桜航路
その日も高梨昭雄はいつもと変わらず時計のアラームが鳴る前に目覚めた。
カーテンを引き開けると、初夏を思わせる抜けるような青空に、雲ひとつ浮かんでいない。
いつもこの日はこんな天気だったな、と思いながら身支度をする。
一階に降りると、妻のしのぶはすでに身支度を整え、玄関で靴を履いているところだった。
「あら、お父さん」
「もう出かけるのか?」
「昨日言ったでしょ? 八時半に駅前集合って。お父さんも出かけるんでしょ。戸締りお願いね」
「ああ、わかってる」
妻を見送り、玄関の鍵をかける。
台所に入ると、テーブルの上にはすでに昭雄の朝食が用意されていた。味噌汁を温め、ご飯をよそう。
一人での食事ももう慣れたものだ。
定年になったら時間が取れる。そうしたらゆっくり二人で旅行したり散歩したりしよう。
そう思っていたのは自分だけだったと、定年の翌日に思い知らされた。
妻には妻の世界があり、そこに昭雄の立ち入る場所はなかったのである。
一日中家にいる昭雄と、家にいないしのぶ。まるっきり立場が逆転してしまっている。
一度、桜を見に行こうと誘ったことがあったが、趣味で始めた油絵の仲間と見に行くからと断られてしまった。
以来、ちょっとした旅行を言い出すのもやめてしまった。
今の妻にとって、昭雄を一緒にいることは苦痛なのだろう。
息子も娘たちも、まったく寄り付かなくなってしまった。これもまた自分のせいなのかもしれない、とふとため息をつく。
皿を洗い終わって時計を見ると、もうじきバスの時間だ。
火元を確認して戸締りをすると昭雄は家を出た。
◇◇◇◇
加賀美桜子はいつもどおり、帝国ホテルのトイレの鏡に映る自分の姿をチェックしていた。
ぽっちゃりボディーとまん丸ほっぺは目をつぶるとして。ポニーテールのゆがみなし、糊付けした白いシャツの襟はピンとしてて、紺色のお仕着せのスーツもてかりはなし。折り目もなし。
棟ポケットのハンカチーフを整えて、ストッキングの伝線とローヒールの汚れがないかをチェック。
「ん、おっけ」
声に出して確認し、スマイルをもう一度チェック。
「加賀美さん、そろそろ」
「はーい」
同僚の声に応答して、桜子はトイレを出た。
今日の仕事はいつもの大川クルーズ二時間コース。桜のシーズンだから旅行会社の団体による貸し切りだ。
船着き場に降りると旅行会社の旗を持ったスーツ姿の男性に挨拶する。
今日のお客様は四十名。男性十四名、女性二十六名。土日クルーズだからご夫婦の参加が多いようだ。
集まってきたお客様を船に誘導する。
最後に女性の団体が乗り込んだのを確認して、桜子はもやい綱をはずした。
デッキに上がると、乗客はみな思い思いの場所で船から見る桜を楽しんでいた。カメラや携帯電話を向けたり、ポーズをとったり。
請われて川岸の桜並木をバックに写真を撮ったり、ガイドをしたりしながら乗客を確認していく。
今日は本当にいい天気になった。雨の日は船内からの桜見物になってしまうのだが、今日は船内に降りていく人のほうが少ない。
上着がいらないぐらいあたたくて風も気持ちがいい。日差しは帽子が欲しくなるほどだ。
日傘を出そうとするお客様を見つけてご遠慮願う。これもガイドの仕事だ。
ぐるりと一周して選手に戻ってくると、船の先端に初老の男性が立っていた。
「お客様、そのあたりは滑りやすくなっております。お足もとにお気を付けくださいませ」
そう声をかけると、男性は振り返って会釈をしてこちらに戻ってくる。確か、男性一人での参加者だ。
「今日はいい天気になってよかったですね」
「ええ、そうですね。今年もいい天気になってよかった」
その言葉にあら、と桜子は顔をほころばせる。
「あら、昨年もいらっしゃったんですね」
桜子の言葉に男性もにっこりと笑った。
「ええ、昨年もあなたにガイドしていただきましたね」
「そうだったんですか」
すみません、覚えてなくて、と思いながら桜子は男性をもう一度見直した。
青いワイシャツにループタイ、ジャケットという出で立ちの、どこにでもいそうな白髪のおじいさん。
目元には笑いじわもあり、人当たりもよさそうだ。
「昨年も見事な桜でした」
そうだったかしら、と桜子は思いを巡らせた。
昨年は確か、三月末に冷え込んでソメイヨシノの開花が遅れて、そのあと急に温度が上がって、あっという間に咲いて、雨ですぐ散ったように記憶している。
そのため、予約していたお客様からいくつもキャンセルをされてしまった。満開の時期、今日のようにすっきり晴れた日はたった一日だったはず。
その日も確かトラブルが起こって。
「ガイドさーん、写真撮ってもらえる?」
「あ、はーい」
向こうの甲板で女性客が呼んでいる。男性に詫びを入れてそちらに歩き出すと、「今年はご迷惑かけませんから」と男性が言ったように聞こえた。
気になって振り向いてみたが、男性はもう船の進む先にカメラを向けていて、表情をうかがうことはできなかった。
「ガイドさんたら、早く早く」
「橋を通り過ぎちゃうわ」
「すみませーん」
いけない、今は仕事中だ。
桜子は気持ちを引き締めて、笑顔を浮かべた。
◇◇◇◇
「加賀美さん、大変です」
デッキを巡回していたとき、後輩の岡田真由子がそっと袖を引いて耳打ちしてきた。
「何かあった?」
笑顔は絶やさず小声で応答する。と、
「お客様が一名、いなくなってます」
その声にとっさにデッキの上を見回す。二十人以上はいるようだ。
「船内のカウンターに六名、ロビーに二人、デッキに三十一名でした」
「さすが、早いわね。トイレや立ち入り禁止のエリアには?」
「乗員の数も含めて確認済みです」
「そう。……いなくなったお客様の名前はわかってる?」
「はい」
真由子は手元のリストを示した。チェックの入っていない人の名前を見て、桜子はあのセリフを思い出した。
――今年はご迷惑かけませんから――。
「十分かかってるじゃないの」
「え?」
桜子のことばに真由子は目を瞬かせる。桜子は笑顔を浮かべてなんでもない、と首を振って見せた。
「で、その話、他の子に話した?」
「いえ、とにかく全員確認してからと思って、まだ話してません」
「そう。――大丈夫、そのうちふらっと現れるわ。船が港に着く十分前になったら私が確認して回るから、それまでは二人だけの内緒にしておいてくれる?」
「え? 加賀美さん?」
桜子はあっけにとられる真由子に、ウインクして言った。
「このお客様、かくれんぼするのがうまいのよ」
◇◇◇◇
細く長くうねうねと続く道の両端に並ぶ桜は満開だった。
ソメイヨシノだけではない。枝垂桜や八重桜、牡丹桜も色とりどりに同時に花を咲かせている。
まるで大阪造幣局の桜の通り抜けだ。
ゆっくりと歩を進めながら、妻と歩きたかったなと昭雄は思う。
無論、妻とともにここに来られるとは限らないのだけれど。
「誰? ここは人間の来ていい場所じゃないわよ」
不意に背後から声を掛けられて振り返ると、薄ピンクの桜の振袖を纏った少女が立っていた。
風がざあっと吹いて、桜の花びらが袖や肩に降りかかると、着物の柄になって溶け込んでいく。
黒い長い髪を両肩に垂らした少女は、ほんの十四、五歳に見えた。
彼女は昭雄の顔を見るなりため息をついた。
「またあんたなの」
「一年ぶりだね」
「……毎年毎年、なんでこんなところに迷い込んで来られるのか聞きたいもんだわね」
「川の合流する場所や辻などにはよく異界への入り口が開くというからねえ」
最初に迷い込んだときは、ついにお迎えが来たのだと思った。
話に聞く花園とはこういうものなのか、それとも、人によって見える花園は違うのか、とも思った。
自分がどうやら死んだらしい、ということは不思議とすんなり受け入れられた。
それよりも、苦しんだのか、どうやって死んだのか、ということのほうが気になったのを覚えている。
少女に、まだ生きていると告げられてホッとした反面、少し残念に思ったことも。
「ところで、その年寄りくさい喋り方、やめてくれる? せっかく若い姿になってるのにミスマッチだわ」
言われて、昭雄は自分の手を見た。しわしわの骨ばったいつもの手ではなく、張りのある若々しい手になっている。
この世界に迷い込むと、最も充実していた時期の姿に戻るらしい。
腰やひざの痛みもなく、足さばきももつれることはない。ここでなら、走ることだってできる。
「忘れてたよ」
「ま、いいけどね。で、今年も出口に案内すればいいのね?」
「うん、よろしく。ところで、今年こそ名前を教えてくれる?」
まるでナンパだ。現実じゃないとわかっているとずいぶん大胆になれるものだな、と自分ながら思う。
妻への裏切りだろうかと少し考えて苦笑を浮かべる。
少女は幼いしぐさであかんべぇをして見せた。
「教えないわよ」
「つれないな」
「それに、教えたところで外に出たら忘れちゃうもの。教えたって仕方がないじゃない」
「そうでもないさ。君の顔は覚えていたよ?」
「嘘」
「ウソじゃない。現に今年も君の顔を見てすぐ君だとわかったし」
「そんなはずはないわ。ここで見聞きしたことは全部夢だと思うようなまじないがかかっているのよ? どうして?」
少女のことばに昭雄はうなずいた。
それも毎回聞いている。だが、その理由はあえて教えない。教えたらこの魔法は消えてしまう。そんな気すらするからだ。
「それは内緒。教えてくれないなら勝手に呼ぶよ」
「好きにすれば」
これも毎回のやりとりだ。
「じゃあ、さくら」
「ブブー。単純すぎ。もう少しひねった名前、考えなさいよ」
「だめ?」
「却下よ却下。あんたを人間って呼んでるようなものだもの」
「じゃあ、ヨシノ」
「ソメイヨシノのヨシノ、ね。……まあいいわ。案内するわ。こっちよ」
薄紅の振袖を揺らして、少女は道をたどりはじめる。昭雄も後に続いた。
「ここには君以外はいないの?」
「まさか。ほかにも姉さまたちがいっぱいいるわ。なのになんであんたはあたしの管理する桜の園に迷い込むのかしらね、毎回毎回」
「さあ」
昭雄は憤慨しているヨシノのとがった唇を見下ろしながら、苦笑する。
こればかりは教えたくとも昭雄も理由は知らない。
「もしかして、狙ってあたしの園に来てるんじゃないでしょうね」
「どうやって迷い込んでるのかもわからないのに?」
肩をすくめて答えを返すと、ヨシノはそりゃそうよね、とつぶやいた。
「いつも一人でいるの?」
「ええ、そうよ。まあときどき姉様が訪ねてきたり、姉様のところに行ったりはするけど」
「じゃあ、これだけの桜、一人で管理してるんだ」
昭雄は空を振り仰いだ。
満開の桜が枝を伸ばしてアーチを形作っている。見渡す限りの桜。何千本あるのだろう。
「あたりまえじゃない」
くるくるりと両手を広げて回って見せるのがなんともかわいらしく、昭雄は頬を緩ませた。
そういえば、娘の七五三の時もこんな感じでかわいかったな、などと思い出しながら。
「美しく桜を保つのがあたしたちの仕事だもの」
「仕事かぁ」
「そうよ。あんただって仕事してたんでしょ?」
「まあね。もうリタイアしたけど」
そう告げると、ヨシノは少しだけさみしそうな表情をした。
「リタイアかぁ。……あたしはこの仕事、やめたくないなぁ」
「そう?」
「あたりまえじゃない。見てよこの桜。姉様たちの桜には絶対負けないんだから」
ヨシノは腰に手を当てて胸を張る。その鼻息の粗さに昭雄はつい吹き出した。
「あー、ひどい。あたしの桜、笑ったわねっ」
「違う違う、君があんまりにかわいいから」
「かっ……」
普段から言われ慣れていないのだろう。ヨシノは言葉を詰まらせた。
真っ白な肌があっという間に桜色に染まっていく。
「うん、かわいい」
「小さいとかっかっかわいいとか言うの、なしって言ったじゃないのーっ」
「言われてないよ、今年はね」
照れたようなヨシノの顔がぷん、とふくれた。
「まったくもう……。はい」
「え?」
差し出された小さな手に、昭雄は戸惑ってヨシノの顔を二度見した。
「あーもう、じれったいわね」
彼女に手を握られてぐいと引っ張られたとたん、体の感覚がなくなった。
「うわっ」
体が宙に浮いている。さっきまで確かに地面に立っていたのに、今では自分の重さがゼロになったかのように軽い。
そのまま桜のアーチをすり抜けて、気が付けば空の上に浮かんでいた。
「どうせこの光景も忘れちゃうんだろうけど。ほら、これがあたしの桜の園」
見下ろせば、足の下に桜の絨毯があった。白に近い薄紅からピンク、桃、二重八重、見渡す限りの桜、桜、桜。
「どう? すごいでしょう」
ヨシノの言葉にただただうなずく。
言葉にしようとしても陳腐な文句しか出てこない。
いや。
言葉なんかで言い尽くせるものじゃない。
「何とか言いなさいよ。普通は人に見せるもんじゃないんだからね」
「ヨシノ」
「なぁに?」
つないだ手に力をこめる。
「君はすごいよ」
「な、なによっ、そ、そうじゃなくってっ、桜を見なさいよっ、桜をっ」
「うん、本当に素敵だ。実は僕、高所恐怖症なんだけど、それを忘れるくらい、素敵だ」
ぞわぞわと足先からしびれるような感覚が全身に広がる。それでも見ていたいと、気を失いたくないと思えるほどの桜。
「ちょっとっ、それ、先に言いなさいよっ、すぐに降りるからっ」
「いいんだ、このままで」
見ていたい、という言葉が舌がもつれて出てこなかった。
この光景は忘れたくない。現実に戻った時に夢だと思ってもいい。この目に焼き付けておきたい。
「手弱女、よ」
「え?」
見上げると、少女は視線をそらした。
「あたしの名前。この桜を吉野姉さんの桜と思われたくないもの。忘れないでよね」
「たおやめ」
「な、なによ」
昭雄は微笑んだ。
「忘れないよ、絶対」
桜色と澄んだ空色をバックにして照れたような少女の顔に、昭雄は妻の幼いころの面影を見た。
◇◇◇◇
指先までしびれが上がってきたあたりまでは覚えている。
目を開けると、明るい春の日差しがまぶしかった。
あたりを見回すと、デッキに出ている客はまばらで、少し冷たい風が吹き始めている。
「高梨様」
声を掛けられて振り向くと、紺色スーツの女性が立っている。ガイドの女性だ。
彼女はにっこり笑って昭雄のほうに手を差し伸べてきた。
「ガイドの加賀美と申します。そろそろ帰港のお時間ですのでお迎えに上がりました」
すぐ後ろに同じスーツを着た若い子が不安そうな顔をしてこちらを見ているのに気が付いた。
「また、ご迷惑をおかけしてしまったようですね」
しかし、ガイドの女性は笑顔のまま首を横に振った。
「今年はそうでもありませんわ。いい夢を見られまして?」
「ええ。……いい夢でした」
昭雄は船の進む先に目をやった。だいぶ傾いてきた陽の光の中で、両岸の桜は薄紅に煙っている。
あの桜は、こんなものではなかった。
はっきり覚えている。
空を飛びながら色とりどりに咲く桜のじゅうたんを、つないだ手の柔らかさを。
そして彼女の名前を。
「来年も、来ていいでしょうか」
昭雄はゆっくり振り返る。
加賀美は微笑んでいた。
「ええ、来年もぜひ弊社をご利用くださいませ」
加賀美はそういってウィンクを一つした。