1:証拠品
仕事をしている奴は『労働者』だが、仕事をさせられている奴はただの『奴隷』だ。
そう言ったのは、昔の偉人でもなければ現代の成功者でもなく、俺の親父だった。もっともその親父は俺が十七の時、仕事の最中に倒れて死んでいる。死亡診断書には「心不全」と書き記されていたが、正しい死因が「過労」であったことは誰の目にも明らかだった。
そんな親父が『労働者』だったのか、『奴隷』だったのかは考えるまでもない。
そして今の俺がどちらなのかも――、
「――っ、この腐れキチガイの糞っ垂れが!!」
俺はかつてここが地方都市だった時代の名残――ショッピングモール跡の廃墟を必死になって走り抜ける。
割れた硝子の切っ先は丸く、砕けたコンクリートは砂になる。
深く抉られた地下階層には水が溜まり、真っ白で目のない生き物たちが好き勝手に回遊しているらしい。
瓦礫とガラクタばかりのここは、後は崩れて無になるのを待つばかりだ。
こんなとっくの昔に見捨てられた場所に、わざわざ足を踏み入れるような酔狂な人間は俺しかいないだろう。
どうして自分がこれほどまでにがむしゃらになっているのか。さっぱり分からないまま、俺はただ身体を動かし続ける。
気付けば三十路をとっくに迎え、肉体は最盛期を過ぎている。
筋肉は乳酸を蓄積しパンパンに腫れ上がっているし、無理をさせすぎた関節は悲鳴を上げている。酸素の供給が足りないせいか、呼吸のたびに肺に焼け付くような痛みを覚える。
こんなに苦しい思いをして、それがいったい何になるのか。そこに果たして意味があるのか。
倒れる柱、積み重ねられた廃材を跳び超えるように避けながら、それでも俺は薄暗い通路を一気に駆け抜ける。
ふいに正面に光が見えた。通路の終わりだ。俺はそこに目掛けて走り込む。
眩しさに目を眇めながら飛び込んだのは、吹き抜けの一角。
空から差し込む太陽の光が、階層ごとに幾重にも交差した空中回廊を透かして、地下に溜まった水を照らしていた。
幻想的とも言えるその光景に俺は一瞬目を奪われるが、それを打ち砕き、現実に戻す足音が一定の速度で近付いてくる。もちろん、俺の足音ではない。
「捕まえたぞッ――いかれマネキン野郎があぁぁっ!!」
下層階の空中回廊を走り抜けようとする人のような影に向かって、俺は躊躇うことなく飛び降りた。
それは俺に気付いて顔を向けるが、遅い。俺は投網のように、奴に向かって全身で落下する。
身体のあちこちが、どこをぶつけたのか分からない程に痛むが、それを堪えて手足を絡めてしがみ付く。さすがの奴も歩みを止め、膝をついた。その時――、再び俺の身体が宙に浮いたように錯覚する。
いや違う。錯覚ではない。俺はまたしても落下しているのだ。
俺が飛び降りた衝撃で崩れた空中回廊が、階下のそれを巻き込みながら落下している。
鼓膜が破れんばかりの轟音が響き渡り、吹き抜けの一角に反響する。
天も地も分からない程に振り回されながら、それでも俺は奴から手を離さなかった。
さながら溺れた者が藁を掴むように。あるいは、子供が親に縋るように。
そして俺は衝撃を覚悟し、固く目を閉じた。
フラッシュが幾度となく焚かれ、その度に室内が白く染まる。
二十世紀の北欧地域のそれを意識してデザインされた部屋は、装飾品が少ない為やけに簡素に見える。だが、置かれているどの家具も、俺の給与では到底賄えない値段である事は簡単に予測がついた。
そんな高価な床やベッド、棚の上などで番号を立体映像として浮き上がらせている電子回路を踏まないように跨ぎ越しながら、俺はステンドグラス(驚くべき事に本物の硝子だ!)の嵌め込まれたガラス戸を開き、バルコニーに出る。
そこでは丁度、視界一面に広がった空にたなびく雲が、斜めに傾いだ太陽によって橙色に染まりはじめた所だった。その壮大にして傲慢な景色に俺は閉口して、懐に手を入れる。そして固い箱の角に指を押し付けた所で、はたと我に帰って手を離した。
「そういや、禁煙してたんだったっけな……」
ほんの二日前くらいからではあるが、もう何度目かになる禁煙を俺は決意していた事を思い出した。それが何時まで続くかはさておくとしても、事件現場であるこの場所でヤニを吸い、匂いを僅かにでも残してしまえばそれだけで科学捜査班から大目玉を喰う事は分かり切っている。
なにしろ昨今の科学技術は、吸い殻が落ちていなくとも僅かに付着した匂いや灰で銘柄程度なら簡単に特定してしまう。つまりその程度のものさえ、捜査の邪魔になるのだ。
これほどまでに肩身を狭くして生きてる煙草吸いは、そろそろ絶滅危惧種として保護対象にでもなるべきだ。
自分が禁煙を始めたことは棚に上げ、そんなくだらないことを考えながら俺はバルコニーの手すりに腕を掛け、下を見下ろす。
そこには雲同様に橙色に染まった海と、陸地が遥か下に見える。警察が派遣した調査船がまるで胡麻粒のようにいくつも浮かんでいた。
「マーク、おい! マーク」
室内から上司の呼ぶ声が聞こえる。俺はそれに返事をすると、夕日に染まるバルコニーから室内に戻った。
「マーク、来たか」
部屋に入った俺に気付いてそう声をかけたのは、俺の直属の上司であるアンディ・パルマ警部補だった。もっとも上司と言っても、年は俺よりもだいぶ下である。エリート刑事らしい垢抜けて都会じみた優男だ。
てっきりいるのは警部補一人かと思ったら、そこにもう一人見慣れない人影を見つけて、俺は一瞬ぎょっとする。
乳白色の光沢を持った、つるりとした肌。間接部には継ぎ目があり、透明な強化プラスチックのカバーの下にはケーブルと人工筋肉が見えていた。
これといった特徴の感じられない顔の中にある、人間の目と同様の役割を果たすセンサーアイが僅かな機械の作動音を立てている。恐らくピントを絞ってこちらを見ているのだろう。
もちろんこいつは人間なんかじゃない。
いまや世界中に至極ありふれた、ヒューマノイドロボットだ。
驚かされた事が癪に触り、俺はそいつを無視して警部補に話しかける。
「チャドウィック氏から話は聞き終わったんですか?」
「ああ」
俺の質問に、警部補はその時のやりとりを思い出したようで、ややうんざりしたような顔でうなずいた。
「やはり、氏の意見に変わりはなかったですか?」
「そうだな。絶対に自殺や事故では納得しないと、顔を真っ赤にして主張していたよ」
そう言って嫌そうに顔を拭う仕草を見せたのは、恐らく飛び散った唾の感覚を思い出してしまったからだろう。
ここは国内でも有数の資産家である、チャドウィック氏の空中豪邸だ。
本来ならば三日後にこの場所で、彼の一人娘の生誕祝い兼婚約発表のパーティが執り行われるはずだった。しかしもちろん、それは中止となった。
何しろ我々は今まさに、そのエリザベス嬢の行方不明事件の調査を行っている最中なのだ。
事件が起こったのは昨夜未明。
二十歳の誕生日と婚約発表を近日に控えた令嬢エリザベス・チャドウィックが、朝になっても部屋から出てこなかったことによって発覚した。
ハウスメイドの一人がいつまでたっても起きてこない令嬢を怪訝に思って部屋を尋ねると、そこはもぬけの殻。彼女はこつ然と姿を消していたのだ。
当夜、部屋に居り、何があったのか知っているのは、エリザベス嬢の使っていたオリヴォー社製家庭用アンドロイドCZ‐860‐YⅡだけであり、このアンドロイドはバルコニーに出た姿が、エリザベス嬢を見た最後であると証言したのだった。
この空中豪邸がある高度七千フィートの上空から墜落したとすれば死亡は確実だし、遺体を見つける事すら不可能だろう。
「もう自殺で決まりじゃないですかね。確か遺書も見つかったんでしょう? アンドリューがどうとかって」
俺は部屋で見つかったという遺留品のデータを思い出す。
「アンドリューを処分しないで、だな。そこの機械の登録名だったはずだ」
警部補は、エリザベス嬢個人所有のアンドロイドを顎で指し示す。主を喪ったアンドロイドは、無機物らしい冷静さでその場に直立している。
アンドロイドは今ではごく当たり前に社会に普及しているが、それでも個人で所有することは珍しい。
何しろ購入費や定期メンテナンスにかかる金額、国から課せられる税金などを考えると人間一人を雇った方がよっぽど安上がりなのだ。
アンドロイドを個人所有するなんて、よっぽどの金持ちの道楽者ぐらいである。そして内装にまで拘ったこんな空中豪邸を立てるチャドウィック氏は、まごう事なく大金持ちの道楽者であった。
なにしろ氏は娘の五歳の誕生日に、当時の最新機種だったこのヒューマノイド・ロボットを、高価な玩具兼世話係としてプレゼントしたのだ。
「チャドウィック氏が納得するまで、捜査を続けるつもりなんですか?」
俺はげんなりした気分を隠さずに、警部補に尋ねる。
確かに大富豪であるチャドウィック氏は、政界や警察上層部に顔が利く。しかし、結果の分かり切った事件に何十人の捜査官を費やす程、一般の警察は暇ではない。
「そんな嫌そうな顔をするな」
そう言う警部補自身も、つまらなそうに顔をしかめながら、懐から電子タバコを取り出して銜えた。煙に似せた水蒸気が立ち上がるそれは、年々規制の声が高まる煙草の代替え品として非常に人気が高い。しかし俺としてはそんな紛い物を吸うくらいなら、禁煙していた方がマシだという思いが拭えなかった。
「それに、チャドウィック氏の言葉は大げさではあるが、確かに気になる点がない訳じゃない」
「気になる点、ですか?」
俺が尋ねると、警部補は頷いて胸ポケットからタブレット端末を取り出した。
「数か月前から、令嬢の行動範囲内で不審な人物を目撃したという証言が複数ある。人物の特定には至ってないが、恐らく同一人物であろうというのが捜査官の意見だ」
画面を指でスライドさせながら、警部補は説明する。
「それから、後はこいつだな」
端末に触れていた指をそのまま翻して、向けた先はヒューマノイド・ロボットだった。奴は微かな駆動音を立てて、こちらに顔を向ける。
「これは俺の勘だが、こいつの証言にはどうにも違和感がある。場合によっては記憶チップを洗う必要があるかもしれない」
証言が怪しい。目の前でそう言われているのにも関わらず、反論することもなく大人しくその場に控えている。
意見を求められた時以外、自分から口を開くことはない。
その点においてのみ、俺は人間よりもロボットを評価していた。
「そんな訳で、マーク。すまないがお前には、もうしばらくこの事件を担当してもらうことになる」
「分かりました」
俺はその言葉にうなずく。
気の進まない仕事ではあるけれど、上司の指示に反抗しても仕方がない。
「……それから、これはまったくの別件の話になるんだが――、」
パルマ警部補は、端末をポケットに戻しながらそう切り出す。こちらにちらりとも向けようとしない視線に、俺はそれが碌でもない話であることに早々に気付かされてしまった。
落ち着かない気分で話を待つ俺は、ただただ煙草が欲しくて仕方がなかった。
SF=仕事に不満