毒の花はただそこに咲いている
夜の帳が下りた「恵みの家」の食堂には、冷たい静寂が澱んでいた。天井の低い白熱灯が、微かに揺れる埃を照らし出している。
20年前の戦禍の傷痕が未だに残るこの国で、経営難に喘ぐ孤児院の院長室で事件は起きた。老いた院長は冷たい床の上で息絶え、その周囲には隠しきれない澱のような憎悪の気配が漂っている。
捜査官の二人は、重い足取りでテーブルを挟んで座っていた。
「リン先輩、しっかりしてください。まだ始まったばかりです」
アヤメは明るさを装うように声を張り上げたが、その瞳の奥には深い憂いが宿っていた。彼女は、目の前で項垂れる四〇歳の男――リンドウの背中を見つめている。真面目すぎるがゆえに抱え込んだ旧き記憶と、目の前の惨劇が、彼の心をすり潰しているのを知っていたからだ。
リンドウは顔を上げず、ただテーブルに置いた手を見つめたまま呟いた。
「……アヤメ。ここは、俺が幼い頃に友人と過ごした場所だ。あいつは、もしかしたら院長に……いや、何でもない」
言葉を濁したリンドウの表情には、事件の真相に到底たどり着けないほどの疲弊と、子供たちを気遣う痛切な優しさが滲んでいた。アヤメはそんな先輩の力になりたいと強く願いながらも、すでにこの事件の決定的な矛盾と、冷酷な真実に気づき始めていた。彼女の脳裏には、先ほどから微かに香る、甘く危険な花の匂いがこびりついて離れない。すぐ目の前の闇に潜んでいるのだ。
「――では、最初の証人に話を聞こう」
リンドウは無理やり己を奮い立たせ、震える声で告げた。
部屋の隅の暗がりから、十七歳の少女が静かに一歩を踏み出す。ハナニラと呼ばれたその少女は、濡れたような黒髪を揺らし、どこか儚げな眼差しを二人に向けた。誰もが彼女を、か弱く優しい孤児だと信じて疑わない。ハナニラは静かにスカートの裾を握りしめ、微塵の嘘もない澄んだ声で、院長が息を引き取る直前の様子を語り始めた。
薄暗い食堂の片隅で、ハナニラは冷え切った紅茶の入ったマグカップを両手で包み込んでいた。十七歳の少女の指先は、戦火の記憶を孕む石造りの壁よりもなお冷たかった。リンドウは彼女の表情を観察するように目を細め、アヤメは手元のノートにペン先を滑らせる。全員が嘘をつかない。その誓いが、かえってこの事件を底知れない闇へと沈めていた。
「昨日の朝から今まで、一度も、私は院長室へ足を踏み入れていません。あのお部屋の扉を開けたのは、血の匂いに気づいて……今夜、私が初めてです」
ハナニラの声は鈴を転がすように澄み渡り、そこには微塵の偽りも感じられなかった。彼女は事実を述べたのだ。前日から事件の発覚に至るまで、院長と直接顔を合わせることはなかったと。少女の瞳は濁りなく、リンドウの疲弊しきった心に突き刺さるような純粋さを湛えていた。
「……それじゃあ、あなたが冷たい床の上の院長を見つけた時、他に誰かいたかい?」
リンドウが嗄れた声で問い質す。ハナニラはわずかに睫毛を伏せ、淡々と記憶をたぐり寄せた。
「私が叫び声をあげてしまったから……すぐに、ピオニーとエリンが駆けつけてきました。あの子たちは、震えながら部屋の隙間から中を覗いていたわ。私が『入っちゃダメ』って言ったのに、エリンが怖がってピオニーの袖を引いて……。あの小さな兄妹には、あまりにも残酷な光景でした」
その言葉にも、嘘は混じっていなかった。彼女が見たのは、確かに兄妹の怯える姿であり、そこで起きた現実だった。ハナニラはマグカップに目を落としたまま、静かに、しかし澱みのない熱を帯びた声で付け加える。
「私は……院長を心から愛していました。経営が苦しくて、あの人が夜遅くまで帳簿を睨みながら私たちを養おうと必死だったことを、知っているから。憎むような理由なんて、どこにもありません」
愛していたという言葉さえも、少女の心においては真実だった。リンドウは息を呑み、アヤメは動かしていたペンをぴたりと止めた。憎むような理由なんて無いなら。老いた院長の胸に突き立てられた刃は、誰の手によって導かれたものなのか。外から吹き抜ける夜風が、食堂の窓をガタガタと鳴らした。
薄暗い食堂の冷たい空気が、ハナニラの静かな告白の余韻をゆっくりと飲み込んでいく。リンドウはこめかみを押さえ、昏い眼差しを床に落としたまま動かない。アヤメはそんなリンドウをそっと一瞥すると、鋭い知性を秘めた瞳を、新たにテーブルの前に歩み出た少年へと向けた。
十三歳のピオニーは、ぶっきらぼうに顎を引いたまま、丸椅子に腰掛けた。その背後には、怯えた小さな影のように、八歳の妹エリンがしっかりと兄の裾を掴んで寄り添っている。ピオニーの表情には警戒の色が濃く滲んでいたが、そこに偽りの色は微塵もなかった。
「……次は、君の番だね、ピオニー」
アヤメが穏やかな、しかし逃れられない重みを持つ声で切り出す。ピオニーは鼻を鳴らすと、わずかに妹を庇うように体を斜めに構え、隠し立てのない言葉を吐き捨てた。
「俺たちが院長室の前に駆けつけたのは事実だ。ハナニラさんの声が聞こえたからな。……それに、あのクソジジイが死んでたってことも、今なら清々してるさ。嘘偽りなく、俺はあいつが嫌いだった。エリンにも、あわや暴力を振るおうとしたあの男を、許せるわけがねぇ」
ぶっきらぼうな少年の言葉には、剥き出しの真実が詰まっていた。妹を守るためなら牙を剥くことも厭わない、揺るぎない兄としての感情がそこにある。ピオニーはエリンの手を無意識に強く握り締めながら、さらに言葉を続けた。
「俺たちはいつも二人で一緒にいた。戦災孤児の俺たちを引き取ってくれた恩があるからって、何をされても耐えなきゃいけないなんて理不尽、真っ平ごめんだ。あのジジイは、自分の気に入ったやつ――ハナニラみたいな優等生には甘いくせに、俺たちや、気に入らない奴には容赦なく手を上げたんだからな」
ハナニラを名指しした少年の声には、かすかな嫉妬と、冷ややかな事実の観察眼が混ざっていた。ハナニラが院長のお気に入りであり、特別な扱いを受けていたこと。そして、経営難の重圧の裏で、その歪んだ寵愛と暴力が孤児たちをすり潰していたこと。ピオニーの語る一言一言はすべて真実であり、この孤児院が抱えていた腐敗した日常を赤裸々に暴き出していた。
リンドウは、我が子のように気にかけていた子供たちが受けていた痛みに気づけなかった自分を呪うように、わなわなと唇を震わせる。アヤメは静かにペンを握りしめ、ピオニーの瞳の奥に潜む、さらなる深い影を見つめていた。未成年である彼らが背負うにはあまりにも重すぎる現実が、夜の闇の中で静かに脈打っている。
ピオニーの背後にしがみついていた小さな影が、ゆっくりと顔を上げた。八歳のエリンは、怯えた様子で大きく潤んだ瞳をリンドウとアヤメに向ける。自分の可愛いを自覚しているあざとさを孕んだその幼い表情には、しかし、リンドウとアヤメの目には一切の虚偽が含まれていない様に見える。彼女は兄の袖をなおもきつく握り締めた。
「……あたしは、兄ちゃんから離れたことなんて、一度もないもん」
エリンの声は震えていたが、その言葉に微塵の曇りもなかった。戦火の傷痕が残るこの孤児院で、暴力に怯えながら生きてきた彼女にとって、兄であるピオニーの存在は世界のすべてだった。起きている時は常に手を繋ぎ、たとえ眠りから覚めたその瞬間であっても、視界の端には必ずピオニーの背中があった。誰よりも自分を愛し、守ろうとしてくれる兄の温もりを、エリンは全身で知っていた。
だからこそ、少女の胸の奥底には、言い知れぬ冷たい猜疑心がこびりついていた。
――もしかしたら、この優しい兄が、あの憎らしい院長を殺したのではないか。
職員のストックに恋い焦がれるのも、すべてはこの歪んだ世界の隙間で生き抜くための防衛本能だった。だが、目の前の冷酷な現実において、エリンは兄の犯行の可能性を心の片隅で疑いながらも、事実だけを口にすることを選んだ。自分を愛する者が、もしかしたら冷酷な殺人鬼かもしれないという恐怖。それを隠すことなく、少女は真っ直ぐにアヤメを見据えた。
アヤメは、エリンの瞳に宿る複雑な感情の深さに気づき、小さく息を呑んだ。未成年である彼らが抱える闇の深さは、経験豊富なはずの警察官たちの想像を遥かに超えていた。リンドウはといえば、我が子のように慈しむべき子供たちがこれほどの恐怖と猜疑心に晒されていたことに打ち震え、ただこめかみを押さえて俯くことしかできなかった。
「エリンちゃん、その……兄くんとずっと一緒だったんだね。寝ている間も、ずうっと?」
アヤメが緊張を孕んだ声で問いかけると、少女は黙り続けた。夢の中に居る間に兄が側に居てくれてるのかどうか。兄への絶対的な依存と、拭えない疑念が同居するその小さな胸の内を、誰も責めることはできなかった。食堂の窓ガラスを打ち付ける夜風の音が、やけに大きく響いていた。
「すみません……エリンにそれ以上は……」
アヤメは静かに視線を上げ、丸椅子の脇に直立し声をかけてきた青年へと向けた。
二十一歳のストックは、すり切れた職員用のシャツの裾を落ち着かない手つきで握りしめている。かつて孤児だった彼は、リンドウの幼なじみの弟分として、この荒れ果てた孤児院を支え続けてきた。気弱な青年の瞳には、重度の疲労と消えない怯えの色が濃く焼き付いていたが、その声には子供への労りが滲んでいた。
「……ストック、君の番だね」
アヤメが投げかけた問いに、ストックは小さく喉を鳴らし、それから痛ましげにリンドウを見た。
「リンドウさん……俺が、通報したんです」
青年の声は掠れ、ひどく震えていた。ストックは一呼吸置くと、真実だけを紡ぎ出すように視線を足元に落とした。
「あの夜、俺が騒ぎに気づいて院長室の前に駆けつけたときには、すでにハナニラと、ピオニーとエリンがそこにいました。……みんな、あの中にいたんです。そして、電話で警察に通報したのは、間違いなく俺です」
ストックの胸中は、矛盾する二つの感情で引き裂かれていた。
――ピオニーが、あの院長を殺したのではないか。
そうせずにはいられないほどの暴力を、子供たちは受けていた。だが、もし本当にピオニーが凶器を振るったのだとしたら、それは大人の目が届かない場所で孤児たちを救えなかった自分の責任なのだと、ストックは激しく自責していた。経営難の重圧に耐えかねた院長から毎日のように無理難題を押し付けられ、過労で深い眠りに落ちてしまったあの夜の失態が、この惨劇を招いたのではないかと。自分の頼りなさが、子供たちに人殺しという重荷を背負わせたのだという絶望が、青年の心を冷たく蝕んでいた。
アヤメはストックの痛切な告白を聞き届けながら、鋭い眼差しで青年の心理の深淵を見据える。全員が真実しか話していない、もしくは見抜けないほど狡猾な化け物が犯人なのか。それぞれの罪悪感と猜疑心が重なり合い、事件の真相はますます分厚い闇の中へと沈み込んでいく。
リンドウは、かつて親しかった友人の弟分がこれほどまでにすり潰されている現実を突きつけられ、もはや頭を抱えたまま、一言も言葉を発することができなかった。窓の外では冷たい夜雨が音もなく窓ガラスを打ち続け、取り返しのつかない過去の時間を洗い流すように、静かに世界を濡らしていた。
アヤメは静かに丸椅子の端に腰掛けるまだ話していない十二歳の少女へと視線を移した。荒れた髪に、鋭い光を宿した漆黒の瞳。アザミは誰に促されるでもなく、気負った足取りで一歩前に出た。
「……あたしは最後よ、あそこに駆けつけたのは」
アザミの声には、年相応の幼さではなく、すべてを見透かしたような冷徹な響きがあった。彼女はきつく結んだ唇をわずかに緩め、自らの胸の内をさらけ出した。
「院長に一番虐待されていたのは、このあたしだ。あいつを誰よりも憎んでいた自覚もある。毎日、殺してやりたいって呪っていたわ」
その過激な告白に、隣でうなだれていたリンドウがハッと顔を上げた。だが、アザミの瞳には揺るぎない理性が満ちていた。
「だけどね、冷静になれば分かることよ。あたしは非力だし、あの図体のデカい院長を刺し殺すなんて、自分にはどうやったって無理だった。そんなの、ハナから不可能なことくらい分かってたわ」
少女は自嘲気味に鼻を鳴らす。だが、アザミが抱えていたのは絶望や無力感だけではなかった。彼女の頭脳は、この薄暗い食堂に集まった者たちの中で最も冴え渡っていた。――事件の真相は、アザミには最初から分かっていた。予測すらできていた。
なぜなら、あの夜、誰が何をし、どうやってあの惨劇に至ったのかのピースが、少女の冷徹な思考の中で完璧に噛み合っていたからだ。
しかし、アザミはそれを止めもしなかったし、今この場で警察に話すつもりも毛頭なかった。彼女を救ってくれたあの人物の影が脳裏をよぎる。犯行を隠すわけでも、誰かをかばうために嘘をつくわけでもない。ただ、自分を虐待の地獄から間接的に解放してくれたその結末に、アザミは心の底から感謝していたからだ。
「だから、これ以上あたしに聞いても無駄よ。あたしは何もしてないし、何も言わない」
アザミはそう言い放つと、ふっと顔を背け、これ以上は一言も口を開くまいと頑なに沈黙の壁を作った。
アヤメは少女の瞳の奥に広がる複雑な諦念と、揺るがぬ決意を看破し、息を呑んだ。未成年たちがそれぞれの理由で抱え込む闇は、大人の想像力など容易く踏み潰していく。リンドウはアザミの小さな背中を見つめ、守るべき子供たちを救えなかった無力感に再び打ち震えながら、冷え切った床へと視線を落とした。
アザミが沈黙の壁を築いた冷たい食堂の隅で、ストックは激しく脈打つ胸を押さえていた。頭の回転が速いアザミの態度、そしてあの夜の光景が、青年の脳裏で嫌な結びつき方をしている。――本当に、ピオニーがあの男を刺したのではないか。その疑念が確信に変わりかけたとき、ストックは耐え切れず、小さな丸椅子に座る兄妹の元へと歩み寄った。
隣には、ストックの袖を不安そうに掴むエリンの姿があった。少女の瞳には涙が溜まっているが、その視線はまっすぐに兄であるピオニーへと向けられていた。
「……ピオニー。さっきの話、ずっとエリンと一緒だったって本当なのか?」
ストックは青ざめた顔で、目の前の少年を見据えた。ピオニーはぶっきらぼうに顔を背け、あからさまに不機嫌そうな態度をとる。だが、その肩は微かに震えていた。何かを隠してる時、ピオニーの肩が震えるのをストックもエリンも知っていた。
「なんだよ、ストックさんまで。俺は何もしてない」
「とぼけないで、お兄ちゃん!」
エリンが甲高い声を上げた。大好きなストックさんの前で、これ以上お兄ちゃんが重大な何かを隠しているのが耐えられなかった。
「エリン、お前まで……」
「お兄ちゃん、隠さないで。私には隠してるって分かるんだから!眠る前も起きた時も、お兄ちゃんは居てくれたけど……っ。寝てる間の事は私にはわからない……」
アヤメの言った寝ている間も、ずうっと?と言う言葉が頭の中でこだまして。エリンの目に大粒の涙があふれ、ぽろぽろと頬を伝い落ちた。妹の必死な訴えに、ピオニーの虚勢が音を立てて崩れていく。ストックはしゃがみ込み、ピオニーの震える両肩にそっと手を置いた。
「ピオニー。警察のアヤメさんたちは優秀だ。今なら、俺たち大人が間に入る。もし君がやってしまったことなら、隠し通せるものじゃない。このまま隠し続けて警察に暴かれたら、エリンとずっと離れ離れになってしまうんだよ」
その言葉に、ピオニーの瞳が大きく揺れた。妹を護りたい一心で犯した罪が、結果として妹を手放すことになると突きつけられ、少年の息が詰まる。エリンはストックの手を離すと、ピオニーの膝にしがみつき、泣きじゃくりながら叫んだ。
「もし悪い事したなら話しして、お兄ちゃん……! 捕まって、もし離れることになっても、私が絶対に待ってるから! お兄ちゃんのことが嫌いになんて、絶対にならないから……っ!」
妹の温もりと、変わらぬ愛情の告白が、ピオニーの頑なな心を打ち砕いた。少年はぐっと歯を食いしばり、こみ上げる嗚咽を飲み込むと、俯いたまま掠れた声で呟いた。
「……寝てる時なら殺せると思ったんだよ。あいつは、エリンにもアザミにも、あんなにひどい暴力振るって……だから、眠ってる間に……」
ピオニーはそこで言葉を詰まらせ、両手で顔を覆った。
「……俺がやったんだよ。ストックさん、俺が……あのクソ野郎を、アイスピックで刺したんだ」
深く突き刺さっていた凶器がアイスピックだったのは、抜いて見た警察以外には犯人しか知らない。告白の瞬間、冷えた食堂の空気がピタリと静止した。ストックは我が身を削るような痛みを覚えながら、震えるピオニーの背中を強く抱きしめた。
蒼白な食堂に響いたピオニーの震える告白のあと、警察による徹底的な捜査と法医学のメスは、この暗い孤児院に思わぬ事実をもたらした。
事件からしばらくして、警察署の一室でリンドウは深い溜息と共に一枚の書類を見つめていた。向かいの席に座るアヤメは、窓の外をぼんやりと眺めながら、複雑な色をたたえた瞳を細めている。
「ストック。――驚いたか?」
リンドウは、目の前で緊張した面持ちを隠せずにいる青年を見据えた。ストックはごくりと喉を鳴らし、固唾を飲んでリンドウの次の言葉を待つ。かつて友人の弟分として気にかけていたこの青年に、リンドウは静かに告げた。
「検死の結果が出た。あいつの死因は……他殺じゃない。病死だ」
「……え?」
ストックの息が止まった。ピオニーが自ら犯行を認めたあの夜の絶望が、音を立てて塗り替えられていく。
「ピオニーは間違いなく、あの男を刺そうとしてアイスピックを振り下ろした。だがな、傷には生体反応がない。つまりもう死んでたんだ。あいつは元々、心臓を患っていた。あの夜、発作を起こし、自らの身体の衰弱によって死んだ。つまり……ピオニーは人を殺してはいない。罪に問われるとしたら、死体損壊の罪……それだけだ」
それを聞いたストックの肩から、全身の力が一気に抜け落ちた。彼は椅子に崩れ落ちるように座り込み、大粒の涙を両手で覆った顔の隙間からこぼれ落とした。ピオニーが人殺しにならずに済んだ。エリンと永遠に引き離されずに済む。安堵の感情が、ストックのボロボロになった心に温かい涙として染み込んでいく。
「よかった……本当によかった……」
ストックは震える声で何度も呟いた。リンドウはそんな青年の肩にそっと手を置き、遠い目をして呟く。
「自業自得さ。あいつが子供たちにしてきたことの報いだな。神様がいたってことか……」
ストックもまた、真っ赤に腫らした目をリンドウに向け、深く頷いた。
だが、その部屋の隅で、アヤメだけは静かに腕を組み、誰にも聞こえない声音で息を殺していた。
――病死? そんなはずがない。
リンドウとストックが安堵の涙に濡れる裏で、アヤメの脳裏には別の光景がこびりついて離れなかった。第一発見者であるハナニラ。あの十七歳の少女が纏っていた、あまりにも自然すぎる完璧な悲劇の仮面。病理解剖の所見と、現場の状況の間に横たわる微細な矛盾。アヤメには分かっていた。ピオニーが刺すより前に、あるいはあの男の心臓が止まる決定的な瞬間、何者かの手によって確実に「殺害」の仕上げが施されていたのだと。
真犯人は別にいる。これは計画された殺人だ。
アヤメは真実を口チャックしたまま、窓ガラスに映る自分の虚ろな顔を見つめる。未成年たちが隠す闇、そしてハナニラという少女が抱える底知れぬ静寂。あの時。誰もが嘘をついていない。しかし、誰もが本当のすべてを語ってはいない。事件は解決に向かったかに見えたが、アヤメの胸の中には冷たい泥のような疑念が、いつまでも澱のように沈み続けていた。
孤児院に、奇妙な平穏が戻りつつあった。院長の死因が「病死」であったと警察から告げられた日、子供たちはそれぞれの胸に複雑な感情を抱きながらも、どこか解放されたような空気をまとっていた。ピオニーは未成年である事や情状酌量が認められて服役する事にはならず、エリンと共に過ごせる未来が守られた。
夕暮れ時の静まり返った食堂で、影が長く伸びる中、二人っきりになったハナニラとアザミは静かに向き合っていた。誰もいない空間で、アザミは冷たいテーブルに指を這わせながら、真っ直ぐにハナニラを見据えた。
「ねえ、ハナニラ。……あなたでしょ? あの人の薬を毒に変えたのは」
アザミの声は震えていなかった。警察には言わないと、あの瞬間に心の中で決めていたからだ。ただ、どうしてその答えに行き着いたのか、どうしても確かめたかった。
ハナニラは、アザミちゃん、と優しく呼んで首を傾げた。その瞳には濁りがなく、底知れない穏やかさが湛えられている。
「どうしてそう思うの、アザミちゃん?」
「分かるよ。あんなにあの人のことを愛して、執着していたくせに……。どうして殺したりしたの? 教えて、ハナニラ」
アザミの問いかけに、ハナニラは少しだけ目を細め、自分の腹部の上にそっと両手を重ねた。そこには、まだ誰にも気づかれないほどの小さな膨らみがある。
「あたしはね、あの人の子供を妊娠しているの」
静かな声だった。食堂の空気が一段と冷えたように感じられたが、ハナニラの表情は崩れない。
「あの人はね、あたしのお腹に子供ができたって知ったら、嫌がったのよ。中絶しろって、冷たい目で言った。あんなに愛していたのに、あたしのすべてだったのに、この子を殺そうとしたの」
ハナニラは微笑んでいた。狂気の色はなく、ただ慈愛に満ちた母親の顔をして。
「許せなかった。あの人はあたしを傷つけてもよかったけれど、この子を傷つけることは許さない。だから、薬を変えたの。――愛していたわ、本当に。でもね、アザミちゃん。あたしはこの子の方が、もっともっと愛しているのよ」
罪悪感の欠片もないその告白に、アザミは息を呑んだ。目の前にいるのは、血のつながらない最愛の姉であり、同時に、冷酷に人の命を奪い去った狂人だ。背筋に冷たいものが走り、アザミは小さく身震いした。恐ろしい、と本能が告げている。
それでも、アザミは逃げ出さなかった。自分を虐待から庇い続けてくれたのは、いつだってこの優しい手だったからだ。ハナニラが抱える歪んだ愛も、その狂気も、すべて丸ごと受け止めるように、アザミはぎゅっと拳を握りしめた。
「……そっか」
アザミは乾いた息を吐き出し、ハナニラから目を逸らさずに言った。
「警察には言わない。絶対に。……だから、ハナニラも、これ以上おかしなことはしないで」
「もちろんよ、アザミちゃん。あたしは孤児院のみんなが大好きだもの」
ハナニラはふわりと笑い、アザミの頭を優しく撫でた。その手のぬくもりに、アザミは複雑な胸中を押し込めながら、小さく頷く。
もう誰も怯えなくていい。この場所で生きる子供たちを、これからはハナニラを含めて自分たちが支えていくのだと、アザミは固く心に誓った。
事件から数ヶ月が過ぎ、孤児院の食堂には穏やかな時間が流れていた。ハナニラのお腹は、誰の目にもそれと分かるほどにふっくらと膨らみ、命の確かな重みを主張している。その様子を見るたび、ストックとアザミは自然と顔を見合わせ、彼女が重労働をしようものなら「危ないから座っていてくれ」と、すぐにその小さな手を制した。
「私たちはもう平気なんだから。家事は全部、僕たちに任せてよ、ハナニラ」
かつては院長の陰におびえ、心身ともにすり減らしていたストックの頬には、今では健康的な血色が戻っていた。アザミもまた、頼もしい足取りでハナニラの分の配膳を片付けていく。二人の変化を目の当たりにしながら、ハナニラは心からの喜びを湛えた瞳を細めた。
「ありがとう、ストック、アザミちゃん。でも二人も無理しないでね」
愛情に満ちたその声には、少しの濁りもない。愛する我が子を宿し、そして大切な家族を見守る今のハナニラは、世界の誰よりも満たされていた。ふと、ハナニラは穏やかな笑みを浮かべたまま、ふたりの将来の夢について尋ねた。
ストックは少し照れくさそうに頭をかきながら、「この孤児院をしっかり立て直して、みんなが安心して暮らせる場所にしたいんだ」と答えた。アザミは胸を張り、「私は服飾系の仕事を勉強して、みんなの可愛い服をたくさん作るの」と誇らしげに言った。
「素敵ね。じゃあ、恋の話は? 二人には、そういう相手はいないの?」
ハナニラの悪戯っ気のない純粋な問いかけに、ストックとアザミはピタリと動きを止めた。
「そんなの思いつかないよ」
「そうよ、そんなのある訳ないでしょ。」
口々に否定する二人に、ハナニラはふわりと微笑んだ。
「だって、エリンちゃんはストックのことが大好きだし、ピオニーはアザミちゃんを見つめているじゃない」
「エリンの気持ちは、ただの子供の憧れさ」とストックが慌ててかぶりを振れば、アザミも真っ赤な顔で「ピオニーなんて子ども扱いよ、気のせいに決まってるわ」と強い口調で突っぱねる。その初々しいやり取りを眺めながら、ハナニラは優しいため息をついた。
「ハナニラは……また恋をしたいって思わないの?」
ふいにアザミに投げかけられた問いに、ハナニラは自分の膨らんだお腹にそっと手を添え、静かに首を横に振ったう。
「ううん、もういいの。あたしはきっと、また酷い人に恋をしてしまうから。それに、今はこうして孤児院のみんなを、我が子のように愛しているだけで十分に満たされているわ」
その言葉に嘘はなかった。彼女の瞳に宿るのは底知れぬ母性と、揺るぎない平穏だけだった。
その後、生涯を孤児院の職員として子どもたちに捧げたハナニラの胸の内で、あの夜のような狂気が再び表に出ることは、二度となかった。




