エピローグ
昨夜の出来事から一夜明けた朝。
朝日がまだ昇っていない薄暗い部屋でエリオットは目を覚ます。
身を起こして、目を軽くこする。
ぼぅっとした頭が徐々に覚醒していく。
思い出すのは昨夜の出来事。
モフモフが自分と会話をしないならば勝手にするとフィオナに手を出した事。
しかしそれは彼にも苦渋の行動だと知った事。
そして、モフモフが――魔王フェンリルはここに逃げ込むまでずっと孤独だったこと。
肩書きしか見ず、全く彼自身を見なかったことや会話をしなかったことを反省する。
だが、その後フィオナの部屋から出る際、彼女の頬にキスをして「今のところは」挨拶にしておくと言った出来事を思い出す。
エリオットは身を縮めた。「うぅ……」と小さく唸る。
頭を抱えて顔がみるみる赤くなっていく。
(……今は恥ずかしがっている場合じゃない!)
頭を振り、気を正す。
朝の弱い彼には早く起きる理由があった。
エリオットはベッドから降りた。
姿見の前に椅子を運び、そこに腰を下ろす。
身を屈めて囁くように鏡に語り掛けた。
「……モフモフ、起きてる?」
静寂が広がった。
昨日までの出来事は夢だったのかも。
エリオットは楽観的に考え始めた。
だが、その淡い期待は頭の中に響く声で砕け散る。
『……あぁ、起きてる。なんか用か?』
ふぁあ……と欠伸の声まで響いた。
エリオットは、自分の中にいる存在を認めざる負えなかった。
今度は真剣に向き合おう。息を一つ吐く。
握りしめた拳からじっとりと汗が滲む。
緊張した面持ちで正面の姿見に視線を上げる。
ゆっくりと、迷いながら。
『へぇ……?』
面白がるような、意地の悪いモフモフの声が響く。
『俺と会った時から自分の目、見れなくなっていたのにな?』
「自分の体が勝手に動くんじゃないかって、怖かったんだよ。」
エリオットは苦笑した。
いまだに恐怖を覚えている。
鼓動は早まり、声も震える。
「……でもこうする事でしか君と目を合わせられないだろ?」
緊張を自覚して、鏡に映る“彼”の顔をまっすぐに見つめた。
『それで?仕事にしても早い、こんな朝っぱらから一体何の用だ?』
時折目を泳がせ鏡を見るエリオットの様子を見てモフモフは尋ねた。
不器用ながらも向き合おうとしているエリオットに自然と声が弾む。
エリオットは口ごもるが、深呼吸をした。
「……謝りたかったんだ、君の事を無断で調べた事。」
絞り出すようにそう言うと唇を噛んだ。
(……いったい何を言われるかと思えば)
エリオットと体を共有しているモフモフには、彼の心臓が早鐘を打っていることが伝わっている。
モフモフは内心、薄く笑う。
それはエリオットの生真面目さに呆れる気持ちとようやく自分を見てくれた喜び。
そして――昨夜の行為で拒絶されなかったことへの、安堵の笑いだった。
しかし、彼の素直ではない減らず口は皮肉を吐き出す。
『知らない魔物がいれば、先遣隊を出して調査する。そして被害を最小限に抑えるっていうのは普通だろ?謝る事じゃない』
それを聞いてエリオットは困りながら笑う。
「……意地の悪いこと言わないでくれ、覚えてろよ。なんて言っていたのに。」
鏡に映るのは眉を下げ哀しそうな顔をしたエリオットだ。
本気で謝っていることに気づくと、モフモフは揶揄う事をやめた。
『……エリオット、お前の口を貸してくれ。』
「どうして?こうして話せているじゃないか。」
『ちゃんと声に出さなきゃ、伝わらない事だからだ』
いつにもまして、強引なモフモフに困惑する。
エリオットが了承すると、口がひとりでに動く。
「……悪かった。」
ぽつりと静かな部屋に響く。
「お前の身体を使ってフィオナに手を出したこと、少し脅しすぎた事、何よりこの状況にしてしまった事……悪いと思っている。」
喉がモフモフの言葉で震えた。
彼の言葉が確かに、そこに宿っている。
エリオットは自分にモフモフが……魔王フェンリルが素直に謝ったことに驚く。
自分の中で魔族、とりわけ魔王はもっと理不尽で横暴で凶暴だと思っていた。
思わずため息が出る。
(……どれだけ自分が肩書に囚われていたか、分かっちゃうな。)
相手の言い方は意地が悪いが、意思疎通を初めてできた気がする。
エリオットは奇妙な同居人に警戒心を解き始めた。
肩の力が少し抜ける。
「君が望んでこういう状態にしたわけじゃないって聞いたから……。確かにフィオナに手は出さないで欲しかったけど、謝って許してもらったのは見ていたし……。」
鏡をまっすぐに見つめる。
もう声は震えていなかった。
「僕も君を決めつけて、恐れて……無視をしてしまってごめんなさい。」
相手に手を差し伸べる様に素直な謝罪を口にする。
一瞬の静けさの後
『へぇ……』と感心したような声が頭に響いた。
(意外と話せる奴じゃないか。)
モフモフは鏡から覗き込む。
すると、鏡に映るエリオットの口角が上がった。
くすぐったそうに笑っている。
エリオットはそれが自分の意思ではないことが分かった。
(……種族が違っていても、嬉しいときは笑うんだな。)
笑顔につられ、エリオットは力を抜いた。
カーテンの隙間から、朝日が僅かに漏れる。
徐々に部屋が明るくなっていく。
日が昇ったのだ。
モフモフは、それをエリオットの視界で気づいた。
『……じゃあ、この件はこれで終わりだ。』
静かな部屋にモフモフの声が響く。
『お前はこれからは俺の話を聞くし…』
エリオットは軽く頭を頷かせる。
『俺も……なるべくお前の意思に添えるように努力する。』
大事な確認をするように、エリオットの口が開いた。
「……それで、いいんだよな?」
鏡に映るエリオットの表情は、笑いながらも眉を潜ませていた。
勝手に身体を使われた事より、エリオットは彼の事を思った。
(……君も不安なんだね。)
種族が違う。
価値観も違う。
弱体化しているとはいえ元魔王と体の中で同居なんて今まで聞いたことも経験もない。
それは相手も同じなのだと気づいた。
(だけど、君は僕を見てくれていたんだ。)
……それならきっと歩んでいける。
「そう、だね。」
不安は多い。けれど期待を抱きながらエリオットは返事をした。
『それならこれからの話をしよう、エリオット。』
仕切り直すような声でモフモフは尋ねる。
『……時間、大丈夫か?』
そう言われ、ハッとエリオットは時計に顔を向けた。
時間にはまだ余裕がある。
だが、そろそろ食事を取った方が良い時間帯だ。
服を取りに立ち上がり、行きかけに鏡を見た。
「その……ありがとう、モフモフ」
ふと、目を逸らして、けれどはっきりと続ける。
「これから、よろしく。」
暖炉の火は消えてしまった。
だが、その下には確かな温かさが残っている。




