第十四話
フィオナはどこか泣きだしそうなその表情に、出会った頃のモフモフを思い出した。
そっと手を伸ばして、彼の頭を優しく撫でる。
それに対してモフモフは驚き、身体をこわばらせてフィオナを見つめた。
その動揺は内側から見ていたエリオットにも伝わる。
決して語られることのなかった言葉がモフモフの動揺によって堰を切ったように、エリオットの心に流れ込む。
まるで水面に雨が落ちる様に波紋が幾重にも重なるような胸の痛みに襲われた。
【……受け入れられなくても良い】
【だけど、せめて】
【フィオナだけは……フィオナとのつながりだけは奪わないでくれ】
(こんなに痛くて苦しいのに、何故君はこんなことを続けているんだ?!)
フィオナに近づくたびに、波紋が細かく痛みが増える。
(こんなことをしたって、フィオナや僕が嫌がることは分かっているだろう?!)
痛みが増えるという事は、モフモフ自身が傷ついているという事だ。
本位でやっている事ではないことは明らかだった。
先ほどまでは、自分の体を勝手に使ってほしくない一心だったが、エリオットは自分の為ではなく、モフモフの為にこの行為を止めなければならないと強く願った。
モフモフは再びフィオナとの距離を静かに詰めた。
顔をわずかに傾け、今にも口付けしようとした刹那、水面に深く沈んでいた思いが溢れだすように、大きな波紋が生まれた。
【もう】
【もう、ひとりになりたくない】
『……やめてくれ、モフモフ』
絞り出すような声に、モフモフは動きを止めた。
ようやく、エリオットの言葉がモフモフの意識に届いたのだ。
「……フィオナ、悪かった。」
低く小さな声でモフモフはフィオナに言った。
エリオットの声が聞こえた。
そのことに少しだけ救われた気がして、モフモフはフィオナから体を離そうとする。
しかし、それに反してフィオナは撫でていた彼の頭を自分の体に抱え込むように体を寄せた。彼は一瞬身じろぐが、フィオナは確かに彼を抱きよせた。
「フィオ……な、何を」
困惑の声を上げる彼の頭を優しく撫でて抱きしめる。
「……君はあの時から、ずっと泣いていたんだね。」
モフモフは動きを止めた。
フィオナはあの時濡れそぼっていた彼が、魔族だろうが狼だろうが関係なく、たったひとりでここまで来たことを失念していた。
元気になったモフモフを見て母は言った。
「……今は良いけど、もう少し大きくなったら森に返すのよ?」と、
それを聞いた彼は「だから俺、一生このまま、子狼の姿でいいやって思ったんだぜ?」と言っていた。
フィオナは最初、自分に懐いてくれているんだと思っていた。
それも確かにあるかもしれない、けれど理由はそれだけじゃなかったのだ。
(……帰る場所がないんだ。)
そのことに気づいたフィオナは自然と涙があふれる。
「……モフモフ、良いんだよ。ここに居て。君がエリオットから出たって、どんな風になったって、君はここに居て良いんだよ。」
自然と抱きしめる力が強くなる。
「だって、君の家はここなんだから。」
腕の中でモフモフはびくりと体を震わせた。
異物である自分が一番求めていた言葉なのに、信じていいのか戸惑っていた。
けれど彼の行き場のなかった両腕は自然と彼女に伸びていた。
信じたい。――そう願う様に優しくフィオナを抱きしめる。
「……ありがとう」と彼は震える声で呟いた。
フィオナは少しだけ笑って首を振った。
「……お母さんが亡くなった時、私を一人にしないでくれて……ありがとう……」
頬にとめどなく流れていく涙は止まらなかった。
しばらくして、モフモフはフィオナを抱きしめる力を少しだけ緩めると低く抑えた声で呟いた。
「……離したくないな。」
彼の少しだけ震えたその声に、フィオナは子供を安心させるように彼の背中をゆっくりと撫でる。
わずかに張りつめていた彼の力が抜けると、「わかったよ。」と軽く笑いながらため息をき、名残惜しそうにフィオナから体を離した。
モフモフは少しだけ腫らした目をしていたが、その顔は先ほどより、どこか晴れやかで柔らかな表情をしていた。
彼はフィオナを見つめると、口を開く。
「……俺は、ここに居ても良いんだよな?」
伺うように、確かめる様に言う彼に対してフィオナは彼の目を見つめて即答する。
「もちろん。」
淀みのないその言葉が、モフモフの心を温める。
「そっか……。」
もう一度フィオナの言葉を刻むように深く息を吸う。
そして、静かに吐き出すと頬を緩ませた。
「……そうか。」
そっと目を伏せると、照れ臭そうに笑った。
「……明日もコイツは仕事みたいだし、そろそろ休むよ。」
何かに促されるように、モフモフはカーテンを少しだけ捲りすっかり日の暮れた景色を見た。
エリオットの声はあれからまた聞こえなくなった。
だが先ほどよりもはっきりと彼の意思が明確に伝わる。曰く、
早く寝ろ。
そんな意思が細波のように煩いほど伝わってくるのだ。
エリオットの中で何が変わったかは知らないが、声をかけてきた時よりずっと遠慮がなくなり、モフモフは思わず笑った。
「そっか、もうそんな時間なんだね。」
フィオナも時計を見て、少し驚いたように頷いた。
モフモフは「あぁ…。」と彼女の方へ、少しだけ体を倒す。
「おやすみ、フィオナ。」
そう言うと、彼は彼女の頬に鼻先を少しだけ擦らせた。
そして、一拍置いた後そのまま触れるだけの軽いキスを彼女の頬に落とす。
「っ!」
フィオナは驚いた様子で、目を丸くしてモフモフを見つめた。
徐々に頬が熱を帯びていく事が自分でもわかる。
「これは……挨拶、なんだよね?」
動揺を見せないように努めながら、確認するように彼女は尋ねた。
その声は少し震えている。
モフモフは、フィオナの反応を楽しむように悪戯っぽく笑い、鼻を小さく鳴らす。
「あぁ、もちろん……今はまだ。」
「今はまだ?!」
『今はまだ?!』
その言葉を聞いて、部屋に響くフィオナの驚きの声と同時にエリオットの声なのか、頭の中に同じ言葉を叫んだような音が響いた。
内と外の共振で一瞬耳鳴りがしたが、それ以上に二人の反応が面白く、モフモフは笑いながらフィオナの部屋を後にする。
その後ろ姿には、どこか満足げな余韻が漂っていた。




