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 学校を出る頃には、空がオレンジから群青に変わり始めていた。

 「あー、もうすっかり遅くなっちゃったじゃない」

 里美は、早足で歩きながら香奈恵に愚痴る。

 「もう少し早く切り上げれば良かったわね」

 香奈恵は1歩遅れながら、里美について歩いていた。

 「香奈恵も、絵の具を使ってるなら先に準備しててよ」

 「しっかり洗わないと気が済まないのよ。そんなに急がなきゃならないわけでもないんだから、いいじゃない」

 「あまり遅くなったらまずいでしょ? 夕飯時に行ったら悪いしさ。それに、香奈恵は千穂の家から近いからいいけど、私の家は遠回りなんだよ。帰りが遅くなっちゃうじゃない。自分の都合だけで考えないで、人の迷惑も考えてよ」

 口に出すと、自分が思っていたよりも棘の言い方になってしまった。

 「もしかして怒ってる? 確かに私が道具を洗ってる間待たせちゃったけど、仕方ないじゃない。洗わないわけにもいかないし」

 「それはしょうがないけどさ・・・」

 洗い場で惣一と長々と喋っていたから遅くなったんでしょうが、と思ったが、言うのを止めた。

 「何よ?」

 「・・・なんでもない。もういいよ、早く行こう」


 千穂の家の垣根の前を通ると、ジョナサンの鳴き声が聞こえた。声が聞こえるのはいつも通りなのだが、鳴き声が違った。いつもは嬉しそうに吠えてくるのに、今日は何だか怒っているみたいだ。不思議に思いながら門をくぐると、ジョナサンの声が一層大きくなった。夕闇の中で、ジョナサンは家屋に向かって吠えていた。里美たちの姿を認めると、しばらく吠えるのをやめて、目で何かを訴えたが、すぐにまた母屋に向かって吠え始めた。

 「ジョナサンがこんなに吠えるなんて、珍しいわね」

 「誰か来ているのかな?」

 里美は犬小屋の前を通り、玄関の前に辿り着くと、ベルを鳴らすこともなく、引き戸を開けた。カラカラと軽快な音をたてて、引き戸は滑るように開いた。

 「こんばんはー」

 里美は戸を開けると同時に呼びかけたが、返事は無かった。奥の台所から、何かを煮ている匂いが漂っているが、人が出て来る気配は無い。ノイズ混じりのラジオの声が切れ切れに聞こえてくる。

 「こんばんは! 誰かいませんか!?」

 里美は先ほどより大きな声でもう一度呼びかけると、左手の階段から、誰かが降りてくる足音が聞こえてきた。2階の暗がりから、腰を曲げた黒い影が姿を現す。里美は目を凝らした。

 「あら、里美ちゃんに香奈恵ちゃんでねぇの。よく来てくれだな」

 ハナエがゆっくりと、一段一段降りてくる。

 「おばあちゃん、久しぶり」

 香奈恵がハナエに挨拶をする。

 「最近あんまり来てねぇべ。寂しいがら、もっと遊びに来な」

 ハナエは笑いながらそう言うと、玄関のそばの明かりを付けた。

 「千穂の見舞いさ、来てくっちゃの?」

 「うん。それと、プリントを届けにきたの」

 「あら、いつもありがどね。千穂ー、里美ちゃんと香奈恵ちゃんが来てくっちゃど!」

 ハナエが2階に呼びかけると、千穂の返事がかすかに聞こえた。

 「里美ちゃんは、もう怪我は治ったのが?」

 「うん、私はもう平気だよ。それより、千穂の様子はどうなの?」

 「昨日青い顔して帰って来たがら、たまげたけど、今日病院に行って来たがら多分大丈夫だべ」

 「そうなんだ・・・思ったより悪くないみたいだね」

 里美はほっとして香奈恵に微笑みかけた。

 「おばあちゃん、腰の調子はどう? また湿布貼ってあげよっか?」

 「香奈恵ちゃんは優しいだな。でも、今はいらねぇべ」

 香奈恵はどういうわけか、お年寄りに取り入るのがうまい。ハナエが腰をさすっていると、2階からいいよ、という声が聞こえた。

 「そんじゃ、上がってきな」

 お邪魔します、と言うと里美と香奈恵は靴を脱いで階段を上った。どの家にも、独特な匂いがある。千穂の家は干した藁と線香を混ぜたような匂いがした。階段を登ってすぐ右手にある京子の部屋の前を通り、廊下を突き当たりまで進むと、クマのキャラクターが描かれたネームプレートのかかったドアの前に辿り着く。ドアをノックすると、入って、という声がした。


 ドアを開けると、千穂がパジャマの上にカーディガンを羽織り、ベッドの上に座っていた。

 「いらっしゃい。来てくれてありがとう」

 「千穂! 具合はどうなの?」

 里美は、部屋に入るなりベッドのそばに行った。

 「昨日は頭が割れるんじゃないかと思うぐらい痛かったけど、今日はもうだいぶ良くなったわ」

 「本当? 良かったー」

 里美は胸を撫で下ろした。

 「先生からプリントを預かって来たわよ。お見舞いのついでにね」

 香奈恵が里美の背後から話しかける。

 「ありがとー。とりあえず、座ってよ。その辺にあるクッションを使って」

 千穂は窓際においてあるクッションを指さした。

 「うん」

 里美が窓に近づき、クッションを拾い上げると、外から再び犬の鳴き声が聞こえて来た。窓下を覗き込むと、ジョナサンが大きな口を開けて、こちらに向かって吠えている。じゃれつくような吠え方ではなく、明らかに威嚇していた。ガラス越しに声が響く。

 「・・・うるさいわね」

 香奈恵が耳を押さえながら言った。

 「ジョナサン、家に入る前にも吠えてたけど、何かあったの?」

 「私もわからないけど、昨日から吠えてばかりなのよー。うるさくって、嫌になっちゃう。窓に近づかなければすぐに鳴きやむから、我慢してね」

 「う、うん」

 里美は背後が気になりながらも窓を離れ、クッションを絨毯の上に置いて座った。香奈恵も腰を下ろし、鞄からプリントを取り出す。

 「はい、これ、明日までに書いて来いって」

 香奈恵が、『学習時間に関するアンケート』と書かれたプリントを千穂に差し出した。

 「うん。わかったわ」

 「明日は学校に来れるの?」

 「多分、行けると思うわよ」

 「良かったー! 千穂がいないと淋しいよ」

 「私が休んでも、香奈恵がいるじゃない」

 「そうだけどさ・・・」

 里美は香奈恵を横目でじっと見た。

 「私じゃ不満だっていうの?」

 「私は、千穂の癒しが欲しいの! 香奈恵は最近冷たいしさ」

 「そんなつもりはないけど? まあ、昔優しくした覚えも無いけどね」

 「ほら、冷たいじゃない」

 里美はクッションを抱きかかえた。千穂は微笑みながら里美の様子を見ていた。


 「でも、本当に悪い病気じゃないみたいで良かったよ」

 「里美はネガティブに考え過ぎよ。やっぱり、風邪だったのかしら?」

 「そうみたい。薬をもらって飲んだら、熱も収まってきたもの」

 「だってさー、昨日、千穂が少し変だったから、心配だったんだよ」

 里美はクッションにあごを乗せながら話した。

 「えー、変って何がー?」

 「一昨日拾った隕石のこと、憶えてなかったんだもん。もう思い出した?」

 千穂は一瞬、きょとんとした顔をして、すぐに笑い出した。

 「里美ったら、またそんな冗談言ってー。金守山では何も見つからなかったじゃない」

 「え?」

 里美は笑顔が強張った。

 「違うよ、冗談じゃないよ。香奈恵も見たんだから、ね?」

 「ええ。一昨日の帰り道も、あんなに喜んでいたじゃない」

 「もー、香奈恵までやめてよー」

 千穂は笑いながら答えた。

 「本当に、憶えてないの?」

 「憶えてないも何も、そんな事はなかったんだから、忘れようがないじゃない」

 嘘をついているようには見えなかった。

 「・・・そうだ! 千穂、一昨日の夜に隕石がどうとかいうメールくれたよね? 私の携帯に残ってるよ」

 里美は抱えていたクッションを放り投げると、ポケットから携帯電話を取り出し、一昨日のメールを探して、千穂の前に突きつけた。

 「ほら、これを見てよ。隕石を拾って嬉しいって、千穂が書いたんだよ?」

 「私にも同じメールが来ていたわ」

 香奈恵も携帯を差し出す。

 「ええ? こんな細かいことまでして、私を騙したいの? 私、こんなメール出してないわよ」

 千穂は2人の携帯を見比べながら、困った顔をした。

 「私達が偽装してるわけじゃないよ。だいたい私、携帯の基本的な操作方法もよくわからないんだよ? そんな高度なことできるわけないじゃない」

 「それは威張れることじゃないと思うけど。こんなに絵文字を使うのは、千穂ぐらいでしょ?」

 「うん。よく出来てるね。私、確かにこの絵文字持ってるから。でも、前に2人へのメールで使ってるよね? それを使ったんでしょう?」

 「違うってば! そんな面倒なことしないよ!」

 「千穂、自分の携帯を見てみなさいよ。送信履歴に残っているはずよ」

 「あるわけないでしょう?」

 「いいから! 見るだけ見てよ!」

 里美が食い下がるので、千穂は渋々、枕元に置いた携帯を手に取った。千穂が操作するのを、里美が横から覗き込む。送信済みのメールを日付順にさかのぼって表示していった。

 「・・・ね? 無いでしょう?」

 一昨日の日付に、確かに里美達が受信したメールの履歴は無かった。

 「え? そんなはずはないよ。どうして?」

 「どうしてって私に言われても・・・。ねえ、この話はそろそろ終わりにしない? そのメールも里美達が作ったんでしょう?」

 「だから違うって! 隕石にひびが入ってるなんて、私達も知らなかったんだから、書けるわけが無いでしょう?」

 「言われてみれば、確かにそうね」

 香奈恵が感心したように同意する。

 「ねえ、よく思い出してみて。送信履歴も、千穂が消しちゃったんじゃないの?」

 「・・・2人とも、どうしちゃったの? 私だって隕石のことなんて知らないし、送信履歴も消してないわ!」

 千穂は少し怒ったように、語気を荒げた。里美と香奈恵は顔を見合わせる。


 「ねえ千穂、もしかして、何か隠してるの?」

 「何も隠してないわよ・・・。もういいでしょ? 隕石の話はおしまい。私だってそんなに簡単に騙されないわよ」

 「千穂、もう少し話を聞いて」

 香奈恵が立ち上がって、千穂の手を取った。

 「私達は、冗談でこんな事を言っているわけじゃないのよ。親友として、本当に心配しているからこそ言っているの。だから、千穂も正直に話して・・・本当に、石を拾ったことを憶えていないの?」

 千穂は、香奈恵の真剣な様子に少し驚いたようだった。

 「うん・・・知らないわ」

 千穂も真顔で答えた。

 「千穂、病院に行ったんだよね? 何か言われなかったの?」

 里美が横から話しかける。

 「風邪だろうって言われたわ」

 「それだけ? どこの病院に行ったの?」

 「榊原医院だけど」

 榊原医院は、近所で唯一の病院だ。個人病院で、規模も小さい。

 「あのさ・・・もっと大きな病院で精密検査を受けた方がいいと思う。明日、扇ノ宮市の総合病院に行きなよ」

 「え・・・大丈夫よ。あまり学校も休みたくないし」

 「千穂は記憶喪失になっているんだよ!」

 「そんな事ないわよ」

 「いいから! 検査だけでも受けてよ」

 「異常が無かったら、それでいいじゃない。私からもお願いするわ」

 「・・・」

 千穂は急に黙り込んだ。

 「私達の友情を信頼しているなら、行ってちょうだい」

 香奈恵が千穂の手を強く握る。

 「ね? お願い! 検査してもらおう? そうすればみんな安心できるんだし」

 「・・・さいな」

 千穂が俯きながら小声で囁いた。

 「え?」

 「うるさいな、って言ったんだよ」

 千穂が今度ははっきりした声で言った。

 「・・・千穂?」

 「大丈夫だって言っているだろう? そんなに僕を病人扱いしたいのかい?」

 千穂は香奈恵の手を振り払った。その顔は、今まで見たことのない冷たい表情をしていた。

 「そんなわけないじゃない。千穂が記憶を失くしているから、私達は心配で・・・」

 「記憶喪失だって? 僕は何も忘れてはいないよ。頭が変なのは君達の方じゃないかなぁ? さっきから、わけのわからないことばかり言って」

 千穂は嘲るように、口元に笑いを浮かべている。

 「・・・隕石のことを忘れていたじゃない。それに何なの、その変な喋り方は。何の真似かわからないけれど、真面目な話をしてるんだからやめなさいよ」

 突然の千穂の変貌に呆気に取られていた香奈恵が、何とか平静を保って言った。

 「隕石? ああ、金守山で拾ったあれのこと? 憶えてるよ。でも、家に帰ってよく見たら、ただの石ころだったから捨てたのさ。これで満足?」

 「それならそうと早く言いなさいよ! どうして知らないふりなんてしたのよ?」

 「2人の反応が間抜けで面白かったから、ついからかってみたくなったのさ」

 「なによそれ! こっちは真剣に心配したのよ!?」

 香奈恵は大声を出した。唇が震えている。

 「ねえ、千穂、嘘だよね? なんでそんなこと言うの? いつもなら絶対にそんな事言わないじゃない!」

 里美が2人の間に割って入る。

 「しつこいなあ。君は、千穂という人間をどれだけ知っているというんだい? ただ自分に都合のいいように解釈して、千穂はこういう人間だって決めつけているだけじゃないのかい?」

 「そんなこと・・・ないよ」

 里美は力無く言った。

 「あーあ、急に気分が悪くなっちゃったよ。君達、もう帰ってくれない?」

 「言われなくても帰るわよ! さよなら!」

 香奈恵は荒々しく鞄を掴むと、振り向かずに部屋から出て行った。

 「・・・千穂、また学校でね」

 里美も香奈恵の後を追った。部屋を出ると、外から再び犬の鳴き声が聞こえて来た。



 「千穂、帰る途中で香奈恵と里美に会ったけど、ここに来てたんでしょ?」

 京子の声で千穂は気が付いた。部屋の中に京子が立っている。

 「・・・うん。さっきまでこの部屋にいたわ」

 「そっかー、惜しかったな。私も久しぶりにもう少し話したかったんだけど」

 「そうね・・・。もう、帰っちゃったみたい」

 確かに、帰ったような気がするのだが、いつの間に帰ったんだっけ?

 「みたいって、またボケてんの? あれ・・・あんた、顔赤いよ。また熱が出たんじゃない?」

 京子は左手で自分の額を押さえ、右手を千穂の額に当てた。

 「うーん、熱があると言えばあるような気がするけど、よくわからないな。ちゃんと体温計で測りなよ」

 「うん・・・」

 「明日も具合が悪かったら、無理せずに休むんだよ」

 「多分、大丈夫だと思うわ」

 「そう? あ、そうだ、あたし、さっきゴミ袋を漁ってたんだけど・・・おばあちゃんにピアスを間違って捨てられちゃってさー。あんたの破った日記を見つけたよ。例の隕石も一緒にね」

 京子はいたずらっぽく笑うと、ポケットからくしゃくしゃに丸められた紙を取り出して、千穂に手渡した。

 「日記? 何のこと?」

 「もう、昨日、日記が破かれてるって騒いでたじゃない!」

 そうか。何者かに日記を破られていたんだっけ。皺だらけの紙を伸ばすと、中から小さな2つのかけらが出てきた。2つのかけらは、お椀のように真ん中が窪んでいた。合わせると、断面がピタリと一致する。外側は石のように見えたが、内側は中身を取り出したクルミのような、植物の殻を思わせる形状をしていた。

 「それ、あんたは石って言ってたけど、何かの木の実みたいね。割れちゃってるもん。中身は入ってないけど」

 千穂は紙切れに書かれた字を読んだ。間違いなく自分の字だ。日記には、金守山で隕石を拾ったこと、石を観察していたらひび割れを見つけたことが書かれていた。日記は、『石が中から割れてきているようだ』という記述で終わっていた。


 千穂は、突然、一昨日に起きた事を思い出した。今までどうして忘れていたのだろう。日記を書いていると、徐々にあの石が割れてきて、中から出て来たのは、尖端に鉤爪が付いたミミズのような、赤黒い奇妙な生き物だった。驚いていると、その生物は顔めがけて飛びかかってきて・・・そうだ、あれは耳の中に・・・!

 耳の奥におぞましい感触が蘇る。千穂は大声を上げて京子に助けを求めようとしたが、自分の意思とは裏腹に声が出て来なかった。身体の自由がきかない。

 「そうだね。一昨日は隕石だと早とちりしちゃったけれど、違うみたいだ」

 口が勝手に動いて、思ってもいない言葉を紡いでいく。

 「残念だったわね。でも、だからって捨てなくてもいいじゃない」

 「ぬか喜びさせられて悔しかったんだよ。わざわざゴミ袋から拾ってくれたのはありがたいけど、これはもういらないんだ」

 千穂の身体を動かす何者かは、日記を再び丸めると、ゴミ箱に放り投げた。

 「そっか。それじゃあ、もうすぐ夕飯ができるから、下りてきなよ」

 「うん、わかったよ、お姉ちゃん」

 京子は頭を掻きながら部屋を出て行く。待って! 行かないで! 千穂は声にならない叫びを上げたが、その言葉が京子に届くことはなかった。やがて意識が遠くなり、闇に飲み込まれて行った。


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