Million Dollar Baby
「あわ……あわわ……」
恐怖によって狼狽する学人、数時間前に常識とは逸脱した惨劇を目にしたとはいえ、それでも周りに人がいた。
周りに煽られて恐慌状態に陥るという事もままあるが、学人はそのケースではなかった。
周囲の状況に対して適切に対応できるという学人の才は、あの時点においては、自身に対して冷静さを与え、周囲の状況を冷静に観察する事さえできたのである。
しかし、今の現状は違う。
体育館での事件は、常識の外の死を見せられてという形である。
目の前で起きている、襲い来る常識の外の光景は、まさに学人達に牙を剥き。
死を見せるどころか、死が形をなして飲み込もうというのである。
異常事態に対して適切に、冷静に対応できる才があるからこそ必要以上に恐怖してしまう。
恐怖は身を縛り、本来ならば当然である逃げるという選択への足枷となる。
既に人ではない、その形容し難い人影はその一瞬の間を見逃さずに学人に襲いかかる。
そのタイムラグは致命的だった。
平均的な高校生と比較するならば、高い運動力を持っていると筆舌するに易い学人の反射神経ならば回避する事も可能であったその飛びかかりに学人は対応できなかった。
一度、組み付かれてしまっては、仮にこの怪物達の筋力が人とそう変わらないにしても逃げられる事はできない。
だが、それはこの場にいるのが学人だけの場合である。
怪物達に知能があるのかは定かではないが、あったとしてもまずは男性である学人を取り押さえようとするだろう。
そもそも、学人のかろうじて行った咄嗟の行動は庇うように一歩前に立つという事だったのだから、怪物達に選択の余地は無かった。
だからこその進退窮まるこの状況、意図せず悪手が重なったこの命運尽きたこの惨状。
それは桐子が一般的な女子であり、何も行動ができない場合である。
「シィッ!!」
流れるような足さばきで学人の脇を擦りぬけた桐子の右ストレートが怪物の顔面を捉えた。
その一撃は実にスピーディーに、加えて的確に怪物の顎を居抜き、ダウンを奪う。
単純に、警戒も無く走ってきたからこそ、カウンター気味に入ったのが良かったのだろう、しかし大柄の男の体格を考えると、体重差のために脳を揺らすまでには至らなかった。
それを不幸と嘆くか、それでも怪物の脳構造が人と同じだった点を幸運と呼ぶかは桐子の判断に委ねられるところである。
それでも彼女の勇気と胆力が勝ち取り、繋げたこの局面をうん、不運という陳腐な表現で片付けるのは無粋であろう。
恐怖がないのか、それともやはり判断力が無いのか、後ろの男は考え無しに桐子に走りより、組み付こうと腕を伸ばす。
その動きはとりたてて緩慢というわけではなかったが、小柄で俊敏な桐子はその腕をかいくぐりボディーに二発拳を叩き込む。
体格の差は歴然であったが、確かな反撃を受けたという事実によって、やっと怪物は勢いを止め、様子を見るように桐子の観察を始めた。
「す、すげぇ……倒しちまった!」
怪物を足止めしたという事実と、あまつさえ一匹を地に這い蹲らせたという事実が学人を恐慌状態から復帰させる。
怪物という見た目のインパクトに翻弄されたものの、自分よりも体格が二回りは小さい桐子が倒したという事実が彼の恐怖心を払拭していた。
学人は熱をあげるが、桐子本人はそうではない。
現状の戦力差を誤認せずに分析し、勢いを削いだとはいえ、この場から離れるべくじりじりと距離をおく。
体を半身にし、敵に背をみせるような弱腰の構えがその証拠であった。
「倒してない、転ばせただけ。走れるの!?」
桐子の至極当然な判断に学人の高まった感情は急速に冷え込む。
普通に考えれば、小柄な女子が多少は格闘技を身につけたとはいえ、大人の男二人を相手取って完全に勝利を収める事などできはしないのだ。
空気を読む特技がここに来て本領を発揮するように、学人が激を飛ばした。
「逃げるぞ!」
スリップとはいえ、多少なりともダメージはあったのだろう。倒れた方はまだ起き上がる気配を見せていない。
一匹は様子を見ているだけ、ここで二人で逃げれば最悪の場合でもどちらかは逃げ切れる。
だが、その判断は警戒していたもう一匹にある思考を連想させた。
逃げるという事は、自分の方が優位であると。
野犬といった類を相手に逃げるという事は、その意識を相手に与えてしまう事になり、執拗に追ってくる。
怪物と化し、人としての理知的な判断ができないからこそ、その不用意ともとれる判断に行き着き。
その判断は狩るという事を前提としたこの状況、牙を持った怪物と牙を持たない人間という縮図、野生の世界に十分置き換えらるこの現状ではおおいにして正しい。
が、それでも怪物は判断を誤った。
逃げの姿勢を見せている桐子、逃げようとする学人に気を取られてしまった。
牙を持たない学人と同じように、目の前で仲間を倒して見せた桐子も同じように考えてしまったのだ。
それもまた獣特有の判断。
逃げるという事しか考えなかった学人とは違い、桐子は逃げるだけでなく狩るという事もまた選択肢に入っていたのだ。
さらに、人は牙を持たなくても、牙より鋭い刃を持って武装する。
驚きはしたものの、さして威力のなかった桐子のボディーブロー。
その攻撃が鋭い痛みを伴って怪物の腹部に突き刺さった。
体格が小さいからこそ、小回りの利くその拳は怪物が痛みという異常を感知するあいだにもう一発その鋭利な一撃を叩き込んだ。
桐子は半身になった怪物の視界の外で携行していた武器を握り込んでいたのである。
その事実もまた、一般的な考えの外であるのに間違いはないが、怪物でなく人であるならば目の前の敵をもう少し警戒できたはずなのだ。
相手もまた、狩るという選択肢を持っているかもしれないと想像できたはずなのだ。
舞い散る自身の鮮血を呆けた視線で眺めながら、その視界に桐子の拳が映る。
その拳に握りこまれたそれは、プッシュダガーという刺突・頸部切断用に作られた対人殺傷用の暗器なのでる。
当然、怪物は目にした事も知識さえもない。怪物でなくても普通に生活をしていく上ではお目にかかる事もないだろう。
その証拠に逃げようとしていた学人でさえ目の前の光景を信じられないといった様子で眺めていた。
その中で刃渡り五センチ弱の牙は、雀蜂のように対象を無効化するべく三度目の刺突を完了させていた。
フック気味に喉に突き立てられた一撃は、さしもの怪物といえど絶命させるには十分だった。
かくて怪物は、安易な判断が自らの死を招いたと認識する前に崩れ落ちた。
同時に、桐子が踵を返して走り出す。
「何やってんの、逃げるんだよ!!」
「お、おう!!」
思いもよらない反撃を受けるも、転んでいた怪物がやっと立ち上がり二人を追うべく走り出そうとする。
その行動を、怪物を釣れていた女が制止した。
女の口元は笑顔に歪んでいたのだった。




