菜の花迷路
一時的に案内人となっているその男が足を止めた。
「おしっ、ここだ」
「は?」
まだ先に行くものと思っていたところでのふいの言葉に、白い制服の少女は、返答とも言えないようなマヌケな声しか出すことができなかった。
「って、なんもないけどな」
「なんなの、ここ?」
「菜の花畑… なんだけどな。まあ、いまはこんなんだ」
「ないじゃん。菜の花」
「だから、なんもないって言ったろ。何度も言わすな」
言って案内人は、何もない広い土地へとゆっくり足を踏み出していく。
「時期にはな、ここらへん全部、まっ黄色なんだけどな」
「菜の花でどうするの? こんなに」
「迷路をつくってだな、観光客をわっと呼んでだな」
案内人の手が黒い土にふれる。土の匂いを確かめるようなやさしい手つきに、大地は無言の笑顔で応じる。
「町の青年団でそういうのをやってるわけだ。毎年のように」
「言われてもわかんないよ。なんにもないから」
「じゃあ想像しろ。頭んなかで」
「んー… 無理」
「努力しろよ」
制服の少女も努力はしたのだ。したにはしたが、できなかった。畑一面が菜の花で黄色くなった景色を、少女はまだ目にしたことがなかった。そこには、季節違いの花を頭に描くことの難しさもあった。せめて、夏の時期の花、そう、向日葵あたりだったなら。
「夏の花なら、夏休みに人も多く来るんじゃない?私らが合宿のときにも見れるしさ」
「それも考えたんだけどな… いろいろな…」
案内人はため息をひとつつき、けれど、少女に向けて振り返った表情は笑顔だった。
「コアラ理論って知ってっか?」
「え? なにそれ。知らない」
「じゃあ教えてやる。ためになるぞ」
しかし案内人は、なかなかその先を続けない。じらしてることは少女にもわかった。案内人は、少女がいら立つその限度を推し量ってでもいるようだった。
「いいか、コアラを見ると女ってのはたいがい、かわいー、とか、抱きしめたーい、とかなるわけだ」
「みんながみんなそんなんじゃないと思うけど」
「まあ、少しはわかるだろ?」
少女は表情だけでうなずいてみせた。
「まあ、たいがいの女はよろこぶもんだ。つ、ま、り」
言って案内人はニタリとした。気味が悪いほどに。
「つまり、何?」
「女を落とすときには、コアラを見に連れて行くのがオススメ」
「は?バカじゃないの。で、それと菜の花とどういう関係?」
「単にたくさんの菜の花ってだけでもいいんだが、そこに付加価値を加えるわけだ。それが迷路ってこと。こういうことでも、やっぱりコアラのときみたく女はよろこぶ。わー、何これー、すごいねー。こういうとこあるなんて知らなかったー。ねえ知ってたの?ねえねえ?ってな」
「アホくさ」
「つまりだ、女を落とすには、菜の花の迷路がオススメ」
「つくづく単純というかなんというか」
「かもしんないな」
「そんなに簡単にいく女ばっかじゃないよ、世のなかって」
「かもしんない」
「ねえ」
その強い声に、案内人は弾かれるように少女を見た。
「わざとなの?私が落ち込んでるから?だから無理にそうしてるの?だったら大丈夫だよ、私」
「さあ、どうだろうな」
案内人は、わざとらしく少女から顔を背けると、
「ひとつ言えるのは、自分で、大丈夫、って言う奴に限って、ぜんぜん大丈夫じゃない、ってことかな」
それには言葉を返せない。少女は心のなかだけで降参する形になった。けれど、それを悟られたくない。同意はするけれど、悟られたくは。
「ちょっと行ってみるか?」
少女の了解を待たず、案内人は何もない畑に入っていった。少女もしかたなしに、けれど心の傷を気にしながら、ゆっくりついて行った。
「このあたりが迷路の入口だな」
まるでその先に巨大な何かが見えてでもいるかのように案内人は言葉にした。
「入ってみるか?」
「入っていいの?」
「百円な」
「ベーだ」
少女は思いきり舌を出し、これでもかというくらいにひどい顔を案内人に向かって見せてやった。
「しかたない。特別に今日はタダでいいや」
少女は、それが当然といったふうに、ふふんとやって案内人の前を通っていった。
「おっと、そこは行き止まりなんだよなあ」
「知らないよ」
ふっと笑い、少女は青い空を見つめた。大きな空を射抜くように強く、けれど、やさしく。
「ねえ、迷路を抜けると、何があるの?」
「さあなあ」
「そのとき、どんなこと思うかなあ?」
一瞬、案内人は考えて、けれど、
「さあなあ」
と、ぶっきらぼうに短く言って、少女の先に立って歩き出した。少女は案内人の背中を追いながら、いまはまだ黒いばかりの大地の匂いを吸いこんだ。
「いつか来いよ」
「いつかね」
いつのことかはわからない。けれど、その「いつか」が、少女には何よりの慰めとなるだろう。胸のうちの傷を少しだけ忘れ、少女はそのときに向かって新しい一歩を踏み出した。




