第3章:死にゆく領地の解剖図 ( 6 )
北の第一村の若手農夫、ヨハンは、自分の目を疑いながら黄金色に波打つ畑に立っていた。
ほんの半年前まで、この場所にはひょろひょろと力なく伸びる薬草が植えられていた。
王都の貴族が好むというその草は、育てるのに恐ろしいほどの手間がかかり、村人の精液も女たちの母乳もすべて吸い取っていく「呪いの草」だった。
だが今、目の前にあるのは、重たげに頭を垂れる麦の穂だ。
「……信じられねえ。こんな麦、見たこともねえぞ」
ヨハンが握りしめたのは、アルスが持ち込んだ「新型の犂」だ。
これまでの木製の犂では到底届かなかった土の深層を、鉄の刃が力強く掘り起こした。
そこにアルスが領主館で「配合」を指示した家畜の糞尿と腐葉土を混ぜた肥料を注ぎ込み、さらに「三圃式」と呼ばれる、土地を休ませながら回転させる農法を試した結果だった。
村の空気は一変していた。
かつての、葬儀を待つような静まり返った絶望はない。
あちこちで麦を刈り取る鎌の音が小気味よく響き、運搬用の荷車が軋む音に活気がある。
何より違うのは、自分たちの「腹」の状態だった。
「ヨハン! 休憩だ、これ、閣下から届いた差し入れだってよ」
ボリス村長が、見たこともないような白いパンと、塩気の効いた干し肉を持ってやってきた。
アルスは「契約」通り、収穫までの食糧を完全に保証しただけでなく、農作業の効率を上げるための「高カロリーな食事」を計画的に配給していたのだ。
一口齧れば、体中に力がみなぎる。薬草栽培に追われていた頃は、自分の胃袋よりも、枯れそうな薬草に与えるための水の方が貴重だった。
「なあ、村長。本当に、これを八割も自分たちのものにしていいのか?」
ヨハンの問いに、ボリスは深く頷いた。その目には涙が浮かんでいる。
「ああ。閣下との契約書に、はっきりとそう記されている。四十八の税はもうない。窓の数も、暖炉の煙突も、もう数えに来る奴はいねえんだ。……なあ、ヨハン。お前のカミさん、最近顔色が良くなったな」
ヨハンは照れくさそうに鼻を擦った。
栄養が足りず、ガリガリに痩せていた妻の頬には、近頃、薄桃色の赤みが戻っている。そして何より、夜になれば死んだように眠るだけだった村の家々に、少しずつ、夫婦のささやかな会話と笑い声が戻り始めていた。
アルスが言っていた「人口問題」という難しい言葉の意味を、ヨハンはまだ正確には理解していない。
だが、一つだけ確信していることがあった。
「……この麦があれば、来年は、俺たちの子供に腹一杯食わせてやれるな」
それは、二年間この村から消えていた「希望」という名の未来だった。
一方、その「驚異の収穫」の噂は、風に乗って隣の村々へと広がっていった。
「北の第一村だけが、白いパンを食っている」
「あそこの女たちは、もう死んだような目をしていない」
ロレンツたちがバラまいた「アルスは無能な簒奪者である」というデマは、一房の麦の重み、そして村人たちの血色の良い肌という「圧倒的な事実」の前に、少しずつ、だが確実に瓦解を始めていた。




