犬神憑きの少年と、その兄弟(3)
陽の光は大きく西に傾いて、ブランコに座るあまねの影を、深く地に縫い付けていた。
ダッフルコートに、マフラーを巻いて、新品のランドセルを背負ったまま項垂れる彼女の表情は、肩口で切り揃えられた髪に隠れて見えない。
けれど、それを何処か別の所から見ている《あまね》は、自分が泣いているのを知っていた。
小学校にあがったばかりのころの、夢。
あまねは、学校が終わると一人で公園にいることが多かった。
母を失い、父は仕事で帰りが遅い。一緒に遊ぶ友人もいなかった――この世ならざる存在を見ることができるあまねを、同級生らは気味悪がって近づかなかったのだ。
まだ五歳の弟は、父が帰宅するまで保育園だ。
あまねも、学童保育を勧められたが、断った。……どうせ、そこでも一人になるに決まっている。だったら、初めから一人の方が良い…………。
「あまね」
不意に、聞こえた父の声に、あまねは顔を上げた。
珍しく、仕事を早く終えてきたのだろう。紺地の和装に身を包んだ父は、公園の入り口で微笑んで、あまねに片手を振っていた。「ねえちゃん」と、父と手を繋いでいた晟が、走り寄ってくる。
あまねは、服の袖で目頭を拭うと、ブランコから降りた。晟と手を繋いで、父の元へ向かう。
……父は、何もかもを見透かすような瞳であまねを見下ろすと、そっと頭を撫でた。
あまねは、唇を引き結ぶと地に目線を落として、ぎゅっと拳を握った。
「パパ。どうして、あまねたちはこうなの?」
晟が不安気にあまねを見上げた。
「うん。どうしてだろうね」
元三が頷く。あまねは顔をくしゃりとした。
「いらない。こんなの。あまね、いつも、ひとりぼっちなの、イヤだ」
友達だけではない。あまねは、霊からも避けられるのだ。
「……あまね、お前がお前であるのには理由があるんだよ」
元三は、娘と目線を合わせるようにしゃがみ込むと、穏やかな表情で告げた。
「お前がどうするかはお前が決めたらいい。でもね、お前だからこそ、できることがあるんだ」
「あまねだから、できること?」
「そうだ。いつか、必ず、お前のその力は誰かの力になるだろう。ああ、だけど、だからって、お前がそうするべきってわけじゃなくて……うーん、何て言ったら良いかな」
元三は眉をハの字にして、小首を傾げる。
「あまねはあまねの生きたいように生きたら良いんだけど、でも、お前がいらない、って言うその力が、誰かを元気にすることもあるんだよ」
きょとんとするあまねに、元三は肩を竦めた。
「難しい、よね。だから、つまり――あまねが、どうしたいか、ってことで」
「どう?」
「学校では失敗しちゃったけど、あまねなら力が無いように振る舞うこともできると思うんだ。そしたら、普通にお友達と遊べるよ。だけど、それでも、あまねがこの力をいらない、って望むなら、なくすことも……多分、できる」
あまねは眼を丸くして父を見た。
元三は小さく頷いた。
「探してくるよ。そういう方法。あまねが辛いなら、僕は何としても見つけてくる」
黄金色の夕焼けが、空に滲む。
夕食を前にした、家族の団欒の音が、穏やかに三人を包む。
「あまねは、どうしたい?」
元三は問を繰り返した。
あまねは、眼を瞬いて――やがて、ぽつり、と言った。
「あまね、ほんとうにだれかのこと、げんきにできる?」
「ああ。必ず」
元三は、間髪入れずに強く頷いた。「じゃあ」と、あまねはニッと笑って、顔を上げた。
、「やっぱり……いる!」
元三は眼を細めて笑うと、立ち上がった。
晟を真ん中にして、三人は手を繋ぐと公園を出た。
夕食のことや、学校のできごとなどたわいもない話を交わし、帰路につく。――――と、いつもはそこで終わりの夢は、続きを映した。
あまねは、不意に耳をついた音に、今、出たばかりの公園を振り返った。
公園の真ん中で、一人の少年が立っているのが見えた。
年の頃は、十二、三。
身体を覆う、真っ白な毛皮のコート、背には、長い、一度も梳ったことのないような乱髪が流れる。
少年は、じっとあまねを見ていた。
「おとうさん」
あまねが、繋いだ父の手を引く。
「ワンちゃんがないてるよ」
「あまね。あれは、犬神憑きだ」
「犬神憑き?」
肩越しに少年を一瞥した元三の言葉をオウム返しに繰り返したのは、夢の主である、あまねだった。
「そうだ」
父は、ひたと、あまねを見て頷いた。
幼い晟も、ランドセルを背負った自分も、気付けばいなくなっていた。
元三は、公園の入り口に立つ《あまね》に、語りかけた。
「犬神憑きは、呪われた者。呪いを――怨霊を、呼び寄せる。そして、自身を守るためにそれらを喰らい続け、やがては犬神そのものになってしまう。犬神の呪は、呪われている本人が呪いを加速してしまう、恐ろしい呪いなんだよ」
あまねは、少年を振り返った。
怜悧な光を湛えた瞳に、底知れぬ寂しさが滲む……あまねは、その打ちひしがれた様子の瞳に、飲まれそうになった。――あまねは、その孤独を知っていた。
「私に……彼を元気にすることはできるかな」
「お前が心から助けてあげたいと思うなら」
父が言う。あまねは、力無く首を振った。
「でも、私じゃ近づけない」
「大丈夫だよ」
父の声がすぐ近くでした。
ひたり、と冷たい感触に、左腕を見れば、父の、骨張った手が触れていた。
彼は、そっと手首に、余り恰好良いとは言いかねる腕輪を付けると、トンッと、あまねの両肩を軽く押した。
「ほら、行っておいで」
一歩、もつれるようにしてあまねは踏み出す。慌てて父を振り返れば、父の姿はすでに無かった。
「パ、パパ?」
それだけでなく、辺りはすっかりと夕闇に飲まれていた。ゾッと背を走り抜けた肌寒さに、あまねは震え上がった。
前方では、少年が音もなく立つ……
「パパ!? 晟!!」
やがて、灯った街灯に照らし出された地の様子に、あまねはギクリとした。
――重なり合う死が、少年とあまねを隔てている。
「………………パパ」
あまねは、ぎゅっと胸の前で手を組むと身を縮こまらせた。
助けたい、と思ったのは本当だった。
けれど――
「……帰りたい」
死を前にして、平静でなどいられない。
ましてや、ヒーロー宜しく、颯爽と戦えるわけもない。
いくら自分に特別な力が備わっていようとも……もしも、の恐怖を考えると、動けなくなる。怖い。
「帰りたいよ」
二度目の願いを口にした時だった。
「あまねちゃん!」
聞き覚えのある声に、あまねは辺りを見渡した。
「直愛さん?」
「何処にいるんだい? あまねちゃん!!」
声が聞こえる。けれど、彼の姿は見えない。あまねは、力を振り絞って、声を絞り出した。
「此処です! 私は此処です!!」
「あまねちゃん!」
「直愛さん! 私、此処です!」
声が交錯したことに、あまねは涙が出るほど安堵した。
「私、多分、過去に来ちゃったんです。どうしてか、エレベーターが作動して――」
「あまねちゃん。今は不安だろうけど、大丈夫だから」
力強い直愛の声が、響く。
「何故君が先に行ってしまったのか分からない。けれど、これは流れなんだ。そうなるように、初めから決まっていた」
「直愛さん? ――――もしかして、私の声、聞こえてないの? ……直愛さん!?」
「だから、大丈夫。俺たちは必ず、すぐ会える」
改めて、直愛の姿を求めてグルリと見渡す。けれど、ついぞ見つけることはできなかった。
「それまで、どうか、無事でいて」
「直愛さん!! 直愛さん!! 此処だよ、私、此処だよ!!」
「会えるから…………」
「直愛さん!!」
声が遠くなる。気配が薄れてしまう。
「な、直愛さん? ねえ、直愛さん? やだ……やだよ、一人は」
一人ぼっちの恐怖に耐えきれず、あまねは絶叫した。
「直愛さん!! お願い、気付いて!! 私は、此処―――――――!!」
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