第六話
夜の静けさを破るように、コンコン、と控えめなノックの音が響いた。モフモフは、ベッドから立ち上がるとドアをゆっくりと開ける。
そこには、カゴを片手に緊張した面持ちのフィオナが立っていた。「後で話そう」と言われたが、胸につっかえる気持ちをどうにかしたくて、いつもより早めに仕事を終わらせてきたのだ。
「……こっちから行くのに」
モフモフは小さく息をつきながら、ドアを開けて彼女を招き入れる。
フィオナは何も言わずに部屋に入ると、くるりと振り向いて、モフモフをじっと見つめる。
「……今日も夕飯、食べに来なかったけど、どうして?」
フィオナの声はどこか静かながらも鋭く、彼を見つめる瞳には疑念と困惑が浮かんでいる。モフモフは彼女のまっすぐな視線を一瞬だけ受けた後、軽く肩をすくめて微笑んだ。
「心配させたな……いや、大した理由じゃないんだが、俺は人間の作法を知らないからコイツに恥をかかせると思ったんだよ。」
そう言いながら、彼は無意識に小首をかしげた。子狼だった頃のモフモフの癖だ。そのことに気づいたフィオナは、じっと彼を見つめた。
「流石にフィオナも、狼みたいに飯を食うエリオットなんて見たくないだろ?」
「お、狼みたいに……?」
フィオナは言われた瞬間、モフモフの食事風景を思い出してしまった。勢いよく骨付きの肉にかぶりつく姿、器に顔を突っ込むようなしぐさ。母も「小さいけれど食べっぷりは一人前だね」と笑っていた。どう考えても人間の食卓にはなじまない食事の様子が脳裏によぎり、彼女の顔は一気に青ざめた。
(エリオットが?!あの食べ方は流石に……!)
想像しただけで背筋が凍えるような気持ちになり、フィオナは慌てて首を横に振った。
「大したことだよ!お客さんもびっくりするし、エリオットだって困ると思う……。だから、その……ありがとう」
そう言ってから、視線を落とす。自分が目の前の“エリオット”になんと呼び掛けていいのか分からず、しばらく迷った末に確認するように尋ねた。
「……モフモフ、で良いのかな?」
彼女の不安そうな目が、自信なさげにモフモフを見上げる。その表情に、モフモフは一瞬言葉を失い、胸の奥が暖かくなった。こんなにも一生懸命に自分を受け入れようとしている彼女が愛おしく、心に優しく沁みていく。
「おう」
短く返事をすると、彼は柔らかく微笑んだ。
それだけで、フィオナの顔に少し安心の色が広がったようだった。
「昼間、コイツが近所を回った時に爺さん婆さんから果物やら漬物やら貰ってたから、それを食ってたんだが……流石に足りないな」
モフモフは少しばつが悪そうに言いながら、腹を擦った。フィオナは納得した様子で頷く。
(きっと、それが帰りが遅くなった理由なんだろうな……)
彼は優しいから、話好きなお年寄りたちの話を最後まで聞いてあげたのだろう。きっと最初は「大丈夫です」と貰い物を遠慮しただろうが、押しの強さに負けて受け取った姿が目に浮かぶ。フィオナは自然とクスリと笑みを漏らした。
そんな彼女の表情を見たモフモフは、彼女が考えているのはエリオットの事だろうと察し、少し複雑な気持ちになる。
(昨日まであんなにぎくしゃくしていたってのに……)
どこか面白くないと考えてしまう自分が嫌になり、モフモフはフィオナに聞こえないようにため息をついた。
しかし、そんな彼の思いを知る筈もなく、フィオナは手に持っていたカゴを差し出した。
「そうかなと思って、おにぎりを持ってきたよ」
彼女はカゴの蓋を開け、包まれたおにぎりを取り出してモフモフに見せる。モフモフは一つを手に取り、しばらくじっと見つめた後、小首をかしげながらクンクンと匂いを嗅いだ。
「……これは?」
訝し気に尋ねるモフモフに、フィオナは少し笑いながら説明する。
「おにぎりだよ。ご飯を握ったものっていえばわかる?」
「ふぅん……」
モフモフは短く返事をすると、そのまま大きく口を開け、おにぎりを頬張った。その食べ方にはどこか野性味があり、朝食の時に見たエリオットの礼儀正しい食事風景を思い出して、フィオナは改めて彼とエリオットは違う存在だという事を実感する。
モフモフは、大きな一口をもぐもぐと食べると目を丸くし、ガツガツと口に勢いよく詰め込むと「……おかわり、あるか?」と頬にご飯粒をつけたまま聞いてきた。その様子にフィオナは思わず笑ってしまった。
モフモフはおにぎりを食べ終わると、塩や米粒がついた指をペロペロと舐め、満足そうな顔で一言「ごちそうさま」と言った。
フィオナは「お粗末さまでした」と答えながら、カゴの中から布巾を取り出して彼に手渡す。モフモフがその布巾で手を拭いている間、フィオナは一度視線を落としてから、意を決したように顔を上げた。
「……それで。あなたはどうしてエリオットの姿になっているの?」
静かな部屋に彼女の真剣な声が響く。モフモフは布巾を握りしめたまま、どこまで話すべきかと頭の中で考え込んだ。
「最初に言うが……俺はその、魔族なんだ」
視線を下げて、苦し紛れにそう口を開いた。原因に魔法が絡んでいる以上、ただの動物と言い張るのは難しいだろうと思ったからだ。
(怖がられるかもしれないな……)
モフモフは内心の不安を隠しきれず、恐る恐るフィオナの顔を伺った。
「……?そうなんだ?」
その反応に、モフモフは呆気にとられた。
「怖くないのか?魔族だぞ?」
彼は少し声を張り上げて尋ねた。
「確かに驚きはしたけど、3年も一緒にいて私はモフモフに何かされたわけじゃないもの。怖くないよ」
フィオナの言葉はあまりにもあっさりしていて、モフモフは胸に張り詰めていた緊張がふっと緩むのを感じた。
「……そうか」
自然と口元が緩み、思わず微笑む。
モフモフは言葉を選びながら、たどたどしく説明をし始めた。
「魔王が倒された騒動で、俺たちが住んでいたところにも被害があって、ここになんとか逃げてきたんだ。」
その言葉には、いくばくかの真実と嘘が混じっていた。
本当は自分がその“魔王”と呼ばれるものであり、この状態にしたのは自分の側近の魔族だ。しかし、フィオナにそのすべてを話す勇気はない。“魔族”でさえ、受け入れてくれるか不安だった。しかし“魔王”までは彼女がどう思うだろうか。フィオナを信じていないわけではないが、彼は彼女に拒絶されることが何より恐ろしい。モフモフは、知り合いの魔族がかけた魔法が突然発動し、気が付いたらエリオットの中にいたという形にして話を濁すしかなかった。
「それで、その魔法の解き方がわからない。って事かな?」
フィオナは魔法について全く知識がないながらも、真剣な眼差しでモフモフに問いかける。その姿を見て、モフモフは少しだけ良心の呵責を覚えながらも、バツが悪そうに頷いた。
「……そういう事だな。」
フィオナは「うーん」と小さく唸り、考え込むように頬に手を添えた。
「とりあえず……エリオットにそのことを伝えた方が良いんじゃないかな?なにか意思疎通ができれば、状況も少しは進むかもしれないし。」
彼女の言葉は正論だった。先ほどまで、この身体を手放したくないと思っていた自分を正しい道筋に導いてくれている。
モフモフの胸にわずかな疑問と悲しさが広がった。
(……もし、このまま俺が狼の姿に戻ったとして、今までのようにフィオナは接してくれるのか?今の俺は対等に話せていても、また“ペット”に戻るんじゃないか?)
彼は小さく息を吸い込み、気持ちを整理するように呼吸を整えた。
「……今は、完全に寝ているみたいだから、明日やってみるよ。」
自分に言い聞かせるように言葉を響かせる。彼女の優しさとまっとうな提案に背を押されながらも、彼の心には、まだわずかに葛藤が残っていた。
「……部屋まで送らなくてもいいのに」
話が一区切りつき、モフモフがフィオナを彼女の部屋まで送る途中、フィオナが少し困ったように呟いた。
「元々俺からフィオナの部屋まで行くつもりだった。……今日は俺の話を聞いてくれてありがとう。」
モフモフは優しく微笑みながら言った。その穏やかな表情にフィオナはどうしてもエリオットを思い出してしまう。彼がエリオットではないと分かっていても、同じ顔に見つめられると意識せずにはいられず、気づけば彼女の頬はほんのり赤く染まっていた。
「こっちこそ、話してくれてありがとう……。」
はじめこそ顔を見つめて話していた彼女は、徐々に恥ずかしさを隠すように視線はそれていき、声も少しずつ細くなっていく。その様子にモフモフは胸の奥に渦巻く感情を抑えきれなくなっていく。
(やっぱり、コイツに好意を抱いているんだな……)
考えてみれば、この状況になった原因はフィオナに対する自分の気持ちと自分が願ったものを易々と手に入っているエリオットへの妬みだったのかもしれない。そしてフィオナの心がどちらに向いているのかも、あまりにも明白だった。
だが、エリオット本人に知られることなく彼の身体を使ってフィオナに手を出すのはフェアではない。理性ではそう理解している。だが、ここまで惚気られてもなお何もせずにいるのは、モフモフの性分には合わない。
(……いつか、俺を、俺として意識させてやる。おまえがコイツを意識するのと同じくらいに。)
モフモフはフィオナの前髪にそっと手を伸ばし、ふわりと優しく撫でると、不意におでこに口付けをした。掛かった重さでわずかに彼女の身体が揺れた。
「え?」
フィオナの目が大きく見開かれる。唇が触れたおでこは熱を持ち、名残惜しそうに離れる。自分が何をされたのか理解すると、驚きと戸惑いで口をパクパクさせながら、彼女の顔はみるみる真っ赤に染まっていった。
「フィオナは寝る前、俺の頭を撫でたり、抱きしめたり……こうやって触れていただろう?人間の作法かと思ったが、その様子じゃ違うみたいだな。」
モフモフは彼女の反応を楽しむかのように、悪戯っぽく口の端を少し持ち上げた。そして彼女が反論をする間も与えず、軽く手を振って「おやすみ」と告げると、そのまま背を向けて立ち去った。
フィオナはその場に立ち尽くし、赤い顔でおでこに手を当てて小さく呟く。
「……そんな、そんなに毎晩なんてしてたっけ…?」
夜が深まる静かな廊下に心臓の音だけが響いていた。




