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放課後、里美は美術室で真っ白い画用紙に向かっていた。適当な所に円を描き、あたりを付ける。しかし、何度も描いては消すという動作を繰り返すだけで、一向に進む気配は無かった。そもそも、あまり部活に出る気は無かったのだが、香奈恵と話しておきたい事があったので、一緒に帰るためについてきたのだ。少しずつ線を描いていると、ただの線の集合から、人の輪郭が浮かんでくる。手を動かしながら、智章の作ったスープの事を考えた。結局智章以外は全員残したのだが、2、3口飲んだだけで食後にやたらげっぷが出て、その度に嫌な風味が口の中に拡がった。しかし、あのくどい味は、やはり家で食べた味に似ている。創士のような味覚音痴が世の中に少なからずいるのだろうか。それとも、ハーブ愛好家の嗜好は似たような所に行き着くのか。結局、智章はいろいろアレンジしすぎて先生に注意されていたが、料理が上手なのは間違いない。今度話す機会があったら色々聞いてみたいと思う。
手を休めて周りを見回すと、今日は来ている部員が少ない。教室の前の方で油絵を描いている軒名部長と、窓際の前の大机で筆を動かしている香奈恵と惣一、それに後ろの大机で、隣に座っている奈緒だけだ。最近、ここが里美の定位置になっている。里美は自分の描いた絵に目を戻すと、根本的に狂っているような気がして、思い切って全部の線を消した。
「うーん、難しいな・・・」
「今度は何やってるんですか、先輩?」
最近、奈緒からも里美によく話し掛けてくるようになって来た。内気で気難しい性格なのかと思っていたが、話すのが嫌いなわけではないらしい。
「何って、見ればわかるでしょ? 今度はこれに挑戦してるの」
里美は、目の前にある小さな像を鉛筆で指した。机の上に、小さな仏像が載っている。仏像と言っても、本当に仏壇に置くようなものでは無い。以前、仏像好きな3年生の梢枝が持って来た、毘沙門天のフィギュアだ。右手で三叉戟を構え、左の手の平を上に向けて、宝塔を載せている。
「何でそんなのを描いてるんですか?」
「何でって、別に深い理由は無いけど。何かモデルが欲しかったんだよ。それに格好良いでしょ、このフィギュア。何に乗ってるのかな?」
里美は毘沙門天の足元の、ひょうきんな顔をした生き物を見た。
「先輩、それ、乗り物じゃありませんよ。天邪鬼を踏んづけているんです」
奈緒は呆れながら言った。
「えっ、そうなんだ。狛犬か何かの動物かと思ってたんだけど。そうと思うと少し恐いね」
「鬼神を統べる神様なんだから当然じゃないですか。仏像を描くなら、少しはどんな神様か調べて下さいよ。今の佐々木先輩に言ったら怒られますよ」
「佐々木先輩ほどじゃないかもしれないけど、奈緒ちゃんも詳しそうだね」
「当たり前です。私、有名どころの神様ならマントラを唱えられますから。えーと、毘沙門天は・・・」
「あっ、いいよ、後でネットで調べるし」
里美は奈緒を制した。だんだんわかってきたのだが、奈緒は口数は少なそうに見えて、自分が興味のある分野では放っておくと知識を全部吐き出すまで止まらない。里美は鉛筆をかざして、あたりをつけるふりをした。
「そうですか。でも、私も毘沙門天は好きですけど、難しいと思いますよ?」
「そうかな? 西洋の彫刻に比べて身体もねじってないし、体の線も筋肉も鎧で隠れてるから描きやすいかと思ったんだけど」
「鎧は鎧で難しいんです! 甘く見ないで下さい! 私だって、どれだけ苦労しているか・・・」
奈緒は怒ったように言った。
「奈緒ちゃんも描いたやつがあるの? 見せてよ」
里美は奈緒の方へ体を乗り出し、スケッチブックを奪おうとした。
「だ、駄目です! まだ見せられたものじゃありませんから!」
奈緒が絵に集中し始めると、里美も再び自分の絵に戻った。輪郭をぼんやりと整え、顔を描き込んで行く。目、鼻、口と描いてみたが、何かが違う。実際の仏像はいかにも怖そうな顔をしているのに、何故か可愛らしいのだ。これじゃあ、銛を持った漁師のおじさんだ。子供は怖がるかもしれないが、とても悪鬼を調伏できそうには見えない。眉間の皺を強調してみたが、不自然にしかめっ面をしているようにしか見えない。何度も試行錯誤していると、実際の表情とは違うが、左眉を右より少し釣り上げると怒っているように見えたので、とりあえずそれで良しとした。
「・・・ぱい。先輩!」
「ん? 何、奈緒ちゃん」
奈緒が小声で話しかけてきて、里美は振り返った。奈緒のスケッチブックには、木の椅子に物憂げに座った男がカメラ目線でこっちを睨んでいる。
「あの、袴田先輩と津島先輩、最近ちょっと変じゃないですか?」
里美は香奈恵達の方を見遣った。夕陽を背に、時折話しながら筆を動かしている。
「変って、何が?」
「何ていうか、袴田先輩、前より素っ気ない気がするんですけど。津村先輩は今まで通り積極的に話してるんですけどね」
「そんな事ないんじゃない? 袴田くんは絵に集中している時はあまり話さないし」
「いいえ、絶対そうですって。私、うんざりするほど2人の話を聞かされて来たんですよ? 何かあったんじゃないですか?」
「えー? またケンカでもしたんじゃないの? 考え過ぎだよ」
これも最近わかってきたことだが、奈緒はかなりのゴシップ好きだった。趣味は人間観察です、とか本気で思っていそうだ。
「いいえ、違うと思いますよ。そういうんじゃなくて、冷めているというか・・・。何なら部長にも聞いてみて下さいよ、毎日あそこで絵を描いているんですから」
里美は、軒名部長を振り返った。黙々と、ただひたすらカンバスに向かっている。
「部長は多分、耳に入ってないんじゃないかな・・・。聞こえていたとしても、性格的に他人についてあれこれ言わないと思う。ていうか、部長がどう思ってるか気になるなら、直接聞きなよ」
「部長は、少し話しかけにくいんですよ」
奈緒は小声で言った。里美には図々しい態度も見せるが、基本的に引っ込み思案なのだろう。
「城崎先輩は、津島先輩から何か聞いてませんか?」
「別に何も? 袴田くんの話はよく聞くけど、変わった事は聞いてないよ」
「本当ですか? もうちょっとよく思い出して見て下さいよ」
奈緒は身を乗り出して里美の顔を覗き込む。
「しつこいなあ。何を疑ってるの、奈緒ちゃん?」
里美は少し鬱陶しく感じてきた。
「これは・・・2人の危機なのではないでしょうか? 率直に言いまして、袴田先輩は津村先輩に飽きたんじゃないかと」
「ちょっと、 滅多なこと言わないでよ! 怒るよ、奈緒ちゃん!」
里美の声に、惣一と香奈恵が振り返る。しかし、里美に迫力がないせいか、すぐに目を戻して手を動かしはじめた。部長は振り向きもしない。
「・・・すみません、さすがに言い過ぎました」
奈緒は、人間に見つかった時の小動物のように一瞬身をすくめて怯えたが、すぐに気を取り直して言った。
「冗談でもやめてよね」
「言葉が足りませんでしたね。でも、私は最悪の事態を想定して言ったまでです。私だってそんなの、考えるのも嫌なんですよ?」
「本当に? 面白がってるだけじゃないの?」
里美は疑惑の視線を向ける。
「ひどいです、先輩。本当ですってば。もしあの2人が別れるなんて事になったら、こんな小さな部活でこの先雰囲気が悪くなるじゃないですか。うちの学校、簡単に部活を変えられないですし。先輩だって嫌でしょう?」
里美はあごに鉛筆の背を当てて、少し考えてみる。
「確かにそんなの考えたくもないけど・・・」
「じゃあ、津島先輩に聞いてみてくださいよ。袴田先輩と何かあったんですかって」
「うーん・・・。私、普段そういう事聞かないからなあ」
「え、そうなんですか?」
「気にならないわけじゃないけど・・・。私、そういうのよくわからないし、相談されても相づちを打つぐらいしかできないから、あまり突っ込んだ話はされないんだ。香奈恵もあまり自分の悩みとか言わないしね」
「え・・・冷たくないですか? 親友なんでしょう? 信用されてないんじゃないですか、先輩」
「そんな事ないよ! ちょっと口が悪いんじゃない、奈緒ちゃん? 私達のこと知らないでしょう? 香奈恵とは長い付き合いなんだから!」
里美は、少しムキになって否定した。
「すみません、こういう性格なもので」
「奈緒ちゃんだって、友達に何でも話すわけじゃないでしょう?」
「私、ですか? 私は友人と呼べるほど仲の良い人間はいないのでわかりません」
「え・・・そうなの?」
里美はまじまじと奈緒の顔を見た。
「ちょっと、可哀想な目で見るのはやめてもらえますか? いいんですよ、私は。こんな田舎の、テレビ番組と男女交際しか話題がない、つまらない連中と馴れ合うつもりはありませんから」
「駄目だよ奈緒ちゃん、クラスメイトを見下したりしちゃ。奈緒ちゃんだって、同じ田舎の中学生じゃない。ていうか、私のことも馬鹿にしてる?」
「そんなことはありませんよ。部活の先輩として、一定の敬意を払っています。時々、部分的に上手な絵を描きますしね」
「全然褒められている気がしないんだけど・・・」
「それより、ちゃんと津島先輩に聞いてみてくださいよ。いいじゃないですか、何もなければそれで終わりなんですから」
美術室の後ろの立て付けの悪いドアが音を立てて開く。振り返ると、千穂の姿があった。
「あれ? 珍しいね、千穂がここに来るなんて」
千穂は、黙ってまっすぐに里美のそばにやって来る。いつもの柔和な表情は無い。奈緒は、そそくさと里美から離れた。
「あれ? ・・・もしかして、キビちゃん?」
千穂は何も答えずに、絵に没頭しているふりをしている奈緒を興味そうに眺めていた。その様子が無言で里美の問いを肯定している。
「どうして今起きてるのよ! 千穂が起きてる間は出て来ちゃいけないって言ったでしょ!」
里美は立ち上がり、千穂の耳元で小声で抗議した。
「僕は何もルールを破っていないよ。千穂が理科室で寝てしまって、退屈だからここまで来てやったんじゃないか」
「う・・・でも、千穂を知ってる人が見たら何か変だと思われるかもしれないし、目立つことはやめてよね」
里美は奈緒の方を見た。千穂の話している事に疑念を抱いているのではないかと思ったが、奈緒は俯いて適当に鉛筆を動かしている。やはり、極度の人見知りなのだろう。里美も大概だが、その比ではない。先ほどの尊大な態度は何処かに隠れてしまったようだ。おそらく、教室でもこの調子なのだろう。
「奈緒ちゃん、この人は矢吹千穂。私と香奈恵の友達なんだ、よろしくね」
里美は奈緒に千穂を紹介した。
「・・・はい、私は七宮奈緒と言います。こちらこそよろしくお願いします」
奈緒は、顔を上げずに、ぼそぼそと早口で言った。少し声が上ずっている。体の大きい千穂と、小さい奈緒が並ぶと、制服じゃなければ高校生と小学生に見えなくもない。
「城崎先輩にはお世話になって・・・ひぇ?」
奈緒が不意に妙な声を上げた。千穂が左手で奈緒のほっぺたをつまんでいる。奈緒の頬が柔らかいのか、千穂の力が強いのか、奈緒の顔は大きく横に伸びていた。
「に、にゃにしゅるんでしゅか!?」
「何してるの、キビちゃん!?」
里美と奈緒がほぼ同時に声を上げた。
「特に意味は無いけど。弱そうな人間だったから」
千穂は悪びれる様子もなく言う。
「理由もなく人を痛めつけたら駄目だよ!」
里美は両手で千穂の手を掴んで奈緒から引き離した。千穂が最後まで力を緩めなかったのか、奈緒がぴゃ、という短い悲鳴を上げた。
「このぐらい、痛くないだろう? それにマナーがなってないよ、この人間。挨拶をする時は、敵意が無いことを示すように、相手の目を見て話せって本に書いてあったし」
「痛いかどうかはキビちゃんが決めることじゃないでしょ! それに、人によって習慣が違うんだから、キビちゃんの基準から違ってても怒っちゃ駄目だよ!」
「別に怒ってるわけじゃないよ」
「な、何なんですか、この人」
奈緒は涙目で赤くなった頬を押さえて、千穂の手の届かない距離まで椅子ごと後ずさった。
「ごめんね、奈緒ちゃん。いつもは穏やかでのんびりしているんだけど、ちょっと今日は機嫌が悪いみたい。ほら、キビちゃんも謝って!」
「腑に落ちないけれど・・・どうも僕が悪かったらしいね、許してくれ」
「わ、わかりましたよ、もう」
奈緒はそうは言ったものの、横目で千穂を警戒しながら、絵を描き始めた。
「気をつけてよ、キビちゃん。ところで、私に何か用なの?」
「それはないだろう? 君が昨日、帰る前に絶対に来いと言ったから来たんじゃないか」
「あ、そういえばそうだっけ」
里美は、後ろのロッカーに行って鞄をごそごと漁った。千穂はその間、奈緒が絵を描く様子を眺めていた。奈緒はびくびくしながら少しずつ背景を描いて行く。
「これこれ、これを千穂に渡したかったんだ」
里美は分厚い文庫本を3冊、千穂に手渡した。里美の笑顔とは裏腹に、黒を基調とした表紙に”殺”や”死”と言った不吉な文字が並んでいる。
「これは?」
「小説だよ。読んでみて、すごく面白いから」
「ふーん・・・」
ちなみに、以前千穂と香奈恵にも読むように勧めたのだが、千穂はそもそも活字を読む習慣があまり無いし、香奈恵は里美が好きなホラーや猟奇的な小説は苦手なので、受け取ってももらえなかった。
「どんな内容なんだい?」
「それを言ったら面白くないでしょ? 読んでからのお楽しみだよ!」
「そういうものかな? 先にどんなものか知っておいた方が理解しやすいと思うんだけど。まあいいや、夜は長いから、読んでみることにするよ」
「読んだら感想を聞かせてね!」
「わかったよ。・・・ん?」
「どうしたの?」
「千穂が目を覚ましそうだ。そろそろ僕は戻るよ」
「うん、先生に見つからないように気をつけてね!」
「ああ。それじゃあまたね、奈緒」
「は、はい! さようなら!」
突然耳元で話しかけられた奈緒は身をすくませた。
「千穂ー、もう帰るの?」
教室の前方にいた香奈恵が、後ろのドアに向かっている千穂に呼び掛けた。
「もう少し待ちなさいよ、一緒に帰りましょう」
「今日は姉と待ち合わせているんだ。ごめんね、香奈恵」
「姉・・・? ああ、京ちゃんね。わかったわ、また明日!」
千穂はドアを開けると、閉めずにそのまま教室を出て行った。




