第1章:傾いた天秤と、沈黙の耕地 ( 1 )
レオンハルト領の当主、アルス・ヴァン・レオンハルトは、執務室の窓辺で激しく咳き込んだ。
「……閣下、やはり無理はいけません。まだ病み上がりなのですから」
老執事セバスが、心配そうに厚手の毛布をアルスの肩にかける。アルスは力なく頷き、窓の外に広がる夕闇を見つめた。
この数ヶ月、アルスは謎の熱病にうなされ、生死の境を彷徨っていた。表向きは流行り病とされたが、その実態は「絶望」という名の毒だった。
先代から引き継いだのは、天文学的な数字の借金と、修復不可能なほどに摩耗した領地経営。二十歳そこそこの青年の心は、逃げ場のない構造的欠陥に押し潰されたのだ。
しかし、死の淵から戻ったアルスは、まるで憑き物が落ちたような、冷徹なまでの静けさを纏っていた。
(……おかしい。なぜ、この光景にこれほどの『絶望的な既視感』があるんだ?)
アルスは、毛布の下で自分の細い指先を見つめた。
彼には、自分が「転生者」であるという自覚はない。ただ、高熱の最中に、奇妙な「幻覚」を何度も見た。
窓のない閉鎖的なオフィス、青白い蛍光灯、終わりのない数字の羅列、そして――誰の感謝も得られぬまま、システムの一部として摩耗し、力尽きた「誰か」の記憶。その男が抱いていた「次はもっと合理的な仕組みを構築したかった」という報われぬ渇望が、アルスの魂に深く、澱のように沈殿していた。
「セバス、少し歩ける。領内の実態を、この目で……いや、この『脳』で確認しておきたい」
止めるセバスを振り切り、アルスは杖をついて領地を見渡す丘へと向かった。
夕暮れに照らされたレオンハルト領は、一見すれば絵画のような美しさを持っている。しかし、アルスの瞳に映っているのは、旅人が愛でるような情緒ではない。
彼の視覚は、無意識のうちに目の前の光景を「減損評価」の対象として冷酷にスキャンしていた。
「……美しいな。だが、あまりに静かすぎる。これは、生気のない『死体』の美しさだ」
まず、アルスの視界を支配したのは、斜面に広がる「茶色の斑点」だった。
かつては豊かな麦の段々畑だったはずの場所が、今は手入れもされず、背の低い雑草と乾燥した土が露出している。
(耕作放棄地。全領土の三割強が、すでに経済的機能を喪失している)
「セバス、今日出会ったのは、腰の曲がった老人ばかりだったな。子供の笑い声が全く聞こえないのはなぜだ?」
「……閣下、若者にとって、この領地は『未来のない場所』ですから。皆、一攫千金を夢見て王都へ、あるいは隣領の鉱山へと流出していきます。残るのは、土地という鎖に縛られた老人ばかり。これは運命、神の思し召しでございますよ」
セバスは諦念を込めて言った。だが、アルスの脳裏には、あの「幻覚」の中の光景が重なる。
若者が消え、再生産能力を失い、かつて整備されたインフラ(水路や道)の維持費だけが重荷となって、残された者の肩に食い込む。それは、現代日本が直面している「限界集落化」と、現役世代の負担増による社会保障の破綻に酷似していた。
人口という名の血液が、この土地からドロドロと漏れ出している。このままでは、遠からずこの領地は「自食」を始め、最後には無人の荒野に帰すだろう。




