第四話
昨夜、モフモフはエリオットの体の中で焦燥と困惑の一夜を過ごした。
結局、自分の体は戻らず、エリオットの体からも出られないまま、時間だけが過ぎていった。これには彼も「どうすりゃいいんだ」と頭を抱えた。
しばらく考えた後、少なくとも、すぐに解決できる問題ではないことを悟ったモフモフは大人しくエリオットの体で休むことを決めた。
翌朝、エリオットが自然に目を覚まして彼の意思で動いている様子を視覚と感覚を通じて確認したモフモフは肩に荷が下りた心地だった。
(とにかく、エリオットが体を動かせているのは良かった。だが――……)
エリオットの体から抜け出せていない問題に直面する。
モフモフは慎重にエリオットの体内で何ができるのかを確認し始めた。まず、視覚や聴覚などの感覚は共有されていることが分かった。
そして、完全にエリオットの体を動かせないものの彼の行動に少しだけ介入することができるらしいことも。
例えば、今朝の「寝癖を直す」という行動がそうだった。エリオットが寝ぼけた様子でそのまま部屋から出ようとした瞬間、反射的に手を伸ばして乱れた髪を整えてしまった。
まさか、動かせると思わずモフモフも驚いたが、それよりも先に信じられないという気持ちの方が先だった。
(なんでこいつ、この頭で外に出れるんだ?!)
エリオットの姿が鏡に映った瞬間は良かった。昨夜は驚きのあまり、まともに顔なんて見られなかったから、改めてみれば人間の美醜は良くわからないが、整っているであろう顔立ち――…だったが、自分の見た目には無頓着、顔は洗っていたが眠気の取れないとろとろとした顔はそのままで、寝癖も直し切れていない。
モフモフは、手紙を貰って喜んでいるフィオナの顔を思い出す。
(この髪でフィオナに会うつもりだったのか?……信じられない。せめてあいつを失望させるなよ!?)
魔族でありながら、人間の身目を気にする自分もおかしいが、エリオット本人が気にしていないことが一番おかしいと感じる。
その後、モフモフはエリオットの一日を彼の内側から観察し続けた。昨日の事をフィオナに謝罪する場面や買い物の道すがら、近所の人間と会話する彼の様子を見て、少しずつ彼に対する見方が変わってきた。
(悪いやつじゃなさそうだな……)
フィオナとの会話で見せた不器用な誠実さや、近所の人々に向ける柔らかな態度。それは、モフモフが関わってきた数少ない人間たちとはどこか違っていた。
(……まぁ、ズボラなところは許せないが)
そう考えると、少しだけエリオットに対する警戒心が和らいだが、とはいえ彼の体に宿る原因が分からないままでは、自分の存在が彼にとって迷惑になる可能性は否めない。
(まずはこの状況をどうにかしないと……)
モフモフはエリオットの体の中で思案を続けていた。この身体からどうやって抜け出せばいいのか。
――宿主であるエリオットと視界を共有しながらも頭の片隅で脱出の方法を模索する。突然、視界が一瞬途切れた。
そして次の瞬間、彼はこれまで感じていなかった重みで自分が外に立っていることに気づいた。
「は……?」
低い呟きが口から洩れる。その声は紛れもなくエリオットのもので、驚きに目を見開き、周囲を見渡した。自身の右手にはエリオットが買った日用品の入った袋がしっかりと握られている。そして目の前には宿の扉があり、ちょうどドアノブに手を伸ばそうとしていたところだった。
「……待て、エリオットはどこだ?!」
混乱しながら意識を内側へ向ける。すると昨日と同じ感覚――魂と呼ぶであろう大きな力の塊が体の中に納まっているのを感じ取った。
「……そこにいるな」
内心でホッと胸を撫で下ろす。
しかし、同時に状況が全く分からないことに不安を覚えた。ドアのガラスが反射して映す自分の姿は明らかにエリオットで、ドアノブに差し出された左手を恐る恐る動かせば、思ったように動く。モフモフは大きくため息をつきながら、手で顔を覆った。
「…くそっ、早くこの状況を何とかしたいってのに」
エリオットに危害が無い事は幸いだった。
しかし、それ以上にこの器は魅力的すぎる。入って視覚共有する程度ならまだしも、動かせてしまえば自分が何をしでかすか恐ろしくてたまらない。
「気が狂いそうだ……」モフモフは小さく呟いた。
混乱を抱えたままモフモフは再び意識を内側に集中した。助けを求める様にエリオットに呼びかけようと試みたが、彼の意識は無いようで、寝息を立てるかのように穏やかに、ただその場を漂っていた。
(眠っている…?こんな状態で?なにか条件でもあるのか…?)
モフモフは頭をひねるが、自分がこの状態になるのは昨夜と合わせても二回だけ。しばらく様子を見るしかないと観念した。
気を取り直して宿の中に入ろうと、ドアノブに手を掛ける。だが、次の瞬間、ドアが勢いよく開き飛び出してきた人物にぶつかってしまった。
「っ……!!」
思わず袋を手放し、体が後ろに倒れる。その拍子に相手もバランスを崩し、押し倒されるような形で覆いかぶさった。
「フィオナ?!」
倒れたまま、目の前にいる相手を見てモフモフの声が漏れる。
見上げた先にいたのは間違いなくフィオナだった。彼女は下敷きにしたエリオットを見て、顔を真っ赤にしながら涙目になっていた。
「エリオット……!モフモフ見なかった?!」
その言葉に、モフモフは一瞬動揺する。
(…俺?)
フィオナは慌てた様子で何かを考えこむような顔をした後、小さく「あっ」と声を上げた。エリオットの体の上から起き上がり、少しだけ息を整えて口を開いた。
「…えっと、モフモフっていうのは、うちの家族で……昨日から見かけていなくて心配で探していて…あっ!あの子は数年前から一緒に住んでいる小さい狼で……」
早口で話す彼女の様子でどれだけ焦っているかが分かる一方、モフモフは彼女の言葉を聞きながら自分の中で何かが音を立てて崩れるような感覚を覚えていた。
(小さい狼…?家族…?)
フィオナの焦った顔を見た瞬間、モフモフの胸の中には言いようのない感情が沸き上がり、その熱で気づけば言葉が溢れ出ていた。
「……3年前だよ」
その言葉にフィオナは「え?」と一瞬体が硬直し、驚いた表情でモフモフ――エリオットを見上げた。
「……モフモフの事はよく知ってる。3年前からこの家の家族になった、小さい狼の事だろ?」
フィオナは眉を顰め、困惑した表情を浮かべる。
「……説明、してなかった、よね?」
フィオナの声からは、先ほどまでの焦りが消え、疑問の色が濃くなっていた。
「エリオットにはね。」
「じゃあ、どうして……?」
彼女がそう問いかけると、モフモフは息を吞んだ。一瞬だけ目を閉じてゆっくりと深呼吸する。言葉を紡ぐことを止めることはできなかった。
「…俺がモフモフだから」




