第七話
「あ、松木さんおはようございます。」
「あらおはよう、若菜ちゃん。ワンちゃんの散歩?若菜ちゃんの家が犬を飼っていたなんて知らなかったわ。」
「えと……友達が譲ってくれて、最近飼いはじめたんです。白って名前なんです。」
「白ちゃんって言うのね~。可愛いワンちゃん、よしよし。」
『……ワンワン!』
「あら~お利口さんだこと。それじゃあ若菜ちゃん、またね。」
「はい、さようならー。……って白!?大丈夫ですか?」
『俺はもうだめかもしれない……』
俺は力なくうなだれた。永い時の中で様々なことを経験してきたと自負していた俺であったがこんなことは生まれてから初めてである。
『まさか……俺がワンちゃんと言われて可愛がられる日が来るとはな……』
「いいじゃないですか~。今のワンちゃんの姿、愛嬌があってとっても可愛いですよ?」
『お前、俺がこの姿だからって調子に乗ってんな。いいか覚えとけよ?今日の修行は特別厳しいものにしてやるからな。』
「ず、ずるいですよそういうの!第一お散歩したいって言ったのは白じゃないですか。私だってちょっとくらい楽しんでもいいと思うんですけど。」
少し怒ったような声を出して若菜を脅してみるが、こいつはなぜかいつもよりテンションが高く、真剣に受け止めている様子はない。よし分かった、今日は泣くまでしごいてやるからな?
『よしお前、帰ったら……』
「白、止まってください。」
『は?止まるだ?何のために?』
俺が前を向くと、そこには白の帯が等間隔に敷かれた道路と赤い光を発する物体があった。その物体はさっきまで青い光を発していたはずだがいつの間にか色が変わったのか。いやそもそもなんで色が変わったのか、何かの妖術が働いたのか……。ならば危険だ、若菜に今すぐ伝えなければ。
『!? 若菜、気を付けろ!あいつ、さっきと色が変わったぞ。何らかの術が発動したのかもしれん。俺から離れるな!』
「あいつ?……えと、あの信号機のことですか?」
『信号機と言う名前なのか。とにかく気を付けろ!何をしてくるか分からん。』
「いやいやいや、信号機は私たち歩いている人と道路を走ってる車がぶつからないように上手く整理している機械なんです!あれが青色になったら私たちがこの道路を渡っていいってことで、今の赤色は車が通るから渡っちゃダメってことなんです。」
『車?馬かなんかが引いていた奴か?その程度ならこの俺が避けられないはずないだろ。』
そう言って俺が一歩踏み出すと、すごい勢いで若菜に抱きしめられ、後ろに引っ張られた。
『な、何やってんだよお前。ちょっと大げさじゃ……』
そう言う俺の目と鼻の先を凄い速さの黒色の箱が走り去った。それはもう本当に一瞬の出来事で、後には強い突風とビュンという風を切る音が残された。何が起こったのか分からず、ようやく反応できたのは黒い箱が遠く小さくなってからだった。
『な、なんだあれ。』
「あれが車です。ね、危ないでしょう?だから信号は守んなきゃだめですよ。それにここは特に交通量が少ないから車も凄いスピードを出すんです。」
『今の車ってのはヤバいな。今の俺がぶつかりゃひとたまりもねえぞおい!』
足の速い妖怪に勝るとも劣らない速度を持ったあの箱を本当に人間が使っているのか、人間ってのは弱いくせに、時々とんでもないことをするから恐ろしい。
「だから、信号は守ってくださいね。」
『……分かった。というかお前、いつまで俺を抱きしめている気だ?』
「はうっ。白のモフモフの毛が暖かくて気持ちよかったもので。家には犬を飼うのを禁止されているので、ずっとこうしてモフモフしてみたかったんです。」
ちなみに今の俺はキュートな犬の姿。宮代の家の者には見つからないようにこっそり家を出て来たのであった。まあ見つかったらその時は妖怪であることを示せばいいだけではあるが、ただでさえ立場の弱い若菜が、これ以上宮代の家に悪く思われるのもあまり面白くはないと思ったからだ。
しばらくそうしていると信号機という機械は再び青色の光に変わった。若菜の話通り車は通らなくなり、俺たちと一緒に待っていた歩行者が歩き出す。
『まあいい。ワンワン!ほら青になった。行くぞ!』
俺たちは軽快に道路を渡り切り、目的地である河川敷へと向かった。
※※※
『河川敷の公園?』
「そうです。結構広い公園で犬の散歩のゴールにしてる人も多いんですよ。私たちもそこまで行ってみませんか。」
『俺は別に犬の散歩がしたいわけじゃないんだが……』
「まあいいじゃないですか、行きましょう行きましょう!」
※※※
「着きました。ここが公園です!」
土手の階段を上がり切り、下を見下ろすと遠く山の方から流れている川とその脇にはどこまでも続いているように見える広い原っぱがあった。手前には子供が遊ぶための遊具があり、親子で遊びに来ている人々も散見される。
『確かにこれは広いな。驚きだ。』
屋敷の中や町中で感じていた閉そく感がここにはなく、確かに散歩でわざわざここまで来ている人の気持ちも分からなくなかった。そのことを伝えようと若菜を見上げると、やけに嬉しそうな顔で彼女はこちらを見ていた。
「あの……白?玩具ならいっぱい持ってきたので、しばらく遊んでから帰りませんか?」
『お前やっぱり都合のいいこと言って楽しんでるだけだろ!』