第三話
初めて持った判子を興味深く見つめたフェンリルが、その精巧な細工に目を輝かせていたのは最初の十分だけだった。
実際に作業をしてみれば、印面は擦れる。
同じ動きを繰り返すせいで、少しずつ手首が痛む。
しかも量が多い。
(人間はものを頼む度にこんな事をしているのか……?)
思わず痛む手首を擦りながら、残りの作業量を見てフェンリルは顔を歪めた。
フェンリルは人間の文字は読めない。
だが、書類が増えていくごとにロウェルのサインが、文字からミミズのような曲線に変わる様にフェンリルは、書き手の方をちらりと見る。
「……ん?どうかしたか?」
それに気づいたロウェルが、どこかぼんやりとした調子で尋ねてくる。
「別に。」
(今のこいつ相手なら、逃げだせるっていうのに。)
ロウェルは、例え身体が同じでも、エリオットと自分は別だと考える事を知っている。
それでも、自分が逃げだせないのは――……。
(……エリオットに感化されちまったかな。)
そこにいるのは、宿主の気質に絆された貧乏くじを引いた【魔王】が一人。
フェンリルは唇を尖らせ、はぁ……と大きくため息を吐いた。
そんな作業を繰り返し、ようやく残りはロウェルが送り状を書くのみ。という所まで漕ぎつけたのは、大分夜が深まった頃だった。
「いや、本当に助かったぜ。ほら、夜食だ。腹減っただろ?」
そう言って弁当箱を二つ携え、執務室に入ってくるロウェルにフェンリルは無言で恨めしそうな目を向けた。
作業中に軽食は摘まんでいたものの、エリオットの腹はキュウ……と弱々しく鳴いている。
それに苦笑いしながら、ロウェルは弁当箱を一つフェンリルに手渡した。
受け取ったフェンリルは、弁当箱を一瞥し、戸惑いながらロウェルに視線を送る。
「……これは?」
「あぁ、事務の職員に今日でエリオットと書類を仕上げるって言ったら用意してくれてな。だからこれはちゃんとお前のもんだ――……ありがとうよ。」
フェンリルが恐々弁当箱を開けると、そこには、からあげやミニトマト、ハンバーグといった少なくとも主導権を持っているときには食べた事のない食べ物が並んでいる。
思わず、ごくりと喉が鳴った。
「お前がいるからか、いつもより豪華だ。」
ロウェルは笑いながら、フェンリルに箸を渡した。
「あぁ、箸……は流石に使えねぇか。ま、どうせ、俺とお前しかいないし刺すなり手なり、好きなように食えよ。」
布巾はそこだと指を指し、ロウェルは自分の箸を割る。
それを見て、フェンリルも渡された袋から箸を取り出して同じように割った。
パキリと軽快な音を立てて、両手に一本ずつ棒が増える。
(どうしたもんか……。)
勿論、フェンリルは箸なんてものは使えなかった。
エリオットの目を通して箸を使っているのを見た事はあった。
しかし、見るのとやるのでは感覚的に違いもある。
どんな風に食べても良いと言われても、流石に狼の時の様に弁当箱に顔を突っ込んで食べることは、事情を知っているロウェルを目の間にしても気が引ける。
仕方なく二本になった箸をまとめて鷲掴み、目についた唐揚げを突き刺す。
「—―おい。」
フェンリルが神経をとがらせている時に、ロウェルが横から口を出した。
顔を顰めながらフェンリルは声の方向へと顔を向ける。
「弁当箱。持ちながら食った方が零さないぞ。」
箸を向けながらそう言うと、ロウェルはハンバーグを摘まんで口に入れた。
フェンリルは、少しだけムッとした顔をするが、言われた通り弁当箱を持ち上げる。
箸で刺した唐揚げを横から口を大きく開き、ガブリとかぶりついた。
「!」
じゅわ……っと口の中に肉汁が溢れる。
空腹もあって、体が待っていたかのように唾液がどっと出てきた。
魔族の主食は魔力だが、動物の特性を残しているものは、ごく稀に野生の動物を狩って食べることはある。
しかしそれは当たり前に生食だ。調理なんてする事は勿論ない。
ジュルッと口から洩れそうになる涎をすすりながら、フェンリルは夢中で唐揚げに食らいついた。
ロウェルは弁当を食べながら、口に物を入れる度に表情をころころ変えるフェンリルを眺める。
いつも食堂で礼儀正しく食事をするエリオットとの違いに面白さを感じた。
思わず口端が上がる。
「……あんまり慌てて食べんなよ?」
そう言いながら、水を注ごうとコップに手を伸ばした。




