表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/16

第3章:死にゆく領地の解剖図 ( 6 )



北の第一村の若手農夫、ヨハンは、自分の目を疑いながら黄金色に波打つ畑に立っていた。




ほんの半年前まで、この場所にはひょろひょろと力なく伸びる薬草が植えられていた。



王都の貴族が好むというその草は、育てるのに恐ろしいほどの手間がかかり、村人の精液も女たちの母乳もすべて吸い取っていく「呪いの草」だった。



だが今、目の前にあるのは、重たげに頭を垂れる麦の穂だ。



「……信じられねえ。こんな麦、見たこともねえぞ」



ヨハンが握りしめたのは、アルスが持ち込んだ「新型のすき」だ。



これまでの木製の犂では到底届かなかった土の深層を、鉄の刃が力強く掘り起こした。



そこにアルスが領主館で「配合」を指示した家畜の糞尿と腐葉土を混ぜた肥料を注ぎ込み、さらに「三圃式さんぽしき」と呼ばれる、土地を休ませながら回転させる農法を試した結果だった。




村の空気は一変していた。



かつての、葬儀を待つような静まり返った絶望はない。



あちこちで麦を刈り取る鎌の音が小気味よく響き、運搬用の荷車が軋む音に活気がある。



何より違うのは、自分たちの「腹」の状態だった。



「ヨハン! 休憩だ、これ、閣下から届いた差し入れだってよ」



ボリス村長が、見たこともないような白いパンと、塩気の効いた干し肉を持ってやってきた。



アルスは「契約」通り、収穫までの食糧を完全に保証しただけでなく、農作業の効率を上げるための「高カロリーな食事」を計画的に配給していたのだ。



一口齧れば、体中に力がみなぎる。薬草栽培に追われていた頃は、自分の胃袋よりも、枯れそうな薬草に与えるための水の方が貴重だった。



「なあ、村長。本当に、これを八割も自分たちのものにしていいのか?」



ヨハンの問いに、ボリスは深く頷いた。その目には涙が浮かんでいる。



「ああ。閣下との契約書に、はっきりとそう記されている。四十八の税はもうない。窓の数も、暖炉の煙突も、もう数えに来る奴はいねえんだ。……なあ、ヨハン。お前のカミさん、最近顔色が良くなったな」



ヨハンは照れくさそうに鼻を擦った。



栄養が足りず、ガリガリに痩せていた妻の頬には、近頃、薄桃色の赤みが戻っている。そして何より、夜になれば死んだように眠るだけだった村の家々に、少しずつ、夫婦のささやかな会話と笑い声が戻り始めていた。



アルスが言っていた「人口問題」という難しい言葉の意味を、ヨハンはまだ正確には理解していない。



だが、一つだけ確信していることがあった。



「……この麦があれば、来年は、俺たちの子供に腹一杯食わせてやれるな」



それは、二年間この村から消えていた「希望」という名の未来だった。



一方、その「驚異の収穫」の噂は、風に乗って隣の村々へと広がっていった。



「北の第一村だけが、白いパンを食っている」



「あそこの女たちは、もう死んだような目をしていない」



ロレンツたちがバラまいた「アルスは無能な簒奪者である」というデマは、一房の麦の重み、そして村人たちの血色の良い肌という「圧倒的な事実」の前に、少しずつ、だが確実に瓦解を始めていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ