1
午後2時前、昼食後の授業に集中できる生徒は少ない。もちろん、城崎里美も例外ではなかった。古典の授業は特に眠い。古典が好きな人には申し訳ないけど。里美は、禿げ上がった白髪の教師が、黒板に意味不明な文字を書きつらねていくのを、焦点の定まらない視線で追っていた。ダメだ、もう限界だ。このまま倒れたらすごく気持ちいいだろうなと思いながら、腕の力で上半身を必死に支えていた。
ガタン、と急に大きな音を立てて隣の席の男子が立ち上がる。何事かと驚いたが、男子生徒はどうやら教師に指名されたようで、教科書をボソボソと読み上げ始める。どこを読んでいるのかわからない。自分に当たったらまずいな、と思ったけれど、この先生は出席番号が日付の生徒を指名するから、次は自分に当たることはないだろうという事に思い至ると、再び意識が遠のいた。寝ちゃいけないのはわかっているのだが、体が言うことを聞かない。小学生の頃は授業中でも全然眠くならなかったのに、中学二年生になった頃から、午後の授業は8割方眠くなった。事故に遭ってからはなおさらだ。医者からは奇跡的に外傷が少ないと言われ、割とすぐに退院させられたけど、実は脳に損傷を受けているんじゃないだろうか、と心配になる。が、やっぱり心配より眠気が勝つ。完全に意識を失い、気が付くと終了のチャイムが鳴っていた。
「里美、あんた思いっきり寝てたでしょ」
香奈恵が後ろの席から笑みを浮かべて話しかけた。
「寝てないよ・・・」
「嘘つくんじゃないわよ」
「やっぱりわかった?」
「そりゃあわかるわ。あれだけ体が揺れてれば」
「小山田先生、気がついてたかな」
「いくらお爺ちゃんだからって気がつかないわけないでしょ」
里美は、小山田のことが嫌いな訳ではないので、申し訳ない気持ちになった。
「明日は寝ない。絶対寝ないよ」
「そう言いながら、最近授業中寝てばかりじゃない。病み上がりだからって、自分を甘やかしちゃダメよ? 来年は受験なんだから」
「香奈恵は厳しいなあ。教育ママみたい」
「はいはい、次、体育だから急がないと間に合わないよ?」
「体育は好きだけど、100メートル走はつまんないな」
体操着に着替えた里美は、香奈恵と一緒にグラウンドに向かっていた。
香奈恵は長い髪を後ろで束ねている。里美は結わえるほど長くはないが、ピンで前髪を止めていた。
「里美はいいじゃない、それなりに足が速いんだから」
「そうでもないよ。香奈恵が遅すぎるんだよ」
「さらりとひどい事言わないで・・・」
香奈恵の足取りは重い。身長は里美より10センチ近く高く、やせているため、足が速そうに見えるが、実際のところ香奈恵はかなりの運動音痴だった。
「あー、短距離走ってほんっとに意味わかんない。屈辱以外の何物でもないわ。みんなで手を繋いでゴールすればいいのに」
「それじゃあタイム測れないよ」
「いいじゃない、日常生活で走る必要なんてほとんどないわ。遠くまで行かなくちゃならないのなら、自転車も車も電車もあるし、そちらの方がよほど速いわよ。現代人はすでにスポーツという軛から解放されているのよ。それなのに喜んでやってる奴らは、よほど自己顕示欲が強いナルシストか、身体を痛めつけることで快感を得ているマゾヒストだけよ」
香奈恵は自分が気に入らない事については、結構しつこい。まあ、ほとんど言い訳なのだが。
「おーい、里美!」
後ろから千穂が背中を叩いてきた。癖っ毛の長い髪と、縁の丸い眼鏡が愛嬌を感じさせる。隣にはいつも通り、園子が立っていた。
「痛いってば」
「あはは、ごめんごめん。里美をみるとつい触りたくなるんだよね」
千穂が里美の背中をグシャグシャとさする」
「里美、もう体は大丈夫なの?」
園子が上体を折り曲げて話し掛ける。いつ見ても身長が高い。
「うん、全然平気だよ。あまり大きな怪我してなかったみたいだし。もう走っても何ともないよ」
里美は約1ヶ月前に交通事故に遭っていた。夕方、コンビニへノートと、ついでに肉まんも買いに行こうと、この地域では数少ない、交通量の多い国道を、横断歩道まで待たずに最短経路で横断しようとしたところ、急いでいた運送トラックに衝突したのだ。病院のベッドで目を覚ましたのは、1日後のことだった。幸い、大きな外傷はなく、内臓や脳にも問題は見られなかったため、経過を見て1週間で退院することができた。
なぜその時注意を怠っていたのかと聞かれると、里美は大きなヒトデみたいなものを見たような気がする、と答えたのだが、他に目撃者がいなかったので、事故で記憶が混濁している可能性が高いと言われ、里美もそうなのかもしれないと思えてきて、きっと考え事でもしていたのだろうということになった。
「本当? 本当に大丈夫なの?」
心配そうな顔を園子は近付けてきた。
「そこまで言われると、私も心配になって来るんだけど」
「大丈夫よ、最近、寝てばかりだし、ごはんも山ほど食べてるんだから。昨日も帰りにバターロール一袋食べ切ってたし」
「ちょっと香奈恵・・・」
「でも全然太ってないじゃん。なんでー?」
「えーとほら、私は今、成長期だから」
「その割には身長はあまり伸びてないみたいだけど。体重が増えたんじゃないの?」
「う。確かに最近ちょっと増えたかもしれないけど」
「でも、トラックに轢かれたって聞いた時は本当に驚いたわよ」
「香奈恵、相当慌ててたよね? 次の日、先生から里美の事聞いた時、そのまま倒れるんじゃないかと思うぐらい顔が真っ白になってたし、それから3日間ずっと挙動不審だったもん」
「そりゃあ、付き合いが長いんだから・・・呆気なく死なれちゃ困るのよ。でも、病院に行ったら、いつも通り口を開けてマンガ読んでるんだから、脱力したわ」
「あの時は、たまたま調子が良くなって、お父さんがマンガを差し入れてくれたとこだったんだよ」
里美は何故か顔を赤くして弁解する。
「そんなこと言っても、香奈恵は一番最初にお見舞いに行ったんだから、やっぱり仲いいよねー」
園子も無言で何度も頷く。
「えーと・・・心配かけてごめんね?」
「それはもういいってば」
授業開始のチャイムが鳴り、4人は校庭を走って集合場所に向かった。田舎の学校の校庭は無駄に広い。
ホイッスルと同時に、前屈みの姿勢から4人ずつスタートし、体育座りで順番を待つ里美たちの前を駆け抜けて行く。静かに他の生徒が走るのを見学しろ、と教師に言われたものの、もうそこかしこでおしゃべりの声が聞こえる。遠く校庭の反対側では、男子生徒がソフトボールをしていて、時折、金属バットの甲高い音が聞こえた。
「短距離走って、地味だよねー」
千穂がのんびりした声で、前を向いたまま横に座っている里美に話しかけた。
「うん、確かに。私も好きじゃないな」
里美も前を見たまま答えた。
「え? 私は別に嫌いじゃないよ。むしろ好きだよ」
「そうなの? どうして?」
「だって、単純でいいじゃない、走るだけだよ。私、バレーボールとかってやることが多いから苦手なのよねー。ボールを上げるでしょ、それから打つでしょ、で、相手のチームが返して来たら、落ちて来るところに走るでしょ、それから・・・」
「それは細かく考えすぎだよ。 私はバレーボールの方がよほどいいけど」
その時、園子がスタート位置に立つのが見えた。
「園子、頑張ってー!」
千穂が手を振ると、園子は無言で頷いた。
「位置について。よーい・・・」
ホイッスルと同時に、園子は他の生徒から飛び出し、ぐんぐん間隔を広げていった。園子は、香奈恵より身長が高く、香奈恵と違ってその運動能力は見かけ倒しではない。最後まで失速せずに100メートルを走り抜けた。
「園子、かっこいー」
「すごいね、さすがバスケ部のエース」
園子は、全く疲れた表情を見せずに、こちらに戻って来る。園子の後ろからキン、と音がして、ソフトボールが高く打ち上げられるのが見えた。遠くまで飛びそうに思ったけれど、意外と飛距離は伸びないようで、レフトの角刈りの生徒のグローブに吸い込まれた。
「そういえば昨日、UFOがこの近くに落ちたんだって」
千穂が唐突に言った。
「え・・・また? ガセじゃないの?」
「今回の話は信ぴょう性があるのー。月原市の方から一直線に落ちて来た流れ星が、急にV字を描いて登り始めて、三崎町のあたりでまた落ち始めて、ジグザグに金守山に落ちて行ったの」
「千穂が見たの?」
「ううん。お姉ちゃん」
「京子ちゃんが?」
「お姉ちゃんが、友達の友達から聞いたんだって」
「それ、全然信ぴょう性ないよ・・・」
里美は肩を落とした。
「そんなことないよ。今朝、教室で男子もその話してたし。勇太くん達、放課後金守山に探しに行くって」
「えー? 子供っぽいなー」
香奈恵がスタート位置についた。遠目で見ても顔色が悪い。千穂が手を振るが、香奈恵は少しこちらを見ただけだった。ホイッスルと同時に4人が駆け出すと、香奈恵は手前の3人に見る見る引き離されていった。一生懸命走っているのはわかるのだが、フォームがおかしく、なかなか前に進まない。結局、1着の生徒がゴールしてから5秒以上遅れて、香奈恵はようやくゴールした。その場で、肩で大きく呼吸をしている。
「里美、私達もUFOを探しに行こうよ」
「え、なんで?」
千穂はよく突拍子もないことを言う。
「なんでって、それは宇宙人に会ってみたいからに決まってるじゃない!」
「宇宙人がこんな何もない町に来るわけないよ・・・。それに、万が一やって来たとしても、友好的とは限らないし、地球を侵略しに来た危ない奴かもしれないでしょ」
「大丈夫よ、話し合えばきっと友達になれるわ!」
「いや、話そうにも言葉が通じないと思うんだけど」
「宇宙人は地球よりはるかに進んだテクノロジーを持っているから、通訳装置ぐらい絶対に持っているわよ。そして、私達は地球外生命体とコンタクトを取った女子中学生として、世界中で有名になるわ!」
里美が呆れていると、香奈恵が今にも倒れそうな顔で戻って来た。
「香奈恵、お疲れ様」
「・・・じゃ・・・わよ」
「え? 」
「冗談じゃ、ないわよ・・・。どうせ、皆で私の間抜けな走りを見て、笑ってたんでしょう」
「被害妄想強すぎだよ、香奈恵。私達が香奈恵の一生懸命な姿を笑うわけないじゃない」
「その割には口元がにやけているように様に見えるけど?」
「違う違う、千穂と話してたからだよ」
「里美、何か付いてるよ?」
千穂が身体を傾けて里美の靴に顔を近づける。
「え、なに?」
千穂の指差す先をみると、里美の左の運動靴の内側を、小さな蜘蛛が歩いていた。
「やだっ!」
里美は勢いよく立ち上がり、空中を何度も蹴る要領で足を振り回し、蜘蛛がいなくなったのを確認すると、千穂の陰に隠れた。
「あれー、どこに行っちゃったかなー?」
千穂はキョロキョロと辺りを探し回っている。
「そういえば、里美は蜘蛛が嫌いだったわね」
ようやく呼吸が整った香奈恵が、ニヤニヤしながら言った。
「どこ? いなくなった?」
「里美ー、次は私達の番だよ」
「う、うん」
里美は香奈恵と一緒にスタート位置に向かった。園子が手を振っている。里美は気を取り直し、園子に手を振り返した。それからスターティングブロックの位置を確認しようと屈み込むと・・・ふくらはぎの裏をさっきの蜘蛛がまた歩いていた。
悲鳴を上げて、里美が足をブンブン振ると、今度こそ蜘蛛は飛んで行った。
「どうした、早く位置につかんか」
体育教師の猪俣に急かされ、里美はブロックに足を付け、前屈みの姿勢をとった。隣では千穂が笑っている。
「位置について、よーい・・・」
走る前から心臓がドキドキしている。ホイッスルと同時に、里美は駆け出した。いいスタートだ。隣の千穂は視界に入らない。千穂はトロそうに見えて案外足が早いので、負けるんじゃないかと思っていたが、今回は勝てそうだ。いや、負ける気がしない。走るたびに加速している気がする。もっと速く、もっと速く・・・。気が付くと、ゴールを通り過ぎていた。
振り返ると、遥か後ろを千穂が走っている。
「えっ?」
ゴールでストップウォッチを持っていた長尾がマジマジと計器をみている。
「ちょっと何? 操作ミスったかしら?」
そこへ、千穂を先頭に他の生徒が続々ゴールして来た。
「あーっ、待って待って」
長尾がストップウォッチをカチャカチャいじっていた。
「里美、すごい速いじゃない・・・一体どうしたのー?」
千穂が呼吸を整えながら言った。
「速いなんてもんじゃなかったわよ、アレは・・・。タイムは?」
一緒に走っていた岡本が真剣な顔をして言った。自分でも実感があったが、そんなに速かったのか。里美はツバを飲み込んで長尾を見た。
「ご、ごめんなさい、何か操作間違えたみたい・・・記録を消しちゃった」
長尾が泣きそうな声を上げた。
「えー!?」
走っていた4人が全員声を上げた。
「なにやってんのよ、もう!」
「ごめんなさい。手が滑ったっていうか・・・」
「どうしたー?」
ずっと男子のソフトボールを観戦していた猪俣がやって来た。
「長尾さんが、タイム測るのを失敗しちゃったんです」
「すみませんっ」
長尾が深々と頭を下げる。
「そうかー。それじゃあ、仕方ないな」
猪俣は日焼けした顔に白い歯をむきだして笑った。
「もう1回走れ!」
「えー!? 嫌なんですけどー」
岡本が文句を言った。
「人間誰にも間違いはある。 それにやらないとお前らの記録なしになるぞ」
「わーっかりましたよ、もう」
トボトボと4人でスタート位置に向かって歩き始める。。
「残念だったねー、里美」
「うん。でも、しょうがないよ」
「今度は負けないよー」
「千穂、あんたねー、さっきの見てたら、とても里美に勝てるわけないでしょ」
岡本が呆れた声で言った。
「なんだー? 城崎はそんなに速かったのか?」
「先生見てなかったんですか」
「ちょうど2アウト満塁で、長谷川がバッターでな」
「先生、ちゃんと女子の体育を見ててくださいよ」
「おお、すまんすまん」
里美達のグループは、その後もう一度100メートルを走ったが、他のメンバーの期待をよそに、里美は僅差で千穂に負けた。その後、もう一度タイムを測ったが、やはり里美は千穂より遅かった。
「あー、もう、悔しいなぁ」
「えへへ、2回とも私の勝ちだね」
「ちょっと、最初の勢いはなんだったのよ」
岡本が納得がいかないという顔で言った。
「さっきは調子が良かったのにな」
「いや、調子とかいうレベルじゃないわよ」
授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、里美と千穂は、香奈恵と園子と合流して校舎に向かった。
岡本は、長尾と一緒に教室に帰る。
「良子ちゃん、さっきはほんとにごめんね」
長尾が岡本に上目遣いで謝る。
「もういいって。あんた機械オンチだもんね」
「ゴメン・・・」
「だーかーら、もういいって」
岡本は思ったことをストレートに口にするが、意外と長尾と仲が良い。
「ボタン押し間違えたの?」
「押すのが遅かったのかな。よくわかんない。城崎さんのタイム、9秒切ってたんだもの」
「うわ、いくらなんでもそれはないわ。世界記録じゃん」
「そうだよね・・・」