第3章:死にゆく領地の解剖図 ( 7 )
演説台で泥を投げられたあの夜、アルスは着替えもせず執務室の地図に噛み付いていた。
背後のセバスは、主人のあまりに静かな怒りに、声をかけることすら躊躇っていた。
「……セバス。広場での失敗は、私の甘さだ。民衆に『数式』を見せたのが間違いだった。彼らに必要なのは『数式』ではなく、明日噛みしめる『パンの味』だ」
アルスは羽ペンを置き、一枚の図面を広げた。
そこには、見慣れない重厚な農具の設計図が描かれていた。
「この地は土が痩せ、硬くなっている。表面を撫でるだけの木の犂では、土の奥に眠る養分に届かない。……これを、鍛冶職人のガストンに作らせろ。『有床犂』だ。刃が鉄で、土を掘り起こすと同時に反転させる。だが、これには大きな問題がある」
アルスは設計図の「牽引部」を指差した。
「この重量、人間では引けない。……セバス、北の第一村に、これを発明した時に想定した『牛』や『馬』は残っているか?」
セバスは力なく首を振った。
「……ございません。バルトロが軍馬の徴発と称して奪い去り、残ったわずかな家畜も、飢えた村人たちが去年の冬に食いつぶしました。今の彼らにあるのは、痩せこけた己の体と、錆びた農具だけです」
「だろうな。リソース(資源)が枯渇している。……ならば、私が『外部』から持ち込むしかない」
アルスは机の上に、領主館の「宝飾品売却リスト」と「隣領からの調達計画」を広げた。
「セバス。館にある歴史的な価値のない金銀細工をすべて売り払え。その金で、隣領から『農耕牛』を五十頭、強引に買い付ける。これは贅沢品ではなく、この領地を再起動させるための『生産設備への先行投資』だ」
「し、しかし閣下、それでは館の家財が底をつきます!」
「箱が豪華でも、中身が死んでいればただの棺桶だ。……さらに、肥料の問題がある。家畜がいないなら糞尿もない。土は飢えたままだ」
アルスは次に、領都の「下水図面」を取り出した。
「セバス、今日から領都の『糞尿の処理』を私が直轄する。これまで川に流して捨てていた都市の排泄物、それと魚市場で捨てられる魚のあら、森の落ち葉……これらすべてを回収し、北の第一村に運んで発酵させる。『都市廃棄物の再資源化』だ。領民には『無能な領主が汚物を集めて狂った』と触れ回れ。それがバルトロの残党に対する、最高の中幕になる」
セバスは絶句した。高貴な血を引く領主が、汚物と向き合い、それを富に変えようとしている。
「そして、この配置図だ。『三圃式』への移行。村の耕地を三つに分け、春播き、秋播き、そして『休耕地』として一年間休ませる。私が買い付けた牛をそこで放牧し、休んでいる土地に直接肥を落とさせ、草を食ませる。……土地を殺さず、家畜を育て、人を養う。この『循環』こそが、バルトロの檻を壊す鍵だ」
「……理屈は分かります。ですが閣下、北の第一村の連中が、これほどの手間を信じますかな?」
「だから『インセンティブ(成功報酬)』を与える。四十八の税目を完全廃止し、収穫の二割だけを税とする。残りの八割は、汗をかいた農夫たちのものだ。セバス、これは慈悲ではない。『投資』だ。彼らが『自分のために働いている』と自覚した瞬間、労働の質は劇的に変わる。私は彼らに、奪われた『働く意味』を買い戻させるんだ」
アルスは窓の外、闇に沈む北の第一村の方角を見据えた。
「ロレンツたちのデマを打ち破るには、演説はいらない。……重厚な鉄の犂、領主自ら買い付けた牛、そして土の匂いがする。その『圧倒的な事実』だけでいい。情報の檻を壊すのは、私の言葉ではなく、彼らの腹を満たすパンだ」
その夜、アルスは領主としての誇り(家財)を捨て、実利(牛と堆肥)へと全振りする決断を下した。
無能と呼ばれた領主の、泥にまみれた「情報の逆襲」が、音もなく始まった。




