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第1章:傾いた天秤と、沈黙の耕地 ( 2 )


視察を終え、執務室に戻ったアルスを待っていたのは、机の上に山高く積まれた羊皮紙の束だった。


かつてのアルスなら、この光景を見ただけで眩暈を起こし、再び寝込んでいただろう。しかし、今の彼は違う。


「これが今期の収支報告です。王宮への献上金と、先代様が遺された『魔導投資』の失敗による債務利息で、もはや……」


財務担当官が投げやりな態度で書類を差し出す。

だが、アルスはそれを奪い取るようにして開き、目を通した。


彼の指先は、まるで熟練の会計士のように、複雑に絡み合った数字の矛盾を正確に拾い上げていった。


「……おかしい。徴収されている税の総計に対し、領内の実体経済が追い付いていない。これは『適正な課税』ではなく、単なる『資産の食いつぶし』だ」


アルスはこめかみを押さえた。


税金。それは本来、共同体の未来を担保するための「共通コスト」であるべきだ。


しかし、この領地の税制は、ただ「取れるところから取る」だけの、洗練を欠いた略奪に成り下がっている。


さらに、彼は「食糧」の項目で、致命的な綻びに気づく。



「食糧の備蓄が、去年の半分以下だ。麦の作付け面積は確保していたはずだろう」



「……それが。王都の貴族たちの間で、魔法薬の原料となる『魔導薬草』が高騰しておりまして。現金収入を求めた農民たちが、自分たちの食べる麦を捨て、薬草栽培に切り替えたのです。その売却益で麦を他領から買い戻せばいいという計算でしたが、隣領が不作で価格を吊り上げたため……」



「馬鹿な。生存に不可欠な栄養を他者に依存し、目先の『外貨』に目が眩むとは。これは食糧安全保障の完全な放棄だ」



アルスは椅子を蹴るようにして立ち上がった。

拍動が速まり、胸が苦しい。だが、それは病のせいではない。


目の前で崩壊しようとしている「経営体」を、どうしても見過ごせないという、魂に刻まれた「さが」のせいだった。


現代の日本が直面している、低すぎる自給率と、グローバルサプライチェーンへの過度な依存。


その危うさを、彼は「異世界の領主」という立場から、身を切られるような恐怖として実感していた。



夜も更け、アルスは一人、執務室でペンを走らせていた。


窓の外からは、深夜まで作業を続ける厩舎の若者の、疲れ切った足音が聞こえる。


この世界には「労働法」もなければ「最低賃金」もない。


「修行」や「奉仕」という名のもと、若者は無報酬に近い労働を強いられ、心身を壊して街を去るか、あるいは野垂れ死ぬ。


労働の尊厳は、封建的な慣習という名の「ブラックな構造」に塗りつぶされていた。



(少子高齢化、不公平な増税、食糧自給率の低下、そしてやりがいの搾取……)



アルスは、自分が書きなぐったメモを見つめた。そこには、この世界の文字に混じって、自分でも読めないはずの「漢字」のような記号がいくつか混じっていた。



「……詰んでいるな。この状況は、かつて『誰か』が見た終わりと、全く同じだ」



思わず口に出た言葉の意味は、自分でもよく分からない。

だが、確信がある。かつての自分――あの「幻覚」の中で死んだ、名もなき事務官は、この状況を打開するための武器を持っていたはずだ。


「セバス」



「はい、閣下」



ドアの外で控えていた執事が部屋に入る。彼は、主人の瞳を見て言葉を失った。



そこには、かつての気弱な若様の面影はない。



深い絶望を知り、それでもなお「数字」という武器を手に、冷徹に現実を組み替えようとする――かつて「悪夢」の中で見た、あの猛烈な社会を生き抜いた男の意志が宿っていた。



「明日から、領地のすべての帳簿を私の部屋に運べ。あと、全領民の正確な『年齢別人口』を調査する。反対する者がいたら、私の名前を出せ」



「閣下……しかし、そのような調査に何の意味が……」



「意味なら、これから私が作る。我々は今まで、暗闇の中で賽を振っていたに過ぎない。これからは、『事実』に基づいてこの地を再定義する」



アルスはまだ知らない。

自分がなぜこれほどまでに「仕組み」に執着し、「改善」せずにはいられないのか。


だが、その無意識の衝動が、のちに「統計学の魔法」と呼ばれ、停滞した異世界を根底から揺るがす大改革の、静かな第一歩になる。

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