第2章:帳簿の悲鳴と、情報の檻 ( 1 )
執務室の空気は、わずか数日のうちにその色を塗り替えられていた。
かつての主人が贅の限りを尽くし、漂わせていた高価な香料の残香は、もはやどこにもない。
代わりに部屋を支配しているのは、地下倉庫の奥底で数十年もの間眠っていた古びた羊皮紙が放つ、肺の奥にこびりつくようなカビの臭いだ。
そこに、灯し続けられ無残に溶け崩れた蝋燭の脂臭さと、乾く暇もなく書き連ねられた安物のインクの、酸っぱい香りが混じり合い、重苦しく澱んでいる。
アルスは三日三晩、その硬い背もたれの椅子から一度も腰を浮かべていなかった。
いや、排泄の時だけは領主としての面子のためにセバスに引きずられ、厠に連れて行かれたので、一度もではない。
机の端には、セバスが数時間おきに運んできたはずの盆が、無造作に積み重なっている。
かつては湯気を立てていたであろう黒パンは、乾燥しきって石のように硬くなり、冷え切ったスープの表面には白い脂が厚く膜を張っていた。
辛うじて口にしたのは、喉を焼くような強い酒と、意識を強制的に覚醒させるための苦い茶だけだ。
アルスの身体は、すでに悲鳴を上げる段階を通り越していた。
長時間の硬直した姿勢は、背骨に鈍い痺れをもたらし、指先は絶え間ない筆記によってインクに染まったまま固まりつつある。
剃っていない顎のあたりには無精髭がうっすらと生え、上質な絹のシャツは寝汗と脂で肌に張り付いて、不快な熱を持っていた。
貴族としての矜持など、この部屋の不潔な静寂の中では何の意味もなさなかった。
忠実な老僕セバスが埃まみれになりながら発掘してきた、過去二十年分に及ぶ「徴税記録」と「領地台帳」。
それらは、解剖図のように、広大な執務机を埋め尽くしている。
羊皮紙の端は波打ち、記された数字の羅列は、アルスの充血した眼にまるで黒い虫の群れのように映っていた。
埃が舞う光の柱の中で、落ち窪んだ眼窩に狂気にも似た光を宿し、彼はただ、領地の血を啜り続けた「真実」の尻尾を追い続けていた。
窓の外では三度目の夜明けが白々と光を投げかけ始めているが、アルスはその光に気づくことさえない。
その時だった。
それまで休むことなく走らせていたアルスのペンが、突然止まった。
最後に書き加えた数値を、充血した目で何度もなぞる。
バラバラに散らばっていた徴税記録、領地台帳、そしてセバスが聞き集めてきた村々の窮状――それら無数の情報の破片が、アルスの脳内で「現代日本」の記憶というフィルターを通し、一つの巨大で醜悪な図形へと結実していく。
「……ははっ」
乾いた笑いが、喉の奥から漏れた。
三日間、石像のように動かなかった彼が、ゆっくりと、しかし確かな殺意を込めて椅子から身を乗り出す。
その手元には、複雑怪奇な制度の裏に隠された「収奪の構造」が、現代的な統計学的視点によって残酷なまでに単純化、可視化されていた。
アルスは、背後で控えていたセバスを振り返ることなく、目の前の「歪んだ三角形」を指先でなぞった。
「……地獄だな、これは。もはや統治ではない。ただの『緩やかな殺戮』だ」
セバス(この三角形のものはいったいなんなのでしょうか…)




