第一話
夏の猛暑を抜けて、ようやく落ち着いた気温になったと思っていたのもつかの間、不意打ちのように冷たい風が吹き抜けた。
フィオナは、寒さに我慢できず試運転も兼ね今年初めて暖炉に薪をくべた。少しずつ広がる炎の暖かさで室内の温度も徐々に暖かくなってくる。
暖炉の前には、椅子に腰かける彼女と家族である小さな狼――モフモフが、彼女の足に丸まるようにして寄り添っていた。ふわふわの毛並みが暖かくも少しくすぐったい。
フィオナは椅子に座ったまま体制を少し崩して、足元のモフモフに手を伸ばし軽くつついた。
「モフモフ、もっと暖炉に近いほうが暖かいよ?」
しかし、当の本人は耳をぴくりと動かすだけで知らん顔。まるでここで良いんだよとでも言う様に微動だにしない。
(今年も暖炉より、私にくっついているんだね)
フィオナは、心の中で苦笑しながらそれ以上は何も言わず、足に伝わる暖かさにほっとしながら、気を取り直して手元の刺繍に目を戻した。
北部の辺境にあるこの小さな宿屋は、フィオナにとって両親から継いだ大切な場所だった。もっとも繁盛していた昔に比べて、今では宿屋というより食事処という役割の方が大きい。訪れる客も、近隣住民や、駐在所の兵士たち、時期になれば里帰りに来る顔なじみの人々。宿泊客はまばらで、のんびりとした雰囲気の中で切り盛りしている。
フィオナは、この場所を失いたくはなかった。どんなに都会にあこがれる気持ちが浮かんでも、ここに訪れる人たちの笑顔や変わらずとも穏やかな風景を守りたかった。
暖炉のぱちぱちという音で、フィオナはふと目を開けて、自分がまどろんでいたことに気が付く。
「……暖かくて眠くなっちゃうね」
彼女はそうつぶやくと、小さく笑いながら傍らにいるモフモフに手を伸ばした。その柔らかい毛並みを優しくなでると、モフモフは返事をするかのように「クワッ」と欠伸を一度した。彼女はその反応に、クスリと笑った。
一方、このフィオナの足元に寄り添って寝ているモフモフはただの狼ではなかった。
彼は3年前北部で起こった人間と魔族との大規模な諍いに巻き込まれ、命からがら逃げ延びた末、この宿屋にたどり着いた魔族だった。
当時の彼はボロボロで傷だらけだったが、フィオナに保護され手厚い看病の末なんとか命をつなぎ留められたのだ。
本来の姿はもっと大きく、しっかりとした体躯の狼の姿だった。だが逃げる間際、魔族と正体がばれないようにと、急ぎ仲間が掛けてくれた魔法によってその体躯は縮められた。それは一時的なもののはずだったが、魔力を回復しきれていない彼は未だにその魔法を解除することができずにいる。
それでも、モフモフは今の小さな狼の姿でもそれほど不満を感じてはいない。
むしろ満足とすら思っていた。
望んでもいない争いに彼は疲れ果て、今の平穏な日々は贅沢なほど心地よかったからだ。
暖炉の薪が割れる音が耳に届き、モフモフは片目を薄く開いた。揺れる炎をじっと見ると逃げる間際の凄惨な光景を思い出す。炎の海、死体の山、指し示した手、そして手に残る血の感触。
体がブルリと震えた。
今瞳に映る炎は、自分の体を温めてくれる優しいものの筈なのに、その記憶が彼の心を冷たく締め付けた。モフモフは苦しみから逃れる様に、体を丸め、さらにフィオナの足元に体を寄り添った。
今はただ、このぬるま湯のような心地よさに身を委ねたい。
彼は静かに目を閉じた。暖炉の炎は再び彼を眠りへと誘う。
フィオナと過ごす幸せが彼の罪悪感をほんの一瞬だけ忘れさせてくれた。
穏やかな日々も、一通の手紙で幕を引いた。
モフモフがいつものように朝ごはんを貰おうと食堂へ向かうと、フィオナが嬉しそうな様子でこちらに駆け寄ってきた。彼女の手には手紙が握られており、その顔は満面の笑みだった。
「聞いてモフモフ!あのね、幼馴染の子がお手紙をくれたの!」
(幼馴染?)
魔族の彼には聞きなれない言葉に小首をかしげるが、フィオナがこんなにも嬉しそうに話す姿を見るのは久しぶりだった。彼女の笑顔があまりにも眩しく、理由はわからないままでも、彼自身も心が自然と弾む。
「それでね、仕事の都合でこっちに引っ越してくるみたいなんだけど、寮が工事中らしくてね。それが終わるまで、ここに下宿させてくれないかって書いてあったの!」
フィオナは手紙を夢心地な様子で、再び見つめた。
その様子は本当に幸せそうで、目が輝いている。
その幼馴染というのがフィオナにとって何か特別な存在だという事は、モフモフにも伝わった。その事にすこしだけ引っかかるものを感じたが、自分にとって彼女の幸せが第一で、その笑顔が何より大切なのだ。そう、自分に言い聞かせた。
「ワォン!」
良かったな、という祝福の意味も込めて彼は一声を上げた。
フィオナは自室のベッドに腰を下ろし、膝を抱えたまま考えていた。手紙を貰った日から再会を心待ちにしていた気持ちを思い返す。
彼が宿屋に現れた瞬間、彼女の心は高鳴った。元々幼少の頃から顔の整っていた彼は、その面影を残しつつ端正な顔立ちの青年に成長していたからだ。
しかし、その胸の高鳴りは彼の一言で凍りついた。
「……フィオナ、さん?」
名前に付けられた「さん」という敬称。それは距離感を示すものであり、幼馴染として共有していた親しみを一瞬で打ち消すほど冷たく感じられた。
まるで他人のように話す彼にフィオナは困惑を隠せず、聞こうと思っていた事も、思い出話も、頭から一切消え去ってしまった。
心がざわつく中、思い出したのは彼が突然姿を消した日の事だった。
引っ越すことも、行先も分からない状態で、ポストに残された丁寧だが急いで書いた痕跡のある手紙には「急に家族の都合で引っ越すことになりました。ありがとう、さようなら」と綴られたその文字に、その時は家族の都合なら……という少し悲しい気持ちを抱きながらも遠くへ行ってしまった彼の幸せを願ったが、今日のエリオットの固い表情と言葉が一瞬持ってしまった疑念を再び抱いてしまう。
(もしかして、私が何か……?)
あの時自分が何かしてしまったのでは?自分が知らないうちにエリオットを傷つけるような事をしていたのではないか?その結果が今日の彼の遠ざけるような態度だとしたら。次々と浮かんでくるのは、そんな悪い考えばかりだった。
「どうしよう……」
彼女は膝を抱きしめ、小さな声でつぶやく。
そんな彼女の足元から「大丈夫か?」という様に顔を出したのはモフモフだった。
エリオットを部屋まで案内し、説明をした後のフィオナは表情も硬く、いつもはしない失敗もしていた。そんな不自然な様子に体調でも悪いのかと、この小さな家族は気遣ってくれたのかもしれない。
フィオナは無言のままモフモフをそっと抱き上げ、その小さな体を優しく抱きしめる。伝わる体温が少しだけ不安な気持ちを和らげた。
「モフモフ……」
彼女から発せられた聞いたこともない弱々しい声にモフモフは、耳をピクリと動かし、彼女に注意を向けた。
普段明るく優しい彼女が部屋の隅で縮こまり、瞳に涙を浮かべる姿はとても痛ましく見ていられなかった。その様子を見るだけでモフモフの中で怒りが沸々とわいてくる。
(エリオットとかいう奴のせいで……)
名前しか知らない顔の知らない人間に対してだが、フィオナから笑顔を奪い傷つけただけで十分だった。彼女を傷つけた相手に対して何かやらねば気が済まない。
そんな彼の反応に気づくことなく、フィオナは彼の柔らかい毛並みに顔を埋めたまま、震える声を漏らす。
「……どうしたら、あの頃みたいに話せるかな……」
モフモフの中でフィオナを守りたいという気持ちが強まっている事をフィオナは知る筈もなく、モフモフのその温もりに少しだけ心を救われていたのだった。
今日は他に宿泊客もおらず、エリオットが滞在している部屋を探し出すことは簡単だった。
泣き疲れて眠ってしまったフィオナの腕からそっと抜け出し、モフモフはいても立ってもいられず、彼はさっそくエリオットの部屋の前に来ていた。
(さて、どうやって中に入ってやろうか)
考えた末、モフモフはドアに何度か体をぶつけて、すぐに陰に隠れた。
間もなく「はい」という返事と共にドアは開く。
その隙にモフモフは素早く部屋に滑り込んだ。
「……あれ?ノックされたと思ったんだけどな?」
エリオットは首を傾げ、周囲を見渡した後ドアを閉め部屋に戻った。
モフモフは家具の陰に身を隠し、そっと様子を伺う
(あれがフィオナの言っていた、幼馴染のエリオット……)
隙間から見えるのは、すでに届いていた自分の荷物を整理する姿だった。
やがてエリオットは、荷物の片づけに一区切りついたのか、深い息をついてベッドに倒れこんだ。手で顔を覆い、じっと天井を見つめている。
「……緊張していたからって、どうしてあんな態度とってしまったんだろう」
それを聞いた途端、モフモフは再び怒りを燃え上がらせるが、手紙を貰って再び会えることを楽しみにしていた彼女の、モフモフが寄り添っているときには見た事もない笑顔を浮かべていたフィオナを思い出し、怒りとは違う感情がモフモフの中で沸いてくる。
(幼馴染……)
フィオナにとって特別な関係の、エリオット。特別だからこそ彼の態度一つで、あんなに悲しい顔をするのだろう。
――ふと、モフモフは考えてしまう。
(……俺じゃダメなのか?人間じゃないから?話せないから?――特別に、なれない?)
エリオットを見る彼の目はいつの間にか怒りから羨望に変わっていた。怒りと悲しみと嫉妬が胸を埋め尽くす。
(俺がコイツだったら、フィオナにあんな顔をさせないのに……!)
気が付けばモフモフの体は黒い靄と化し、ベッドで休んでいるエリオットの体へ吸い込まれるように溶け込んでいく。
その瞬間、ベッドの上の彼の身体がびくりと跳ねた。
「……!」
エリオットの瞼がぴくりと震え、ゆっくり開かれる。
呆然とした目つきで天井を見つめていた彼が、突然上体を起こすと、自分の手を凝視した。
その手を開いたり握ったりを繰り返し戸惑いに満ちた声で呟く。
「……なんだ、これ?」
発した言葉に彼自身が驚いた様子で、喉に手を当てる。
「喋ってる?人間の言葉を、俺が……?」
自分は先ほどまで、物陰からエリオットの様子を伺っていたはずだ。
しかし、そのあとの記憶はなく、気づけばベッドの上にいた。
モフモフは未だに混乱していたが、一つ嫌な予感が脳裏を過る。
それを確かめたいと、彼が部屋を見渡すと目に留まったのは、壁際に立てかけられていた姿見だった。
さっそくベッドから降りようとした瞬間、彼はさっそく後悔した。
「うわっ!」
思う様に足が動かず、体がぐらつく。四足の体ならばすぐさま移動できる距離も、慣れない二足歩行では容易ではない。
モフモフは、先ほどよりも慎重にベッドから足を踏み出すが、視界に見える人間の裸足の足に違和感で背筋がぞわりとする。
足のどの部分で床に立てばいいのかすら分からず、危うく床に倒れこみそうになるが、慌てて壁に手を着き、なんとか転倒を免れて息を吐く。
そのまま壁伝いに体を支えながら何とか鏡の前へよろよろと歩みを進め、ようやく鏡の前へ辿り着き、姿見に映る自分を覗き込む。
「……嘘、だろ?」
モフモフは言葉を失った。
鏡に映っていたのは、先ほどまで自分が見ていたエリオットだった。
青い瞳を大きく開き、茶色い髪が乱れたままの、間違いなく彼の姿だった。震える手を伸ばし、そっと鏡の表面に触れると冷たくて硬い感触が指先に伝わり、これが何の変哲もない鏡だという事が分かる。
それでも映る姿が現実であると受け入れるには時間が必要だった。
「なんだ、これ……なんで俺がコイツの体になってるんだ……?」




