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「おはよー、香奈恵」
里美は息を乱して教室に駆け込んだ。珍しく早く起きたのに、朝食後に読みかけのミステリを読んでいたら、いつの間にか普段の出発時間を過ぎていたのだ。
「おはよう、今日は遅いじゃないの」
「危なかったー、今読んでる小説が盛り上がっててさ。3人目が殺されたところなんだよ」
里美は肩にかけた鞄を机の上に降ろし、後ろの香奈恵の席に向けて座った。
「朝から物騒な話ね・・・。出かける前の忙しい時に読まなくてもいいじゃない」
「少し時間が空いてたんだよ。隙間時間は有効に使わないとね」
「あまり有効には思えないけど。それより、勉強しなさいよ。今日は英語の小テストがあるでしょう?」
香奈恵は、手元の英単語帳に目を戻した。
「小テストの勉強は昨日してきたから、大丈夫だよ」
「あら、珍しいわね。それじゃあ、私と勝負する? 負けた方が帰りに何かおごるということで」
「香奈恵は英語得意じゃない。それに、私はもう今月はお小遣い残ってないから、乗らないよ」
里美は鞄から取り出した下敷きで、顔を扇ぎながら言った。
「あれ、千穂は今日も休みなの? 昨日は来られそうって言ってたのに」
千穂の席を見たが、机は空っぽのままだった。
「知らないわ」
香奈恵は、単語帳から目を離さずに素っ気なく言った。
「香奈恵、昨日の事怒ってるの?」
「当然よ。悪ふざけにも程があるわ。こっちは本気で心配したっていうのに、あんなふざけた態度をとるなんて。あんただって怒ってるでしょう?」
「怒るというより、驚いたよ。千穂があんな変な事言うなんて思わなかったからさ」
「私だって、千穂があんなに痛い子だとは思わなかったわ。何のつもりかわからないけど、邪気眼ごっこなら1人でやりなさいよ!」
香奈恵は里美を睨みつけて言った。香奈恵は、怒ると鼻に縦の皺ができる。
「うーん・・・でも、千穂があんな風に変わっちゃうなんて、やっぱりおかしいよ。病院で診てもらった方がいいと思うんだけど」
「本人が大丈夫だって言い張っている以上、どうしようもないでしょ。とにかく、千穂が謝るまで私は口を聞かないわよ」
香奈恵はそう言うと、単語帳に目を戻した。
チャイムが鳴り、担任の新沢が教室にやって来た。それとほぼ同時に、千穂が後ろの入口から入って来る。里美は、休みだと思っていた千穂が姿を見せたことに少し驚いたが、それよりも、千穂の泣き腫らした顔に注意を引かれた。一体、何があったんだろう? 千穂が席に着くのを待って、日直の生徒が起立の号令をかけ、全員で挨拶をする。生徒が着席すると、少し間を空けて、新沢が話し始めた。
「えー、痛ましいことだが、学区内で飼い犬が何者かに殺されるという事件が起きた。不審な人物を見かけたら、すぐに保護者か学校の先生に言うように。登下校も、なるべく1人になることは避けて、友達と一緒に行動しなさい」
いつもの適当な様子と違い、真面目な面持ちで新沢は言った。教室にざわめきが広がる。犬、と聞いて里美は千穂の家のジョナサンを思い出した。振り返ると、千穂が真っ赤な目でうつむいていた。里美は、瞬時に新沢の話と千穂の様子が頭の中で結びついた。
「ねえ、もしかして・・・!」
小声で香奈恵に話しかける。
「まさか・・・」
香奈恵は疑わしげに千穂を振り返った。
「毒でも食べさせられたんですか?」
斎田智章が手を上げて質問した。
「あまり詳しい事は言えんが、犯人は家の敷地内に侵入して犬を殺害したらしい。危険な人物の可能性があるから、もし怪しい人を見かけても接触は避けて、大人の人に知らせなさい」
「そうですか・・・」
智章はそう言うと、腕を組んで頷いた。
ホームルームが終わると、里美はすぐに千穂の席へ向かった。
「千穂、さっきの先生の話って・・・」
千穂は、声をかけられてから少し遅れて、里美を見上げた。頬が赤く染まり、まぶたが腫れている。里美は、千穂の表情を見て、嫌な予感がほとんど確信に変わった。
「来て」
千穂は立ち上がると、里美の手を引いて歩き始めた。教室を出て、廊下の角を曲がり、屋上へ続く階段の前で立ち止まった。
「里美ぃ・・・」
千穂の目から涙が浮かび、やがてこぼれ落ちる。
「ジョナサンが・・・ジョナサンが」
顔をくしゃくしゃにして、千穂は言った。
「そんな・・・昨日はあんなに元気にしてたじゃない」
「今朝、お姉ちゃんがジョナサンが倒れているのを見つけたの。頭が割られて、中が空っぽになってたんだって・・・」
「ひどい! 一体誰がそんな事を!」
「可哀想に・・・痛かっただろうな・・・」
千穂は眼鏡の下から、ハンカチで顔を拭った。
「生き物を殺すなんて、許せないよ! それに、頭の中をえぐり出すなんて信じられない! 絶対、変質者のしわざだよ!」
里美は拳を握り締めた。
「ねえ、犯人に心当たりは無いの?」
「無いわ・・・お父さんが警察に通報するって言ってたけど」
「絶対に捕まえてもらわないと! 犯人には罪を償ってもらうわ!」
「そんな事より、ジョナサンを返して・・・」
千穂はさめざめと涙を流した。
「千穂・・・」
里美は、それ以上かける言葉が見つからなかった。何とか慰めの言葉を探していると、1時限目の始まるチャイムが鳴った。
「・・・戻ろう、里美」
千穂が鼻水をすすりながら言った。
「大丈夫? もう少しここにいた方がいいんじゃない?」
「ううん・・・行こう」
2人は、並んで教室に向かった。里美が千穂の背中に手をまわすと、なんだか千穂が急に小さくなったように感じた。
1時限目の国語の授業は、ほとんど身が入らなかった。まさか、殺されたのがジョナサンだったなんて。里美も、千穂の家に行くたびにジョナサンと顔を合わせていたし、何度か一緒に散歩に行った事もあるから、小さい頃吠えられたり、じゃれつかれて転ばされたことを差し引いても、人一倍愛着があった。こんなに急に、二度と会えなくなってしまうなんて思ってもいなかった。元気なジョナサンの姿と、千穂の悲しんでいる姿が重なって、里美の目にも涙が滲んだ。
それにしても、酷い事をする人もいるものだ。わざわざ他人の家の敷地に忍び込んで、犬の頭をかち割って、脳味噌をほじくり出すとは。里美は、想像していると気分が悪くなった。絶対に許せない。一体、どんな人間がやったんだろう? この辺りの不良少年か、通り魔か? ジャーマン・シェパードをわざわざ狙って殺すなんて、屈強な男に違いない。しかし、千穂の近所には、他にも犬を飼っている家があるし、ジョナサンより小さな犬ばかりなのに、なぜジョナサンを狙ったんだろう。いや・・・本当に人間の仕業なのか? 頭の中身はどうしたのだ? 里美は3日前に襲われた怪物の事を思い出し、不安になってきた。帰ったら創士に相談してみよう。
1時限目が終わり、休み時間になった。千穂を振り返ると、もう泣いてはいなかったが、国語のノートを開いたまま、ぼんやりと俯いていた。里美は、体を後ろに向けると、小声で香奈恵に話しかけた。
「香奈恵、何でさっき来なかったのよ!」
「言ったでしょ。千穂が謝るまで口を聞かないって」
香奈恵は英単語帳を開きながら言った。
「そんな事言ってる場合じゃないよ! 今朝、ジョナサンが殺されたんだって!」
「・・・本当にジョナサンが?」
香奈恵は驚いて顔を上げる。
「本当だよ。それも、頭を割られるっていう、酷い殺され方だったらしいよ」
香奈恵は千穂を振り返った。
「すごく悲しんでるのよ。ねえ、何とかして慰めてあげられないかな?」
「・・・今はやめておくわ」
「意地張ってる場合じゃないでしょ! 」
「そうじゃないわ。今はそっとしておいた方がいいと思うの。悲しい時には、徹底的に悲しむ事が必要なのよ」
「そうなのかな・・・」
「心配しなくても、落ち着いた頃に話すわよ」
2時限目、3時限目が終わり、4時限目の英語が始まった。小テストは、自分では勉強したつもりだったが、思ったよりも解けない問題がたくさんあった。香奈恵と賭けをしなくて良かったと思う。授業中、何度か千穂の様子をうかがったが、千穂は相変わらずふさぎ込んだままだった。
4時限目も終わり、給食の時間になった。里美と香奈恵は同じ班で、一緒に給食を食べていた。食べている途中で、他の生徒がどこの家の犬が殺されたのかという話で盛り上がっていたが、里美は何も言わなかった。無責任な事を言うものだと少し腹が立ったが、被害に遭ったのが千穂の家だと知らなければ自分も一緒に話に加わっていたかもしれないと思った。
給食を食べ終わり、食器を片付けると、生徒達は次々と教室を飛び出して行く。里美は、いつも通り千穂の姿を探したが、教室の中には見当たらなかった。
「あれ? 千穂、どこに行ったのかな?」
「私も見ていないわ。1人になりたくてどこかに行ったんじゃないかしら」
「・・・ねえ、探しに行こうよ」
「そっとしておいた方がいいんじゃない?」
「何も言えないかもしれないけどさ。あんなに悲しんでいるんだから、せめて一緒にいてあげたいよ」
「あんたもお節介ね・・・わかったわ、行きましょ」
「ついでに仲直りもしてよね?」
「それは千穂の態度次第よ」
教室を出て校舎の中を探していると、南側の校舎の端に千穂がたたずんでいるのを見つけた。まわりに他の生徒の姿はない。千穂は1人で、開け放った窓からじっと外を見つめていた。里美と香奈恵がすぐ後ろまで近づいても、振り向きもしない。窓の外からは、校庭で遊んでいる生徒達の声が聞こえてきた。空は雲ひとつなく晴れ渡り、飛行機が尾を引いて飛んでいる。千穂は、他人を寄せ付けない雰囲気を放っていた。
「何か見えるの?」
里美が思い切って隣に並んで話しかけた。千穂は窓の外を見たまま、明らかに不機嫌な表情になった。
「見えるわけじゃないよ。匂いがするんだ・・・奴の匂いがね」
「匂い? 何か変な匂いなんてするかな? 私は何も感じないけど」
里美は鼻を鳴らして外の匂いを嗅いでみたが、新緑と土埃の匂いがするだけだった。外には、遠く金守山が見える。
「君達にはわからないだろうね。生物は、必要の無い情報を感知するようには出来ていないから」
千穂はつまらなそうに言った。里美は、千穂の様子が朝と違っていることに気がついた。
「千穂、ジョナサンのことは本当に気の毒だけれど、あまり気を落とさないでね」
香奈恵が千穂の様子に気がつかないのか、2人の後ろから話しかけた。
「ジョナサン・・・? ああ、あのうるさい犬のこと?」
千穂が興味なさげに振り返る。
「大丈夫だよ、気を落としたりなんかしていないさ。いなくなってせいせいしているよ」
「な・・・あんた、冗談でも言っていいことと悪いことがあるわよ!」
香奈恵は大声で言い返した。
「何なんだい、君達は。さっきからごちゃごちゃとうるさいな。僕の邪魔しないでくれ」
「私は、あんたがジョナサンが死んで落ち込んでるって聞いたから、心配してあげてるんじゃない!」
「心配だって? そんなもの、僕は頼んだ覚えはないね。大体、犬が死んだぐらいで何だっていうんだ? ただの家畜じゃないか。そんなことで僕は落ち込んだりしないよ」
千穂は不敵な笑いを浮かべながら言った。
「最低ね・・・もう冗談じゃ済まないわ。絶交よ!」
「ああ、望むところだよ。もう話しかけないでくれ」
香奈恵は踵を返すと、早足で歩いて行った。
「あれ? どうしたの、君にも消えて欲しいって言ったつもりなんだけど?」
千穂は、呆然としている里美に向き直って言った。
「・・・あなたは誰?」
里美は何とか口を動かして、言葉を絞り出した。
「千穂じゃないよね? 一体、誰なの?」
「・・・僕は千穂だよ。君の知らない、生まれ変わった千穂のもう1つの顔さ」
千穂はそう言うと、背を向けてゆっくり歩み去った。




