第一話
カツン、カツン…
光の届かない真っ暗なこの部屋で自分以外の生き物が立てる音を聞いたのはいつ以来だろうか。足音はその主の迷っている心を示すかのように断続的に聞こえたかと思えば、しばらくの時間をあけて聞こえてくることもあり、まるで打楽器の練習を聴いているような心地だった。自然の音以外で久々に聞いた刺激にしばらく神経を集中させているうちに、足音は階段を下りる音に変わり、こちらへと近づいてきた。
長い暗闇の中での生活では滅多にしないため久しぶりに目を開くと、怯えているのか壁に手を添えて震えながらゆっくりとこちらに近づいてくる人の子が見えた。暗闇を恐れて肩を竦めて歩いてくる人は、年の頃ははっきりと分からないがどうやらまだ子供のようだった。
屋敷の隅にあるこの倉に来る人は、古い道具を取りに来る下働きの者くらいで、しかも俺のいる地下室に人間が降りてくることは、俺がここに来てからは一度もなかった。
本来の姿であれば狭いこの地下室も、今の、人間より少し大きな狼の姿ならば丁度いい大きさではあるが、一人で過ごすには少し退屈だ。
なので久しぶりに人間を見ると、まずあいつを怖がらせてやりたいという気持ちがむくむくと湧いてきた。
「ほ、本当にここにいるのかな……」
びくびくとした足取りで倉の奥の奥にある地下室へと入ってきた人の子はそこで初めてか細い声を出した。腰が引けてなんとも情けない格好を俺は正面から見ているが、どうやらそいつはこの部屋に俺がいることにさえ気づいていないようだった。
人間ってのはなんて弱い生き物なんだろう。更に近づいてやって目と鼻の先に来たというのに、驚く素振りすら見えない、というかたぶん気付いていない。さっきから顔にかかっている俺の鼻息も、この倉の隙間風だとでも思っているのだろうか、ははは。
俺は次にそいつが何かしゃべったら怖がらせてやろうと決めた。
「でも、お女中さんたちの話が本当ならここに来れば、『俺様の眠りを妨げたのはお前か……』
「ひぃ!」
『人間風情が俺様の眠りを妨げようとするか!』
嘘だ。眠ってなんかいないし、むしろ暇で暇で退屈していたところだ。途中で笑ってしまわないように苦労すると思ったより厳粛な声が出た。部屋の雰囲気だけで怯えていた人の子は、突然目の前から厳しい声が聞こえてきたのに相当びっくりしたのか、その場で固まってしまった。
よし、いい感じだぞ、一人でこんな倉に来るからちょっとは度胸があるのかと思えば、こいつは相当のビビりらしい。
『一体誰の許可を得てこの部屋に入ってきた……。許さん……許さん……』
更に声を作って怒りを示すと、そいつは恐怖のあまり腰が抜けてしまったのかその場でへたり込んだ。なんとか立ち上がろうと足を動かしているが、力が入らないようで何度も足を床に滑らせてしまっている。怖がらせているこちらが哀れに思うほどの様子に、俺はもっと怖がらせたらどうなるのかが気になった。とりあえず失禁ぐらいはさせてやりたい。
俺はいまだ立ち上がれない人間の背後に回り、その耳元で囁いた。
『お前、宮代の人間だな。この場所に何の用だ。』
「ひゃっ」
突然耳元に息を吹きかけたのが相当びっくりしたのか、そいつはその場で両肩をビクンと上下させた。逃げるためにか後ろへとじりじり下がっていたらしいが、俺が背後に移動していることに気付き、恐怖で色を失っていた顔をより白くさせた。
『この場所には入ってこないとの約束だったはず……。それを破るのであればお前の一族ごと呪ってやる……』
「ど、どうか、それはやめてください。家は関係ないです。全て私が勝手にやった、私の責任です。」
『ほう、一理ある。確かに責任は全て貴様にあるな。』
「え……?」
『見た所弱いがきれいな妖力を持っているようだ。……ならばお前を食ってやる。』
その言葉を言った時、俺は微かに違和感を感じた。目の前の人間がホッと安心したような顔をしたからだ。
「分かりました。お願いします。」
『は?』
「どうぞ私をお食べください。」
『いや、待て待て。いいのか?お前食われるんだぞ?分かってるのか?』
「勿論です。どうぞお食べください。」
『お食べくださいって……』
「私、宮代家の邪魔者なんです。長女なのにあんまり力が強くなくて、父と母も私より才能も力もある妹が家を次ぐべきと考えているから私とは顔も合わせてくれなくて……。でもそれはいいんです。私より妹の、桜の方が当主に向いているのは分かっているから。でもそうすると私はただの邪魔者。だから私は妹のために早くに死んでしまいたいのです。この倉の封じられた地下室には強力な妖怪が閉じ込められていると聞いて、殺されに来たのです。どうか私を殺してください。」
唖然とした。ここに来る前に会った人間で死にたくないという奴は数えきれないほどいた。しかし自分を殺してくれと言った人間は目の前の人間とあいつくらいだった。
――あたしを殺してみてよ!
『あーあー。ったく!』
「え?」
『お前は自ら食べてくださいなんていう獲物を仕留めて楽しいと思うか?』
「そ、それは……」
『俺はな、そういうのつまんねーんだよ。』
「つまんないって……えっと。というか口調が変わっているような……」
『いいか?俺は雑魚狩りして喜ぶような趣味はねぇ。狙うのは強いやつだけだ。お前を食べるのはやめだ。そうだな……俺がお前を鍛えてやる。』
「え?」
『勘違いするなよ?お前が強くなって食べてくださいなんて言わなくなったら食ってやるんだからな。』
「えと、はい……?」
「見ての通り俺には余ってしょうがないほどの時間がある。明日からまたここに来い。修行をつけてやる。俺ならお前に退魔師としての力もつけさせてやれる。そうすれば少なくとも邪魔者では無くなるだろ?」
「わ、分かりました。よろしくお願いします!……あの、」
『ん?なんだ?』
「あのしゅ、修行で……何か必要なものとか持ってくるものはありますか?」
『必要なものがあれば倉から取ればいい。だからお前は手ぶらで来ればいいさ。……あ、そうだ一つある。』
「?」
『明日は明かりを持ってこい。今みたいに明後日の方向にお辞儀されても困るからな。』
「す、すみません!」
誰もいない空間に向かってお辞儀していたそいつは、慌てて別の方向にお辞儀し直した。しかし悲しいかな、俺はそいつの背中側にいて、そいつのお尻が突き出されていた。
俺は鼻先をそいつの背中にぶつけた。こいつ、本当に何も見えていない状態でお辞儀してるんだな。
「ご、ごめんなさい。……その、明日からよろしくお願いします!」
そう言って人の子は来るときよりも軽やかに帰っていった。気紛れな思い付きだが、人間なんてほんの一瞬の生き物だ。この修行だって退屈しのぎには丁度いい。ちょっとあいつを今世最強の退魔師にしてやるか。