エピローグ
(これは夢だ。)
フェンリルは、目の前の光景を見た瞬間すぐに悟った。
見慣れた天井に、自分を覗き込む一羽のカラス。
あまりにも予想外な場面にフェンリルは思わず、ぱちりと一度瞬きをする。
状況を確認しようと体を軽くよじると、カラスは飛び跳ねながら避けていく。
周辺に目をやれば、どうやらここはエリオットの部屋で、さらに言うならベッドの上だとフェンリルは把握した。
(窓も開いてねぇのに、カラスが部屋に入っているなんて不自然すぎるだろ。)
フェンリルは、よりここが夢だと確信する。
他に変わったところがないか見回すが、カラスがいるという事以外はいつものエリオットの部屋だった。
人間の手を視界の端に捉えた事で、夢だとはいえ自分がエリオットの身体に収まっていることを理解した。
カラスは、フェンリルを確認するようにじっと顔を見つめ、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら近寄ってくる。
「……フェンリル様、ですか?」
頭を傾けながら開いた嘴から、聞き慣れた声が聞こえた。
(……だろうな。)
フェンリルは体を起こす。
「あぁ。」
黒いまん丸の目で見つめてくるカラスを横目に頭を掻く。
そう返事をするや否や、カラスはフェンリルに向かって翼を広げて宙を舞った。
「おいっ?!」
フェンリルは大きな羽音と動きに驚いて目を見開いた。
次の瞬間、カッとカラスの体は光に包まれる。
その光を直接浴びて、フェンリルは反射的に目を瞑った。
光の中でなにかが体に乗るような重さを感じ、そのまま仰向けで倒れこむ。
「んっ……。」
眩んだ目が回復したフェンリルは呻きながら、瞼を少しずつ開いた。
未だにチカチカ眩む視界の中で、濡羽色の髪を持つ端正な顔立ちの青年がエリオットの体を押し倒し、興味深そうにその金色の目をじっと向けていた。
「フェンリル様……、随分と好青年な方にお世話になっているのですね。純朴で誠実そうな……あぁ、駄目ですよ。眉間に皺なんて。」
その青年—―フギンは眉を顰めるフェンリルを注意しながら、楽しそうに、くにくにと眉間の皺を伸ばすように顔を弄ってくる。
そして、その両手はそのままエリオットの顔を包み込んだ。
「ふふっ、顔立ちは悪くないですね。フェンリル様の器として合格です。このフギンが認めたと是非ご本人にもお伝えください。」
久方ぶりに会った側近にいきなり圧し掛かられ、楽し気に顔を弄られたフェンリルは更に不満げに顔を顰めた。
「……お前は一体、何様なんだ。」
そんな言葉すら嬉しそうなフギンは、彼が認めたフェンリルの器—―エリオットの顔を優しく撫でた。
「フェンリル様、知らないのですか?」
フギンが首を傾げると、綺麗な髪がさらりと揺れる。
「カラスは綺麗なものが好きなんですよ?」
フェンリルは、歌うように軽やかに話すフギンから視線を逸らすと、目を伏せた。
「……知っている。」
擦れたシーツの音で消えそうな程、小さく呟いた。
「……です、よね。」
その反応にフギンは少しだけ困ったように微笑み、肩を落とした。
「……それよりフギン、重いからそこをどけ。」
静かになった部屋の中で、大きなため息が響いた。
フェンリルは心底嫌そうな顔で、しっしと、手を振りフギンを体から引き剥がそうとする。
夢の中であるとはいえ、相手の下敷きになっているのは正直気分が悪かった。
しかし、フギンは離れるどころか、エリオットの頭の後ろに手を添えて赤子を抱くように体を起こそうと上体を持ち上げた。
「おい!」
抵抗しようにも近すぎる上、異様に強い力で抑え込まれて、フェンリルはされるがままだ。
フギンは、フェンリルを抱き起すと、首を逸らせて顔を覗きこむ。
「私よりも小さいみたいですね?とても可愛らしいと思います。」
耳元で、くすりと小さく笑いながらフギンは言った。
元の体は狼型魔族だが、一般的な狼よりもずっと大きいフェンリルがどんな生き物に入ったところで皆小さいに決まっているだろう。
どことなく敗北感を感じて、フェンリルは唇を軽く噛む。
「エリオットは平均的だ!というか、どっからそんな力……離れっ!?」
フェンリルは言葉に詰まった。
文句を言い終わる前に、フギンが抱きしめてきたからだ。
夢とはいえ、その密着具合に慣れないフェンリルはどことなく居心地の悪さを覚える。
「……おい、フギンいい加減離れろって。」
フェンリルは先程の威勢はどこへ行ったのか、勢いを弱めて文句を言う。
背中をポンポン叩くも反応がなく、しかし抵抗しようにも腕すら引き剥がせず、無駄に体力を消耗するだけだった。
悔し気に、思わずグルルと喉の奥からうめき声が漏れた。
その様子にフギンは、フェンリルの肩口で悪戯っぽく笑った。
「……どうして力負けしているのか不思議でしょうね、フェンリル様。――それは貴方の身体が『借り物』で私は『自分の体』を使っているからですよ。人間では単純な力比べで魔族には勝てませんからね。」
その昔、フェンリルの魔法の指導者として教えていた時の様な口調で答える。
フギンは、壊れないように、ほんの少しだけ腕の力を強くした。
「—―少し、はしゃぎすぎてしまいました。ご無礼を――器が違えど、私は貴方がフェンリル様だと、魂で確信しています。」
そう言って、フギンはフェンリルの肩に顔をうずめる。
彼の髪が服に擦れる微かな音が、フェンリルの耳元に伝わった。
「……ただ、どうか、この懐かしく、貴方を愛おしいと想う気持ちを、抱擁を通して感じさせてください。」
その声色は柔らかかったが、どこか懇願するような響きだった。
フェンリルはフギンの肩に顔を押し付けられたまま、その言葉にどう返せばよいか分からない。
口は開くと閉じるを繰り返す。
ただ、何かを返したいと思ったフェンリルの手は自然とフギンの背に回り、ぎこちなくその背中を擦ったのだった。
どれほどの時間が経っただろうか、フギンは仕切り直すように大きく深呼吸をする。
最後に、ぎゅっとフェンリルを抱きしめる腕の力を込めた後、ぱっと体を離した。
少しだけ照れ臭そうに、はにかむ様子で笑う。
「……さて、フェンリル様。私の願いは覚えていますよね?」
そう言ってフギンはベッドから降りて立ち上がると、フェンリルに向かって手を差し出す。
「っ……。」
この夢の終わりが近いと感じたフェンリルは、一瞬だけ躊躇う仕草を見せた。
しかしすぐに、その手をしっかり握り返す。
「……勿論だ。」
そう言い切ると、フェンリルはベッドから立ち上がった。
足を一歩踏み出した途端、その景色は一変した。
雑踏の音が耳に広がる。
フェンリルの目の前には、彼の知らない人間の町の景色が広がっていた。
賑やかな街並みの中で、人々が笑い、行き交う。
石畳を叩く靴音と子どもたちの笑い声、どこかから香る食べ物の匂い。
辺りには、色とりどりの花びらのようなものが美しく舞っている。
現実のような夢の世界に、フェンリルは呆気に取られながら町を見回した。
「これが、お前が俺に見せたかった光景か……?」
「……えぇ。夢でも、姿が違おうと、貴方と一緒にこの場所に来れた。……私は、幸せです。」
フギンは想いが込み上げた様に顔を上に向けると、満足そうに目を細めた。
「……覚えていてくれたのですね。」
「当たり前だ。――……ずっと、忘れることなんかできない。」
フェンリルの声は震えていた。
「……泣かないで、フェンリル様。」
フギンは振り向くと、優しく微笑む。
その白く細長い指で、フェンリルの目から静かに流れる涙をそっと拭った。
フェンリルは、フギンの指に触れる涙の温度を感じて、胸が締め付けられる。
フギンと共に人間の町にいる事はありえない。
しかも、エリオットの身体で。
(――やはり……ここは夢の中だ。)
そして、夢は必ず覚める。
フェンリルは唇を噛むと、小さく鼻を啜った。
「……これは、この身体の……エリオットが悪い。」
バツが悪そうに、顔をゴシゴシ袖で乱暴に擦ると、フギンが「やめなさい。」とその腕を掴んだ。
そして懐からハンカチを取り出すと、優しく顔を拭う。
「変なところで意地を張る所は、ちっとも変わりませんね。」
フェンリルは小さく「うるせぇ」と返すと顔を背けた。
「もしも魂が器に影響されているのだとしたら――エリオットさんは、きっと優しい方なのでしょうね。」
フギンはどこか安堵したように息を吐くと、笑みを浮かべた。
「ここの屋台の食べ物が美味しくって、きっとフェンリル様も気に入ったと思います。」
「そうか。」
フギンはフェンリルの手を引いて町を歩いていた。
歩くたびに、フギンはあちこちを指さし「ここで出会った方は楽しい方だった。」とか「この方の作る料理は絶品だった。」と嬉しそうに話している。
手を引かれながら、その横顔を見てフェンリルは時折頷きながら聞いていた。
「これがお前の理想なんだな。」
「えぇ、これが私の理想です。」
街角の影から抜けるフギンは光の中で、フェンリルを振り返りながら答えた。
「だから貴方に見て欲しかった。あぁ……幸せだ。これが一時のシャボン玉のようなものでも。」
「シャボン……玉?」
聞き慣れない言葉にフェンリルは首を傾げる。
「フィオナちゃんが洗濯をしているときに見た事はありませんか?あれですよ。」
フギンが空いている方の腕を流れる様に振り上げる。
すると、空に舞っていたものが球体に姿を変えた。
夕日に染まった空の色を閉じ込めて、ふわふわと舞うそれをフェンリルは美しいと感じた。
思わず手を伸ばし、シャボン玉に触れようとする。
しかし、それはほんの少し指先に触れた途端、ぱちんと儚く消えていった。
「あっ……。」
声が口から洩れる。
それと同時にフギンが何を言いたいか理解したフェンリルは、シャボン玉に触れた指を見つめると、そのままゆっくりと握りしめた。
「……すっかり夕暮れだ。帰る時間、みたいですね。」
フギンは風で流れた髪を整えながら、困ったような笑顔で空を見つめていた。
フェンリルはフギンとつないだ手を両手に持ち替えると、強く握りしめる。
「……いやだ。」
顔を小さく左右に振って、今にも泣きそうな顔でフギンを見つめる。
その手は震えていて、これが一時は魔族の頂点にいた【魔王】フェンリルだと思う者はいないだろう。
「貴方のそんな顔、初めて見ました。――死んでみるものですね。」
冗談めかしながらフギンは笑うが、それには騙されないとでも言うように、今度はフェンリルの方からフギンを抱きしめた。
例え相手には、すぐに離せる力があると知っていても、もう後悔はしたくなかった。
「もう俺には、あの時一緒に過ごした奴らが誰一人だっていないっ!……俺は、お前らと一緒にこんな国を築きたかった!!」
必死に噛みしめていた言葉と、堰き止めていた涙が一気に溢れだした。
「……私の服は、ハンカチじゃないですよ。」
そう文句を言いながらも、フギンはフェンリルの背中を優しく擦った。
「私の夢は、確かに潰えました。……でも、貴方はこの夢をしっかりと引き継いでくれています。」
フギンは幼子を宥めるように頭を撫でる。
いつの間にか雑踏の音は聞こえなくなり、フギンの言葉だけが響いていた。
「……この夢の本質は、魔族と人が歩み寄って生きる事。……ねぇフェンリル様、貴方が一番知っているでしょう?そんな魔族と人間を。」
フェンリルは顔を上げた。
「貴方がこの方を、エリオットさんを助けたいと思った瞬間、共生の魔法は完成しました。同時に証明されたんです。――私とあの方との間にあった信頼や愛情は本物だったと。……証明してくれて、本当にありがとう。」
フギンは笑いながら泣いていた。
涙は夕日に照らされて、宝石のように輝きながら消えていった。
「……本当にお別れです。そろそろ彼も目が覚める。」
フギンは惜しみながら体を離す。
逆光で表情は分かりづらかったが、フェンリルはフギンが笑っている事はなんとなく分かった。
「もう……会えないのか?」
目元は腫れているし、泣きすぎて頭も痛い。
けれど、フェンリルはフギンを離したくはなかった。
「そればっかりは。そもそも私は貴方が作り出している存在かもしれない。はたまた、魔石と接触した事や共生の魔法の魔力の残骸かもしれない。……そんな曖昧な私でも、貴方は会いたいのですか?」
「会いたい。」
間髪入れずに答えるフェンリルに、フギンは目を丸くした。
夕日が影に飲まれていく。気づけば町から人や建物がぽつぽつと影に溶けて消えていった。
その光景を見て、フェンリルは体を震わせる。
夜は魔力の循環が良くなる、魔族がずっと待ち侘びている時間だ。
その筈なのに、フェンリルは生まれて初めて目の前に迫る夕闇に恐怖を感じた。
震えるフェンリルの手を支える様にフギンが握る。
「……大丈夫。また会えるように、ここに私たちがいると合図しますよ。……あの時はさようならの意味でしたが。」
「さようなら?合図?」
フェンリルが疑問を口にしている間にも、影は町も、建物も、人も、そしてフギンも例外なく覆っていく。
支えられていた手も暗闇に隠れて無くなってしまった。
手を伸ばしても、どこにも届かず何も掴めなかった。
いつのまにか、何もない真っ暗闇の中でフェンリルは立っていた。
夢のような光景はやはり夢だった。
「あぁ……分かっていた。分かっていたんだ……。」
悲しみと孤独感が胸を締め付けていく。
思わずその場にしゃがみ込もうとした時だった。遠くから何かの音が聞こえた。
アオオーーーン
(音じゃない、なんだ?遠吠えか?)
それにしては、少し違和感のある鳴き声だ。
どこか無理をしているような。
「……あっ。」
フェンリルは一つだけ感じていた違和感を忘れていた。
あの日、悪天候の中、慣れない身体で逃げて、逃げて山を下っていた。
その最中に聞こえた微かな声。
ここで生きている狼型の魔族は自分だけだから、聞こえ間違いだと思っていた。
しかし今、その答えがはっきりとわかった。
フギンの遺体の形は【魔王】の情報を撹乱するためではなかったのだ。
(あいつが別れの挨拶で鳴いていたんだ。)
「ハハッ、下っ手くそな遠吠えだなぁ。」
フェンリルは笑いながら涙を流した。
(違和感があるのは当たり前だ。あいつはカラスなんだから。)
あの時応えられなかった後悔を晴らすように、彼は大きく息を吸いこんだ。
エリオットは目を開く。
今日は天気が良いのだろう、カーテンから洩れる朝日が眩しい。
「……あれ?」
ベッドから体を起こすと、手の甲に水滴が落ちた。
それが自分の涙だという事に気づいて、袖で拭う。
けれど、涙は止まらない。どんどん溢れ流れていく。
「なんで……なんでこんな。」
困惑した彼の頭に声が響いた。
『……おはようエリオット。』
「フェ、フェンリルこれは!」
まるで子供のように泣いていることを恥じる様に、エリオットの顔が赤くなった。
『別に気にしねぇよ。……あぁ、そうだ、お前褒められてたぜ?』
ようやく涙が止まりかけて、鼻を啜るエリオットはきょとんとした顔をした。
(夕方以降の話かな?)
「えぇっと、何を……?」
『顔』
「顔……。」
エリオットは何とも言えない表情になる。
剣の技術や生活態度だったら素直に喜んでいただろうが、顔。
エリオットは戸惑いながらフェンリルに尋ねた。
「……因みに誰から?」
『……俺の大切な仲間。』
フェンリルは軽く笑いながら答えた。




