第六話
待機期間中、エリオットは外出できなかった。
この食事処に駐在所の職員が来客する可能性もあり、必然的にエリオットは、部屋に閉じこもるしかなかった。
しかし、時間は確実に流れる。
読書をし、寝転がり、フェンリルと他愛のない会話を交えるうちに、窓から見える景色はオレンジ色に染まっていた。
「そろそろ、かな?」
エリオットは、夕食にフィオナが持ってきてくれたおにぎりを一口食べる。
『……そうだな。』
定刻が近い。
エリオットは、自分の頭に響くフェンリルの声が微かに震えている事に気がついた。
「—―今日で、全部片づけようと思わなくていいよ。」
『は?だがお前、期日になったらロウェルが来るんだぞ?俺たちを殺しに。』
「……それはそうだけど、あんまり急ぎすぎると、それはそれでよくない気がするんだよね。」
そう言って、エリオットは漬物を口に運んだ。
「フギンさんは凄い魔法使いだったんでしょ?僕はスクロールを見ていないけど、きっと複雑なものだろうと思う。だから慎重にお願いしますってことだよ。」
返す言葉もないのか、喉がぐるぐる鳴った。
それにエリオットは、ふっ、と小さく笑った。
「君のこと、信用してるから。」
その瞬間、エリオットの頭が前触れなくガクンと一瞬傾いた。
だが、すぐに持ち上がる。
閉じていた目が、うっすらと開いた。
ゆっくりと顔を上げたフェンリルは、真上を見据えて、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「信用には応えねぇとな。」
決意をこめたその言葉は、静かな部屋に深く響いた。
共生の魔法のスクロールは、一度大まかには見ていた。
それはエリオットに自分の正体を明かした日の夜。
本人に干渉することなく、体から出ようと試みてもうまくいかず、最終的にエリオットの体に世話になると決めた日だ。
(スクロールに記されていた、この魔法が解かれる条件は、【対象者の身体に入った魂が回復した時】だったはずだ……。)
魔族の身体は、ほとんどが魔力で構成されている。それは魂と呼ばれる部分も例外ではない。
フェンリルの魂、つまり人間でいう所の魔力は、体内の魔力貯蔵量が多いエリオットの身体のおかげで、ずいぶん回復はしていた。しかし完全な回復には程遠い。
深く呼吸をして、フェンリルは周りにある魔力を纏うように指先を動かした。
五本の指が円を描けば粒子が集まり、絡み合った魔力の塊を両腕で開くと、それは本のような形状に変わり空中に浮かんだ。
それをペラリと捲ってみれば、細かい術式がぎっしりと並んでいた。
フェンリルは、魔法に対して知識がないわけではない。だが好きだともいえない。
思わず、眉を顰め「うわっ」と小さく呻いた。
「……相変わらず、分厚いスクロールだな。」
ぼやいた口の端がひきつった。
彼は小さく息を吐いて、気を取り直す。
そして、エリオットからの「慎重に」という言葉を思い出し、ベッドに腰を下ろした。
鳥のさえずりとカーテンの隙間の光で、僅かに目を開けたエリオットの頭に、微かに声が聞こえた。
『……まだ寝ていていいぞ、すこし前に布団に入ったところだからな』
眠気にあらがう様に一度ぎゅっと瞑ると、気合を入れて上体を起こす。
「そうも……言っていられないよ。」
エリオットは、大きく伸びをして欠伸を一つこぼした。そして、軽く目をこする。
『……フィオナがさっき来て、机に朝飯を置いていった。』
フェンリルは、息を吐くといつも通りの声量に戻して、エリオットに伝える。
その言葉に机をみれば、皿に乗ったいくつかのおにぎり、傍らに小さなポットとコップが添えられていた。フィオナの心遣いが嬉しくなり、思わず顔が緩む。
「せっかく持ってきてくれたんだ。美味しいうちに食べよう?」
『まぁ、そうだな。』
エリオットは、ベッドから立ち上がると洗面台へ向かった。
冷水で顔を洗い、少しずつ意識がはっきりしていく。
ただ一瞬、タオルで顔を拭く途中、そのフワフワとした感触が心地よくて瞼が落ちかけたが、その瞬間小突かれる様に強めに顔を拭かれて、エリオットは眠気の誘惑から引き戻された。
いつもの様に、姿見の前に椅子を置くとエリオットは腰を下ろす。
おにぎりに手を伸ばしながら、エリオットは鏡を見た。
「……それで、昨日はどうだった?」
『……とりあえず、ちゃんと見直した。お前にも見せてやりたいよ、あの化け物みたいな分厚いスクロールをな。』
ため息交じりに少しだけ愚痴をこぼしながら、フェンリルは答えた。
『—―だが、まぁ問題はなんとなくわかったぜ。』
得意げな表情が目に浮かぶ、フェンリルの弾んだ声にエリオットは、ふふっと笑う。
『まず、この共生の魔法の解ける条件は【対象者の身体に入った魂が回復した時】、それは最初お前にも言ったよな?』
おにぎりを食べるエリオットは、声が出せない代わりに鏡に向かって首を縦に振る。
『それで、ここからなんだが――……、魔族の身体はほとんど魔力でできているってのは、人間の方には知られているか?』
どこか、言いづらそうにフェンリルは言葉を紡ぐ。
「んぐ……!そうなんだ?!」
おにぎりを詰まらせ、咳をし始めたエリオットに、フェンリルは「説明してやるから、落ち着け」とエリオットを窘めた。
『大体俺たち魔族の身体は半分以上は魔力でできてる。ほら、お前ら人間が魔族を倒すと、いつの間にか消えていたりするだろ?あれは大気中の魔力に溶けてるんだよ、だから遺物もあまり残らない。まぁ例外として魔法の発動中に倒されたら、濃度が濃くなった魔力が固まって魔石になったりはするが。』
『残りの半分は?』
話すことと食べることは一度にできないと悟ったエリオットは、頭の中で疑問をフェンリルに尋ねた。
フェンリルは、自分が説明をするたびに、エリオットの反応が波のように伝わり、その熱心な姿勢と好奇心に、どこか嬉しい気持ちになる。
『エリオット、人間たちの装備品は何で出来てる?』
そう答えると、エリオットから「あっ……」という声が漏れた。
『そう、俺たちの皮や角……種類にもよるが、見てわかる部分が残りの半分だ。大気に溶けず、そのまま残る。他の生き物同様、黙っていれば土に還るが。……あぁ、フギンから聞いた話だと、最近じゃ体液も使われるらしいが、その辺は知らん。なにか魔力に溶けない様な魔法でも作ったのかもな。』
フェンリルは、魔族の遺体の扱いは長い年月を生きている事もあり、そんなものだと淡々と答えていた。
しかし、エリオットの気持ちは複雑なようで、それがなんとなく伝わる。
『話を戻すぞ?それで俺の魂と呼ばれる部分も魔力になる、それが今お前の身体に入っている。――ここで、考えてみてくれエリオット。今、俺が俺でお前がお前だと認識できるのはなぜか、わかるか?』
『いや、そんな……体の中どころか、見た事もない魂なんてわからないよ。』
『深く考えなくていい。俺とお前が一緒の家に住むとして……お前はどうやって自分の縄張りを作る?』
エリオットは、そうだな……と考えながら、お茶をコップに注いでゆっくりと飲む。
「……せめて線か何かを引くかな。」
『その通りだ。エリオットの身体の中も、そうやって魂の間に仕切りが作られてる……今回の問題はその仕切りだ。フギンの組んだ術式じゃ、この仕切りはお前の魔力が元になっている。』
「……勝手に使われているのは、正直納得できないけど。それは何が問題なの?」
『—―俺たち魔族の核、つまり魂は、魔力を集める性質があるんだよ。』
エリオットは唇に指を当て、その言葉を一度整理して考えた。
(……それは、まずいんじゃないか?)
徐々に表情が強張り、困惑の色が浮かぶ。
フェンリルは、大きく息を吐いて説明を続けた。
『……夕方に俺がお前の身体を扱えるようにするのは、この魔族の性質を表に出すためだ。夜の方が魔力の循環が良くなるからな。それを吸って回復に使っている。……完全な夜になる前、日が沈むまでの僅かな時間。夜と同じ量の魔力を吸うように術式が組まれていたら……。余計に吸うのは誰の魔力だと思う?』
エリオットの背筋に冷たいものが走った。
「仕切り……。僕の、魔力でできた……。」
『正解だ。――ただ、一つ疑問がある。どうしてお前の身体に影響が出ているか、だ。』
フェンリルはそう言うと、エリオットの手のひらをくるりと回し、指を曲げて爪を見た。
ロウェルから指摘を受けた時から変わらず、爪は黒に染まり、先は鋭い。
『今の状況が特殊すぎて比較のしようもない。だが、仕切りがなくなって、もし俺が俺で、お前がお前だと認識できなくなったら、普通、体の変化より内面—―たとえば、身体の主導権の時間がおかしくなったりするのが先な気がするんだが。』
「それは……、こちら側の事情かもしれない。」
エリオットは、爪から視線を外し、正面の姿見に目を据えた。




