コミュニケーションが取れねぇと部活は出来ねぇんだよ
このお話で物語は完結します。続きそうですが続きませんので、予めご了承ください。
その日の放課後。
ついに我がギャルゲー部にパソコンが設置されることになった。
もちろん最新式のものではないが、学校で使うものにしてはかなりハイスペックな仕様のパソコンだ。パソコン部の部長もなかなか味なことをしてくれる。オレ様は早速パソコンを少しだけ分解して、ハードディスクを換装した(予備のハードディスクを家から持ってきた)。なんでかって? 学校が用意してくれたシステムだと制限が多すぎていろいろ不自由だし、そもそもドメイン参加をするためのネットワーク環境が部室にないからだ。壁に穴を開けてケーブルを這わせることも出来るが、そんな大掛かりなことはしたくない。機器があればワイヤレスネットワークを構築することも出来るけど、もちろんそんな金はない。そもそも学校のパソコンは全て有線で繋がっているので、無線でホストにアクセスすることは出来ないのだ。したがって、このパソコンではインターネットにはアクセスできないことになる。調べたいことがあれば自分で調べろということだ。
ただし、各種ソフトウェアがあれば、それらをインストールすることで各人の作業を行うことは可能だ。だが1台しかないので最終的なシナリオ、イラストや音声、楽曲などの現物は、自宅でデータ化してそれをこのパソコンで縒り合わせるという形をとらざるを得ないだろう。
自分で持ってきたOSをインストールしながら、部室に集まったオレ様たちは二日前に行うはずだった企画の話し合いをすることにした。
「で、お前ら何か企画とか考えてきたの?」
「うん、考えてきたよぉ」
「いや、お前のは却下だから」
「なんでぇ?」
イの一番に答えた沙羅を一蹴し、オレ様は他のメンバーに視線を移した。白百合が「はいはーい」と挙手をしたので、そのまま喋らせることにした。
「あっしが考えてきたのはー、超おーもしろいよー」
「あぁ、ちゃんと要点だけを掻い摘んで説明してくれ」
「わーがったよーぅ。あっしが考えてきた話はー、まーずお城で王女さまと話をするところから始まるんさー。んでねー」
「だからテメェ要点だけを話せっつってんだろ。いきなり話の概要とか説明しだすんじゃねぇよ。ブッ殺すぞコンチキショー」
「んー? どーすればいいのー?」
「テメェで考えろよ。お前の話は後回しだ。じゃあ次。すみれ」
「あ、う」
「じゃあ次、椿先輩」
オレ様はすみれを一秒ですっ飛ばし、最も期待の出来る椿先輩に尋ねた。ギャルゲー部で最も常識のある人物であり、最もからかい甲斐のある人物だ。今朝の出来事は部員のみんなには話していないし、椿先輩も気にしないように振舞ってくれている。オレ様も努めて平静を装った。
「そんなに面白いかどうかは分からないけれど、部活動として初めて作ることを想定して基本に忠実な企画を考えてきましたわ」
「おぉ、一番まともそうだ」
「ジャンルは学園ラブコメ物で、攻略キャラは二人から三人くらいを想定していますわ。だいたい五時間でクリアできる程度の小さな作品にしたいので、シナリオのテキストは二百キロバイトくらいが妥当かと思いますわ」
さすが椿先輩だ。話の入り方からして他の連中とは違う。〝物語を作る〟のではなく、〝ゲームを作る〟ことを念頭において企画を考えている。多分この人は社会に出たら仕事が出来るタイプの人だ。
「イベント絵の枚数は十枚前後、キャラクターはサブキャラも合わせて五人前後を予定しています。立ち絵の種類も考えるとこれ以上の時間は割けないでしょう。これくらいの規模のものだと予め把握しておいてください」
素晴らしい。この人は物を製作するということをよく分かっていらっしゃる。伊達に生徒会長をやっているわけじゃねぇな。文化祭や体育祭なんかのイベントの陣頭指揮も全てこの人が取り仕切っていることを考えると、さすがだとしか言えない。
「楽曲は十曲前後、効果音はフリーで配布されているものを使用しましょう。ゲームエンジンも一から作る技術は我々にはないのですから、これも既存の物を使います。シナリオのテキストファイルにタグを打ち込むだけでゲームとして実行できるようなエンジンがフリーで落ちてますから、それを使おうと思うのですけど、いかがかしら?」
素晴らしい、素晴らしいのだが、何だこの人。やたら詳しいぞ。もしかして経験者なのだろうか。夏の祭典で製作物を出展したことがあるとか。そうすると何か? この人はこんなにも端整な容貌と図抜けた指揮能力を持ちながら、ギャルゲーという物を骨の髄まで知っているということになる。
他の面子の表情を窺ってみると、みんな呆然と椿先輩を眺めている。先輩は、みんなの怪訝な視線に気付いていないのか、さらに饒舌に語り続けた。
「以上のような諸事情を勘案した上でのストーリーを構築する必要がありますので、企画としては短めで済むような話を考えました。あたしたちにとって初の作品となるのですから、穿ったものや奇を衒ったものは避けて、王道であり基本中の基本である学園ラブコメ物を提案いたしますわ。具体的には、打ち込めるものがなくて鬱屈している学園生の主人公が、ヒロインの幼馴染とツンデレ少女と一緒に学園祭での出し物に向けて、手を取り合って頑張っていく成長物語、というお話がよろしいかと思うのですが、みなさんいかがでしょう?」
そこまで語り続けて、椿先輩は初めて己の失敗に気付いたようだ。だって詳しすぎるよ、先輩。アンタ、どう考えてもギャルゲーとかかなり詳しいよね。先輩ゲーム好きなんだ。コイツは新しい発見だぜ。
頬を朱に染めて咳払いをする椿先輩に、白百合が容赦のない鋭いジャブを一発いれた。
「先パイ、くーわしいですねー?」
「くくく詳しくなどありませんっ!」
椿先輩は顔を真っ赤にしてツバを飛ばしながら否定した。コイツぁ面白いぜ。オレ様は白百合に便乗することにした。
「椿先輩、ゲームエンジンってどんなのがあるの?」
「ゲームエンジンですか? いくつかあるのですが、無料のものだと、汎用性が高くて簡単にタグを組める万人向けのものと、通常のアドベンチャーゲームのように文字表示を枠内にしか出来ないけれどキャラクターをアクティブに動かしたりすることも出来るものの二種類が最大手だと思いまほわぁぁっっ!!」
オレ様のニヤニヤとした視線に気付いた椿先輩が、とても面白い奇声を上げた。間違いない、このヒト隠れオタクだ。説明しよう。隠れオタクとは、普段はアニメやゲームなどに興味がないように振舞いながら、その実こっそり家でアニメとゲームに没入する日々を送る臆病な小心者のことだ。酷いヤツだと、表ではアニメやゲームを気持ち悪いと罵りながら、裏で自分の部屋をアニメのフィギュアとポスターまみれにして悦に浸るという二重人格並みの小者まで存在する。隠れオタクに共通する点は、何を買うにしても必ず通販を使うという点だ。実際に店に足を運ぶ勇気があるなら、そもそも隠れオタクになんてならねぇからなぁ。
オレ様は邪悪な笑みを作りながら、椿先輩に歩み寄った。
「おやぁ? 椿先ぱぁい? さすが上級生だけあって、随分とギャルゲーにお詳しいようですねぇ。クククッ、そのご様子だと? 数字で十八と書かれたシールがパッケージに貼ってあるゲームとかにも? 造詣がお深いのではないですかね? もしよろしければ、若輩者のこのワタクシめにそのような上級生向けのゲームについて、是非ご教授願いたいのですが? ねぇ、せ・ん・ぱ・い」
「あ、あ、あたしはそんなに詳しくありませんっ! 普通ですっ!」
「おやおやぁ? ここにいる四人ともを指して、先輩は普通以下だと面罵するんですね。これは失敬! 確かにワタクシのような? 知恵も浅く経験も少ない普通以下の男子高校生では? そのような一般常識と呼ばれる当たり前のことすら存じ上げませんでした。申し訳ない。ワタクシどもは博覧強記で学殖豊かなンガムラ生徒会長の該博な知恵にあやかりたく、是非そのお力をお貸しいただきたいのですが?」
「くぬぬぬっ! このっ!!」
「おやおやおやぁ? どうしたんです、ンガムラ先輩。そんなに顔を真っ赤にしちゃって。まさかワタクシのような愚鈍で蒙昧なオタクとは、会話をするのも汚らわしいとお思いですか? これはこれは、大変失礼いたしました。何せ我々は一般常識すら存じ上げない無知で無垢な無辜の小市民ですから、アニメとギャルゲーに蠱毒された生徒会長様の明哲な頭脳と同じレベルで会話をすることなど、出来ようはずもございませんゲラゲラゲラ」
「くきぃーーーっ!!」
椿先輩は椅子に座りながら地団太を踏むという、とても器用な真似をやってのけた。すごく面白いのだが、あんまり怒らせると後が怖いからな。オレ様はこの辺りで話をまとめることにした。
「さぁ、椿先輩から貴重なアドバイスをいただいたわけだ。オレ様たちの記念すべき第一作目は、先輩の案を採用する方向で行こうと思うのだが」
「うん、いいよぉ」
「あっしもいいと思いまーす」
「何やら釈然としませんけど、それが現実的かと思いますわ」
オレ様も別に異論はない。夢みたいな絵空事に挑戦するよりも、自分たちに実現できることを確実にこなしたほうがいい。いきなり大きなことをやり始めるとさ、きっと途中で挫折しちゃうからさ。
「すーみれちゃんもー、それでいいよねー?」
白百合がすみれに笑顔を向けると、すみれは何も答えずに、何のリアクションも見せずに固まったままだった。コイツは肯定する時は何らかのアクションを取る傾向があったが、するとこの女は椿先輩案に反対なのだろうか。
すみれはちらちらとオレ様を見たり俯いたりを何度か繰り返した。まるで意味が解らない。オレ様に何をして欲しいんだ、コイツは。
「すみれちゃんのぉ、企画はぁ?」
沙羅が甘ったるい低速再生ボイスでオレ様を向いた。確かにすみれの企画は聞いていなかったな。聞いても答えてくれないだろうけど。
「すみれ、お前は何か企画があるのか? もし紙か何かにまとめてあるなら、それを見せてくれ」
オレ様が尋ねると、すみれは小さく首を振った。つまり自分の企画がいいと駄々を捏ねているわけではないということか。じゃあ一体コイツは何がしたいんだろう?
すみれは何度かちらちらとオレ様を見ては視線を戻す仕草を繰り返した。悪いがすみれ、全然イミが解らないよ。
「すみれちゃん、かーくんのぉ、企画がぁ、聞きたいのぉ?」
沙羅の問いに、今度はコクコクとすみれが頷いた。なんだ? オレ様の企画を聞きたいのか。と言うか沙羅のヤツ、今のすみれのリアクションでよくそんな深層心理を読み取れたな。どちらかと言うとそっちの方が驚きだ。
オレ様はカバンから企画書を取り出した。企画書と言うか、オレ様が四時間ほどかけて完成させたシナリオなんだけどな。十分で読了できる酷い出来のショートシナリオだ。とりあえず二部だけ印刷してきたものを椿先輩とすみれに渡した。白百合と沙羅はすみれを左右に挟んで一緒に読むようだ。椿先輩はなぜか一人ぼっち。悲しいかな、上級生。
「いちおう断っておくが、オレ様には文才がないのかもしれない」
みんな聞いているのかいないのか、黙ってオレ様の駄文を読み始めた。自分が書いたものを人に読んでもらうのって、なんか恥ずかしいな。十分間ほど放置プレイを味わった後、椿先輩が顔を上げた。何か汚いものでも見たような顔をしている。
「なに? この子供の落書きは?」
「だからオレ様には文才がないということが判明した」
椿先輩は訝しげにオレ様の瞳を覗きこんできた。
「え? 猿木くん、物書きの経験とか全くないのかしら?」
「うむ、ない。初めて書いてみて、そして自分で読んでみて、やっぱオレ様がシナリオ書かないほうがいいかもしれないって思った」
「初めてなら文句は言えませんわ。話を書くのって大変でしょう?」
「そっすね。シナリオなんて簡単に書けると思ってたけど、予想以上に難しかった」
「そうね。猿木くんが本を読まない人だっていうのは、文章全体から滲み出てくるからよく分かったわ。それでも日本語が破綻してないっていうのは、ある意味で才能かもしれませんわ。同じ設定で同じ話を何度か書いてみたらどうかしら?」
「はぁ? 同じ設定で同じ話を書いたら同じものになるじゃん」
「ならないから言ってるの。同じ設定でもね、よっぽどプロットを練り込まないと同じ話にはならないものよ。まずは文章を書く練習をしたほうがいいけれど。猿木くんって、普通に会話する時でも独特の言葉遣いをするじゃない? そういうのってある意味センスなの。多分あなた、普通の人よりはセンスがあると、あたしは思いますわ」
「そ、そうか? なんかやる気が湧いてきたぞ」
「自惚れないでください。あなたのこの落書きはセンス以前の問題です。せめて読めるものにすること。それから人それぞれになるとは思うけれど、話の筋は書く前に決めたほうが無難だと思いますわ。キャラクターとかもしっかり考えた上で書き始めないと、言動が滅裂になっちゃうから」
「はい、さーせん」
「まずは三十分くらいで読了できるショートストーリーをいくつか書いて、アタシに見せなさい。ゲームのシナリオを書き始めるのはその後ね」
「さすが、経験者は違うね」
「当然ですわ……ち、違いますわっ! あたしはあなたたちよりも、そ、その、ど、読書量が多いという意味ですわっ!」
「まぁまぁまぁ、そういうことにしてきましょうか」
「そうなのっ!」
椿先輩はプイと顔を背けて唇をへの字に曲げてしまった。楽しいなぁ、この人。
「かーくん、かーくん」
オレ様のゴミのようなシナリオを読み終わったのか、沙羅がにぱぁっと笑顔を見せた。
「つまんなかったよぉ」
「ちったぁ歯に衣着せろよっ!」
沙羅はたまに作為も悪意もなく平気で人を傷つけるからな。無邪気な暴力って恐ろしい。
「サルー、これ超つーまんねーっぺー」
「うるせぇよっ! 知ってるよっ! ブッ殺すぞコンチキショー!」
白百合は分かってて言っているに違いない。コイツの場合は悪意があるからなお性質が悪い。
「んでも、サルはこーいう話を書ーきたいんだぁー」
「あァ? 男ってンなもんだろ?」
「どうかしら。この話をこのまま使うわけにはいかないけれど、こんなような話を作ることを前提に、キャラクターや設定なんかをみんなで考えない?」
椿先輩の提案に、オレ様たちは乗った。こんなような話とは、沙羅風に言えば〝白馬の王子さまがピンチのお姫さまを救い出す〟お話だ。男のオレ様はもちろん、女のコもこの手の話は嫌いじゃないらしい。オレ様たちは下校を促すチャイムが鳴るまで、あれこれ話し合って、翌日までに全員で各々キャラクターや設定を考えてくることが宿題になった。
帰り道。
椿先輩は生徒会の関係で少し学校に残るらしいので、オレ様たちは四人で下校することにした。学校から橋に繋がる国道までのたったの五分間だけど、それでも一緒に帰ろうと白百合が言って聞かなかったのだ。
高校生が四人、しかも女が三人だ。他愛のない話をしながら歩いていれば五分なんてあっという間だ。次の日も会うことが約束されている関係なのに、どこか名残惜しく感じるのは、儚げな夕陽の残光の所為だろうか。暗くなりかけた道を、オレ様たちは出来るだけゆっくりと歩いた。
オレ様の中で外せない懸案事項が一つだけある。すみれのことだ。この日オレ様はすみれと一言も話をしなかった。なかなかすみれと二人になるのは難しい。沙羅か白百合のどちらかが必ずオレ様に張り付いているからだ。
オレ様は何とかすみれを喋れるようにしてやりたい。オレ様とだけではなく、みんなとだ。さすがにオレ様と一緒にいる時のようなマシンガントークは敬遠されるだろうが、せめて挨拶くらいは交わせるようにしてやりたい。
国道の交差点まで着くと、白百合とすみれは右折して橋に向かって国道沿いに、オレ様と沙羅は広い国道を横断して真っ直ぐに、それぞれの家路に就く。すみれがペコリと下げた頭を、オレ様はむんずと掴まえた。
「ひぇっ!?」
驚いたすみれがビクリと躰を震わせたが、オレ様はかまわず頭を掴んだまま道の脇へと強制連行した。沙羅と白百合が頭にはてなマークを浮かべていたが、ちょっと待ってろと手で合図を残して、オレ様はすみれの顔をオレ様に向けた。
「おい、テメェ」
「ななな何ですか、マシラキさん。婦女暴行は犯罪ですよ。いくらマシラキさんが吐き出す場所のない青い性を溜め込んでいらっしゃったとしても、わたくしのような可愛らしい小柄な少女に手を出すのはいろいろな意味で犯罪です。そもそもマシラキさんは二次元専門なんじゃないですか? わたくしはいろんなところが薄っぺらいかもしれませんが、一応これでも三次元なので厚みはありま誰のどこが薄っぺらいんですか、この変態ロリコンペドフィリア!」
「うるせぇよテメェ。ブッ殺すぞコンチキショー」
「ははー、マシラキさんはコンチキショーがお好きですねー。ご自分のほうが畜生みたいなツラしてやがりますのに、人に向かって畜生とは何事ですか。マシラキさんなんて蓄膿症になってしまえばいいんですよー。鼻が詰まって口が常に半開きだなんて、犬畜生にも劣るマシラキさんにはお似合いでところでどうしてわたくしをこんなところに連れ出したんですか? 用があるなら早くしてください」
相変わらず拾いにくいな、コイツの会話。オレ様は目的を達するべく、ポケットから自分のケータイを取り出した。
「お前、ケータイ持ってんだろ?」
「え? 何ですか? きゃーもうケータイなんて持ってないわけないじゃないですかー。女のコにケータイを出させるということはアレですか? ナンパですか? いやーコイツはとんだ変態エロ紳士ですねー。もちろんわたくしもケータイを持ってはいるんですが、二週間くらい充電しなくても大丈夫なんですよー。最近の電池は長持ちですよねー。いくら三日に一度メールが来てないか確認するだけとはいえ、二週間も保つなんて技術の進歩は目覚しいでそもそもわたくしのアドレス帳にはお父さんとお母さんしか入ってませんでしたー。鬱です。吊ってきます」
「待てやコラ」
オレ様は項垂れたすみれの頭を再び持ち上げた。
「きゃーきゃー! ちょっとやめてくださいよマシラキさん! いくらわたくしが円熟した大人の色香とあどけない幼女の無邪気さを併せ持った女神のごとき聖女だからと言って、こんなところで欲情するのはやめてください。わたくし着痩せするタイプですけど、こう見えても脱いだら結構スゴいんですよー。夢の中のわたくしはグラビアアイドルも真っ青の豊満な体つきなん実際は小学校六年生から少しも成長してないんでしたー。ちょっと橋から身を投げてきます」
「うるせぇよ。いいからケータイ番号とメルアド教えろよ」
「えっ? えっ? いま何と仰いました? わたくしのケータイ番号が知りたいと言いました? 言いましたよね? きゃーきゃー! なんてことなんですかー。お母さーん、今日は赤飯が必要ですよー。金目鯛の姿煮もあると嬉しいですよー。生まれて初めてお父さんとお母さん以外の人の番号が、ついにこのケータイ電話に宿る日が来ましたよー。あと五年は掛かると思っていた奇跡が今ここに舞い降りま友達のいない女子高生って普通にヒきますよねー、ははー」
「テメェ、話が長ぇんだよ。おら、赤外線通信できんだろ、そのケータイ」
「何ですか、その赤外線通信というのは? 陽電子砲とか対消滅エンジンとかその類の専門用語ですか?」
「馬っ鹿テメェ、友達とケータイ番号を交換する時に使うだろ? あれ? あぁ、おまえ使ったことねぇのか」
「ははー、今わたくしのこと思いっきりキモいとか思いましたよねー」
「ざっけんなよコンチキショー。テメェがキモかったらそもそもオレ様はテメェと一緒にいねぇんだよ。オレ様が隣にいることを許してやってんだから、テメェはオレ様の友達なんだよ。おら、貸せよ」
オレ様はすみれの手からケータイを引ったくり、勝手に赤外線通信で互いの番号を互いのケータイに登録しておいた。これでいつでもすみれと話が出来る。まずは一歩前進だ。
オレ様はすみれにケータイを返して「じゃあな」と別れを告げた。そのままオレ様を待っている沙羅と白百合のところまで足を運ぶと、ポケットにしまったケータイが鳴り始めた。発信者の名前は〝羽坂すみれ〟だった。
オレ様は鳴りっぱなしのケータイを手に、振り返ってすみれを見た。その時のすみれの顔は、多分オレ様は一生かけても忘れない。あんなに嬉しそうで、あんなに驚いて、あんなに無邪気に笑っているすみれの顔を見たのは、その時が初めてだったからだ。
オレ様は溜息を一つついて、踵を返した。口元が緩んでいたのは、きっと気の所為じゃない。ケータイの呼び出し音は、七コール目で止まった。留守電サービスの案内に切り替わったのだろう。オレ様は応答ボタンを押して、すみれの頭の上に手を置いた。
「おらテメェ。早く何か喋れよ」
オレ様の肉声が、すみれのケータイから一拍遅れで流れてきた。
すみれは顔をくしゃくしゃにして泣き始めた。馬鹿なヤツ。こんなことで喜ぶなんて、なんて安上がりなんだ。
その後たっぷり一時間、すみれは泣き続けた。オレ様と沙羅と白百合は、三人ですみれを囲って下らない雑談を交わした。すみれは一度も答えてくれなかったけれど、何かを問いかける度に泣きながら何度も頷いてくれたので、オレ様はその度にすみれの頭を乱暴に撫でてやった。白百合はすみれのケータイを勝手に強奪して、オレ様と同じ要領でケータイ番号の奪取と押し付けを済ました。沙羅もそれに倣って、同じように番号を交換した。それまで自宅とお父さんとお母さんだけだったすみれのアドレス帳の件数は、一気に二倍に膨れ上がった。
その日の夜が大変だった。
そろそろ寝ようかと思って部屋の電気を消して布団にもぐりこんだオレ様の頭上で、ケータイがピリピリ鳴り始めた。メールの着信音だったので、どうせ沙羅か白百合だろうと思ったのだが、なんと発信者はすみれだった。
何だろうと思い、メールの内容を見たオレ様は、すみれにアドレスを教えたことをちょっぴり後悔した。嘘、ゴメン。すげぇ後悔したよ。
以下がその文面だ。
『こんばんは、マシラキさん。すみれですよー。こんな夜分にメールなんて送ってゴメンなさい。わたくし他人にメールを送ったことがないので、一体全体どういったことを書けば良いか皆目見当がつかなかったのですが、メールも意思伝達の手段の一つということで、わたくしの思ったことをそのまま書きますねー。あれ? メールだと書くんじゃなくて打つって書いたほうがいいんですかねー。でもまた書いたほうがって書いちゃいましたから、書くで統一しますねー。今日は本当にありがとうございました。わたくし嬉しくて思わず泣いてしまいましたが、本当にお恥ずかしいところを見せてしまったと慙愧の念に堪えません。でもだって、生まれて初めてわたくしのケータイに他人の名前が乗っかった瞬間だったんですよー。そりゃーもう吃驚仰天震天動地天地無用天元突破な心境だったわけなんですー。マシラキさんが(マシラキさんってどういう字を書くんですか? わたくしクラスの連絡網とか絶対に使わないと思ってもらったその日に捨てちゃったんですよー。今度よければ教えてくださいねー。あと連絡網のコピーもいただけるととても嬉しいですー)わたくしのことを友達だと仰ってくださった時、わたくしはもう天まで飛び上がってしまうくらい嬉しかったんですー。わたくし以前にもお話したように、これまで友達なんてものが出来たことがなかったので、マシラキさんはわたくしの人生で初めてのお友達なんですよー。あ、双樹さんと権平さんもお友達だと仰ってくださったので、それもとても嬉しかったです。でもわたくしマシラキさん以外とはやっぱり上手に喋れなくって、上手く気持ちを伝えられないんですよー。どうしてマシラキさんとはお話できるのに、他の方だと上手くいかないんでしょうね。人生はままならないとはよく言ったものです。ままならないで思い出しましたが、お母さんに(ままとママをかけてるんですよー)お友達ができたことを話したらたいそう喜んでくれましたー。今度お家に連れてらっしゃいってお母さんが言っていたので、よろしければぜひ遊びに来てくださいねー。わたくしお部屋を掃除して待ってますから。あ、でも、お父さんがいる時は止めたほうがいいかもしれませんねー。だってマシラキさんがわたくしの彼氏とかと勘違いされたら大変なことになりそうな予感がしますよー。警察沙汰はマジ勘弁なのでなるべくお父さんがいない時に来てくださいね。でもお父さんはゴールデンウィークも仕事みたいなので、日中なら遊びに来ていただいても大丈夫ですよー。お母さんはお掃除やお洗濯が終わるといつも暇してるみたいなので、いつも二人でテレビを見てるんですよー。だからきっとマシラキさんが遊びに来ても歓迎してくれますよー。だって暇なんですもん。そう言えば話は変わりますが、明日はエンジェル・ビーストの放送する日ですよー。楽しみですねー。あ、忘れてましたが、先週の録画ファイルはまだ残ってますかー? 今度メモリを持って行くので、それにデータを入れていただけるととっても嬉しいですー。それから今日の部活の企画の話ですけど、わたくしはマシラキさんの考えた企画がやっぱりいいと思うんですよー。萌えもいいですけど、燃えも必要ですよねー。萌えと燃えの両立が出来ると最高だと思いますー。それっぽいキャラクターのデザインを考えて、明日の部活に持って行きますねー。それじゃあ、おやすみなさい、マシラキさん。あ、そうだ、エッチなことは程ほどにしておいたほうがいいですよー。わたくしはエッチな絵しか描かないんですけどねー。あ、もちろん普通に服を着てるキャラクターの絵だって描けますよー。ただ、やっぱり裸のほうが描いてて気持ちいいんですよねー。だって筋肉の動きとか関節の捻りとか、如実に表現できるじゃないですかー。服を着せたままでも出来なくはないんですけど、躍動感が出ないんですよねー。あ、お父さんが帰ってきました。それじゃあ、これで失礼します。おやすみなさい、マシラキさん。 すみれ』
アイツさぁ、読む人間のこととか考えてねぇのかなぁ。この文章量をケータイのちっこい画面で読む人間の気持ちになれっつーの。そう言えば、アイツ人にメール送るのこれが初めてなのか。仕方ない、少し諭してやろう。オレ様は一言「長ぇよ!」とだけ書いて返信をした。
前のと同じ分量の返事が戻ってきましたー。
翌日。
「起きてよぉ、かーくぅん」
「あぁ~ん? うるせぇなぁ。明日は休みなんだから寝かせろよ」
「あ、明日は金曜日だけどぉ、祝日だから休みだけどぉ、今日は明日じゃないよぉ」
「明日は明日になると今日になるんだよ。だからおやすもょびょっ!?」
オレ様の顔面の拳が減り込んだ。とっても痛い。このまま意識を失ってしまったらどんなに気持ちいいだろう。でもそうすると鉄拳の雨霰が降ってくるから起きなきゃいけない。ウチのアイアンメタル母ちゃんには、オレ様はまだ勝てないからだ。
「ぐはぁ……」
「起きたかい、ドラ息子。早く顔を洗ってメシ食いな」
「うむ、躰が重い」
「あァ? テメェが風邪なんか引くかよ。いいから起きろタコ」
「風邪じゃねぇよ。寝不足だよ」
「テメェはいつも寝不足だろうがよ。ガタガタぬかしてんじゃねぇぞコラ」
「うむ、何だろう。心が重い」
「うるっせぇ。ゴチャゴチャ言ってる暇があったら躰を起こせ。沙羅ちゃんが待ってんだろうがよ」
お袋はそれだけ言って、部屋から出ていった。
オレ様は重たい頭を起こしてケツを掻いた。すみれからのメール攻撃が酷くて、よく眠れなかった。とりあえず、緊急時以外はメールは送らないよう言い聞かせておかなければなるまい。
オレ様は沙羅と一緒に朝食を取り、身支度を済ませて家を出た。
「かーくん、今日は眠そうだねぇ」
「あぁ、眠い」
「昨日もゲームしてたのぉ?」
「いや、すみれからメールが来た」
「えぇ? いいなぁ。わたしは来なかったよぉ」
「そのほうがいい。読むだけで疲れる」
「メールで疲れるのぉ?」
「あぁ、どうでもいい内容の話を延々と二百行くらい読まされれば、頭も痛くなるさ」
「いいなぁ。わたしもかーくんにぃ、メールしよっかなぁ」
「やめてくれ。オレ様はメールとか好きじゃねぇんだよ」
「うん、知ってるよぉ」
沙羅はニコニコとオレ様の眠たげな横顔を眺めながら微笑んだ。
日本一の信号まで来ると、またあのぬるっとした視線を感じた。間違いなくすみれだ。オレ様を待っていてくれるのはいいんだが、もっとスマートに待てねぇのかなぁ。なんでこんな湿った視線を送ってくるんだよ。
オレ様は面倒くせぇなぁと思いながら、朝の通勤ラッシュで排気ガスを撒き散らす車の群れをぼんやりと眺めた。
気の遠くなるような時間を待って、青に変わった信号を足早で渡った。後ろから小動物のような何かがちょこちょこオレ様をつけてくる。声を掛けろと声を掛けたいぞ。オレ様は黙って振り返った。案の定すみれだった。
「テメェ、オレ様を見つけたんならテメェから挨拶くらいしてこいよ」
「おおおおおはようごじゃいます、マシリャキしゃん」
「誰だよ、そのネパール人みたいな名前のヤツはよ」
「あ、う」
すみれはなぜだか黙りこくって俯いてしまった。何だコイツ。オレ様を相手に緊張でもしてんのか。全く度し難いヤツだ。
「おら、行くぞ」
「ははは、はい」
オレ様がひとり先導して、その後ろに沙羅とすみれがついてきた。
「おはよぉ、すみれちゃん」
「あ、う」
すみれの回答は相変わらずだ。そんな一朝一夕には変われねぇか。仕方ない、荒療治になるかもしれないが、オレ様が一肌ぬいでやろう。オレ様はちょっとした計画を立てながら、学校までの道のりを歩いた。後ろですみれが「おはよう」の練習をしていたが、やっぱり白百合に邪魔された。
放課後。
その日の昼休みもオレ様は部室ですみれと一緒にいたのだが、沙羅と白百合と椿先輩とは相変わらず全く会話が出来ていなかった。「あ」と「う」しか喋らない相手と話をするのはとても困難だ。オレ様は敢えてすみれには話し掛けなかったのだが、すみれはオレ様をちらちらと窺ってばかりで、すみれからオレ様に話し掛けてくることはなかった。
オレ様たちは帰りのホームルームが終わるとすぐにすみれを誘って部室にやってきた。もちろん部活をするためだが、なるべくすみれを一人にしないようにしようという考えがあっての行動だ。
椿先輩は生徒会の仕事があるので少し遅れるそうだ。オレ様を含めた他の四人は気楽なものだが、生徒会長を兼任している椿先輩には結構な負担を掛けているだろう。オレ様は安易な考えで椿先輩を誘ってしまったことをちょっと後悔したが、あの人は面白いし頼りになるので手放すつもりは全くなかった。
「じゃあ、とりあえず始めるか」
「なーにを始めるんさー?」
「馬っ鹿テメェ、部活に決まってんだろ? 主人公がヒロインを助けるお話の設定を決めるって、昨日の部活で椿先輩が言ってたじゃねぇか」
白百合は部活に参加していない時は部活の話はあまりしない。もともとギャルゲーなんてものに興味のない女だ。わざわざ自分から話を振ってくることことはないだろう。
オレ様は自分で作った設定をプリントアウトした用紙をカバンから取り出した。
「あっしも考えてきたよーぅ。でーも、なーんかどっかで見たことあるような設定しか、思いつかないんさー」
「うむ、実はオレ様も同じだ。新しい話を作るというのは予想よりずっと難しいな」
「わたしもぉ、考えてきたよぉ」
沙羅が挙手をして発言権を求めてきたが
「いや、お前のはいい」
もちろんオレ様はそれを却下した。
「なんでぇ?」
「うるせぇよ、お前の設定は〝白馬の王子さま〟と〝薄幸のお姫さま〟だろ?」
「う、うん」
「とりあえず白百合の設定を聞かせてくれ」
オレ様は沙羅を無視して話を続けることにした。白百合はレジュメなど用意していないらしく、口頭で説明し始めた。
「あっしが考えたのはー、白馬に乗った金髪のイケメンがー、悲劇の美少女ヒロインを助けにくるって話さー」
「同じじゃねぇかっ!」
ダメだコイツら。沙羅と白百合に期待するのは間違っていたのかもしれない。オレ様はすみれに聞いてみることにした。
「すみれ、お前の案を聞かせてくれ」
ピクリと肩を震わせたすみれは、抱えていたスケッチブックをめくってオレ様たちにそれを向けた。描かれていたのは、腰に剣を携えて直立する、白銀の甲冑を身に纏った金髪の美丈夫だった。脇に「王子さま」と書いてある。
「お前もかよっ!?」
すみれはコクコクと頷いてページをめくった。純白のドレスにガラスの靴を履き、頭にティアラを乗っけた色白の美少女が、清楚に胸の前で手を合わせながら薄く微笑んでいる様が描かれている。もちろん脇には「お姫さま」と記してあった。全く理解できんが、女は白馬の王子さまが大好きらしい。
「すーみれちゃん、絵ー上手だねー」
「うん、すごく可愛いよぉ」
すみれは褒められて照れたのか、スケッチブックの後ろに顔を隠して肩を窄めた。すみれの絵は確かに上手い。線がくっきりして分かりやすいし、目が大きくて頭からアホ毛が飛び出ている。芸術的な雰囲気を感じさせないメリハリのあるキャラクターは、アニメやマンガに親しんだオレ様たちの世代には馴染みやすいものだった。
白百合と沙羅はすみれのスケッチブックに齧り付き、「うわぁー、エッチだぁー」とか「すごいよぉ、恥ずかしいよぉ」などと連呼していた。オレ様も、企画とか考えてきたんだけどな。聞いてもらえないとちょっと悲しい。
オレ様が一人で手持ち無沙汰を弄んでいると、椿先輩がやってきた。部室の様子を見て眉をひそめた先輩は
「何なんですの、これは?」
「あぁ、すみれの絵が上手いって話をしてた」
「そうなの。あたしも見たいわ」
オレ様を華麗にスルーして女どもの輪に入っていった。悲しいなぁ。
その後たっぷり一時間ほど放置プレイを味わったオレ様は、部室の隅で丸くなって床ののの字を書いていた。だって寂しかったんだもん。
ひとしきりすみれの絵の可愛さを堪能した女性陣は、もう完全に白馬の王子さまと悲劇のヒロインの話を作る方向で意思を固めていた。オレ様の考えてきた企画には少しも触れずに、椿先輩が場を仕切り始めた。
「では、主人公を王子さま、ヒロインをお姫さまにするとして、まず考えなければならないのはどんな話にするのかと、サブキャラとして登場させるキャラクターですわ。皆さん、何かいいアイデアはあります?」
「屈強な護衛が欲しいな」
「意地悪なぁ、お姉さまぁ」
「おー姫さまのー、ライバル的なお嬢様が欲しいっぺー」
「あたしもメインヒロインをおしとやかなお姫さまにするなら、対抗馬としてツンデレ姫を用意するのはセオリーだと思いますわ。サブキャラクターというよりは、もう一人のヒロインとしてツンデレ姫が出て来るようにしましょう」
椿先輩はオレ様の意見をガン無視して、沙羅と白百合のアイデアを採用した。ここの部長、オレ様なんだけどなぁ。
「いいですか、皆さん。あたしたちは一応ギャルゲーを作るので、飽くまでも男のコ受けする話を作らなければなりませんわ。ツンデレ姫も攻略対象にしなければなりません。つまり、最低でも二つはシナリオを用意しなければならないということですわ」
「共通ルートとしとやか姫ルート、ツンデレ姫ルートが要るってことだな?」
「はい。それを踏まえた上で、まずはしとやか姫ルートの話を考えましょう。これを基軸にして、途中からツンデレ姫ルートに分岐するのが常道だと思いますわ」
「なーんか、難しいねー」
「話を作るというのはそんなに簡単な作業ではありませんわ。簡単に出来るなら今ごろ世の中は名作と呼ばれる小説や戯曲で溢れ返っていますもの。とは言っても、別に名作にする必要はありませんわ。いきなりそんなものを作るのは不可能ですから、まずは一つゲームを作ることを念頭に作業を進めましょう」
白百合の問いに、椿先輩は冷静に返した。さすが上級生、生徒会長で経験者は貫禄が違う。漠然としそうになる思考に明確なビジョンを与え、常に具体的であろうとする姿勢は普通の学生にはないものだ。この人は現場の指揮や監督なんかに向いているんだろうなと、オレ様は思った。
「とりあえず、舞台は中世ヨーロッパか? 金髪の王子さまなら城なんかの背景も必要だし、ヨーロッパの街のイメージとか馬車が走る舗装されてない道なんかも必要だよな。そういうのってどうすんの?」
「フリーの素材を落としてもいいですし、美術部にその手の資料はたくさんあるでしょうから、それを参考にイチから描いてもいいと思いますわ。ただし、舞台は限りましょう。あまり壮大な話にすると、絵を描く羽坂さんの作業が追いつかないと思いますわ」
「なるほどな、ゲームにするんだから、そういうことも考えて話を作らなきゃなんねぇわけか。結構しんどいな」
「やる前から後ろ向きな思考をしない! あなたが作った部活でしょう? あなたが一番しゃんとしてないでどうするのよ」
「へーい」
お姉さまは怖いなぁ。でも、オレ様この人に怒られるのちょっと好きかもしれない。なんかやる気が出てくる。か、勘違いするなよ? オレ様はマゾじゃないぞ。
オレ様たちは下校時刻になるまで話し合いを続け、まずはしとやか姫のシナリオを作ること、王子と姫の性格やキャラ設定、時代や舞台の世情などを決めた。ツンデレ姫は敵対国家のお姫さまという設定にしようという話になり、でも血なまぐさい戦争の描写は入れたくないという女性陣の強い要望で、その手のシーンは可能な限り避ける方向で話を作ることになった。
これまで全く現実味を帯びなかったゲームを作るという作業が、少しずつ具体性と方向性を帯び始めた。やるなぁ、椿先輩。この人がいなかったらギャルゲー部は一週間で崩壊していたかもしれない。
帰り際に、オレ様は椿先輩に呼び止められた。
「なんすか?」
「明日から三連休でしょう? 三日あれば三十分で読めるくらいのショートシナリオなら作れるんじゃないかしら」
「あぁ、やったことねぇから出来るかどうかわからねぇけど」
「じゃあ作って持ってきて。途中まででもいいから。今回の企画と全く関係のない話でもいいわ」
「へーい。とりあえずやってみます」
オレ様は、これからさらに生徒会の仕事をしなければならないという椿先輩に慰労の言葉を残し、帰路に就いた。誰よりも張り切っているのは、実は椿先輩かもしれない。
校門まで出ると、沙羅と白百合とすみれがオレ様を待っていた。お前ら別に待ってなくていいから早く帰れよ。などと独り言ちつつ、オレ様は駆け足で三人のいる校門まで向かった。
「待たせたな」
「なーんでサルはそんなにエラそうなんさー?」
「オレ様とお前だと農民と商人くらいの格差があるからだろ?」
「あーんま変わんねーっぺー」
「実は商人のほうが偉いんだよねぇ」
「うむ、どんなに言葉で飾ろうとも金を持っているヤツには勝てんという、この世の悲しい摂理が表されているな、士農工商。商人最強」
相変わらず無意味で不毛な会話だ。歩き始めると、白百合がオレ様の前に躍り出て、猫撫で声を出した。
「ねーサルー」
「あんだよ」
「お姫さま抱っこしてー」
「死ねよゴミが」
「なんさー! あっしがこーんなに甘えた声でお願いしてるのにー」
「なんでいきなりお姫さま抱っこなんだよ。お前の思考回路は焼け爛れでもしているのか、カスが」
「だーってー、王子さまとお姫さまって言ったら、お姫さま抱っこが基本だっぺー?」
「それは良かったな」
「んもーぅ! サルはもーっとあっしのことを大切にするべきだよーぅ!」
「おい、沙羅。白百合を大切にしてやれ」
「うん、わかったよぉ」
沙羅は泣き真似をする白百合の頭を「よしよし」と撫でながら
「でもぉ、わたしもお姫さま抱っこ、してほしいよぉ」
と上目遣いでオレ様の目を覗き込んできた。
「そうか、それは良かったな」
もちろんオレ様は相手にしない。だって、人間ってけっこう重いんだよ? お姫さま抱っこみたいな、腕力だけで人をひとり持ち上げるような芸当は、腺病質なオレ様には不可能だ。右手に力が入れば、違ったかもしれないけどね。
沙羅も白百合もスリムなほうだろう。というかギャルゲー部にはデブは一人もいない。沙羅も顔は柔らかそうだが、ウチの道場で鍛えていたからな。見た目以上に引き締まった躰をしている。べ、別に実際に見たわけじゃないよ?
白百合もかなりスポーティな体つきだし、椿先輩なんか顔とか腰とか足とかすごく細いのに、出るトコがしっかり出てる所為か妙にムチムチした印象を受ける。でも細いんだよなぁ。すみれは風に吹かれて飛んでいってしまいそうだし。
もしかしたら今のオレ様でもこの面子ならお姫さま抱っことか出来るのかね? オレ様は試しに一番かるそうなすみれを持ち上げてみることにした。
「おい、すみれ」
「ななななななんですか、マシラキさん」
オレ様はすみれの肩に右手を置いて、左手で膝から持ち上げてみた。何だコイツ、すげぇ軽いぞ。
「ひぇっ!? ひぇっ!? ひぇっ!?」
オレ様の腕の中ですみれが暴れ出したので、仕方なく下ろしてやった。意外にいけるな、沙羅と白百合でもいけるんだろうか。
「なななななななな何てことをするんですか!」
「あァ? お姫さま抱っこ?」
「フゥーッ! フゥーッ!」
すみれは猫みたいに威嚇しながら、スケッチブックを両手で抱え込んでオレ様を睨んできた。顔が真っ赤で目も潤んでいる所為か、睨まれてもちっとも怖くない。
オレ様は次に白百合を持ち上げてみることにした。オレ様が白百合を向くと、白百合は異様に慌て始めた。
「え、えー? サル、マジでやんのー?」
「んだよ、テメェがやれっつったんじゃねぇか」
「あ、あっしはいいよーぅ!」
「そうか、じゃあ沙羅だ」
「うん、お願い、かーくん」
沙羅はニコニコと微笑みながらオレ様に抱きついてきた。沙羅はオレ様の胴に手を回してがっちりホールドしているので、持ち上げようにも持ち上げられない。
「おい、テメェ。ナメてんのか? あァ?」
「かーくぅん」
「ブッ殺すぞ、コラ。持ち上げられねぇだろうが」
「はい、じゃあ持ち上げてぇ」
沙羅は僅かにオレ様から離れ、仏みたいな笑顔でオレ様を見つめてきた。コイツはオレ様を信用し過ぎてるんだよな。いい加減オレ様離れをしないと、社会生活が営めなくなるぞ、きっと。
オレ様はすみれの時と同じ要領で、沙羅を持ち上げてみた。い、意外に、重い。右手がキツい。オレ様は三秒でノックアウトした。
「はぁ、はぁ。さ、沙羅、お前の体重、何キロ?」
「うん、四十五キロだよぉ」
「軽っ! 四十五キロでそれかよっ!」
とすると、すみれはもっと軽いのか。持ってみた感じ、明らかに十キロ以上は軽かったしな。空恐ろしい。同じ年月を重ねていながら、どうしてここまで体重に差が出るのか。白百合を見ると、愕然とした表情で沙羅とすみれを眺めていた。
「よ、四十五キロ、だとぉ……?」
「なんだ、白百合。お前はもっと重いのか」
「っ! っ! 沙羅ちゃんとすみれちゃんのばーか!」
白百合はツラい現実から逃避したくなったのか、脱兎のごとく駆け去っていった。女心はよく分からんな。体重が少しくらい重かろうが、そんなの大した問題じゃねぇのに。
結局、白百合はそのまま戻ってこなかったので、オレ様たちは三人で帰ることにした。すみれがどこか浮かない顔をしていたのだけが気がかりだったが、後でフォローしておくことにしよう。
夜。
オレ様は朝から練っていた計画を実行に移すことにした。
ケータイを手にとって、アドレス帳から〝羽坂すみれ〟を呼び出した。三コールで繋がった。
「も、もしもしもし!?」
「もしが一つ多いんだよ。オレ様だ」
「おおおおおおはようごじゃいます、マシラキさん」
「いいから落ち着け、な」
「な、な、な、何の用ですかっ!」
「どうしてそんなにキレられなきゃいけねぇのか、意味がわからねぇよ」
「あ、う」
すみれは黙り込んでしまった。電話の向こうで悄気た顔で俯いているのが手に取るように分かる。
「お前さ、明日ヒマだろ?」
「えっ?」
「だから、お前は明日ヒマですか、って聞いてんだよ」
「あ、あ、明日どころかわたくしは年がら年中明けても暮れても昼夜兼行ヒマですよー。だってわたくしにはご存知の通り友達なるものが存在しないですからねー。予定がある時なんてないです。もちろんアニメを見たりゲームをしたりする時間は必要ですので、そういう場合は暇じゃないと言う時もあるかもしれませんが、今月はちょっとお小遣いが足りなくてゲームが買えないんですよー。あ、マシラキさん、何か面白いギャルゲーとかエロゲーとか持ってな明日は何かするご予定なんですか?」
「あぁ、明日の朝九時に駅前な。スケッチブックと鉛筆も持って来いよ」
「どどどどどこかに行かれるおつもりですか? だからわたくし今月のお小遣いがピンチなので電車とかかなり厳しいんですよー。どうせ遊びに行く予定なんかないと思っていたので、前半にゲームを買いすぎてしましまして、後半は息切れ中なんですよー。なのであまりお金は使いたえええええっ!? ももも、もしかしてこれは伝説のデートのお誘いというヤツですか!?」
「あァ? まぁ何でもいいよ。とにかく来い。あんまり気合の入った格好とかしてこなくていいからな」
「ななな何ですか、人をデートに誘いやがったにしてはやる気のなさそうな言い方ですね。わたくしは確かに英国紳士御用達のフリフリワンピースとかフランスの画家ゴッホが愛玩したと言われるキラキラゴシックドレスとか持ってますけど、そんなものを着て往来を歩く趣味はないんです! わたくしはコスプレを見るのは好きですけど、自分でやるのは嫌いなんですよー。だって人に見られるの恥ずかしいじゃないですかー。アイツら馬鹿ですよねーアニメキャラの格好したってそのキャラになれるわけじゃないのに、どうしてコスチュームだけ真似して人に見せびらかしゴメンなさい、〝エンジェル・ビースト〟の天子ちゃんコスチュームだけは買っちゃいました。鬱です」
「お前の方が馬鹿だろ。ちなみにゴッホはオランダ人だからな」
「わ、わかりました。それでは明日はマシラキさんの強いご要望により、わたくしの一張羅の取って置きを着ていきますねー。胸元が大きく開いた超セクシーセーラー服なんですよー。こんなデザインの制服なんか現実にあり得るわけないと評判の、胸ちらヘソ出し女子高生で馳せ参じますねー。わたくしの魅力に周囲の下衆野郎どもはたちまちトリコにされても知りませわたくしの胸は人に見せられるほどありませんでしたー」
「いいから普通の格好で来い。目立たなくていいからな。オシャレしてくる必要もねぇ」
「は、はいー。ではキメキメにならないくらいで頑張りますねー」
オレ様は「遅刻するなよ」と付け足して、電話を切った。
さぁて、どうなることやら。しんどい一日になるのは間違いないだろう。しんどいのはオレ様じゃなくてすみれだけどな。上手く行くかどうかは知らないが、何もしないよりはマシだろう。
面倒くせぇなぁと思いながら、オレ様は布団にもぐりこんだ。
翌朝。
オレ様がいつもの平日より少しだけ遅い時間に起きて、寝癖のついた頭をボリボリ掻きながらリビングにいたお袋に「おう」とだけ挨拶をした。お袋は怪奇現象でも見たかのようにあんぐり口を開いて目を引ん剥いていた。
「おい、ドラ息子。まだ八時前だよ。今日は休みなんだろ?」
「うるせぇなぁ。ちょっと予定があんだよ」
「まさか、デートか?」
「ちっげぇよ。そんな小洒落たモンじゃねぇ」
お袋はじっとオレ様を見つめたかと思うと
「だが、女だな」
確信に満ちた語調で口元を吊り上げた。鋭いな、この女。なんで分かったんだ? オレ様は「だったら何だよ」と言いながら洗面所で顔を洗って頭から水を被った。いきなり胸倉を掴まれて、蛇口の先端が頭に当たった。い、痛い。
「おい、テメェ。相手は誰だ」
「そんなのテメェの知ったことかよ。部活の仲間だよ」
「だが女なんだろう?」
「性別なんてもので人間を弁別して表現するなら、そういう言い方も出来るのかもしれないな」
「沙羅ちゃんは?」
「アイツは関係ねぇだろ」
「沙羅ちゃんはお前が他の女とデートに行くことを知ってんのかって聞いてんだよ」
「だからデートじゃねぇよ。うるせぇなぁ。だいたいオレ様は三次元の女には興味がねぇんだよ。いいから離せよ」
お袋はオレ様を思いっきり睨みつけて、ドンと突き放した。
「テメェ、沙羅ちゃんを泣かすような真似だけはすんじゃねぇぞ」
「馬鹿かテメェは。オレ様がンなことするかよ」
「お前が意図してなくても、そういうことにならないように気をつけろっつってんだよ。ガキのテメェには分からねぇかもしれねぇけどな」
「テメェはいちいち勘繰りすぎなんだよ。おら、メシ」
「ったく、その偉そうな態度は誰に似たんだか」
オレ様は「間違いなくお前にだよ」と言って、椅子に腰を下ろした。朝っぱらから面倒な母親だ。オレ様は朝食を取って着替えると、そのまま家を出た。
オレ様の家から駅までは歩いて三十分くらい掛かる。自転車を駅前に停めておくと撤去されてしまうので、とても億劫だったが歩いていくことにした。
よく晴れた朝だ。青い空にうっすらと雲がかかっているが、雨の心配はなさそうだ。昼から暑くなるかもしれない。オレ様はあくびをしながら駅までの道のりをのんびり歩いた。
駅前まで来ると、さすがに人の数は多かった。祝日とは言え、仕事がある人もいるのだろう。スーツ姿の男の姿もちらほらと窺えた。オレ様は駅前の電光掲示板に表示された時刻を確認した。八時五十分。あと十分は寝ててもよかったかな。
そのまま視線を下に落とすと、ちんまい女がスケッチブックを抱えて不安そうにきょろきょろしていた。物凄く挙動不審だ。遠目から見ると迷子になった小学生にしか見えない。七分袖の薄いベージュのブラウスに黒いチュールスカートを合わせた女の靴は、アイボリーのパンプスだ。シンプルで飾らない感じがすみれらしい。胸元の細いリボンが可愛らしい、ちょっとオシャレな格好だった。オレ様はぶかぶかのトレーナーにぶかぶかの綿パンを着ているので、一緒に歩くとかなり不似合いだろう。もちろんそんなことを気にするオレ様ではないが。
そのまますみれに近づくと、オレ様を見つけたすみれの顔が綻んだ。その笑顔にちょっとだけドキッとしたのは内緒だ。すみれはちょこちょこと小動物のようにオレ様のところまで駆けてきた。
「おおおおおはようごじゃいます、マシラキしゃん」
「噛むんじゃねぇよ。おはようさん」
背の低いすみれが、ねだるような視線でオレ様をじっと見上げてきた。何だ、コイツ。もしかして何か言って欲しいのか。「キレイだね」とか「今日も可愛いよ」とか、そんなセリフを期待しているのだろうか。馬鹿かっつーの。オレ様はテメェの彼氏じゃねぇんだよ。オレ様は軽い溜息を一つついた。
「お前なぁ、別にオシャレして来なくていいって言っただろ? 寒くねぇの、その格好」
「べべべ別にオシャレなんてしてません! こ、ここ、これは普段着です! マシラキさんこそオシャレに全く気を遣わない、いかにも寝て起きて着の身着のまま出掛けてきましたーみたいな格好がとっても素敵ですねー。そんなにゆとりのあるパジャマだと、さぞかし楽で眠りやすいんでしょうねー。池袋とか渋谷の裏路地辺りでタムロしているヤンキーのお兄さんみたいなファッションがイカしてますよー。一体どこのストリートギャングですかーぷぷっ。顔を洗って出直して来やがっ今日はどちらに行くおつもりなんですか?」
「お前そのセリフ、リアルにヤンキーの方々に言ったらブッ殺されるからな、マジで」
「いやーもうそんなこと言うわけないじゃないですかー。そもそもわたくし他人と口を利くこともできない臆病者ですから、ヤンキーの方になんて声を掛けられませんよー。見ただけで卒倒してしまうかもしれませんねー。女とヤリてぇなぁが口癖の方々となんか、わたくしごとき社会的弱者がお話できるわけないじゃないでそろそろ行きませんか? どこに連れていってくれるか聞いてませんけど」
「あァ? じゃあ行くか。電車賃くらいは払ってやんよ」
「いえいえいえ、そのようなお情けをいただくわけにはいかないですよー。わたくし友達と遊びに行くって言ったらお母さんが五万円くらいお小遣いをくれたので、懐にはかなり余裕があるんですよー。そりゃーもうわたくしが友達と遊びに行くなんて快挙を達成したわけですから、貯金を切り崩してでもお小遣いをあげたくなる親の気持ちも分からなくはないんですが、まさかモーセの海割りの奇跡を見たユダヤ人みたいな顔で顎が外れるくらい大口を開けて驚くとは思いませわたくし親にも信用されていない可哀想な子でしたー。鬱です。吊ってきます」
「うるせぇよ。いいから行くぜ」
オレ様はもう面倒だったので、そのまますみれの手を引っ張って改札に向かった。ほんと、面倒なヤツ。
オレ様たちが向かったのは電車で二十分ほどの大きな駅だ。この周辺で最も栄えている駅で、この界隈で〝街〟という字を適用できる唯一の場所だ。駅前は昼間ほど込み合ってはいないが、それでもさすがに人の数が多い。違う路線との連結駅でもあるので、昼夜を問わず人通りの多い街だ。
オレ様は駅の南口にある広場の噴水前で腰を下ろした。すみれはオレ様の隣でぽつんと突っ立っている。
「あのー、マシラキさん。今日はここで何をなさるんですか?」
すみれが不安げにオレ様の顔を覗き込んできた。オレ様は眼前を顎で指した。
「お前はここで似顔絵を描け」
「だ、誰のですか?」
「その辺のヤツらのだよ。ちゃんと断ってから描けよ」
「なななななななんでですか! わたわたわたわたくしが人とお話できないのはマシラキさんもよく知っているでしょう!? む、無理ですよー。ほら、皆さん般若みたいな形相でわたくしの前を、ゆらりゆらりと禍々しいオーラを発しながら歩いていらっしゃいますよー。こんな修羅とか羅刹みたいな方々にどうやってお断りを入れろと仰るんですかー。マンウォッチングは一人でやってくだあっ、数学の宿題をやらないといけないので帰ります、お疲れさまでしたー」
「待てや、コラ」
オレ様はすみれの首根っこを捕まえて拘束した。
「ちょ、ちょ、ちょ、離してくださいよー。わたくしは家に帰って〝エンジェル・ビースト〟を見なければならないんです! 先週の分を録画し忘れたことなんてもうどうでもいいんです! 早く家に帰ってアニメの世界に浸らないと、禁断症状でサブイボがヤマアラシの針みたいに現出してしまいますよー。うわーオレの邪気眼がーみんな達ー早くオレから離れるんだー。って、マシラキさんがいつもやってるみたいな痛々しい光景を全国ネットで放映してもいいんでえっ? マシラキさんって邪気眼とか持ってるんですか?」
「持ってねぇよ。さすがのオレ様もそこまでイタくねぇよ」
「ですよねーははー」
すみれはスケッチブックをぎゅっと抱えて俯いてしまった。要するに、怖いんだろう。見れば分かる。膝も肩も震えてるし、目尻に涙まで溜まってる。対人恐怖症みたいなもんだからなぁ、コイツは。オレ様はちょいちょいと指を折ってすみれを隣に座らせた。
「とりあえず何かあってもオレ様が何とかしてやる。お前はとにかく人と会話する練習をしろ。話す言葉を決めておけばいいんだよ。無理に変なことを言う必要なんざこれっぽっちもねぇ」
聞いているのかいないのか、すみれは俯いたまま固まったままだ。
「スケッチブックを見せながら『すいません、似顔絵を描かせてください』でいいんだよ。それ以上は何も話す必要がない。何かトラブルがあったら全部オレ様が解決してやる。お前にちょっかい出してくるカスがいたら、オレ様がきっちりブッ飛ばしてやっからよ」
「あう」
「あう、じゃねぇよ。お前オレ様とは普通に話せるじゃん。他のヤツも大して変わらねぇよ。安心しろ、オレ様がここにいる。お前は何も心配せずに、へらへらしながら似顔絵を描かせてくれって唱えるだけでいいんだ、なっ?」
大粒の水滴が、ぽたぽたとすみれの膝に落ちた。すみれの瞳からは止め処なく涙が溢れている。何だ、コイツ。なんでこんなことで泣くんだよ。あぁ、もう面倒くせぇなぁ、この女。オレ様は仕方がないのですみれの肩を抱いてやった。すみれの躰は小さくて、オレ様の片腕にすっぽり収まってしまうくらい儚かった。
一時間以上すみれは泣き続けた。周囲の視線が鬱陶しかったが、オレ様がテメェら見てんじゃねぇよ殺すぞ的なガンを飛ばしまくっていたので、見物客は足早に去っていった。
「マジラギざん」
「あぁ~ん?」
すみれが涙交じりの鼻声で、オレ様を呼んだ。
「だんで、ごんだごどずるんでずが?」
「なに言ってっか分かんねぇよ」
「どうじで」
「あーうるせぇ。分かる、分かるから」
なんでこんなことをするかって、そんなの決まってる。すみれに話せるようになって欲しいからだ。そうしないとオレ様の部活に支障を来たすからな。全てはオレ様のためだ。コミュニケーションが取れないなら取れるようにすればいいまでのこと。すみれの絵のレベルは半端じゃない。オレ様はすみれと出会わなければ、自分で部活を作ろうなんて思いもしなかったのだ。だから他の誰がいなくなったとしても、すみれだけは外せない。みんな外したくないけど。
問題はオレ様のこの考えをどうやってすみれに説明したらいいか、オレ様にもさっぱり分からないということだ。オレ様は五秒ほど考えたが、面倒になったので端折って説明することにした。
「お前が必要だからだよ」
すみれが横目でオレ様を窺うのが視線で分かった。オレ様は目の前を通り過ぎる人並みから視線を逸らさずに続けた。だって、目を見ながらなんて恥ずかしくて言えないもん。
「お前がいたから、オレ様は部活をやろうと思ったんだよ。だから、お前が少しでも喋れるようになってくれれば、きっと、なんか、イイと思うんだよ。悪ぃかよ、全部オレ様のためだよ。オレ様がそうなってくれれば言って思ってっからやってんだよ」
すみれはじーっとオレ様の横顔を見つめていた。オレ様は気恥ずかしくなって、顔を背けた。
「あんだよ、悪ぃかよ。あァ?」
すみれはふるふると首を横に振って、手の甲で涙を拭って立ち上がった。
「行きます!」
ずかずかとガニ股で前に進み、前を通り過ぎようとしたサラリーマンの前に、すみれは立ちはだかった。社会人二十年目くらいのくたびれたスーツ姿のサラリーマンは、突然に現れた小学生のような女子高生に戸惑った表情を見せた。すみれは抱え込んだスケッチブックを両手で突き出し、鬼気迫る勢いで声を荒げた。
「あう!」
「ダメじゃん!」
サラリーマンのおっさんは小首を傾げてその場を立ち去っていった。そりゃーまぁ、お忙しいでしょうからねぇ。意味不明な幼女の相手なんかしてられませんよねーこんな不景気なのに。オレ様は指をしゃくってすみれを呼び戻した。
「よし、上出来だ。まずは一歩前進だぞ」
「ほ、ほんとですか! マジですか! 大マジですよね! きゃーもうわたくしもしかしたら他人と話せるようになったかもしれませんよー。進化、進歩、大躍進ですよー。勢い余ってそのまま転進しちゃいますよー。戦略的撤退ですよー。お母さーん、この戦争が終わったら、わたくしはお母さんを旅行に連れていってあげますねー。生ける諸葛、死せる仲達を走らせちゃいますよー。これでわたくしも一人前あっ、諸葛亮って司馬懿よりも先に死んでますよね?」
「知ってんじゃねぇかよ。間違えんじゃねぇよ。あと撤退すんじゃねぇよ」
「あう」
「あう、じゃねぇよ。おら、次だ。行ってこい」
「は、はい。行ってきます」
すみれは、今度はちょこちょこと広場に躍り出た。辺りをきょろきょろ見回して、押し車で躰を支えながら歩く老婦をターゲットにしたようだ。すみれはばあさんの前に立ちはだかってスケッチブックを突き出したが、
「いたぁっ!?」
押し車の先端がスネに当たって悶え苦しんだ。ご老人は若者に比べて反応速度が遅いので、いきなり現れられても急制動が利かないのだ。
「あらあら、ゴメンなさいねぇ」
「あう」
すみれは涙目で、それでもスケッチブックを突き出しながら言葉にならない言葉を発した。だが、当然ばあさんにすみれの事情を斟酌する機才があるはずもなく
「どうしたんだい、お嬢さん」
にこやかに相好を崩しただけだった。すみれは結局なにも言えずにオレ様のところまで逃げてきた。老婦はにこにことオレ様とすみれを眺め、小さく会釈をして去っていった。
まぁ、気長にやるか。
その後、昼食を挟みながら(近くのハンバーガーショップで激辛チキンなんたらという赤い揚げ物を食したので腹がピリピリした)、オレ様たちは夕方まで似顔絵大作戦を展開した。結果はゼロ枚。この日すみれは一枚も似顔絵を描くことはなかった。
日没前。
オレ様は疲れ果てたすみれの手を引いて、家まで送ることにした。すみれはとても一生懸命に頑張っていたが、如何せん成果に繋がらないと気力も萎えてしまう。くたくたになったすみれの歩調に合わせながら、オレ様は暗くなり始めた空の下を、古ぼけたコンクリートのビルの間を縫って歩いた。
すみれの家宅はかなり高級そうな二十階建ての高層マンションの一室だった。オレ様はマンションの入り口で別れようと思ったが
「ま、マシラキさん、どうぞ上がっていってください」
なんてすみれが言うもんだから、疲れていたオレ様はちょっとだけお邪魔して休息させてもらうことにした。
ゲートで暗証番号を入力したすみれは、手馴れた様子でピカピカに磨かれた床の上を滑るように進んでいった。オレ様はこんな高級そうな建物に入ったことがなかったので、ちょっとビクビクしながらすみれの後に続いた。
すみれの家はマンションの六階だった。上に行くほど部屋代が高くなるそうで、十階から下なら庶民でも何とかなるレベルの金額で購えるものらしい。金額を聞くのはやめた。ショックで寝込みそうだ。
エレベーターの中で家に誰かいるか聞いてみた。まさか「今日はお父さんもお母さんもいないの」的なセリフをちょっとだけ期待したが、いなかったら多分オレ様はやっぱり帰ると逃げ出したかもしれない。正直に言うとちょっとビビってた。すみれは何でもないように「お母さんがいますよー」と答えたので、オレ様は不覚にも安心してしまった。
開錠して「ただいまー」と中に入っていくすみれに続いて、オレ様も「お邪魔します」と小さくなりながら中に入った。
入った瞬間に思ったのは、「広い!」だった。オレ様の家より広いんじゃないだろうか。いったい何足の靴を玄関に並べることが出来るのか。オレ様の家の玄関は三足も並べたらあとはもう上に積み重ねるしかないというのに。本当にマンションなのだろうか。まさか異界に繋がっているなどという落ちはないだろうな。ありません。
すみれは真っ直ぐ廊下を進み、リビングらしき場所までオレ様を案内した。キッチンで母親らしき女性が洗い物をしていた。すみれはその人物にちょこちょこ歩み寄り
「お母さん、友達」
とだけオレ様を紹介した。おばさんはオレ様に視線を移し、にっこりと微笑んで
「いらっしゃイイイィィィィィッ!?」
「お、お邪魔します?」
悲鳴を上げた。な、何だコイツ。オレ様を見た瞬間、すみれのお母さんは痙攣でも起こしたみたいな絶叫をあげだした。オレ様ってそんなに恐ろしい顔はしてないはずなんだが。
「男!? オトコ!? 殿方ですわっ!? ちょっとーお父さーん! すみれが男のコを連れてきましたよー! 赤飯! 今日は赤飯よー! お父さーん、もち米と小豆を買ってきてー! 小豆は大納言よ! 丹波産! それ以外を買ってきたら離婚しますよー。あらやだ、どうしましょうどうしましょう。金目鯛の備蓄がないわ。鯉の甘露煮で誤魔化せるかしら。やだ、いいトコの坊ちゃんだったらすぐにバレてしまうわ。ちょっとー! お父さーん! ウェディングドレスはまだなのー? あぁ、どうしましょうどうしましょう。お小遣いはいくらくらいあげれば別れないでくれるのかしら。ちょっとーお父さーん。銀行いってきてー。百万くらい下ろしてきてー。ケタ間違えたら離婚しますよー!」
「この親にしてこのコありっ!?」
オレ様はこの日すみれのルーツを知った。
「お母さん。お父さん、今日も遅い」
「あらやだ、そうだったわね。あーどうしましょうどうしましょう。今日は高級なお菓子なんて何も用意してないわ。紅茶でいいかしら。百パック四百円の紅茶で大丈夫かしら。すみれ、彼はいいトコの坊ちゃんなの? 大学は出てるの? 年収はいくら? まさかお医者さま? きゃーもう、大人しいコだと思ってたのに、どこでそんな高学歴で高収入で高飛車な男のコを引っ掛けてきたの! あーどうしましょうどうしましょう。ちょっとお母さん今から買い物に行ってくるわ。坊ちゃんに美味しいお菓子とお夕飯を用意してあげないとね。ちょっとーお父さーん! 新婚旅行はハワイかグァムよ! 国内旅行なんて認めませんからねー!」
「高飛車なのは認めるけどね。どこをどうツッコんでいいか分からねぇ」
オレ様は引きつった頬をなかなか戻せないでいた。さすがすみれの母ちゃんだ。だが、さすがにオレ様の二倍以上も生きているお方にすみれと同じようにはツッコめない。
「お母さん。お父さん、遅くなる」
「あらやだ、そうだったわね。あーどうしましょうどうしましょう。そうだわ、冷蔵庫にシュークリームが……」
「お母さん。部屋、行く」
「あら、そうなの。じゃあお母さん一杯四円の紅茶と一個百円のシュークリームを出来るだけ高級そうに飾り立てて持っていくけど、それでいいのね?」
「お母さん。要らない」
「お母さん不要論っ!? あーどうしましょうどうしましょう。娘がグレてしまったわ。お父さん、私たちはどうやら娘の育て方を誤ってしまったようです。すみれ、ゴメンなさいね。お母さん精一杯やってきたつもりだったけど、何がいけなかったのかしら。やっぱりマンションなんかじゃなくてちょっと手狭でも開放感のある一戸建てにしたほうが良かったのかしら。それとも絵の専門学校に通わせてあげなかったのがマズかったのかしら。あーどうしましょうどうしましょう」
「あう」
すみれは俯いて黙り込んでしまった。すみれのお母さんはあたふたしながらキッチンをうろうろしている。すみれのマシンガントークは母親譲りではあるが、母親には使えない限定条件付の武器らしい。仕方ない。オレ様はすみれに助け舟を出すことにした。
「あーおばさん? オレ様たち、すみれの部屋に行ってますんで。お茶も茶菓子も要りませんから。どうぞお気遣いなく」
「あああああらそうなの? どどどどどうぞごゆっくり」
オレ様はおばさんに引きつった笑みを残して、すみれの部屋に行くことにした。
すみれの部屋は何と言うか、オレ様が想像している女のコの部屋からは遠くかけ離れたものだった。いや、オレ様が知ってる女のコの部屋って沙羅の部屋しかないんだけど。しかももう何年も沙羅の部屋には入ってない。
すみれの部屋は、とても整理整頓が行き届いていた。掃除も小マメに行っているようで、とても清潔感のある部屋だった。これ、いいトコな。残りの印象は、とにかく凄まじいとしか言えない。まずベッドと机のあるスペース以外で壁が見える場所がない。全て本棚で埋まっている。それが全て書籍だったらよほどの勉強家だろう。もちろん分類上は本と定義されるものは非常に多かった。九割以上がマンガだったけど。本棚の一つはフィギュアで満たされていた。クローゼットもあったが、中は見たくない。きっとオレ様の想像どおりのものが入っているはずだ。本棚で四方を埋め尽くされているので、必然的に部屋に入ると圧迫感を感じる。狭い。本当は広い部屋なんだろうけど、とにかく狭く感じる。中には美術関係の資料や画集、色鉛筆にコピック、スケッチブックの買い置きもあった。机はちょっと凝ったシステムデスクのような多重構造になっていて、パソコン、スキャナー付きのプリンター、二十四インチワイドの液晶モニター、ペンタブレットなどがあり、絵を描くための用度品が一通り揃っているというのは嘘ではないようだ。ベッドも二段式で、上の段にはDVDやらブルーレイディスクやら、アニメ関係のグッズからゲームソフト、すみれやオレ様たちの年齢では購入することは出来ないはずのいろんなものがキレイに整頓されて並べられていた。オレ様も持っているので別に異論はない。とにかく、総じて圧巻の一言だった。
オレ様もかなりの二次元オタクだが、すみれの部屋はオレ様のそれを遥かに上回る。うん、別に驚いてはいない。半ば予想通りの結果だっただけに、オレ様はむしろ安心感すら覚えた。もっとゴミゴミしてるかと思ったけど、すみれはキレイ好きな性格らしい。オレ様は部屋をぐるりと見回して、ちょっと嬉しくなった。
「げっ、お前これ〝デスティニー〟の初回限定版じゃん! しかも二つもある! さらにしかも片っぽ未開封じゃん!」
「えっ? いやいやいや、触らないでください。それは観賞用なんですよー」
「観賞用とか持ってるヤツほんとにいたんだっ!」
「えっ? 基本じゃないんですか?」
「金がねぇよ。買えねぇよ」
「開封済みのものならお貸ししますよー。汚したら地の果てまでも追いかけて細胞一つ残らないくらい跡形もなくブッ殺しですけどねーははー」
「任せろ。オレ様も箱や説明書は可能な限りキレイに保存しておく性質だ。買って開けたらまずビニール袋に入れるだろ? 基本な」
「ですよねー。わたくしも箱が汚れたり色褪せないようにわざわざ日光や電気の光が当たりにくいベッドの上で保管してるくらいですから、基本ですよねー」
すげぇ。お袋や沙羅はオレ様の行動方針に疑問しか差し挟まなかったが、コイツは違う。コイツはオレ様と似たような性癖を持っている。オレ様はかなり嬉しくなってきた。
ドアをノックする音が聞こえたので、すみれがドアを開けた。おばさんが涙を流しながら入ってきた。なんで泣いてるの、この人? おばさんは紅茶とシュークリームをデスクに置くと、涙をぽたぽた垂らしながらオレ様に深く頭を下げた。意味が解らない。すみれの親だけに、オレ様の理解の斜め上をいく行動を取るのは得意なようだ。
オレ様は一杯当たり四円の紅茶と高級ではないシュークリームをいただきつつ、すみれと下らない雑談を交わした(紅茶もシュークリームも美味しかった。オレ様の舌は食べ物の良し悪しを区別できるようには出来ていない)。
オレ様がちょっとトイレを借りて戻ってくると、すみれはベッドの上で眠ってしまっていた。疲れていたのだろう。あどけない寝顔が、憎らしいくらい可愛い。キレイに畳んであった布団をすみれに掛けてやって、オレ様は部屋を出ることにした。すみれが眠っているのに、オレ様がここにいるのはおかしいだろう。速やかにお暇させていただくのが望ましいと、オレ様は判断した。おっと、忘れないように書き置きを残しておかなければならない。オレ様はすみれのスケッチブックに大きく「明日も九時に駅前に集合。遅刻厳禁」と書いて、枕の脇に立て掛けておいた。このまま十二時間以上、爆睡しなければきっと気付くだろう。明日は遅刻しても許してやろうと、オレ様は思った。
部屋を出て、すみれのお母さんに挨拶をしようと思い、リビングに顔を出した。おばさんはオレ様の姿を見つけて深々とお辞儀をすると、
「すみれは、どうしたの?」
「眠っちまったみたいっす。申し訳ない、疲れさせてしまったみたいで」
「いいのよ、楽しそうにしてたから。ちょっとだけ、お話を聞かせてくれないかしら」
そう言って、オレ様に食卓を囲む椅子に座るよう促した。面倒くさかったけど、お邪魔させてもらったのにお誘いを無碍にするわけにもいかず、オレ様は「うっす」と小さく会釈をして腰を下ろした。
「あのコ、学校ではいつもあんな感じなの?」
「と、仰いますと?」
「ゴメンなさいね、さっきあなたとあのコがお話してるところを立ち聞きさせてもらっちゃったの。ちょっとだけよ。お茶を持っていく前だけ」
「あぁ、なんか泣いてた時っすよね。ちょっとビビったんすけど」
「えぇ。私とあのコの会話、さっき聞いたでしょ?」
「おばさんがパニクってあたふたしてる時っすよね。それが?」
「アレが私とあのコの会話なの。主人ともおんなじ感じよ」
「つまり、笑わないわけだ、すみれは……あぁ、失礼。すみれさんは」
「いいのよ。普段どおりに呼んでちょうだい。だからね、私あなたとあのコがあんなふうに楽しそうに会話してるのを聞いて、思わず涙ぐんじゃって」
うわぁ、ヘビーな話を聞かせるよなぁ、この人。しかもオレ様とは初対面だっつーの。勘弁して欲しいなぁ、こういう重い話。おばさんは溜息を一つついて、オレ様から視線を逸らした。
「あのコ、学校ではあんなふうに楽しそうに話をするの?」
「んーと、いや、そういうわけでもないっす。特定の人物とだけって感じっすかね」
オレ様とだけね。言わねぇけど。おばさんの重苦しい話はさらに続いた。
「でも良かった。最近あのコ、何だか楽しそうなの。前は家にいる時はいつも無表情で、感情を読むのが大変だったんだけど、最近ね、一緒に食事をしてると、時々思い出したように笑うのよ。私それが嬉しくってね」
「はぁ、そっすか」
「きっとあなたのおかげよね。あなたがマシラキさん、なのよね?」
「えぇ、そうっす」
「たまにね、あのコがあなたの名前を出すのよ。だからあなたとだけはよくお喋りできるんだろうなって。違ったかしら?」
「えーっと、まぁ、その、はい」
「何となく分かるわ。あなた、とっても話しやすいもの。あなた女のコにモテるほう?」
「いえ、自分は三次元の女にあんまり興味ないんで」
オレ様がそう言うと、おばさんはクスクスと笑い始めた。嘲笑うような笑みじゃない。本当に可笑しそうな笑い方だった。
「そうなの。あのコもそう。普通のお友達なんて全然いないの。アニメやゲームのキャラが大好きで、いっつもそういうお人形とかポスターとか買ってくるの。あなたとはそういうところで気が合うのかもしれないわね」
「はぁ、そうなんでしょうか」
やべぇ。オレ様は早くも帰りたくなってきた。でも、そうだよなぁ。友達がいない娘を持つ親の気持ちからすれば、オレ様みたいなたとえ頭のイカれた野郎でも娘の友達になってくれるのなら、それはきっと喜ばしいことなんだろう。まぁ、オレ様も友達は少ないのに、オレ様のお袋はそんなの全く気にもしてくれねぇけど。
「私ね、主人と上手くいってないの」
うわぁー、来たよ来たよ。あー帰りてぇー。だからオレ様はリアルが嫌いなんだ。他人のこんな重たい話、聞きたくもない。
「ちょっとしたことですぐケンカになっちゃうのよね。私と主人の関係が疎遠になり始めた頃から、あのコの口数は少なくなっていったわ。今はね、ケンカしないようにしようって二人で決めたから表面上は上手くやれてるんだけど、娘だからねぇ、分かっちゃうんだろうと思うの」
「でしょうねぇ。一緒に暮らしてれば温度みたいなのも肌で感じられるでしょうし」
「そうね。でもね、私も主人も、すみれが大好きなの。すみれも私のことが大好きだと思うし、主人のことも大好きだと思うの。でも、私と主人は好き合ってないの。だからもう、どうしようもなくって」
おばさんはテーブルに肘をつき両手で頭を抱えてしまった。そんな話、高校生の娘の友達に聞かせんなよ。大人の良識を疑うぞ。と言いたいところだが、この人も相当まいってるんだろうな。多分きっと、オレ様という一縷の望みを見つけて、それにすがりたい気持ちでいっぱいなんだろう。でもね、おばさん。求められすぎると、オレ様も困っちゃうんだよ。オレ様まだ高校生だよ?
「別に彼氏になれとか、結婚しろだなんて言わないわ。ただね、あのコとお友達であって欲しいだけなの」
それは言外に彼氏になって将来は結婚してくれってお願いしてるんだよね。そういう言葉を出すってことは、本当はそれを望んでるってことだよね。先のことは分からないけど、オレ様は三次元の彼女を作るつもりはないんだ。だからもう勘弁して欲しい。
「もちろん、すみれはオレ様の友達っすから。それに、他にも友達はいますよ。部員は五人しかいないけど、そのうち四人は同じクラスっすからね。きっと、すぐに仲良くなれますよ」
「えぇ、よろしくお願いします。こんなことをお願いするのは筋違いかもしれませんが、本当によろしくお願いします」
あぁー、もう面倒くせぇ。何なんだよ、ったく。オレ様はちょっと頭に来たので、思わず口から言葉が出てしまった。
「あのな、おばさん。もう面倒だから普通に話すけどさ。オレ様はテメェに言われなくてもすみれとは仲良くするつもりなんだよ。テメェにお願いされたから仲良くするわけじゃねぇんだよ。オレ様はアイツのこと気に入ってるし、沙羅や白百合や椿先輩だってアイツのこと嫌ってるわけじゃねぇんだよ。だからアイツが普通に喋れるようになれるようオレ様だって頑張るし、他の連中にも協力させんだよ。アンタのお願いを聞く義理なんて、オレ様にはこれっぽっちもねぇんだよ。オレ様はオレ様のためにしか動かねぇんだよ。オレ様にお願いをするんならテメェの好感度をもっと上げてから来いよ」
そこまで捲くし立てて、やっちまったとオレ様は思った。もういいや、面倒くせぇ。オレ様はそこで席を立った。
「さーせん、言い過ぎだったかもしれませんが、マジでアンタのお願いを聞く義理はないんで。そこんとこだけ勘違いしないでください。お茶とお菓子、ご馳走さまでした」
オレ様は首だけで軽く会釈をして、そのまますみれの家を辞去した。
なぁ、すみれの母ちゃんよ。アンタの気持ちは重すぎるんだよ、オレ様にはよ。オレ様はオレ様のやりたいようにやるぜ。けど、きっとアンタが望んでるような未来にしてやるからよ、何も言わずに黙って見ててくれよ。アンタにお願いされたからすみれと仲良くするなんてさ、酷過ぎるだろ。気持ちは分かるけどさ。
あとな、ポスターは買わねぇよ。もらってくるんだよ。
翌日もオレ様たちは街に出張って似顔絵大作戦を展開した。すみれの母ちゃんの話なんてオレ様は気にしない。気にしないようにした。だからと言ってすみれのコミュニケーション能力が向上するわけじゃないんだけど。結局この日も成果はゼロ。三連休も残り一日を残すのみとなってしまった。もともと気長にやるつもりだったし、オレ様はさほど悲観していなかった。
変化が訪れたのはその翌日だった。
序盤戦は全戦全敗。少しもいいところがなかった。それでも自ら声を掛けに行こうとするその姿勢だけは、大きな改善点だった。すみれの懸命さが伝わってきたので、オレ様は疲れて戻ってくるすみれに励ましの言葉を掛け続けた。
昼食を取る前にもう一度だけと、すみれは勢い勇んで広場に飛び出した。するとどうだろう。いつもはすみれを避けて通り過ぎていく歩行者の中で、一人だけ真っ直ぐすみれに向かって歩いてくる人がいた。すみれはそんな奇特な御仁をターゲットにしたようだったが、その人は見覚えのある人だった。初日にニコニコと笑みを振り撒きながら、すみれに声を掛けてくれた老婦だ。
すみれはばあさんに向かってスケッチブックを差し出した。ばあさんは立ち止まり、だが何も言わずににこやかにすみれを見つめたままだ。すみれは必死に声を絞り出そうとしているが、言葉はなかなか口から出て来ない。オレ様は固唾を呑んで見守った。
「あ、あう!」
いや、分かんねぇよ。それで通じるなら人間は言葉なんてものを発明したりはしねぇんだよ。すみれの意味不明な言動に、ばあさんはただにこやかに微笑んでいるだけだ。オレ様は左の拳を握って、すみれの様子をじっと見つめていた。
「う、うー!」
ばあさんはそれが何を意味しているのか、まるで分かっているような表情だった。けれど、助け舟を出したりはしなかった。すみれから言葉を発するのを、ただじっと待っているようにすら見えた。そんな馬鹿なだ。これはオレ様の、そうであって欲しいという願望が思わせる錯覚に違いない。
「に、にっ!」
おぉ? 「あ」と「う」以外の文字が、すみれの口から飛び出した。オレ様は思わず握り締めた拳に力を込めた。拳を握れない右手がもどかしい。オレ様は自分の全身が緊張し始めていることに気付いた。
「にが、にがっ!」
何が苦ぇんだよ。せめて四文字くらい言えるだろ。オレ様は思わず浮かせそうになった腰を努めて落とし、動き出しそうになる足を必死に地に貼り付けた。行け! すみれ。お前なら出来る。
「にが、お! にがおえっ!」
来たっ! 言えたっ! 似顔絵! そうだ、似顔絵だよ! お前は似顔絵をどうしたんだよ! オレ様は血が出るくらい唇を強く噛んで、全身を強張らせた。
老婦はすみれの奇怪な行動を、ただ穏やかに眺めている。通常なら気持ち悪がって逃げ出しても不思議ではないだろう。まるで菩薩のような包容力と忍耐強さだ。ただ、すみれが一文字でも発するごとに、小さな頷きを返してくれていることに、オレ様は気付いた。
「にがおえっ!」
「うん、似顔絵が、どうしたんだい?」
行け! すみれ! 言うんだ! 描かせてください! 似顔絵を、描かせてください!
「あう」
オレ様は肩から脱力した。あぁ、あとちょっとだったのに。
だが、老婦はすみれの悄気た顔を見ても、温容な笑顔を保ったままだった。間違いない、この人は分かってくれている。すみれが何をしようとしているのか、この人は理解してくれているんだ。
「ゆっくりでいいんよ。慌てず、全部、言ってごらん?」
「あ、う」
コラ、退化するな。もう一歩でいい。進め。オレ様は額から流れ落ちる汗を拭いもせず、一心にすみれの様子を見つめ続けた。
「に、に、にがおえっ!」
「うん」
「にが、にがおえ、をっ!」
来た、来たよコレっ! 「を」まで言えたよ! もう全部いけんだろ。言っちまえよ。
「にが、にが、にがおえをっ!」
「うん」
「か、かか、かかっ!」
「うん」
「かかせてくださいっ!」
キターーーーーーーーーーーッ!! 言えた言えた言えたよっ! オレ様は飛び上がって喜びそうになるのを、だが堪えた。ばあさんはまだ、立ち止まったままだ。
「うん、最初から、全部、言ってごらん?」
「あう」
あう、じゃねぇよ。おら、言えよ。お前になら出来る。行けっ!
すみれは泣きそうな表情でオレ様に助けを求めてきたが、オレ様は迷わずゴーサインを出した。進め。ここで退いたらお前はもう進めない。
「うう」
ばあさんはほとんど微動だにせず、すみれの言葉をひたすらに待っている。優しいのに、なんてスパルタなんだ。この人は途切れ途切れの発話程度じゃ許さない。そりゃそうだ。あんな言い方じゃ、よっぽど相手に聞く気がない限り伝わらない。それをこの人は分かってくれた。
「に、にがおえをっ! かかせてくださいっ!」
「うん、ええよ。きれいに描いてな」
「うおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」
オレ様は我慢できずに飛び出してしまった。走ってすみれのもとに行き、思わず抱きついてぶんぶん振り回した。オレ様はもしかしたら泣いていたのかもしれない。すみれはもうポロポロと涙をこぼしながら、オレ様に振り回されるがままになっていた。ばあさんは、そんなオレたちの様子を、ただにこやかに眺めていた。
その日の陽射しは結構キツかったので、オレ様は喫茶店にばあさんを誘導し、そこで似顔絵を描かせてもらうことにした。すみれは止まらない涙を何度も手の甲で拭いながら、一生懸命ばあさんの似顔を描いた。一枚を描いて、そしてなぜかもう一枚を描き始めた。筆のスピードが恐ろしく速い。出来上がった最初の一枚は、とにかく上手だった。写真では出来ない、特徴を抽出してそれを誇張するというすみれの描き方は、決して実物にそっくりというわけじゃない。けれど、それは一目でその人と判る絵だった。
オレ様はその一枚をばあさんに見せた。ばあさんはたいそう喜んでくれた。すみれの筆は、その間も休まず動き続け、三十分もすると二枚目が完成した。
完成した絵を、すみれはばあさんに見せた。言葉はなく、頭を下げて両手で絵を差し出しただけだ。ばあさんは二枚目の絵を見ると、ボロボロ涙をこぼし始めた。何が起こったのかさっぱり分からないが、ばあさんの顔を見る限り、それが酷い絵じゃないことだけは分かった。
「アンタ、これ、私を見て想像したんかえ?」
すみれはコクコクと頷いて返事をした。
「そうかい、そうかい」
ばあさんは嬉しそうに涙をこぼしながら、すみれの描いた絵を見つめていた。オレ様はそっと後ろに周ってその絵を覗きこんだ。それは、若い女性の絵だった。けれどそれが誰なのか、オレ様には一目で分かった。ばあさんの、若い頃の絵だ。この人は、きっと数十年前の自分を思い出しているのだろう。若い頃のばあさんは、とてもキレイな人だった。
「私ゃね、こん三日間、あなたたちんことを見とったよ」
「えっ? マジで? なんで?」
ばあさんはオーダーしたホットコーヒーを一口すすって、「あちっ!」と口を離した。いや、猫舌ならちゃんと冷ましてから飲めよ。冷や水を口に含んで一息つくと、再びばあさんは話し始めた。
「私ゃね、この辺りに住んでるの。天気のいい日は散歩しないと、足がどんどん弱っていくからねぇ。だから、一昨日あなたに会ったんもそんな時だったよ」
オレ様とすみれはコクリと頷いて、先を促した。
「あなたたちは私の孫とちょうど同い年くらいでねぇ。声を掛けられた日の帰りに同じ場所を通って見たら、まだあなたたちがいるじゃない。しかも同じことをして、ねぇ」
「同じことやってたからなぁ」
「だからねぇ、ちょっとこっそり盗み見てたんよ。あなたたちが何をしとるんか」
「あーなるほどね。だからオレ様たちの行動の真意を読み取れたのか」
ばあさんは大きく頷いてすみれを指差し、
「あなたが一生懸命スケッチブックを持っていろんな人に話し掛けて」
今度はオレ様に指先を移動させた。
「そん度にあなたが一生懸命に励ましてるじゃない。最初はよう分からんかったけど、二日も見てれば大体の事情は分かったんよ」
ばあさんは慈しむような目で、すみれを見遣った。オレ様んチのばあちゃん(お袋のお袋な)とはエラい違いだ。ウチのばあちゃんは「馬鹿野郎! べらんめえ! 男が細けぇことぐちぐち抜かすんじゃねぇ!」って、ツバを飛ばしながら言うのが口癖だからなぁ。
「私ゃたいてい暇だからねぇ。あなたん力になってあげようって、そう思ったんよ」
いい人だなぁ、この人。オレ様たちがこのばあさんと出会うことが出来なかったら、すみれは今も広場で不毛な格闘を続けていたのかもしれない。
「似顔絵、ありがとう。お代はおいくらかしら?」
「いやいやいや、金なんて取らねぇよ。ばあさん、アンタからは金以上のものをもらっちまったからさ。その上さらに年金受給者のアンタから金を毟り取ろうだなんて、これっぽっちも思ってねぇよ」
「あなた、さらっと酷いこと言うんねぇ」
「あぁ、人を傷つけることに関してオレ様の右に出る者はいないと専らの評判だ」
ばあさんは入れ歯が抜けかかったような声で「ふぇ、ふぇ」と笑いながら
「あなた、面白いコだねぇ。あなたみたいなコが傍にいれば、このコは大丈夫やと、私ゃ思うよ」
「当たり前だ。オレ様が傍にいるんだ。何の問題もないさ」
ばあさんはもう一度くつくつと笑い、すみれの手を取った。
「あなた、このコを大切になさいよ」
すみれはコクコクと頷いて、消え入りそうな声で「はい」と言った。あ、コイツ返事したぞ。すげぇ。ばあさん効果は絶大だ。
ばあさんは、オレ様たちが払うと申し出た喫茶店の支払いを全額もってくれた。去り際に「私ゃ田所菊子いうんよ。この辺りに住んでるから、良かったら遊びに来とくれ」と言い残して店を出た。オレ様は「機会があれば」と返しておいたが、そんな機会は絶対に来ないだろう。ばあさん、アンタにはとても感謝しているが、オレ様は出掛けるのが嫌いなんだ。だいたい住所が分からねぇよ。
その後のすみれの成果には目を見張るものがあった。素っ気ない現代人の世知辛い素通りという攻撃に耐えつつ、実に八回も「似顔絵を描かせてください」を言うことが出来たのだ。前日までの体たらくを鑑みれば、これは快挙と明言して問題はあるまい。実際に似顔絵を描けたのはばあさんの時だけだが、目的は声を掛けること自体なので、今回の作戦は成功と言えるだろう。
やがて西の空もオレンジ色に染まり始めた頃、オレ様たちは似顔絵大作戦を終了させることにした。地元の駅に戻り、改札を出たところでオレ様はすみれを呼び止めた。
「では、すみれ。貴様に最後のオーダーを与える」
「な、何ですか。そんなにもったいぶって。オーダーなんて舶来の言葉は使わず、命令と日本語を使ってください。それともマシラキさんは信長に恨みでもあるんですか? そんな戦国時代切っての梟雄の名前を出すなんて、マシラキさんのお宅は武士の家系なんですか? いやー道理で言葉遣いが雑で口汚く罵るような口調でしか話せないわけですよー。武士は斬らねど高楊枝なんて諺もあるくらいですからねー。物騒なお方であれ? 武士ってもっと丁寧な言葉遣いをするような気がするんですが、口が汚いのはマシラキさんの家系特有なんですか?」
「知らねぇよ。織田じゃねぇよ。オーダーだよ。信長とか全く関係ねぇじゃねぇか。あと武士は食わねど高楊枝だからな」
「やーもう、マシラキさんのツッコみも堂に入ってきましたねー。わたくしの巧妙なボケに対して全部キレイにツッコんでいただけたので、わたくしもちょっと満足してますよー。口汚いのは、江戸っ子の町人らしいですからねー。江戸の武士の方がてやんでぇ、ばーろめー、こんちきしょーなんて言ってたら、今ごろ日本はペリーの黒船に撃ち殺されていたかもしれまマシラキさんの家系はきっと町人なんですねー」
「コンチキショーはオレ様の口癖だ。お袋もばあちゃんもンんなこと言わねぇよ。いいからテメェちょっと黙れよ」
「はいー」
すみれは浮かれた調子で返事をした。オレ様はすみれに最後のオーダーを与えた。すみれは驚いてオレ様を振り向いたが、オレ様はそれには答えずに歩道を歩き始めた。
「ちょ、ちょ、ちょ、待ってくださいよー。無理ですよー。わたくしはまだ素人なんですよー。今日のはちょっと奇跡が起きただけですよー。ゲーム風に言うなら、わたくしはまだ遊び人から賢者にクラスチェンジしたくらいなんですよー。そんないきなり勇者クラスの偉業を成し遂げるのはどう考えても無理で誰が今まで遊び人だったんですか! わたくしは最初から賢者でした!」
「うるせぇよ盗賊。テメェのどこが賢者なんだよ。いいからやれ」
「あう」
さっきまでスキップしそうなくらい浮かれていたすみれは、急に俯いてしおらしくなってしまった。そんなに難しいことを言ったつもりはないんだけどなぁ。オレ様は振り返って、すみれの瞳を見ながら言った。
「すみれ」
「は、はい」
「何も心配するな。失敗したって問題ねぇよ。今まで出来ていなかったんだ。失敗したって普通だって思われるだけだぜ。なぁーに、オレ様がいるんだ。お前が心配することなんざ何一つねぇよ」
「あう」
「じゃあな。ちゃんと練習しとけよ」
オレ様はそこで手を振ってすみれと別れた。すみれは不安げな顔でオレ様の背中を見つめていたようだが、オレ様はすみれの湿った視線を無視して歩き続けた。頑張れ、すみれ。オレ様は応援しているぞ。
夜。
オレ様は自宅で親父さんと食事をしているだろう沙羅と、何をやっているか分からない白百合にそれぞれ電話をした。次の日の八時十分までに必ず部室に集合するようにと、念入りに言い聞かせた。白百合は理由を聞きたがったが、オレ様は来れば分かるとだけ言って、電話を切った。椿先輩のケータイの番号を聞いていなかったが、あの人は誰よりも早く学校に来ているはずだから、オレ様も少し早めに登校して呼んでくれば大丈夫だろう。
オレ様は期待と不安に胸を膨らませながら、布団に潜った。
翌日。
オレ様は沙羅が起こしに来るよりも前に目を覚ました。いつもは無意識に切ってしまう目覚まし時計だが、人間やる気があれば早起きくらい簡単に出来るらしい。やる気を維持するのは難しいんだけどね。
まだ重いまぶたを擦りながら、オレ様はお袋に「おう」とだけ挨拶をした。お袋はまたも怪訝そうな顔でオレ様を睨んできた。やっぱいつもと違う行動を取ると、不思議に思われるもんだなぁ。
「おい、テメェ。今日はどうしたんだよ。いつもより早ぇじゃねぇか」
「あぁ~ん? ちょっと用事があんだよ」
「また女か」
「今日は沙羅も一緒だよ」
「あァ? なんだ、学校の行事か何かか?」
「うるせぇなぁ。違ぇよ。いろいろあんだよ」
「はン。まぁいいさ。警察沙汰を起こしてくれなきゃ、大抵のことは許してやんよ」
「テメェに許してもらう謂れはねぇんだよ。いいから早くメシ出せよ」
「アタシはテメェの召使じゃねぇんだよ。箸と茶碗くらい自分で用意しな」
相変わらず辛辣な母親だ。こんな母親でも毎日メシを作ってくれるんだからな。親って偉大だ。オレ様は顔を洗って頭から水を被り、タオルを頭に引っ提げながら食器の用意をした。テキトーなニュースを見つつ、のんびり着替えを済ませて家を出た。
お隣の家の軒先で、沙羅がぽつんと立っていた。何を考えているか全く読めなかったが、オレ様の姿を見つけた沙羅は「かーくぅん」と甘ったるい萌えボイスで駆け寄ってきた。
「おはよぉ、かーくん」
「おう、行くぞ」
「今日はぁ、どうしてこんなに早いのぉ?」
「あァ? いいもん見せてやるからよ。楽しみにしてな」
オレ様は口元を邪悪に吊り上げて通学路を歩き出した。殊更に腹黒い笑みを作る必要は全くなかったのだが、何となくそんな気分だったのだ。沙羅はオレ様に遅れないようにと、早足でオレ様についてきた。ちょっとゆっくり歩いてあげたほうがいいのかな。でもそんなのオレ様のキャラじゃねぇよな。オレ様は沙羅が息を切らしながら歩いているのに気付いてはいたが、ペースを落とすことなく歩き続けた。
日本一の信号でぼけーっと車を眺めていると、後ろから肩を叩かれた。誰かと思って振り返ると、意外にも白百合だった。
「やっぽー! サル。今日はここで待ってたよーぅ」
「あぁ~ん? うぜぇな、ちゃんと校門前くらいで合流しろよ」
「なーんさー! せーっかくサルを待っててあげたのにー!」
「頼んでねぇよ。おら、行くぜ」
白百合は頬を膨らませてぷんすかしていたが、イベント好きなこの女はきっと何が起きるか楽しみで仕方がないに違いない。沙羅とは違ってオレ様の歩調に難なく合わせられる白百合は、オレ様の真隣にポジショニングして笑顔を向けてきた。
「そー言えば、明後日からの連休、あっしらでどっか行くっぺー?」
「あァ? お前がどうしてもって言うなら行ってやらなくもねぇが?」
「んーじゃ、サルは誘わないよーぅ!」
「そうか。じゃあ行かない」
「んもーぅ! 沙羅ちゃん、サルはどーしたらもっと素直になってくれるのー?」
「かーくんはねぇ、何も言わなくてもついてくるよぉ」
「沙羅、テメェ余計なことは言わなくていいんだよ。ブッ殺すぞコンチキショー」
「さっすが沙羅ちゃんだよーぅ! サルが来ても来なくても大丈夫そうなトコ、考えておくよーぅ!」
「うん、楽しみにしてるよぉ」
オレ様を挟んで、沙羅と白百合は笑みを向け合った。仲のよろしいことで。
白百合の「んで? 今日は何があるのー?」という問いに「実は今日は沙羅の誕生日なんだ」と答えたり、沙羅の「ち、違うよぉ」という反論に「諸般の事情により、沙羅の誕生日は変更されました」と反論し返したりしながら、オレ様は学校までの短い道のりを歩いた。
学校に着くと、オレ様は沙羅と白百合を先に部室へ行かせた。ここから椿先輩を呼んでこなければならない。階段を上りきったところで一旦ふたりと別れ、オレ様は左に折れて生徒会室に向かった。生徒会室では数人の役員と思われる人間が、だらだらと書類整理のようなことをしていた。最奥の少し大きめの椅子に腰を掛けた椿先輩が、書類をめくりながら優雅にモーニングティーに口をつけているところだった。
「せーんぱい。おはよーございまーす」
「ぶほぉっ!? ま、猿木くん!?」
まだ熱い紅茶がオレ様の顔に吐きかけられたが、温厚なオレ様はそれを許してハンドタオルで拭き取った。話が終わったら仕返してやろうと思ったけど、可哀想だからやめておこう。オレ様は、椿先輩を何げに気にっているからな。
「先輩、朝の挨拶は?」
「そ、そ、そうね。おはようございます、猿木くん」
「いやぁ、さすが栂村生徒会長。朝も早くからお勤めご苦労様です」
「と、とんでもないですわっ」
「まさか優雅にモーニングティーをお召し上がりになりながら片手間でお仕事とは、全く恐れ入ります」
「こ、こ、これは違いますわっ。ちょっと眠気覚ましにとお茶を淹れたんですのっ」
「いやいやいや、生徒会長さまのお仕事は茶をシバきながらでも出来る大変重要な職務であることは重々承知しております。本当にお忙しいようで、こうしてお邪魔するのも気が引けるのですが、いつもお疲れさまです」
「くぬぬぬぬっ! 今日はちょっと休み明けで眠かっただけですっ!」
「ゲームで夜更かししてたの?」
「そうですわっ! 休みなんだものっ! あたしの好きに……ち、違いますわっ! じゅ、受験勉強や予備校で忙しかったので、ちょっと寝不足なだけですわっ!」
「何でもいいよ。ちょっと来てくれねぇ?」
「はい? ですから、あたしは忙し、い、ので、その」
「せーんぱい? 忙しいんですか? それとも来るんですか?」
オレ様はニヤニヤしながら先輩に詰め寄った。先輩は立ち上がって一歩二歩と後退った。
「いいい忙しい、ですけどっ!」
「ですけど?」
「い、行きますわっ!」
「ありがとうございまーす。まさかお茶を飲んでる時間はあるのに、オレ様にちょっと付き合う時間はねぇなんてことはねぇと思ってましたよ、はははっ」
「くきぃーーーーーーーーーっ!!」
はい、椿先輩確保。地団太を踏む椿先輩を、部下の生徒が何事かと目を引ん剥いて見ていたが、オレ様は無視して先輩を連れ去った。
沙羅と白百合の待つ部室に椿先輩を連れてきて、オレ様は腕時計を見た。八時十六分。頃合かな。そろそろ主役が登場する予定だ。八時二十分きっかりに来いと指示をしてあるので、あと三分か四分ですみれが来るはずだ。
オレ様は、もうあと数分このまま待って欲しいと三人に伝えた。沙羅も白百合も椿先輩も、何も語らないオレ様に猜疑心のようなものを抱きつつも、これから起こることへの好奇心を抑えられないようだ。あとは主役が期待を裏切らないでくれればいい。いや、きっと出来るはずさ。あんなに頑張ったんだ。
オレ様の腕時計が八時二十分を指した。部室のドアはまだ開かない。土壇場で来ないなんてことはないよな、すみれ? オレ様は平静を装いながらも、祈るような気持ちでドアが開かれるのを待った。腕時計の分針が六度ちょっと南に折れた時、ギャルゲー部のドアが開放された。
開いたドアの向こうにいるのは、朝日を背に受けたすみれだ。
その様子は、まるで光り輝く勇者のよう。
背中が丸まっているのは愛嬌だ。
おどおどした表情もすみれらしくて微笑ましい。
両手で抱えたスケッチブックが、ちょっとだけ震えているけど気にするな。
怯えるすみれの視線が、オレ様の瞳を捉えた。
オレ様は迷わず頷いて、ゴーサインを出した。
ぎゅっと固く閉じたすみれの目が、決然と開かれた。
「お、おはようごじゃいます、みなしゃん」
刹那の沈黙。
直後の歓声。
笑顔とおはようのシャワーが、すみれに浴びせられた。
ったく、最後の最後で噛むんじゃねぇよ、締まらねぇなぁ。
あぁ、最後だなんて縁起でもねぇな。
オレ様たちは、ここから始まるんだからさ。
「そう言えば猿木くん。宿題のショートシナリオは作ってきましたの?」
「あ、やべ。忘れてた」
始業のチャイムが鳴るまでの十分間、オレ様は椿先輩にこってり絞られましたとさ。
このお話は世界観的にはもっと先まで書くこともできるのですが、如何せん7年もの歳月を経ております故、当時と現在のギャップを埋めるのが難しく、ここで筆を収めるのが妥当と判断いたしました。一応キレイに纏めたつもりですが、拙い部分が目立つかと思います。読者様にとっても最後までコメディであることが出来ればと思っております。笑えなかったらごめんなさい、としか言えません。悪しからずご了承ください。
いずれの形であれ、ほんの少しでも楽しんでいただけたなら幸いです。読了ありがとうございました。