第十二話
衝動的に体が動く。
モフモフは、フィオナの手首を掴み、そのまま引き寄せた。
小さな体が胸に飛び込むのと同時に、彼は迷いなく頭と腰に手を回した。
泣きそうなくらい優しい温もりが体全体に染み渡る。
彼女に、自分を刻み付けたいという思いとは裏腹に、今の彼は魔族の姿でもなければ、子狼ですらない。
エリオットという人間の身体だという事に、モフモフは胸がえぐれそうな程の悲しみと痛みを感じた。
そんな中、彼は先ほどから薄らと感じる気配に語り掛ける。
『……お前、さっきから意識があるだろう?』
その言葉に反応したのか、微かに胸が震えた気がした。
『……お前は俺にこんな事をして欲しくないだろ?……なら、はっきり「止めろ」と言えよ。このやり取りは相手に伝えようという気持ちがあれば、伝わるように弄ったからな。』
ここまでお膳立てする魔王もいるまいと、モフモフは内心呆れながら自嘲的に笑う。
自分が異物だという事はわかっていた。
だから、モフモフはエリオットの身体を使う時は、なるべく今後の生活に影響のない振る舞いを自分なりに心がけていた。
聞かれたら、答えるつもりだった。寄り添うこともできると、そう思っていた。
(……やっぱり、あいつみたいには上手くいかないな)
彼は、唯一の繋がりに顔を寄せる。
この身体になってから、ずいぶん鈍くなってしまった臭覚は、この距離でなら働くらしい。
フィオナの髪の香りが鼻をくすぐる。
「……ずっと、このままだったらいいのにな。」
半ば諦めたような溜息と一緒に、ぽつりと言葉がこぼれた。
まるで朝起きたばかりの、ぼぅっとした心地で勝手に流れる景色を中から眺めていた。
いつから見えるようになったのかもわからない。
瞼がいつ落ちても不思議ではないような心許ない意識。
『……お前、さっきから意識があるだろう?』
語り掛けてきたその一言で、エリオットは完全に目を覚ました。
状況を確認すれば、自分の体が自分の意に反してフィオナを抱きしめている。
自分の指が、彼女の髪を優しく梳く度に心が乱される。
(やめてくれ!!……僕の身体で……やめろっ!!)
そう叫んでいるはずなのに、自分の声はモフモフには伝わっていない。
どうにもできない歯がゆさが、無力感に変わりそうな時に再び声が響いた。
『……お前は俺にこんな事をして欲しくないだろ?』
(あたりまえだ!!なんでこんな……)
エリオットは挑発するような声に怒りを感じる。
しかし、続く言葉は彼が思っているものとは大分異なっていた。
『……なら、はっきり「止めろ」と言えよ。このやり取りは相手に伝えようという気持ちがあれば、伝わるように弄ったからな。』
諦めたような声色で、まるで止めて欲しいとでも言っているような響きを持っていた。
(……フィオナに手を出すことが、目的じゃない?)
もし、その気があるならこんな事を言う必要はない。
(この魔族は、僕と話をしたい……?いや、そんなまさか)
エリオットの胸がざわつきだした。
モフモフの願いが本当にそうだとしたら、とエリオットは考える。
出会い方はともかく、その後はこうなった原因の魔法について知識を共有させたり、仕事中は声を掛けなかったり、挨拶をしていた気がする。
(まさか最初からこちらを見ていた……?いや、でも……そんな)
一方自分はどうだっただろうか。
彼が魔族だという事に固執して最初から見向きもしようとしなかったのではないか。
(……彼と、向き合わなきゃいけない)
そう思った途端、喉の奥が詰まるような感覚がした。
まっすぐに目を逸らさなかったモフモフに対して自分は逃げ続けていた。
その事実に後悔が募っていく。
モフモフに対して恐怖は、まだある。
しかし、少なくとも目線を合わせていた相手に対して、まともに取り合わなかったことは謝りたいとエリオットは思った。
「……モフモフ?えっと、どうかしたの?」
モフモフの腕の中でフィオナが戸惑いの声を上げた。
彼は、少なからずフィオナに動揺を与えられたことに微かに笑みを浮かべる。
「あぁ、そうだな……この身体になってから、お前とこうして触れ合えないから、寂しくってさ。」
冗談めかすように、フィオナの耳元で囁くと彼女の身体がぴくりと震えた。
その最中、モフモフは内側に意識を向けた。
(――……返答はない、か)
虚しさを感じた。
フィオナの体温を感じれば感じるほど、温もりが遠のいているようだ。
離れればそれすら消えてしまうような気がして、縋るように彼女を抱きしめた。
自然と腕に力が入る。
「モフモフ……?」
フィオナは、抱きしめられる前、一瞬見えたモフモフの顔が忘れられない。
悲し気に眉を潜ませて泣きそうに笑っていた、あの表情。
彼が何かを願っていることは分かっている。
けれど、それが分からない。
分かりたいと思っているのに。
フィオナは何も言えない自分にもどかしさを感じる。
ただ、それでも今出来ることをしようと、彼女は探るように手を伸ばして、彼の背を優しく撫でる。
「……フィオナ……。」
震える様に名前を呼んだ。
モフモフは、少しだけ顔を上げて彼女の横顔に目を向ける。
彼女の柔らかそうな唇が目についた。
フィオナの髪の匂いと共に過去の記憶が頭を過る。
それは、フギンが人間の街から持ってきた絵巻物の一説だった。
子供向けのありふれた恋物語だ。
「呪いをかけられた者が、真実の愛による口付けで呪いが解け、二人は幸せに過ごしました。」――そんな内容だった。
その時、モフモフは鼻で笑った。
「……口付けで全てが解決するんだったら、どんなに楽だったろうな」
そんな事をフギンに漏らした気がする。
だが今、異物で、呪いでもあるだろう自分が彼女を味わいつくして、刻み付けて、消えられるのなら、それはどんなに幸せな事だろう。
モフモフは生唾を飲み込んだ。
そんな自棄な考えが、じわじわと頭を覆いつくす。
甘い考えだと思っていても、互いの心臓の音が聞こえそうな程近い距離にフィオナはいる。
エリオットからの返事もない。
それなら、唯一自分を認めてくれる彼女に、「自分」を「自分」として残したって。
もう……、
我慢しなくて、いいんじゃないか?
(――…駄目だ。)
理性では、分かっている。
だが、身体は止まらない。
せき止めていたものが、熱い衝動で壊れていく。
噛みしめていた歯が震えだし、息が荒くなる。
鼓動が早まり、体温が上がる。
喰らいつきたい気持ちを押さえて、彼は息を一度大きく吸った。
冷気が熱い喉を通って心臓を締め付ける。
「……モフモフ?どうか……っ?!」
不安そうに、フィオナがモフモフに顔を向けようとするが、それは叶わなかった。
戸惑うフィオナの動きを封じる様に、モフモフは右手の親指を彼女の顎に沿わせた。
肌の温もりが親指の腹から先まで伝わり、彼から吐息が漏れる。
既に彼女の背中に回っていた左腕も微かに力が入り、布擦れの音がした。
顎に沿わせた親指は顎先まで進むと、添えていた人差し指と共に顎をゆっくりと持ち上げる。
二人ははっきりと顔を合わせた。
すぐにでも触れ合えそうな距離感に、モフモフは喉がひりつく様に乾く。
フィオナの目は驚きで開き、息を呑む。
彼女の綺麗な青い瞳はエリオットを通して「自分」を見ていた。
(……また、あの表情。)
エリオットの身体はフィオナよりずっと力も強いし、大きい。
やろうと思えば、いくらでもフィオナを好きにできるというのに彼の身体を使っているモフモフは顔が上気し、眉を顰め、今にも泣きそうな表情をしていた。
(……哀しそうな顔)
フィオナは、その顔を見て、初めてモフモフと出会った日の事を思い出した。




