第2章:帳簿の悲鳴と、情報の檻 ( 2 )
「……地獄だな、これは。もはや統治ではない。ただの『緩やかな殺戮』だ」
アルスは、自分が無意識に作成した数枚の図表を、インクの染みた指先で震えるようになぞった。
羊皮紙の上には、この世界の人間が見れば、精緻な「幾何学的な紋様」か、あるいは深淵から呼び出された「冒涜的な魔術式」にしか見えない異質で不気味な図形が並んでいる。
だが、それは魔法などではない。かつて彼を死に追いやった現代社会が磨き上げた、最も残酷で最も正確な武器――「統計学」という名の鏡だった。
彼の脳内には、前世の記憶がもたらす統計学的視点が、抗いがたい呪いのように脈打っている。
瞳を閉じれば、視界の裏側に網膜を焼くような解像度で「数」が浮かび上がる。彼にとって世界は、もはや詩人が愛でるような情緒的な風景ではない。
差し込む光は日照時間と光合成効率となり、広がる大地は土壌の窒素含有量と肥沃度へと分解される。
道行く農夫の背中は、その年齢と栄養状態から算出される「平均的な労働熱量」という定数へ置換されていく。
アルスの視界では、万物が冷徹な算式となり、領地の未来が確率論のグラフとして収束していくのだ。
「……やはり、この領域が最大の問題だ」
アルスが指先を止めたのは、グラフの中に描かれた、不自然なまでに口を開けた「三角形の空白」であった。
そこには、アルスが領地の気候条件、過去の降雨データ、そして投入された労働力から導き出した、本来あるべき収穫量を示す「理論値の線」が、右肩上がりの軌跡を描いている。
それに対し、バルトロが正式に提出していた「報告値の線」は、その遥か下を低空飛行していた。
この二本の線を引き比べたとき、理論上の成長に対して、報告値は不自然なほどに一定の低さを保っている。
その結果、二本の線の間には、時間が経つほど右側へ大きく、深く開いていく「三角形の隙間」が出現していた。
自然界の揺らぎや天災による減収であれば、データには必ず不規則な上下のノイズが現れるはずだ。日照不足があれば線は沈み、豊作であれば跳ね上がる。
しかし、バルトロの台帳から浮かび上がったこの三角形には、血の通った「揺らぎ」が一切なかった。あまりに幾何学的で、規則正しく、かつ継続的。
それは自然の摂理ではなく、人為的な加工が加えられた「死んだ数字」の証明であった。
アルスにとって、この三角形の面積こそが、領民が泥にまみれて流した汗の中から、バルトロが事務作業という名のメスで私的に抜き取った「中抜きの総量」――すなわち、権力者の懐に消えた悪意の容積そのものであった。
「セバス、この領地の『税』という名のシステムを見てくれ。全部で四十八の税目がある。窓の数、暖炉の煙突、果ては農具の刃を研ぐたびに発生する費用。一つ一つは少額に見えるが、これらを組み合わせることで『実態』を隠蔽しているんだ」
アルスの指摘は、彼が「夢」の中で見ていた現代社会が抱える、極めて悪質な病理そのものだった。
国民が容易に全容を理解できないほど制度を複雑化・細分化させることで、専門知識を独占する官僚機構や徴税官が「裁量」という名の絶対権力を握る。
それは、現代日本における「複雑すぎる特例措置」や「中抜きを容易にするための多層構造な委託事業」と何ら変わりはない。
「税金」という分かりやすい名目を避け、手数料や寄付、あるいは「協力金」といった美名の下で、領内から食糧や金を際限なく徴収する。知識を持たない弱者は、自分がどれほど不当に搾取されているかさえ計算する手段を奪われ、ただ「そういう決まりだから」「お上の慈悲を待て」と諭され、自ら首を差し出すしかない。
「さらに見てくれ、この納税分布図を。収入が低い者ほど、全所得に対する税の割合が高い。いわゆる『逆進性』だ。富裕層は大領主への寄付や特権を隠れ蓑にして、合法的に免税措置をハックしている。そして、その穴埋めを、明日の種籾すら持たない貧農たちが、命を削って背負わされているんだ。これでは、社会の土台である底辺層から崩壊していくのは自明の理だ」
現代社会でも議論される「格差の固定化」と「中間層の消滅」。
アルスが見つめる帳簿の数字は、ただの記録ではなかった。それは、子供に与えられるはずだった一匙の粥、次年度の作付けに使われるはずだった種籾、若者が新しい生活を始めるために貯めていたはずの銀貨……。
未来への投資をことごとく奪われ、今日を生き延びるために明日という「命」を売り払う領民たちの、乾いた悲鳴の集積だった。
「バルトロは、領民を人間だと思っていない。彼はただ、この領地という巨大な牛を、死なない程度に衰弱させながら、自分の皿にだけ脂を注ぎ続けているんだ」
アルスは立ち上がり、血走った目で窓の外の荒野を睨んだ。
三日三晩、数字の海を泳ぎ続けた彼の脳は、もはや引き返すことを拒んでいた。
「……セバス、騎士団を呼べ。これから、この『幾何学的な嘘』を、バルトロ本人の肉体で証明させてやる」
アルスの瞳に宿ったのは、領主としての慈悲ではない。
それは、システムを蝕むバグを絶対に許容しない、冷徹なエンジニアの狂気。
あるいは、不正な帳簿を突き崩すことにのみ至上の喜びを感じる、熟練の査察官の執念だった。
数字が暴き出した「三角形の闇」。
そこへ、アルスという名の鋭利な光が今、突き刺さろうとしていた。
セバスのメモ帳
『逆進性』
『三角形の隙間』




