15
千穂は暗闇の中で目を開けた。そっとベッドの上で体を起こす。時計を見ると、午前2時を過ぎていた。明かりをつける様子もなく、闇の中でじっとしていた。
ついさっきまで見ていた夢を思い出していた。この千穂という少女の幼い頃の夢だ。昨晩訪ねてきた人間・・・城崎里美と津島香奈恵という名前だったな・・・それに、姉の京子と、他の子供たちと一緒に千穂の家で隠れん坊をしていた。千穂は、家の縁の下にうつ伏せになって隠れていた。家の裏の隙間から、縁の下に入ることができるのを知っているのは、千穂と京子だけだった。金格子の隙間から、家の前の様子が見えた。じっとしていると、鬼の少女が次々と子供たちを見つける声が聞こえた。はじめは、絶対に見つかることはないだろうと、得意で他の友達が見つかる様子をうかがっていた千穂だったが、里美と香奈恵も見つかり、大部分の子供が見つけられてしまうと、だんだん心細くなってきた。やがて、千穂以外の全員が見つかった。友人達は、家の前で楽しそうに話をしている。千穂は、すぐ目の前に友達がいるのに、1人で狭い縁の下に閉じ込められているのが、とても悲しく感じた。外は夕暮れが迫っていた。
この宿主の少女も、何らかの不安を感じているのだろうとその生物は思った。もう遅いよ、と千穂の口を借りてつぶやく。すでにその生物は、千穂の支配を完了していた。あとは奴が見つかれば、この宿主も不安や心配など感じなくなる。千穂の口元には冷たい笑いが浮かんでいた。
しかし、奴から離れてしまったとはいえ、こんな脆弱な生物の中に入り込んでしまうとは。千穂は自分の腕をじっと見つめた。結果的に、この星を支配する種族の知識を得ることができたのは収穫だったが、この体では長く持ちそうにない。やはり人間の体では無理があるようだ。人間の食事を摂っても、欲している養分が足りない。早く奴を見つけ出さなければ、いずれは宿主と一緒に朽ち果ててしまうだろう・・・。
「急がないとね」
千穂はひとりごちると、ベッドから立ち上がり、窓に近付いた。カーテンを明けると、雲の隙間から月の光がさしていた。窓を開くと、冷たい風が吹き込んできて、カーテンを揺らす。国道の方からは、自動車が走る音が聞こえてくる。大きく息を吸い込むと、わずかながら、奴の匂いがした。猿人だらけのこの星の、一体どこにいるのかわからないが、奴は間違いなく近くにいる。まだ、運に見放されたわけではないようだ。
不意に、犬の鳴き声が聞こえて来た。下を見ると、ジョナサンがこちらに向かって吠えている。
「やれやれ、またか・・・」
これは犬という生き物らしい。どういうわけか、吠えてばかりいる。人間が、自分の子供ですらなく、まして違う種の生物を飼育するということが理解できない。それに、この生物の声はとても不快に聞こえる。体の奥底まで響いて、神経を揺さぶってくるようだ。千穂は静かに部屋を出ると、裸足のまま外に出た。
犬小屋に近付くと、ジョナサンが一層大きな声で吠えた。鎖を目いっぱい伸ばして、千穂に飛びかかろうとする。千穂は、ジョナサンに脅える様子もなく、ゆっくりと目の前まで歩み寄った。ジョナサンは、歯を剥き出し、涎を垂らしながら唸る。
「力の差がわからないのかい? まあ、君のような下等な生き物なら仕方ないか」
千穂は笑いながら言った。ジョナサンの唸り声が大きくなる。
「静かにしてくれないかな。それに、僕はとてもお腹が空いているんだ・・・少し味見をさせてもらうよ」
千穂が右手を上げると、突然、腕が大きく膨らみ、中指と薬指の間が割れて鉤爪が飛び出した。肉食獣の牙を思わせる、鋭く長い刃が月明りに照らし出された。
一歩近付くと、口を大きく開いてジョナサンが飛びかかった。千穂は、頭に狙いを定め、右手を振り下ろした。
外から聞こえる人のざわめきで、千穂は目を覚ました。京子と、父親の吉行の声が聞こえる。時計を見ると、まだ6時を過ぎたばかりだ。寝ぼけまなこで起き上がると、枕元に置いた眼鏡を掛けた。眼鏡で視界がはっきりすると、自分の姿に違和感を覚えた。昨日着ていたパジャマと違う。確か、ピンクのパジャマを着ていたはずなのに、今は薄緑色のものに変わっている。夜中に汗をかいて、夢うつつで着替えたのだろうか。
千穂は何とか思い出そうとしたが、外から聞こえる声が尋常ではないのに気がつき、そちらに注意を向けた。時折、京子の泣いているような声が聞こえる。こんなに朝早くから何があったのだろう。喧嘩でもしているのだろうか。千穂はカーディガンを羽織ると、階段を降りて外に出た。犬小屋の前に吉行がうずくまり、傍らに京子が立っている。京子の顔は涙に濡れ、頬が紅潮していた。
「何かあったの?」
千穂は、姉の只事ではない様子に近付くのがはばかられ、玄関先から声を掛けた。
「来ちゃ駄目!」
千穂に気がつくと、京子は大声で制した。
「え・・・? どうしたの?」
「ジョナサンが・・・」
京子は言葉を詰まらせた。
「ジョナサンが、殺されている」
吉行が京子の言葉を継ぐように言った。吉行の傍には、ジョナサンの足の裏が見えた。こちらに足を向けて倒れている。上半身側は、吉行の陰に隠れて見えなかった。
「そんな!」
千穂が近付こうとすると、京子が抱きしめて止めた。
「見ちゃ駄目だったら!」
「嘘! 嘘だよね、お姉ちゃん!」
視界が滲んで、涙がこぼれ出す。
「本当なんだよ、千穂! 私が・・・散歩に連れて行こうとしたら、ジョナサンが、頭から血を流して倒れてて・・・!」
「・・・嘘! そんなの嫌だよ!」
毎日犬小屋の前を通るたびに嬉しそうに尻尾を振って吠えていたこと、散歩に連れて行くと力一杯引っ張られたこと、楽しかった思い出が蘇った。
「頭を、鎌か鉈で割られている。誰だか知らんが、酷いことをしやがる!」
吉行が眉根を寄せて言った。温厚な父親が怒っているのを見て、千穂はこれが現実に起きたことなのだと思い知らされた。
「ほんに可哀想にな。惨たらしく殺されて」
ハナエがビニールシートを持って家から出て来た。
「頭ん中えぐられてるでねえか。こだら事した奴も同じ目に合わしてやりてぇわ!」
吉行はビニールシートを受け取ると、ジョナサンの亡骸の上に被せた。
「こだ事すんのは、裏の武郎でねえのが? あの野郎、前からジョナサンがうるせえって、文句言いに来てたからな」
「証拠もないのに滅多なことを言うもんじゃないよ、ばあちゃん」
吉行がハナエをたしなめた。
「いーや、武郎は信用なんね。何かにつけて家さ嫌がらせしてくんだがら」
「それはばあちゃんの考えすぎだよ。武郎さんはこんな酷いことはしないさ。・・・とにかく、この事は警察に連絡する。お前達は、学校に行く支度をしなさい」
「うん・・・」
「嫌だよ、ジョナサン・・・」
千穂は京子に抱きついたまま、泣き続けた。
里美がリビングへ降りて来ると、そこに創士の姿は無かった。部屋の中央には、宇宙船へ続く階段が口を開けている。また宇宙船にこもっているのだろうか。この2日ほど、食事の時を除いては、家の中で創士の姿を見ない。
里美は、頭が冴えないままテレビのスイッチをつけて、ソファーに腰を落とした。テレビでは、有名女優が年下の俳優と結婚するというニュースをやっている。里美はその女優をよく知らないので、チャンネルを変えると、そちらでも同じニュースをやっていた。再び別なチャンネルに変えると、東京にオープンするショッピングモールの特集をやっている。どうせ行く機会なんて無いだろうけれど、何とはなしに、女性アナウンサーのいちいち大げさなリポートを眺めていた。
平和だ。昨日、奈緒が日常がつまらないと言っていたが、それも悪くないんじゃないかと思う。毎日そんなに変わった事件が起きていたら疲れてしまうだろう。しかし、里美の身体の中や、足の下には明らかに日常から逸脱した世界が広がっていた。体を改造されて、宇宙からきた怪物と戦うなんて、そんな非日常なら願い下げだと思うが、それでも奈緒なら喜ぶのだろうか。奈緒を宇宙船に連れて行ったら、どんな反応をするだろう。もちろん、そんな事はできないけれど。
「もう起きたのか?」
振り返ると、創士が階段を登って来るところだった。
「おはよう。少し早く目が覚めてさ」
「珍しいな。朝食の支度をするから、もう少し待ってなさい」
創士はそう言うと大きなあくびをした。不精ひげが散らばり、目の下には隈ができている。
「いいよ、たまには私がやるよ。お父さん、疲れてるみたいだし」
「そうか? それじゃあ、今日は頼む」
里美がソファーを立つと、入れ替わりに創士が腰を降ろした。
トースターがベルを鳴らし、炒めたベーコンの匂いが部屋中に広がる。相変わらず、目玉焼きとベーコン、トーストのみの簡単な朝食だ。里美は、トーストにブルーベリージャムを塗って、かじりついた。創士は箸で目玉焼きの黄身を崩し、一口大に切り取って食べる。
「ねえ、何かわかったの?」
里美は、黙々と食べている創士に話しかけた。
「ん? ああ・・・」
何か考え事をしていたのか、創士は投げやりな返事をした。
「あの怪物のことだよ! ずっと調べてたんでしょう?」
「ん・・・」
創士は、コップの水を喉を鳴らして一気に飲み干した。
「まだ調査中だが、とりあえず、あのゲムトスが第5世代のモデルだということがわかった」
「第5世代? それって新しいの?」
「現在、オルバルで確認されている最新型だよ。第4世代に比べると、外骨格と筋力が大幅に強化されている。しかし、それでもあそこまでの変異は例がないが」
「どうしてそんなものが地球にあるのよ?」
「確証は無いけれど、里美が言ったように、宇宙から卵が落下した可能性も考えられるな」
「えっ!? 本当にそうなの? だから言ったじゃない!」
里美は、得意げに胸を張った。
「まだそうと決まったわけじゃないぞ?」
「UFOじゃなくて、エイリアンの卵が偶然地球に落ちて来たんだ。ちょっと違ったけど、千穂の噂話も馬鹿にならないね」
「いや・・・偶然ではない」
創士は声を低めた。
「え? なんで?」
「ゲムトスの卵は人工物だ。自然に宇宙を漂っているわけじゃない」
「そうなの? でも、たまたまお父さんの星から飛んできたんじゃないの? 何かの事故でさ」
「オルバルから地球までは5万光年以上離れているんだぞ? 第5世代が導入されたのはたかだか10年前だから、それが地球に飛んで来ることはありえない。それに、特定危険生物に指定されているゲムトスは、オルバルでは厳重に管理されている。過去の記録を調べてみたが、ゲムトスを積んだ船が地球の近くを通った記録も、事故の記録も無い」
「それじゃあ、どうやって地球に来たの?」
「宇宙から落としたにせよ、他の手段にせよ、誰かが意図的に運び込んだとしか考えられん」
創士は空になったコップを握り締めた。
「誰が何のためにそんなことをするのよ? こっちは大迷惑だよ!」
「それはまだ見当もつかないが、ゲムトスを保有している星はオルバルだけではない。様々な可能性を考えなければならん」
創士は深刻な表情で考え込んだ。
「ねえ、まだ何か起きるの?」
里美が不安そうに尋ねる。
「里美は心配しなくていい。父さんに任せなさい」
創士はそう言って笑うと、トーストを口に運んだ。
「学校での調子はどうだ? 体に何か問題はないか?」
「今のところ、何もないよ。・・・あ、そうだ。私、身長が低い方なんだけど、もしかして、ロボットだから成長が止まっちゃってるのかな?」
「一応、里美の生体の成長をシミュレートして調整したつもりだが。 母さんもそれほど大きい方じゃなかったから、そのぐらいだろう」
「調整できるの!? なら、もう少し大きくして欲しいんだけど! あと3㎝ぐらい!」
里美は椅子から立ち上がり、身を乗り出した。
「落ち着きなさい。機械のボディなら改造できるけれど、生体に戻った時どうするつもりだ?」
「え? 生体も大きくできないの?」
「駄目だ。生体は機械よりデリケートなんだよ。簡単に操作する事は出来ない」
「なんだ、つまんないの」
里美はふてくされて椅子に座った。
「香奈恵はともかく、千穂と並んで歩くと小さく見えちゃうんだよ」
「ああ、矢吹さん家の娘さんは確かに背が高かったな。最近はあまり家に来てないけれど、元気かい?」
「風邪をひいたみたいで、昨日は休みだったよ。帰りにお見舞いに行った時はだいぶ治ってたみたいだけど、そういえば・・・」
「何かあったのかい?」
「何かあったっていうか、突然変なしゃべり方をしはじめたんだよ。自分のことを『僕』とか言ってるし。香奈恵も怒っちゃうしさ、一体どうしたんだろ?」
「うーん・・・よくわからないけれど、思春期特有の心境の変化、みたいなものじゃないのかな?」
「中二病ってこと? 千穂はそういう子じゃないと思うんだけどな・・・」




