14
学校を出る頃には、空がオレンジから群青に変わり始めていた。
「あー、もうすっかり遅くなっちゃったじゃない」
里美は、早足で歩きながら香奈恵に愚痴る。
「もう少し早く切り上げれば良かったわね」
香奈恵は1歩遅れながら、里美について歩いていた。
「香奈恵も、絵の具を使ってるなら先に準備しててよ」
「しっかり洗わないと気が済まないのよ。そんなに急がなきゃならないわけでもないんだから、いいじゃない」
「あまり遅くなったらまずいでしょ? 夕飯時に行ったら悪いしさ。それに、香奈恵は千穂の家から近いからいいけど、私の家は遠回りなんだよ。帰りが遅くなっちゃうじゃない。自分の都合だけで考えないで、人の迷惑も考えてよ」
口に出すと、自分が思っていたよりも棘の言い方になってしまった。
「もしかして怒ってる? 確かに私が道具を洗ってる間待たせちゃったけど、仕方ないじゃない。洗わないわけにもいかないし」
「それはしょうがないけどさ・・・」
洗い場で惣一と長々と喋っていたから遅くなったんでしょうが、と思ったが、言うのを止めた。
「何よ?」
「・・・なんでもない。もういいよ、早く行こう」
千穂の家の垣根の前を通ると、ジョナサンの鳴き声が聞こえた。声が聞こえるのはいつも通りなのだが、鳴き声が違った。いつもは嬉しそうに吠えてくるのに、今日は何だか怒っているみたいだ。不思議に思いながら門をくぐると、ジョナサンの声が一層大きくなった。夕闇の中で、ジョナサンは家屋に向かって吠えていた。里美たちの姿を認めると、しばらく吠えるのをやめて、目で何かを訴えたが、すぐにまた母屋に向かって吠え始めた。
「ジョナサンがこんなに吠えるなんて、珍しいわね」
「誰か来ているのかな?」
里美は犬小屋の前を通り、玄関の前に辿り着くと、ベルを鳴らすこともなく、引き戸を開けた。カラカラと軽快な音をたてて、引き戸は滑るように開いた。
「こんばんはー」
里美は戸を開けると同時に呼びかけたが、返事は無かった。奥の台所から、何かを煮ている匂いが漂っているが、人が出て来る気配は無い。ノイズ混じりのラジオの声が切れ切れに聞こえてくる。
「こんばんは! 誰かいませんか!?」
里美は先ほどより大きな声でもう一度呼びかけると、左手の階段から、誰かが降りてくる足音が聞こえてきた。2階の暗がりから、腰を曲げた黒い影が姿を現す。里美は目を凝らした。
「あら、里美ちゃんに香奈恵ちゃんでねぇの。よく来てくれだな」
ハナエがゆっくりと、一段一段降りてくる。
「おばあちゃん、久しぶり」
香奈恵がハナエに挨拶をする。
「最近あんまり来てねぇべ。寂しいがら、もっと遊びに来な」
ハナエは笑いながらそう言うと、玄関のそばの明かりを付けた。
「千穂の見舞いさ、来てくっちゃの?」
「うん。それと、プリントを届けにきたの」
「あら、いつもありがどね。千穂ー、里美ちゃんと香奈恵ちゃんが来てくっちゃど!」
ハナエが2階に呼びかけると、千穂の返事がかすかに聞こえた。
「里美ちゃんは、もう怪我は治ったのが?」
「うん、私はもう平気だよ。それより、千穂の様子はどうなの?」
「昨日青い顔して帰って来たがら、たまげたけど、今日病院に行って来たがら多分大丈夫だべ」
「そうなんだ・・・思ったより悪くないみたいだね」
里美はほっとして香奈恵に微笑みかけた。
「おばあちゃん、腰の調子はどう? また湿布貼ってあげよっか?」
「香奈恵ちゃんは優しいだな。でも、今はいらねぇべ」
香奈恵はどういうわけか、お年寄りに取り入るのがうまい。ハナエが腰をさすっていると、2階からいいよ、という声が聞こえた。
「そんじゃ、上がってきな」
お邪魔します、と言うと里美と香奈恵は靴を脱いで階段を上った。どの家にも、独特な匂いがある。千穂の家は干した藁と線香を混ぜたような匂いがした。階段を登ってすぐ右手にある京子の部屋の前を通り、廊下を突き当たりまで進むと、クマのキャラクターが描かれたネームプレートのかかったドアの前に辿り着く。ドアをノックすると、入って、という声がした。
ドアを開けると、千穂がパジャマの上にカーディガンを羽織り、ベッドの上に座っていた。
「いらっしゃい。来てくれてありがとう」
「千穂! 具合はどうなの?」
里美は、部屋に入るなりベッドのそばに行った。
「昨日は頭が割れるんじゃないかと思うぐらい痛かったけど、今日はもうだいぶ良くなったわ」
「本当? 良かったー」
里美は胸を撫で下ろした。
「先生からプリントを預かって来たわよ。お見舞いのついでにね」
香奈恵が里美の背後から話しかける。
「ありがとー。とりあえず、座ってよ。その辺にあるクッションを使って」
千穂は窓際においてあるクッションを指さした。
「うん」
里美が窓に近づき、クッションを拾い上げると、外から再び犬の鳴き声が聞こえて来た。窓下を覗き込むと、ジョナサンが大きな口を開けて、こちらに向かって吠えている。じゃれつくような吠え方ではなく、明らかに威嚇していた。ガラス越しに声が響く。
「・・・うるさいわね」
香奈恵が耳を押さえながら言った。
「ジョナサン、家に入る前にも吠えてたけど、何かあったの?」
「私もわからないけど、昨日から吠えてばかりなのよー。うるさくって、嫌になっちゃう。窓に近づかなければすぐに鳴きやむから、我慢してね」
「う、うん」
里美は背後が気になりながらも窓を離れ、クッションを絨毯の上に置いて座った。香奈恵も腰を下ろし、鞄からプリントを取り出す。
「はい、これ、明日までに書いて来いって」
香奈恵が、『学習時間に関するアンケート』と書かれたプリントを千穂に差し出した。
「うん。わかったわ」
「明日は学校に来れるの?」
「多分、行けると思うわよ」
「良かったー! 千穂がいないと淋しいよ」
「私が休んでも、香奈恵がいるじゃない」
「そうだけどさ・・・」
里美は香奈恵を横目でじっと見た。
「私じゃ不満だっていうの?」
「私は、千穂の癒しが欲しいの! 香奈恵は最近冷たいしさ」
「そんなつもりはないけど? まあ、昔優しくした覚えも無いけどね」
「ほら、冷たいじゃない」
里美はクッションを抱きかかえた。千穂は微笑みながら里美の様子を見ていた。
「でも、本当に悪い病気じゃないみたいで良かったよ」
「里美はネガティブに考え過ぎよ。やっぱり、風邪だったのかしら?」
「そうみたい。薬をもらって飲んだら、熱も収まってきたもの」
「だってさー、昨日、千穂が少し変だったから、心配だったんだよ」
里美はクッションにあごを乗せながら話した。
「えー、変って何がー?」
「一昨日拾った隕石のこと、憶えてなかったんだもん。もう思い出した?」
千穂は一瞬、きょとんとした顔をして、すぐに笑い出した。
「里美ったら、またそんな冗談言ってー。金守山では何も見つからなかったじゃない」
「え?」
里美は笑顔が強張った。
「違うよ、冗談じゃないよ。香奈恵も見たんだから、ね?」
「ええ。一昨日の帰り道も、あんなに喜んでいたじゃない」
「もー、香奈恵までやめてよー」
千穂は笑いながら答えた。
「本当に、憶えてないの?」
「憶えてないも何も、そんな事はなかったんだから、忘れようがないじゃない」
嘘をついているようには見えなかった。
「・・・そうだ! 千穂、一昨日の夜に隕石がどうとかいうメールくれたよね? 私の携帯に残ってるよ」
里美は抱えていたクッションを放り投げると、ポケットから携帯電話を取り出し、一昨日のメールを探して、千穂の前に突きつけた。
「ほら、これを見てよ。隕石を拾って嬉しいって、千穂が書いたんだよ?」
「私にも同じメールが来ていたわ」
香奈恵も携帯を差し出す。
「ええ? こんな細かいことまでして、私を騙したいの? 私、こんなメール出してないわよ」
千穂は2人の携帯を見比べながら、困った顔をした。
「私達が偽装してるわけじゃないよ。だいたい私、携帯の基本的な操作方法もよくわからないんだよ? そんな高度なことできるわけないじゃない」
「それは威張れることじゃないと思うけど。こんなに絵文字を使うのは、千穂ぐらいでしょ?」
「うん。よく出来てるね。私、確かにこの絵文字持ってるから。でも、前に2人へのメールで使ってるよね? それを使ったんでしょう?」
「違うってば! そんな面倒なことしないよ!」
「千穂、自分の携帯を見てみなさいよ。送信履歴に残っているはずよ」
「あるわけないでしょう?」
「いいから! 見るだけ見てよ!」
里美が食い下がるので、千穂は渋々、枕元に置いた携帯を手に取った。千穂が操作するのを、里美が横から覗き込む。送信済みのメールを日付順にさかのぼって表示していった。
「・・・ね? 無いでしょう?」
一昨日の日付に、確かに里美達が受信したメールの履歴は無かった。
「え? そんなはずはないよ。どうして?」
「どうしてって私に言われても・・・。ねえ、この話はそろそろ終わりにしない? そのメールも里美達が作ったんでしょう?」
「だから違うって! 隕石にひびが入ってるなんて、私達も知らなかったんだから、書けるわけが無いでしょう?」
「言われてみれば、確かにそうね」
香奈恵が感心したように同意する。
「ねえ、よく思い出してみて。送信履歴も、千穂が消しちゃったんじゃないの?」
「・・・2人とも、どうしちゃったの? 私だって隕石のことなんて知らないし、送信履歴も消してないわ!」
千穂は少し怒ったように、語気を荒げた。里美と香奈恵は顔を見合わせる。
「ねえ千穂、もしかして、何か隠してるの?」
「何も隠してないわよ・・・。もういいでしょ? 隕石の話はおしまい。私だってそんなに簡単に騙されないわよ」
「千穂、もう少し話を聞いて」
香奈恵が立ち上がって、千穂の手を取った。
「私達は、冗談でこんな事を言っているわけじゃないのよ。親友として、本当に心配しているからこそ言っているの。だから、千穂も正直に話して・・・本当に、石を拾ったことを憶えていないの?」
千穂は、香奈恵の真剣な様子に少し驚いたようだった。
「うん・・・知らないわ」
千穂も真顔で答えた。
「千穂、病院に行ったんだよね? 何か言われなかったの?」
里美が横から話しかける。
「風邪だろうって言われたわ」
「それだけ? どこの病院に行ったの?」
「榊原医院だけど」
榊原医院は、近所で唯一の病院だ。個人病院で、規模も小さい。
「あのさ・・・もっと大きな病院で精密検査を受けた方がいいと思う。明日、扇ノ宮市の総合病院に行きなよ」
「え・・・大丈夫よ。あまり学校も休みたくないし」
「千穂は記憶喪失になっているんだよ!」
「そんな事ないわよ」
「いいから! 検査だけでも受けてよ」
「異常が無かったら、それでいいじゃない。私からもお願いするわ」
「・・・」
千穂は急に黙り込んだ。
「私達の友情を信頼しているなら、行ってちょうだい」
香奈恵が千穂の手を強く握る。
「ね? お願い! 検査してもらおう? そうすればみんな安心できるんだし」
「・・・さいな」
千穂が俯きながら小声で囁いた。
「え?」
「うるさいな、って言ったんだよ」
千穂が今度ははっきりした声で言った。
「・・・千穂?」
「大丈夫だって言っているだろう? そんなに僕を病人扱いしたいのかい?」
千穂は香奈恵の手を振り払った。その顔は、今まで見たことのない冷たい表情をしていた。
「そんなわけないじゃない。千穂が記憶を失くしているから、私達は心配で・・・」
「記憶喪失だって? 僕は何も忘れてはいないよ。頭が変なのは君達の方じゃないかなぁ? さっきから、わけのわからないことばかり言って」
千穂は嘲るように、口元に笑いを浮かべている。
「・・・隕石のことを忘れていたじゃない。それに何なの、その変な喋り方は。何の真似かわからないけれど、真面目な話をしてるんだからやめなさいよ」
突然の千穂の変貌に呆気に取られていた香奈恵が、何とか平静を保って言った。
「隕石? ああ、金守山で拾ったあれのこと? 憶えてるよ。でも、家に帰ってよく見たら、ただの石ころだったから捨てたのさ。これで満足?」
「それならそうと早く言いなさいよ! どうして知らないふりなんてしたのよ?」
「2人の反応が間抜けで面白かったから、ついからかってみたくなったのさ」
「なによそれ! こっちは真剣に心配したのよ!?」
香奈恵は大声を出した。唇が震えている。
「ねえ、千穂、嘘だよね? なんでそんなこと言うの? いつもなら絶対にそんな事言わないじゃない!」
里美が2人の間に割って入る。
「しつこいなあ。君は、千穂という人間をどれだけ知っているというんだい? ただ自分に都合のいいように解釈して、千穂はこういう人間だって決めつけているだけじゃないのかい?」
「そんなこと・・・ないよ」
里美は力無く言った。
「あーあ、急に気分が悪くなっちゃったよ。君達、もう帰ってくれない?」
「言われなくても帰るわよ! さよなら!」
香奈恵は荒々しく鞄を掴むと、振り向かずに部屋から出て行った。
「・・・千穂、また学校でね」
里美も香奈恵の後を追った。部屋を出ると、外から再び犬の鳴き声が聞こえて来た。
「千穂、帰る途中で香奈恵と里美に会ったけど、ここに来てたんでしょ?」
京子の声で千穂は気が付いた。部屋の中に京子が立っている。
「・・・うん。さっきまでこの部屋にいたわ」
「そっかー、惜しかったな。私も久しぶりにもう少し話したかったんだけど」
「そうね・・・。もう、帰っちゃったみたい」
確かに、帰ったような気がするのだが、いつの間に帰ったんだっけ?
「みたいって、またボケてんの? あれ・・・あんた、顔赤いよ。また熱が出たんじゃない?」
京子は左手で自分の額を押さえ、右手を千穂の額に当てた。
「うーん、熱があると言えばあるような気がするけど、よくわからないな。ちゃんと体温計で測りなよ」
「うん・・・」
「明日も具合が悪かったら、無理せずに休むんだよ」
「多分、大丈夫だと思うわ」
「そう? あ、そうだ、あたし、さっきゴミ袋を漁ってたんだけど・・・おばあちゃんにピアスを間違って捨てられちゃってさー。あんたの破った日記を見つけたよ。例の隕石も一緒にね」
京子はいたずらっぽく笑うと、ポケットからくしゃくしゃに丸められた紙を取り出して、千穂に手渡した。
「日記? 何のこと?」
「もう、昨日、日記が破かれてるって騒いでたじゃない!」
そうか。何者かに日記を破られていたんだっけ。皺だらけの紙を伸ばすと、中から小さな2つのかけらが出てきた。2つのかけらは、お椀のように真ん中が窪んでいた。合わせると、断面がピタリと一致する。外側は石のように見えたが、内側は中身を取り出したクルミのような、植物の殻を思わせる形状をしていた。
「それ、あんたは石って言ってたけど、何かの木の実みたいね。割れちゃってるもん。中身は入ってないけど」
千穂は紙切れに書かれた字を読んだ。間違いなく自分の字だ。日記には、金守山で隕石を拾ったこと、石を観察していたらひび割れを見つけたことが書かれていた。日記は、『石が中から割れてきているようだ』という記述で終わっていた。
千穂は、突然、一昨日に起きた事を思い出した。今までどうして忘れていたのだろう。日記を書いていると、徐々にあの石が割れてきて、中から出て来たのは、尖端に鉤爪が付いたミミズのような、赤黒い奇妙な生き物だった。驚いていると、その生物は顔めがけて飛びかかってきて・・・そうだ、あれは耳の中に・・・!
耳の奥におぞましい感触が蘇る。千穂は大声を上げて京子に助けを求めようとしたが、自分の意思とは裏腹に声が出て来なかった。身体の自由がきかない。
「そうだね。一昨日は隕石だと早とちりしちゃったけれど、違うみたいだ」
口が勝手に動いて、思ってもいない言葉を紡いでいく。
「残念だったわね。でも、だからって捨てなくてもいいじゃない」
「ぬか喜びさせられて悔しかったんだよ。わざわざゴミ袋から拾ってくれたのはありがたいけど、これはもういらないんだ」
千穂の身体を動かす何者かは、日記を再び丸めると、ゴミ箱に放り投げた。
「そっか。それじゃあ、もうすぐ夕飯ができるから、下りてきなよ」
「うん、わかったよ、お姉ちゃん」
京子は頭を掻きながら部屋を出て行く。待って! 行かないで! 千穂は声にならない叫びを上げたが、その言葉が京子に届くことはなかった。やがて意識が遠くなり、闇に飲み込まれて行った。




