後編
「お待たせ。持って来たわよチョコレート。みんなで食べましょ」
松岡先生だった。1枚の手紙と共にチョコレートを持ってきたのだ。
「その手紙は?」
「これはB君が一緒にくれた手紙よ。B君はいつも手紙と一緒にお土産を手渡してくれるの。そういえばまだ読んでなかったなと思って一緒に持ってきたのよ。あなたたちも見る? 結構彼の一言メモって面白いのよ」
B君はどうやら松岡先生のことをよほど気に入っているようだ。
「それじゃ、せっかくなので見せてもらってもいいですか?」
「もちろん。はい」
僕は松岡先生からその手紙を受け取る。そこにはノートの日付と同じ4月15日に中国に旅行に行った旨と、その感想が記されていた。ふむふむと読み進めていた僕だったが、最後の一文を見て目が飛び出した。そこにはこんな豆知識が記されていたからだ。
(追伸:そうそう先生、僕も初めて知ったんだけど、天津飯って中国にはなかったんだね。いい勉強になったよ)
「……え?」
「どうしたの翔君?」
この文章がもし正しいとすると……。僕はさっきの忘れ物のノートを手に取った。
「ちょっとちょっと、もうノートの持ち主探しは終わったでしょ翔君」
有沢さんの言葉には目もくれず、ノートをもう1度開く。開いたのは最初のページ。4月13日から16日までの食べ物の記録が記されている最初に3人で音読したページだ。
「ちょっとここを見てください!」
「4月15日。今日は中国の天津飯を食べた。すごくおいしかった。」
「これ……?」
「これがどうしたの?」
2人はまだこの手紙を見ていない。僕はノートの横にB君の手紙を並べた。
「B君のこの手紙のここ、最後の文章を見てください! 天津飯は日本の食べ物って書いてあります。これっておかしくないですか?」
『あっ……』
有沢さんと松岡先生は同時に声を上げる。
「確かに、B君がこんな間違いはしないわ……。彼なら必ず正しい情報を私に教えてくれるもの」
「それに、B君の書いた文字とこのノート、ちょっと筆跡が違うような気もしますね……」
そう、このノートはB君のものではなかったということになる。主観的にも客観的にもそれは明らかとなった。
「でも、だとしたらいったい誰が……」
「ノートの持ち主はまだ分かりませんけど、今ので少しだけ分かった気がします。僕が引っかかった場所が2つあったんですけど、まずこのノート、1人の人が書いているわけじゃないですよね」
見て分かる通りだが、このノート、味についてやたら細かく書いてある部分とただおいしかったとしか書かれていない単調な感想が並んでいる部分との2つがある。これを同一人物が書いたとは思えない。
「そうよね。それはまあ筆跡が違うから何となく分かるけど……」
松岡先生もそれには同意する。ノートの筆跡もちょっとだけ違うので、これに関しての異論はないようだ。
「じゃあ2つ目なんですけど、この食べ物を食べた感想の書き方です。僕たちは最初これをその場所に行って食べたと思って話してましたよね」
「そりゃ、だって中国の、とかアメリカの、とかって書いてあったし……」
有沢さんの言うことはもっともだ。
「でも、本当にそうでしょうか?」
「何が言いたいの?」
分かっていない様子の有沢さんに対して、僕はこう尋ねた。
「有沢さん、松岡先生がさっき持ってきてくれたのって何でしたっけ?」
「えっ? ああ、B君のチョコレートのこと?」
水を向けられた有沢さんは一瞬ぽかんとしながら答える。
「そうです。あれってどこのチョコレートでしたっけ?」
「どこって、中国に旅行に行ったんだから中国のに決まって……あれ? もしかして……」
有沢さんも気付いたようだ。
「はい。この、のっていう言葉にはいくつかの使い方がありますよね。たぶん、今回このノートに書かれていた○○のって国とか都道府県の名前が書いてある部分は、その食べ物が有名な地名を食べ物の前にくっつけているだけなんじゃないかと思うんです」
「なるほど。だから、その地方に行ったわけじゃないって翔君は言いたいわけか。そして、そのせいでさっきの天津飯みたいな間違いが生まれたと」
松岡先生がまとめる。僕がこのことに気付いたのは、最後の文章の南アルプスの天然水のおかげだ。あの文章があったからこそ、この答えにたどり着くことができたのだ。
「すごいすごい! きっとそうだよ! それじゃ、このノートの持ち主は?」
「うーん、それがちょっとまだ分からなくて」
目を輝かせる有沢さんだが、残念なことに僕が分かるのはここまでだった。このノートが交換ノートであり、実際にその場所に行って食べたわけではなくその地域の特産品を思い浮かべながら書いたというのは間違いなさそうなのだが、ここからノートの持ち主にどう結びつくのかがさっぱり分からない。だが、ここで真実に一番早く辿り着いたのは意外にも松岡先生だった。
「なるほどね。そういうことか。優穂ちゃん、どうやらここはあなたの出番みたいよ?」
「え? 私ですか?」
名前を呼ばれた有沢さんはまたもやびっくりしたように肩を震わせる。
「そ、図書委員のあなたがね」
松岡先生は有沢さんに片目をつぶって見せた。
松岡先生のウインクの意味を僕が知ったのはそれから数日後、同じ木曜日の放課後に僕が図書室に行った時だった。
「あ、翔君。一週間ぶりだね」
「こんにちは有沢さん」
この日の図書当番は有沢さんだった。松岡先生は結局それから交換ノートがどうなったのかは教えてくれなかった。気になるのなら直接本人に聞いて? と言われた僕は、有沢さんが当番の日を見計らってもう一度図書室に足を運んだのだった。
「松岡先生は今日はいないんですか?」
「職員会議だって。今日は誰も来てないから私たち2人だけだよ。わざわざ人の少ない放課後に来たってことは、やっぱり気になった? この間のノートのこと」
もちろん、それが気になったからこそ有沢さんに聞きに来たのだと僕は首を縦に振った。
「だよね。まあ安心して。ノートはちゃんと返せたから」
有沢さんによると、交換ノートをしていたのはCさんとDさんの2人だったらしい。松岡先生は別の日に2人が交換ノートをしていたのを見ていたため、すぐに心当たりがあったのだそうだ。
「ノートの持ち主が分かった次の日、私からCさんにこっそりノートは返しておいたんだけど、そしたらCさんが泣くほど喜んでくれてね」
もうありがとうございますの一点張りだったという。
「Cさんはね、私のクラスで一人で本を読んでた女の子だったの。私も元々本は好きだったから話してみたいなとは思ってたんだけど、いつも本ばかりを読んでて他の人と話さないようにしてるみたいに見えたから、何となく近寄りがたいなって思っちゃって。そしたらCさんの方も、クラスの人と壁を感じてて話しにくくて本を読んでたんだって。で、クラスの子と話すより図書室で本を読んでた方が楽しいって図書室に行くことが多くなってたらしいの。で、そんな時に先輩のDさんと知り合って意気投合したみたいで、それで仲良くなったらしいよ」
それで、ある時2人は交換ノートをしよう、という話になったのだという。でも、普通に交換ノートをするのではつまらないから、その日に食べたものを日記形式にして交換しよう、という話になったらしい。
「食いしん坊のDさんの発案らしいけどね」
有沢さんはふふっと笑う。でも、結果的にそれがCさんの居場所となって楽しい時間を過ごせていたそうだ。でも、ノートがなくなってCさんはすごく困っていたという。図書室に行くのもしばらくやめていたくらいで、本当にどうしようかと思っていたそうだ。
「そんな時に私がノートを見つけたでしょ。Cさんからしたら私は神様みたいなものだったらしくて、すぐにCさんと仲良くなれたよ。クラスでできた初めての友達だって。ある意味翔君のおかげかもね」
「良かったじゃないですか! ノートの持ち主さんも見つかったし、有沢さんも友達ができて万々歳ですね!」
「そうだね。……でも、また助けられちゃったなあ」
「また?」
どういうことだろう? 前にも同じことがあったのだろうか。
「そうだな。翔君になら話してもいいかな。前に怖い先輩がいたから図書室を避けてたって話したの覚えてる? あの時は松岡先生が帰ってきちゃったから話が途中になっちゃってたけど」
「はい、覚えてます」
怖い先輩がいたから図書室を避けていた時期があったという話だろう。続きが気になっていたところだった。
「実はね、その怖い先輩ってさっきのDさんだったの」
「えっ、そうだったんですか?」
今では仲良し、とまで聞いていたのでちょっとビックリだった。
「交換ノートの時にもちょっとだけ話したけど、Dさんって結構ヤンキーっぽいところがある人なの。クラスメイトでも結構怖がってる人は多かったみたい」
実際話してみると人懐っこい先輩だったんだけど、と有沢さんは笑った。
「私も同じようにDさんのことを怖がってたんだけどね。ある日の帰り道、変な人に絡まれたことがあって。その人に危なくどこかに連れ去られそうになるところだったの。腕をつかまれて怖くて動けなかったんだけど、そんな時たまたま通りかかったDさんがね、無言でそいつの股を一蹴り。男が動けなくなってるところを私を連れてさっさと逃げてってくれたことがあったんだ。それからDさんのことを見る目が変わったの」
それが初めてのDさんとの出会いだったという。有沢さんは説明を終えると、僕の方をまっすぐ見る。
「ねえ翔君、人っていろんな偏見とかをどうしても初対面の人に持っちゃうところがあると思うの。私も今回そうだったし、翔君も私のことが不安で確認しに来たでしょ?」
僕は頷く。実際、最初は有沢さんのことを少しだけ苦手かもしれないと思っていた自分がいた。
「でもね、その人の中身を知ろうとすれば、相手のいいところってどんどん分かってくる。そうするとね、世界ってもっと広がっていくの。私は今回のことでそれをまた1つ学んだ気がする。だからね、翔君も新しい出会いを恐れないで。きっとあなたにとってのその出会いは、あなたにとっての何かを助けてくれるはずだから」
有沢さんのその言葉に僕は力強く頷いた。話していくうちに有沢さんのことをいろいろ知ることができて、何だかもっと彼女と話したい、とまで思えるようになったからだ。この人と話すことができて良かった、と僕は心から思う。
「ありがと。何か長くなっちゃったけど、君にはどうしても話しておきたくて。それじゃ、これ。書架に戻しておいてね」
返却手続きを終えた本を受け取ると、僕は元あったところに本を戻しに行く。そのままそのシリーズの本を2冊持ち、再び有沢さんに手続きをお願いした。有沢さんは手早く事務処理をすると、僕に本を手渡した。
「はい。手続き終了。それじゃ、返却期限は1週間だから」
「ありがとうございます。あの、有沢さん」
なあに? と有沢さんは柔らかく尋ねる。
「僕、来年図書委員になります。有沢さんみたいに、たくさんの人と出会うために」
「そっか。翔くんにも何か思うところがあったみたいだね? 良かった良かった」
有沢さんは僕の背中を軽く押す。頑張れと言ってくれているかのようだ。僕が振り向くと、有沢さんはちょっとだけ照れたようにはにかんでいた。
「私も来年君が図書委員になるの楽しみにしてるよ」
その有沢さんの微笑みを見て、ああ、これが人と新しく出会うことなんだ、と少しだけ分かったような気がした。