12
驚いて鏡から離れ、口元を手で押さえる。一体何が起こっているんだろう。勿論、笑っているつもりは無かったし、よだれが垂れている感覚もなかった。
見たこともない顔が映っていた。顔の造型は明らかに自分のものだが、今まで、鏡の前でどんなに表情を作ってみても、あんな悪意に満ちた顔は一度も見たことがない。そして、その悪意は明らかに自分に向けられていた。
「どうかしたが!?」
ハナエが台所から慌ててやって来た。
「か、顔が・・・」
口元を手で覆ったまま、千穂は声を出した。
「大丈夫か! 見せでみろ!」
ハナエは千穂の手を掴んで、顔から引き剥がした。
「あら!」
ハナエは目を丸くする。千穂は、瞬時に自分の顔に起きたことを色々想像して、恐ろしくなった。
「こだによだれ垂らして。べちょべちょでねえか」
紫色の割烹着の前ポケットからちり紙を取り出すと、千穂の口の周りを拭った。
「これでいいべ。脅かすでねぇど、よだれ出たぐらいで」
一度使ったちり紙を、またポケットにしまい込む。
「・・・え?」
「んじゃあ、飯の支度すっから、台所さ来い」
「お、おばあちゃん、私の顔、何か変じゃないかしら?」
「んー?」
ハナエは顔を近付ける。
「そんなことねぇど。いつも通りめんこいべ」
「え?」
千穂は眼鏡をかけ直すと、意を決してもう一度鏡の前に立った。鏡の中には、怯えた表情の、いつも通りの自分の顔が写っていた。
「あれ・・・」
「なんだ、何か気になんのが?」
「・・・ううん、何でもない。ちょっと見間違えただけだと思う」
「そうだか? んじゃ、早く飯にすっぺ」
千穂は口元をさすりながら、ハナエに続いて台所に向かった。
ハナエは、食欲が無いという千穂のために粥を作ってくれたが、やはり美味しそうには見えなかった。それでも少しでも食べようと思って、スプーンに一杯掬って口に運ぶ。何度も噛んで飲み込んだが、味がしない。塩味が足りないのかと思い、味噌を少し溶かして食べて見たが、相変わらず味がしなかった。熱で味覚が麻痺しているのだろうか。無理に何口か口の中に放り込んだが、ぐにゃぐにゃした感触が口の中に広がるだけだった。
半分ほど食べたところで、それ以上のどを通らなくなった。急に気分が悪くなってくる。その時、千穂は不意に国道脇で見た猫の死骸を思い出した。吐き気が込み上げ、流しに食べたものを全部吐き出す。固形物を吐き出した後も、吐き気は収まらなかった。
「どうした!? 大丈夫が?」
ハナエが背中をさする。
「急に気持ち悪くなっちゃって・・・。ごめんね、おばあちゃん」
「気にすんでねぇ。もう寝ろ」
目が覚めると、部屋の中は暗くなっていた。昼過ぎにベッドに入って以来、断続的に意識が遠のくが、深い眠りに落ちる前に意識が呼び起こされる。体が眠りにつくのを拒絶しているかのようだった。相変わらず頭痛が続いている。暗い天井を見つめていると、ドアをノックする音が聞こえた。
「千穂ー、入るよー?」
ドアを押し開けて、ブレザー姿の京子が顔を出す。額川高校の制服だ。廊下の明かりの影に隠れて、表情は見えない。
「お姉ちゃん・・・」
京子は部屋に入ると電灯の紐を引いて、明かりを着けた。黄色い光に目が眩む。京子はネクタイをだらしなく緩め、制服を着崩していた。
「あんた、今日学校早退したんだって? お母さんから聞いたよ」
「うん。頭が痛くて・・・」
千穂は体を起こそうとした。
「いいから、寝てな」
京子は手で制すると、千穂の机の椅子を引っ張り出して、背もたれ部分を前にして座った。
「風邪でも引いたの?」
「わからないけど、そうかもしれないわ。熱もあるし」
「あんた、昔からしょっちゅう熱出してたもんね。あたしよりよほど頭がいいから、風邪に好かれやすいのかな」
「そんな事ないよー。お姉ちゃん、色々私の知らないことを知ってるじゃない。おしゃれな洋服屋さんとか、町の噂話とか」
「あーいいよ、気使わなくて。だいたい、通知表比べたらわかるじゃん」
「本当だよー」
千穂は実際、自分と違って社交的で、授業では教えてくれないことをたくさん知っている京子を尊敬していた。
「はいはい、ありがとう」
京子は目をそらして、肩まで伸ばした髪をかき上げた。
「ところで、お母さんから聞いてこいって言われたんだけど、夕御飯食べられない? 今日はカレーだったよ」
「食欲があまり無いの。お昼も、全部吐いちゃったし」
「そうなの? あたしがお粥でも作ってあげよっか?」
「ごめん・・・昼もお粥だったんだけど、あまり食べたくないの」
「そっか。それじゃあ、何か他に食べたいもの無い?」
「うーん・・・」
うどん、おじや、茶碗蒸しなど、消化が良さそうなものを次々思い浮かべてみたが、どれも味気なく感じた。他にもハンバーグ、卵焼きなど色々考えてみたが、どれも口にしたいと思えない。何か食べられそうなものはないかと考えていると、また猫の死骸を思い出した。何故こんな時に思い出すのだろう。忘れたいのに、頭から離れない。
「あんた、顔が青いよ。何でもいいから食べなきゃ。プリンとか、ヨーグルトぐらいなら食べられるでしょ? 買ってくるから待ってなさい!」
京子は20分ほどで戻って来た。一番近い商店まで、自転車で10分ぐらいかかるから、かなり急いでくれたらしい。息を切らして、額に汗をかいていた。
ビニール袋から大きなプリンを取り出し、千穂にスプーンと一緒に手渡した。千穂は相変わらず食欲が無かったが、口に入れてみると思ったより美味しく感じられて、一気に全部平らげた。
「食べたら薬飲みなよ? 市販の風邪薬しかないけど」
「うん・・・」
「朝になっても調子が悪かったら、病院に行きな」
「うん。いろいろありがとう、お姉ちゃん」
「気にすんなって。あたしのせいで風邪引いたのかもしれないしさー」
京子は頭を掻いた。
「どうして?」
「だって、あたしの話を真に受けて昨日、金守山に行ったんだろ? 寒かったし、そのせいで風邪引いたのかもしれないじゃん」
「ううん、お姉ちゃんのせいじゃないよ。私が行きたくて行ったんだから」
「あんたはいい子だねぇ・・・。ところで、昨日自慢してた隕石はどうした?」
「隕石? ・・・今日、里美にも言われたけど、私、隕石なんて持っていたかしら?」
「え? 思いっきり持ってたわよ。あたしにも見せたじゃない」
「そうなのかしら? 私、全然憶えてなくて」
「あんた、とぼけてんの?」
「そういうわけじゃないけど・・・」
「もう・・・この辺に置いてたじゃない」
京子は千穂の机を漁り始めた。机の上を探し、無いと見るや、次々と引き出しを開けて、引き出しの中も探して行く。
「やめてよー、お姉ちゃん」
「大丈夫よ、見たらまずそうなものがあったら、私の心の中にしまっといてあげる」
京子は悪戯っぽく笑った。手を休めることは無い。
「あれー? 無いなー」
机の引出しを残らず引っ張り出したが、目当てのものは見つからなかった。
「代わりに日記は見つけたけどね」
京子は表紙にゴテゴテとカラフルな装飾がついた日記帳を取り出した。
「ちょっとー、それは本当に怒るよ!」
千穂はベッドから飛び出すと京子の手から日記帳を引ったくった。
「冗談だよ、病人は寝てなきゃだめじゃん」
「もう」
千穂は日記を持ったままベッドに戻った。そういえば、日記に昨日の事は何か書いていないか。後ろから順にページをめくって、昨日の日記を探したが、昨日の日付のページが破り取られていた。
「そんな・・・どうして?」
誰が破いたのだろう? 日記を知っているのは自分しかいない。勿論、家族ならば千穂がいない間に部屋に入って、簡単に見つけられるものではあるが、わざわざそんな手間をかけて、最後のページだけ切り取るなんてことをするだろうか。
「どうしたのよ?」
「日記が破られているの」
「え、 何で? あんたが寝ぼけて破いちゃったんじゃないの?」
「そんな事しないわよー」
「でもさ、あんた以外に、あんたが日記つけてること知ってる人間はいないじゃん? 私は今知ったけどさー」
「それはそうだけど・・・」
「・・・あんた、大丈夫? いつもボケてるとは思ってたけど、今日はちょっとおかしいよ? 頭ぶつけたりしてない?」
「してないわ」
「やっぱり、明日も休んだ方がいいよ。熱のせいで記憶喪失になることもあるらしいし」
「そんな・・・」
京子はプリンの空容器をビニール袋に入れ、口を縛った。
「あら、窓が空いてるじゃん。閉めるわよ」
京子が窓から顔を出すと、ジョナサンの鳴き声が聞こえた。千穂の部屋からは、ちょうど犬小屋が見える。
「おーい、もう夜だからあんまり吠えるなよ! 」
窓を閉めて、カーテンをかけてもジョナサンの声は止まなかった。
「そう言えば、ジョナサンも今日は何か変だったね。やたら吠えるし、何か怖がっているみたい」
「お姉ちゃん・・・私も怖いよ」
「怖いって、何が?」
「自分でもよくわからないけど・・・何か変なの」
「どうしたんだよ。風邪で気が弱くなってんじゃないのか」
京子は千穂の頭をぐしゃぐしゃとなでまわした。
「一緒にいてやりたいけど、最近はあたしも勉強しなきゃいけないからさ・・・すぐ隣の部屋にいるから、何かあったら声かけてよ、すぐに来るから。それじゃ、もう寝な」
「う、うん」
京子が出て行って、千穂は1人取り残された。日記を破ったのが自分だなんて、何度思い返しても、そんな事をした記憶はない。だが、他の人間がわざわざ破り取る合理的な理由も浮かばなかった。千穂は色々と考えてみたが、再び頭痛がひどくなってきたので、日記を枕元に置いて布団に潜り込んだ。
身体はだるいのに、昼間に寝ていたせいか、なかなか眠りにつけない。何度も寝返りをうって、睡魔が訪れるのを待った。プリンしか食べていないので、お腹が物足りない。でも、何も食べたいと思えないのだ。・・・いや、正確に言うと飢えているのだが、体が求めている食べ物は、おそらく人間の食べ物ではない。人間の? おかしい。私は人間ではないのか。意識が混濁してきた。
いつの間にか、空を飛んでいる。周りを見ると、カラスがたくさん飛んでいた。どうやら自分もカラスになっているらしい。中学校の上から、金守山の方へ飛んで行く。眼下の建物が、ミニチュアのように見えた。大きなケヤキの木が見えたので、枝にとまって羽を休めた。ケヤキの木には、鈴なりにカラスがとまっていた。隣のカラスが鳴き出したので、自分も合わせて鳴く。それにつられて、他のカラスも次々に鳴き始める。なかなか気分がいい。喉が痛くなるまで鳴き続けた。そのうち、一番上の枝にいた1羽が飛び立つと、他のカラスも一斉に飛び立ち始めた。自分も飛び立ち、金守山に向かう。
途中で、国道が見えて来た。自動車が川のように道路を流れている。高度を下げると、排気ガスの嫌な匂いがする。ふと前をみると、黒猫が道路の端を歩いていた。少し立ち止まる。道路を渡ろうとしているのだ。次の瞬間、ためらいなく一気に走り出した。手前の車線は無事に通り過ぎたが、反対車線をもう少しで渡り切るという所で、白い乗用車に撥ね飛ばされた。黒猫は道路の端で動かなくなる。一度上を通り過ぎ、猫が完全に動かないのを確認すると、引き返した。近くを飛んでいたもう一羽のカラスも付いて来る。近付くと血の匂いがする。ごちそうの匂いだ。猫は白目を剥いて、舌を垂らしている。頭が割れて、アスファルトに血が流れ出していた。仲間のカラスが舞い降りると、猫の目玉をついばんだ。自分は一瞬躊躇するが、同じように食べ始める。目玉を食べ終わると、割れた頭からこぼれた脳をついばんだ。おいしい! 私が食べたいものはこれだったのか。オイシイ、オイシイ・・・。お腹がいっぱいになるまで、夢中で食べ続けた。
気が付くと、パジャマ姿のままで、いつの間にか外に立っていた。靴は履いていない。足の裏に、アスファルトの冷たいゴツゴツした感触を感じる。前から強烈な光が迫っては、後ろに通り過ぎて行った。ここは・・・国道? 足元に、黒いものが転がっていた。それが何なのか、千穂は一瞬で理解した。大きな輸送トラックが前から迫り、ボロボロになった猫の死骸を照らし出した。




