいだ。」

 「はぁ?」と怪訝な声が返ってきた。それもそうだろう。夢の中で起きたことは彼のあずかり知らぬことである。



 もちろん、比喩表現なのだから、そこまで気にすることもないのだが、確かに「昨日のことを覚えているか」と問われると答えに窮する。人間の記憶、特に何でもないありふれた日常なんて、たいして覚えていない。少なくとも私はパッと思い出せない。今日が何月何日で何曜日で何の授業がある、とかそんな程度のこともすぐに忘れてしまうのだから当たり前だろう。しかし、そう考えると、昨日のことのように、とは少し面白い感覚が生まれる。

 つまるところ、とても印象に残っているからすぐに思い出せる。しかし一秒前のことではすぐすぎて、そんなにすぐには思い出せない。そうなると、すぐ、の境界はどのくらい過去なのか。そんな問題のちょうどいいラインにいたのが24時間前、昨日だったのかもしれない。

 けれど現実問題、その昨日が思い出せないのだ。昔と今では情報量が違うのだし、比較にもならないだろうが、もしその比喩が明確に生まれた時代があったとしても、その比喩を作った不特定多数の作者も何でもない、ありふれた昨日のことは思い出せなかったかもしれない。


 思い出せない昨日のことのように覚えている、と言われたら確かに嬉しいんだか悲しいんだか。私は一度そんな曖昧さを覚えてしまうと、その言葉を使いづらくなってしまう。自分に落ち度があるわけでもなんでもないのは分かっているのだが、自分にはその言葉を使う権利がないのではないか、みたいな強迫観念ができあがってしまうのだ。


 けれど、言葉は寛容。現にこうして、私は文章を考え、書き、推敲を重ねている。私が曖昧さを覚えた言葉だろうと、その言葉たちは正しい使い方さえすれば協力してくれる。

 言葉は偉大過ぎて、私がそのことについて書くことも烏滸がましいが、その言葉がいなければ、私は誰かに何かを伝えることもできない。だから、ただ、私は言葉のことを学び続けるしかない。


誰かに何かを伝えるために。ただその目的のためだけに。



しかし、その「誰か」は昨日のことのように思い出せない。

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