第二話
困惑と混乱と思いがけず自分の思ってしまったこと――
(俺がコイツだったら、フィオナをあんな顔をさせないのに……!)
それが現実になり、どこか罪悪感めいた感情が胸の中をざわつかせ、彼は頭を抱えながら考える。
(……こんな芸当ができる手段は、魔法だろうが俺は一切使っていない。)
怒りに任せてエリオットに詰め寄ろうとはしたが、少し懲らしめてやろうと思っただけ。――あの姿で精々できることと言えば、寝床を荒らしたり、耳を引っ張ったり。その程度の嫌がらせの筈だった。
それがどうして今、自分はエリオットになっているのか、皆目見当がつかない。
モフモフは、鏡に映るエリオットの姿をじっと見つめる。
これが自分の意思で動いている事を未だに信じることが出来なかったが、どうしようもなく抑えきれない興奮が、ある言葉を彼に喋らせた。
「……フィオナ」
気が付けばその名前が唇から零れていた。
自分の耳に届いたその声に、モフモフは息を飲む。普段、動物の声帯では絶対に発することのできない言葉を――まして、フィオナの名前をこんなにはっきりと呼ぶことができたのは、初めての事だった。
心臓が高鳴り、体が熱くなる。
(これなら……俺はフィオナの、――)
そこまで考えて、モフモフはその考えを打ち消すように頭を振った。
「いや、こんなことしている場合じゃないだろ……!」
高ぶりかけた感情を無理矢理押さえつけ、現状を整理するために目を瞑る。
――この身体で何が起こっているのかを知る必要がある。
意識を集中させ、この身体の内側に感覚を向けた。奥深くまで探っていくと、大きな力の塊のような存在を感じた。それは静かで重々しいが、炎が揺らめくような律動を刻み、「生きている」感触を持っていた。
(……これがおそらく、エリオットの魂だ。)
モフモフは直感的にそう感じた。これが自分のものではないことは明白だ。
――つまり、エリオットは生きている。
いまだに全容が分からない状態だが、少なくともこの身体の主に危険が及んでいないことを確認できた瞬間、モフモフはようやく緊張が少しだけ解くことができた。
「ふぅ……」
大きく息を吐きながら、無意識に髪をかき上げる。
「とりあえず、人死には出てないみたいで助かった……」
この身体の決定的な何かが失われていないか心配していたがそれも杞憂に終わったようだ。その一方で彼は、自分の行動に違和感を覚えた。
前髪をかき上げる……?自分は元々狼で、そんな仕草をする必要ないはずなのに、無意識に……?
寧ろ自分の方が、この身体の影響を受けているのではないのか?
そう考えた途端、モフモフはじわりと嫌な汗をかいた。
大きく息を吸って、吐く。
「……いや、まだ大丈夫だ。とにかく早いとこ、ここから出ねぇと」
モフモフは、冷静になる為に自分に言い聞かせるように呟く。
その時だった。
コンコン
軽めの音が静寂を破り、心臓が跳ねる。モフモフは驚きのあまり腰を抜かしかけた。
(……!!!起きたのか?!)
彼女は自分を抱いて寝ていたはずだ。起きていたとしても、この部屋に尋ねてくるとは思わなかった。
「……エリオット、少しだけ……良い、かな?」
ドアの向こうから聞こえたのは、どこか遠慮がちなフィオナの声だった。
きっと昼間の出来事のせいだろうとモフモフは察した。
未だに慣れない二足歩行でよろよろとドアの前まで移動する。途中で壁にバランスを取りながら、やっとのことで辿り着くと、ドアスコープを覗き込んだ。
フィオナは目線を下に下げて立ち尽くしていた。元気がない事は一目でわかる。
今すぐにでも、励ましたい気持ちが溢れそうになり、ドアノブに手を掛けた。
しかし、彼女が用事があるのは、あくまでエリオットであり、自分ではない。
(仮にこの事が見抜かれたとして、自分がエリオットの体の中にいるとどう説明すればいい?自分自身まだ何も理解できていない。……そんな状況で彼女と会うのは良くない。)
ドアノブを握っていた手の力が抜けた。
「……エリオット。」
寂し気な、その声を聞いてしまったら、もう駄目だった。
口が勝手に言葉を零す。
「……ごめん、今、手を離せなくって。ドアを開けられないけど……どうかした?」
(やめろ!)
モフモフは心の中で叫んだ。関わってしまったら、戻れなくなる――そんな気がするのに。
「!!……エリオット、起きてたんだね。あ、あのね、引っ越してきたばかりだから、何かお手伝いできるかなって……」
自分の言葉に、フィオナが反応して、喜んでくれたことが嬉しくてたまらない。
心臓が苦しくなるくらい、どんどん熱くなっていく。
「ありがとう。けど俺ももう休むところだったから、大丈夫……また機会があったらお願いしても良い?」
その言葉を発すると、扉の向こうのフィオナの嬉しそうな息遣いが聞こえた。
ここに来た時よりもずっと明るい声になっている。
「……!うん、分かった。いつでも呼んで!」
その声を聞いて、モフモフは泣きたいくらいに胸を熱くなるのと同時に締め付けられる。
遠ざかる足音は、弾むように軽くなっていた。その音が、さらに胸の痛みを強くする。
(……求めてるのは、俺じゃない、エリオットだって。分かってる。……分かってるよ。)
扉を背にずるずるとしゃがみ込んだ彼は、手で顔を覆うと、痛みに耐える様に体を丸めた。
しばらく体を丸めたまま動かなくなっていた彼は、その間もこの状態の解決方法を必死に考えていた。
頭だけでも動かしていないと、何かに飲み込まれそうだったからだ。
(……だが、魂なんてものを扱えるほど高度な魔法を使える奴なんて――)
「あっ……」
――いた。
思い浮かんだのは、逃げる間際に自分をこの子狼へと変えた人物。
直接的な暴力こそが力の証とされる魔族には珍しく、あの男は魔法を好み、やがて卓越した技術を自ら生み出していった。
脳裏に浮かんだのは、自分に向けて穏やかな口調で説明する彼の声。
「……これはもし貴方が逃げることになってしまっても、安全に回復できる手段になります。条件は……そうですね、貴方が負の感情を一定時間以上感じたら。で、どうでしょうか?」
そう言うと、彼はモフモフの額にそっと手をかざした。
「たしか……その魔法の名前は……」
モフモフは顔を上げて、唇を震わせながら呟く。
「……共生の魔法……」
あの男は確かそう呼んでいたはずだ。
他種族の中に魂を宿らせる魔法で、その中で術者の魔力や生命力の回復を安全に、そして効率的に行う術式だった。だがそれは緊急時に発動する仕組みになっていたはずだ。
「……自動発動する魔法にエリオットが巻き込まれたってこと、か……?」
モフモフは歯を食いしばる。
(確かに、エリオットに対して負の感情は抱いていた……でも、今じゃねぇだろ……!)
自然と握りしめた拳にも力が入る。
「くそ……あの時もっと話を聞いときゃ良かった!」
当時の自分は、逃げるような状況になるとは微塵も思っていなかった。発動することもないだろうと高を括り、肝心の解除方法すら覚えていない。
もどかしさが渦巻く。過去の自分の浅はかさを痛感しながら、モフモフはこの現状をどうするべきか必死に頭を巡らせた。
この身体をエリオットに返す。そして、できるなら今日の事は全てなかったことにしたい。ドアの向こうで何も知らず嬉しそうな彼女の声を思い出して、その気持ちは強まった。
(きっと、ここにいる限り、俺はどんどん欲しがってしまう。)
この身体で自分の欲を満たすことは、とても身勝手だという事も分かっている。それでも、フィオナに伝えられて、触れ合える。それができるこの身体はモフモフにとって最高の器だった。
(でも、それはきっと、フィオナが望むことではないだろう……俺は、彼女を悲しませたくはない)
モフモフは自嘲するように笑うと、ゆっくりと手を開いた。手は静かに震えていた。




