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里美は腹が空きすぎて、気分が悪くなってきていた。もうなんでもいいから口に入れたい。ここから国道へ降りて、山を半周して家に向かうと、結構な時間が掛かる。里美は、国道に続く道の途中で寺に続く道があるのを思い出した。金守山の裾野を横切る形になり、国道への道をまっすぐ行くよりは10分は早く家に着く。寺への道は、一度急な坂を登り、薄暗い雑木林の中を通らなければならないので、普段はあまり通りたくないのだが。しばらく逡巡していたが、空腹が勝った。まさに背に腹はかえられない。
「香奈恵、千穂、私、寺の方から帰るよ」
「え? もう暗いけど、大丈夫なの?」
「ちょっと早く帰りたくって・・・」
「トイレなら、待ってるからその辺でしちゃえばいいわよ」
「違うっつーの。もう遅いから、早く帰りたいのよ、お腹も空いたし」
「私達もそっちから帰ろうか?」
「いいよ、香奈恵と千穂は国道に出た方が早いでしょ? これ以上遅くなるのも悪いから、1人で帰るよ」
「そう? 心配だなあ」
「大丈夫大丈夫!」
「トラックに轢かれても平気だったんだから、多分大丈夫でしょ。でも、車には気を付けてね」
「ばいばい、また明日学校でね」
「うん! ばいばーい!」
里美は辻で香奈恵たちと別れると、地蔵の前を曲がり、寺への道を登った。少し歩いたところで振り返ると、夕暮れの中で香奈恵と千穂が手を振っていた。2人の足元まで宵闇が迫って来ていた。
1人になると、あたりは急に静かになった。静かとはいえ、人の気配が消えただけで、今まで香奈恵たちとの会話の影に隠れていた、木の葉の擦れる音や、虫の声などは、逆に存在感を増してくる。こちらが山の常態なのだろう。
里美は、早足で坂を登る。道の途中には、不揃いの間隔で地蔵が並んでいた。地蔵は皆、赤い帽子と前掛けをしていたが、色褪せて、ほとんど白くなっているものや、破れているものもあった。地蔵の鍼灸も様々で、表面が滑らかなものから、苔むしているもの、果ては首の無い地蔵もある。前には、カラスや野犬に食い荒らされたお供え物の包装や、枯れた花がささっていた。
風が強くなる。里美は、急に不安を覚えた。聴覚が鋭敏になる。風の音に混じって、遠くから動物の声が聞こえたような気がした。平気だと思ったけれど、やはりこの道を1人で通るのは怖い。2人と一緒に、国道から帰れば良かったと後悔したが、ここから引き返すのは時間がかかるし、いまさら戻っても誰もいないだろう。里美は、気を取り直して、なるべく何も考えないように努めて歩き続けた。
坂を登りきり、下りに差し掛かった時だった。自分の足音に混じって、かすかに道を踏む音が聞こえる。里美は振り返ったが、風が木の枝を揺らすだけだった。確かに聞こえた気がするのだが・・・怖さできっと聞き間違えたのだろうとだと思い直し、また歩き始めた。本当は、走って逃げ出したい気分だったけれど、先はまだ長いし、今走ったらパニックになりそうな気がした。気のせい、気のせいと自分に言い聞かせながなら、なおも背中に神経を集中させて歩く。
気のせいだと思ってやり過ごしたかったが、次第にはっきり聞こえて来る足音に、不安は確信に変わった。やはり、自分以外の何者かの足音が聞こえる。足音の大きさと、小刻みな間隔から、 人間ではないと思われた。爪が小石にぶつかる音がする。考えたくないけれど、野犬の可能性が高い。そういえば、去年、近所の家の鶏小屋が野犬に襲われて、食い殺される事件が起きたのを思い出した。
里美が背後を伺うと、小さな足音も止んだ。姿は見えない。じわりと背中に汗が滲む。里美は歩みを早めた。時折立ち止まっては振り返るが、その度に足音は聞こえなくなる。足音の主は、闇に隠れて見当たらない。再び歩き出すと、待っていたように足音が追いかけて来た。
これはまずいのではないだろうか。里美は緊張で胃が握り締められているような感じがした。口の中がカラカラに干上がる。手のひらが尋常じゃなく汗をかいていた。里美は走り始めるが、足音はどんどん近付いて来る。
すぐ後ろに犬の息吹を感じ、振り返ると、坂の上に灰色の犬がいた。運が悪いことに大型犬だ。・・・もしかしたら、人慣れした犬かもしれない。人間を見て嬉しくて近づいて来たのかも、とポジティブに考えようとしたが、期待は犬の唸り声であっさり吹き飛んでしまった。明らかに敵意をむき出しにしている。どうしよう。犬は、大きな唸り声をあげながらゆっくりと里美の方に歩き出した。
里美は、背中に定規を突っ込まれたように身体がこわばった。逃げなくては。しかし、里美は犬から目が離せなかった。この犬は何かがおかしい。足の動きがバラバラで、前に出した足で、無理やり体全体を引きずっているような奇妙な歩き方だ。顔も斜めに曲がっているし、開きっぱなしの口からは長い舌とよだれが垂れ流されるままになっていた。狂犬病だろうか? いや、違う。よく見ると、背中から脇腹にかけて、体の内部がぐねぐねとうごめいている。まるで壊れたマッサージチェアのようだ。
これは犬じゃない、と本能的に思った。犬ではない何かが、犬の真似をしている。
突然、犬の背中が裂け、昆虫の顎のような巨大な鋏が飛び出した。鋏に続いて蛇腹状の胴が這い出し、根元から大きな一つ目が現れる。更に、節のある脚が6本飛び出し、鋏のついた上半身を持ち上げた。目の下には、人間そっくりな歯茎をむき出しにした口が開き、きれいに並んだ歯はまるで笑っているように見えた。鋏を持ち上げると、その高さは里美の身長の2倍はあった。数秒前までこの生物の全身を覆っていた犬の身体は、もはや股の間に小さく萎びてぶら下がっているだけだ。
この奇妙な生物は、金色の一つ目で里美を睨みつけると、口を大きく開けて、笑うように雄たけびを上げた。
なにこれ? 予想を遥かに超えた変化に里美は呆然としていたが、怪物の叫び声で我に帰り、身を翻して怪物の反対方向に走り出した。そのまま全力で坂を駆け下りる。すぐ後ろから怪物の息遣いが聞こえてきたが、振り返らずに走り続けた。坂を降りると、道は再び上り坂になった。必死で地面を蹴るが、明かにスピードが落ちている。まずい、このままでは追い付かれる。
周りを見回すと、道の左側が急斜面になっており、下には茂みと雑木林が続いていた。どのぐらいの高さなのかわからないが・・・里美は覚悟を決めると、茂みに飛び込んだ。直後に怪物の大鋏が空を切り、ガチンと大きな音が響いた。
崖下は思ったより低かったようで、勢い余った里美は、何度も転がりながら、身体をさんざん地面に打ち付けて、ようやく止まった。
「痛った・・・なんなのよもう!」
急いで体を起こすと、視界が回転した。しかし、すぐに背後から茂みを掻き分ける音が聞こえてくる。里美は、とにかく地面が低くなっている方に向かって走り出した。藪を泳ぎ、木々の間を縫って走り続ける。怪物が追いかけて来ていたが、身体の大きさからか、何度も木にぶつかる音が聞こえた。里美が狙いすまして狭い木立の間をくぐると、怪物は木の間に挟まって動きを止めた。里美はやったと思ったが、怪物は鋏を使って木をへし折り始めた。里美は再び走り始める。
林を抜けると、畑が広がり、近くに農作業用の納屋が見えた。里美は急いで納屋に駆け込むと、中にあった木の棒で戸を押さえつけた。
納屋の中には草刈り機や小型の耕運機、袋詰めの化学肥料などが所狭しと並んでいた。里美は、怪物に見つからない事を祈りながら、なんとか呼吸を整えようとした。夢を見ているのだと思いたかった。こういう夢を何度も見たことがある。しかし、どんなに現実逃避しようとしても、本能的な危機感がそれを拒絶した。
「あれは一体なんなの? どうして私がこんな目に合わなくちゃならないの?」
足が震える。気が付くと涙が流れていた。助けて、誰か助けて・・・。
納屋の外から、地面を踏みしだく音と、大男がうがいをしているような唸り声が聞こえてきた。立て付けの悪い木戸の隙間から外を覗くと、納屋のすぐ前まで怪物が迫っていた。爬虫類を思わせる血走った瞳が左右を見回している。こちらには気がついていないようだ。怪物はしばらくぎょろぎょろと目を動かして獲物を探していたが、突然、駄々をこねるように鋏を地面に叩きつけ始めた。何度も叩きつけては、地面を掘り返す。土の塊や、大小の石が納屋にまで飛んで来て、棚に置いてあった鎌や小さなスコップの入ったバケツが揺れた。里美は声を上げないように手で口を押さえながら、戸に張り付いていた。
(お願い、早く行って・・・!)
永遠にも感じられた時間の後、怪物はついに諦めたのか、納屋に背を向け、雑木林の方に歩き始めた。
里美は胸を撫で下ろした。しかし、それと同時に棚の上の荷物が崩れ落ち、鎌やバケツがぶつかり合う大きな金属音が鳴り響いた。里美は小さな悲鳴を上げて、一瞬、怪物から目を離した。再び隙間から外を覗くと、怪物の目は間違いなく里美を捉えていた。
怪物は納屋をめがけて突進した。木戸に激突し、里美は後ろに飛ばされ、尻餅をついた。木戸ははずれなかったものの、一撃で留め具がゆがんでしまった。もう一度大きな音がすると、怪物の鋏が木戸を突き破った。そのまま鋏を捻じると、木戸は簡単に引き剥がされてしまった。怪物が木戸の刺さった鋏を大きく振ると、木戸はぞうきんのように後ろに飛んで行った。
怪物が上半身を納屋にねじ込み、里美の前に大きな一つ目が迫る。口を開くと、上下に粘液が糸を引き、1ヶ月も放置した生ゴミのような匂いがした。
足が立たない。こんな大きな歯で噛まれたら、人間なんて骨ごと簡単に砕けてしまうだろう。もう逃げられないと里美は思った。ついてないな、せっかく交通事故から助かったのに。せめて、苦しまないように一瞬で終わらせて・・・。嫌だ、やっぱりイヤ! まだ死にたくない! 助けて! お父さん! ・・・お母さん!
左右から鋏の刃が迫った。とっさに両手で頭をかばうと、腕に鋏が食い込む感触がした。
そのまま両手が千切れると覚悟したが、鋏は手に当たったままピタリと停まった。死の直前のスローモーション映像だろうか。時間が止まってしまったようだ。怪物は硬直したまま動かない。
いや、時間が止まったわけでは無かった。よく見ると、怪物は胴体を震わせて締め上げようとしている。しかし、里美の腕がそれを遮っていた。手に力を入れると、簡単に鋏が開いていく。鋏を押し広げながら、ゆっくりと里美は立ち上がった。
力比べで不利と見るや、怪物は鋏を開いて里美から離れた。今度は鋏を持ち上げると、尖端を合わせて、里美の顔めがけて突き降ろして来た。里美は上体を沈ませて紙一重でかわすと、鋏は納屋の壁に刺さった。すぐに両手で鋏を押さえつけ、膝を勢いよく突き上げる。すると、下側の刃が折れ、怪物は甲高い悲鳴を上げた。怪物が上体を反らすと、里美は素早く間合いを詰め、股の間にぶら下がった犬の残骸を思い切り蹴り上げた。怪物は納屋の外へ吹き飛び、背中から地面に叩きつけられた。
怪物はすぐに立ち上がったが、里美を怯えた目で一瞥すると、すぐに背中を向けて雑木林へ逃げて行った。