11話 久遠
よろしくお願い致します。
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「……いちのせ……くおん──」
彼女の口から出たその名を。俺はただ呆然と復唱する。
その様子を見ていた彼女は、横に置いてある自分のショルダーバッグからメモ用紙を取り出し、ペンを走らせる──そしてその紙を俺へと手渡してきた。
一ノ瀬 久遠──そう紙に記されてあった。
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俺は胸元のポケットにあるペンを取り出して、その紙に自分の名前を書き込んだ。それを彼女に渡し返す。
「洸。俺の名前は、神崎 洸って言うんだ」
その紙を取り、彼女もまた俺の名前を声に出して繰り返した。
「神崎 洸──なんかカッコいい名前だね」
そう、呟くように言う。
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……確かに我が名ながらカッコつけた響きだと思う……だけど、君がその口で言うのはやめてっ!──メチャクチャ恥ずかしいからっ!!
こうなりゃこっちも、ちょっと仕返ししてやろうか──?
「久遠─っていうのも綺麗な響きだよな。もしかしてキラキラネームってやつ?」
……だが、彼女は俺の予想以上の猛者だった。
「えっ、そうなんだよね。うちの親、私に久しく永遠に美しくあるようにって──どう? 私って、名前の通り綺麗でしょう?─って──あははははっ!」
─って、自分で言うなよっ!──たっ、確かに可愛いんだけどもさっ!!
「あ~っ! その顔……今、自分で言うなって思ったでしょ?」
ジットリとした目を向けてくる彼女。
……何か俺、遊ばれてるな……。
「──あははははっ!」
それにしても、良く笑う子だな……そう思った。
見た目は清楚で慎ましやかで、これぞ大和撫子って感じなのに、その実、彼女から発せられるその口調は、凄く明るくて、あっけらかんとしていて……このギャップがまた、俺にとって堪らなく魅力的に感じてしまう訳で──
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「そういえば、神崎さんって今、いくつなんですか? 何か私より年下に見えるけど」
「俺? 俺は20歳だけど……」
「え~っ そうなんだ。奇遇、私も20歳なんだ……そっか、同い年か……でも──くすっ、そうは見えないな~、ちょっと可愛いかな~、なんて……」
………。
──はいはいはい! どうせ俺は童顔ですよっ!
未だに会社帰りに駅前で補導されそうになったり、本屋でいかがわしい本を購入しようとして、店員に問い詰められたりしちゃってますよーーっ!!─って……はぁ~~。
だいたい男が可愛いって言われても、ちっとも嬉しくねぇんだよ……できれば、メチャクチャ男くさいイケメンに生まれたかった。
……ぐすん。
「いっけないぞ~、子供がこんな時間に、あんな所に行っちゃいけないんだぞ~、お母さんが心配してるぞ~って──あははははっ!」
「いやっ、さすがにそれは言い過ぎっ! 酷い! もう、お婿さんに行けないっ!──そして洸というひとりの男の物語りは幕を閉じるのであった……完──ちゃんちゃん♪─って、終わってどうすんだよっ!!」
「──くすっ、何それ。じゃあ君の事、私が貰ちゃおうかな~、なんてね──あははははっ!」
いっ、いや、そんなつもりで言った訳じゃないんですけど……すっげー恥ずかしいっす──でも本当に良く笑うな……この子、何かこっちまで笑いたくなっちまうじゃんかよ。
「あ~っ ホント楽しいっ!──あははははっ!」
──あっ、また笑った。
「もう、笑い過ぎだっての……あはっ、ははははっ!」
そして俺もつられて──笑った。
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「そっかぁ~、神崎くん……いや、洸くん。う~ん、なんか言いにくいな……洸──コウ。うん、何か響きいい。同い年なんだし、もう呼び捨てでいいよね?─ねぇ、洸──」
「いや、肯定するも何も、もう呼び捨てになってるじゃん!……その代わり俺も久遠って、呼び捨てで呼ぶからな」
「うっす。望む所、ドンッと呼んじゃってくださいっ!──あはははっ!」
「……久遠ってホント、良く笑うよな……ははっ、あはははっ!」
またふたりで笑い合う……そんな時間がとても心地良く感じられた。
不意に久遠の身体に顔を埋めていた女の子が、顔を上げて俺達二人の事を交互に見返している。その表情はとても物欲しそうな雰囲気を醸し出していた。
──あ、ごめん。俺達、君の事、丸っきり忘れてた──久遠もその事に気付き、そして……。
「──ぷっ、あははははっ!」
「ははっ、あははははっ!」
「……くすっ、あははははっ!」
──今度は三人で笑い合った──
◇◇◇
それからいくらか時間が過ぎ、今は俺と久遠、ふたりっきり──
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女の子は父親が迎えにきて、そして帰って行った。別れの際、彼女とその父親は是非お礼がしたいと、俺達二人の連絡先を知りたがっていたが、
──「気にしないで下さい。できるだけの事をしただけですから、運が良かったんですよ」──
余計な気を使わせるのも気の毒だと思い、俺達ふたりはその申し出を丁重にお断りした。久遠の方は、どうしてもと涙ぐんでお願いする女の子に負けて、お互いの連絡先を交換したようだった。
少しお腹がすいた──と今、俺達は夜食をとっていた。
俺はミートソースのパスタ。彼女の方はカルボナーラ。それを食べ進めながら会話を楽しんでいた。
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「あの女の子ね、名前、えみりちゃんって言うんだって──可愛い子だったね」
「……まあ、そうかな?」
「またまた~。せっかく現役の女子高生と仲良くなれるチャンスだったのに──残念だった?」
「う~ん。いや、別に……」
「実はえみりちゃんに君の連絡先を聞いて、後で教えて欲しいって、お願いされてるんだよ。直接聞く勇気がないからって」
「──えっ、そうなのか?」
「……うん」
俺は考える。
その女の子に連絡先を教えてるって事は、すなわち久遠に俺の連絡先を教えるって事に──その事が素直に嬉しく感じ、これからの行動とか、色んな妄想で、頭ん中がいっぱいになってしまう。
だけど、やっぱり今は──
「そんな事よりさ、久遠、せっかく知り合えたんだ。お互いの事、もっと色々と話そうぜ」
自分にしては積極的とも思えるその言葉が、すんなりと口にできた事に俺自身、割りと驚いていた。
「──うん、私もそう思ってた。是非受けて立つよ」
彼女はニッコリと微笑んだ。
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そして俺達は、お互いの事を自己紹介も兼ねて話し合った。
彼女は女子大生──両親三人家族で実家暮らし。
今日はサークル仲間との女子会の帰りだったという……でも、何故あんな人通りの少ない路地裏を通る事になったのか、それが少し気になったのだが……。
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「君さ、今日、あの変な居酒屋。『サイキッ喰う』だっけ、そこで女の人と一緒だったでしょう? 私もその店にいたんだ。そこで女子会だったから……」
「──そ、そうだったのか」
「その時から、妙に気になってたんだ。君の事が……だから、店を出てからもずっと気になってて──ふと見たら、歩いてた君の姿を見掛けたから……」
彼女は俺から視線を外し、前に置いてある空のグラスの方へと向けた。
「気が付いたらその後を追ってた──ふふっ、まるでストーカーみたいだね……」
……なるほど。そう言う訳だったのか。
それから久遠は、再び俺へと視線を向けてくる。
「あの時はありがとう。私に勇気をくれて……」
「──えっ、なんの事?」
「あれだよ。絡まれてるえみりちゃんの事、助けようとして男達に向かって行ったでしょ? あの時、私すっごく勇気づけられたんだからっ」
……ああ、アレね。男の足にしがみつく事しかできなかった……情けないアレね……。
「いや~お恥ずかしい事で、頼りなくて申し訳ない。あの時、久遠が大声を上げてくれなかったら、今頃どうなってたか……俺の方こそありがとう」
俺はバツが悪そうに、頭をかきながらそう答えた。
「──そんな事ないっ!! あの時えみりちゃんが絡まれてるのを見て、私は怖くて動けなかった……助けなきゃ──そう思っても、身体がいう事をきかなかった。それでも……私があんな事できたのは洸、君が先に動いて私に勇気を示してくれたから……だから……」
彼女は少し涙で潤んだ様な瞳で俺の事を見つめてくる……そんな彼女の姿が、とても特別な存在と思える自分がいる。
……それでもやっぱりヘタレな俺は、彼女のその視線に長く耐える事ができず、慌てて目を逸らしてしまう。
……あ~あ、まったく俺って奴はよう……このポンコツ野郎め……はぁ~~。
「……まあ、その、なんだ。もうちょっとカッコ良くできなかったかなって、後悔してるんだけど……たははっ」
思わず漏れる言葉と苦笑い。
「──だから、そんな事ないってば! 向こう三人もいたし、普通あの状況じゃ、なかなか飛び出してなんて行けないよ。でも君は躊躇なく踏み込んで行った──充分に凄いと思うし、それにあの時の君は……その……カッコ良かった……」
その言葉、メチャクチャに嬉しいけど……それ以上にすっごく恥ずかしいっす!!──感じた事がないくらい身体が熱い!
うっきゃーーっ!! 一体何なんだ、この感覚は……!!
そんな思いを巡らせていると、久遠は少し声のトーンを落として呟くように問い掛けてきた。
「あの店で一緒にいた女の人って、洸の彼女さん……なの……?」
……何でそんな事を聞くのだろうか? この流れは俺にとって良い方向の流れ?……そう受け取っていいのだろうか……。
「いや違う。あの子はただの友達。俺、今彼女いないから──」
「そう……なんだ……」
俺の勘違いでなければ……。
「久遠は、その……彼氏とかいるのか?」
俺は彼女がきっと、“いない”──そう答えくれると思ってた
……だけど──
「……うん、いる……の、かな……?」
その彼女の言葉に、一瞬立ち眩みに似た感覚に陥り、軽く耳鳴りの様な音が頭の中に響いた……そんな気がした……。
──そう……なのか……?
「……ごめんね。私から言い出した話なのに、なんか変な空気になっちゃって……本当、ごめんなさい──」
彼女は力ない声で、申し訳なさそうに、そう謝罪の言葉を口にした。
……それでも、その顔は静かに微笑んでいて──
俺に対して久遠は “笑いかけてくれる” だったら……それなら──
「ああっ、いけないっ! もうこんな時間なんだ」
彼女のその声に、俺はスマホで時間を確認する──成る程、もう終電に差し迫った時間帯……。
このファミレスから既に駅は見えている。そして俺達ふたりが乗る電車の改札口は別──すなわち彼女の事を送って行く必要がなく、それはこのファミレスを最後に別れる事を意味する──
「今日は楽しかった──ありがとう。私、こんな気持ちになったの、初めて──」
──え? 初めてって、なんで? 彼氏がいるって言ってたのに……正直、意味が分からない。
だけど、そんな事はもうどうでもいい。今の時──肝心なのは、“神崎 洸”と“一ノ瀬 久遠”──ふたりの人間がこうして巡り逢えた。
そして彼女に俺以外の彼氏がいる。この状況下に於いても彼女は……久遠は……俺に笑顔をくれる。そんな彼女とまた……いや、ずっと一緒にいたいと思う俺がいる……。
だから──
「久遠。また、俺と会ってくれないか……?」
俺のその言葉に、彼女は再び柔らかい笑みを、俺に返してくれた。
「うんっ、もちろん! 私もそう思ってた──」
そして俺達は、お互いの連絡先を、スマホを通して教え合う。
「それじゃ、また。いや……絶対に連絡するから、待っていてくれ」
「うん。私も、声が聞きたくなったり、会いたくなったら、連絡するから……」
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ファミレスの支払いに、ふたりでレジに向かう。
俺が社会人で久遠が学生だから、俺が払うのが当たり前だと突っぱねたのに、それとこれとは別──そう彼女は頑なに断った。
理由は……今度会った時にもっと美味しい物を奢って貰うつもり──久遠は悪戯っぽい笑みを浮かべながらそう言った……そう言われてしまえば、嬉しさで俺はもう、何も言い返せない……。
そして店を出て駅に入り、俺達はそれぞれ反対方向へと踵を返し、歩き出した──お互い何度も振り返り、手を振る。
そうしてると、何故か久遠が何かを思い出したかのように、息を切らしながら俺の所へと駆け戻ってきた。
──うん? どうしたんだろう?
俺の目の前に、ピンクの花のヘアピンを付けた女神が、再び舞い降りた。