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浮き石

作者: ジャンダルム

銀行という組織の人間模様を背景に、完全犯罪を目指す。

 浮き石


 その銀行支店は、繁華街から少し外れた住宅地との間に位置していた。三階建ての最上階からは、奥からの光がほんの僅か漏れている。周囲にある小規模ビル群の中でも、特に小さくぽつんとして観えた。道路を隔てたはす向かいの小さな公園の前には、その駐車スペースが設けられている。ごく有り触れた車が暗い中に一台、支店をそっと見張るように停車していた。


 時々、往来する自動車のライトが、駐車スペースの車を浮かび上がらせるが、一瞬にして過ぎ去る。


 その一瞬に、刑事と思われる初老の男がハンドルを握っていた。胸元に掛かっている双眼鏡の紐を、もう一方の掌で、弄んでいるようにも観えた。



 もう六月だというのに、黒っぽいコートを羽織った若い刑事が、公園のフェンスを越えてやって来た。車の後ろから背を屈めてそっと近付き、助手席の窓に指先だけでノックする。初老の刑事は、室内灯が点かないようにして、ドアロックを外しながら入れと合図した。


 若い刑事は、お茶と握り飯の袋を渡して「塚田さん。遅くなって済みません」と、謝罪する。


 黙ったままの老刑事は、さっそく握り飯の一つを頬張ると、お茶を少しだけ含んで飲んだ。


「本当はがぶ飲みしたいんだが、ちかくなると困る」そう言って、双眼鏡で、銀行の方向を窺う。


 その横顔は、若い刑事が聞いていたとおり「気難しい変わり者」だった。


 コートのポケットから出したコーヒーを開けて飲むと、初老の横顔が聞く。

「お前も、コーヒーを啜るのか」


 はっとしたように「はい。この癖が抜けなくて」と苦笑を見せた。そして「実は、お茶から汁物に至るまで、気が付けば何でも啜る癖があって」と明かした。


「俺のホシも、そんなふうにコーヒーを啜っていた。これは祖父の影響だとも言っていた」


「はい。自分も確かに影響されました」


 だが塚田は「若い女刑事が、人前でコーヒーを啜るというのは、この歳の俺でも、さすがに初めてだった」と言う。


 驚いた岡島は「え、若い女性刑事がホシなんですか」と訊き返す。


 すると双眼鏡を外して、岡島の眼をギロリと観た。

「それ以上は、聞くな」


「済みません。でも、もしかして竹内さんの事であれば、どうしても聞かせて下さい」

「竹内さんとは同期で、寿退職したとは聞いています。でも当時の僕は、九州に派遣されていました。だから何があったのか、詳しい経緯を知りません。でも僕は、あの竹内さんが嫌疑を掛けられるような人ではないと、心から思っています。彼女の名誉を守るためであれば、どうか聞かせて下さい」



 塚田は、ガラス越しに瞬く夜空を見上げていたが、軽く頷いたあと、打ち明けるように言った。

「では、名誉の為だ。そのつもりで聞いてくれ」


「はい。噂を打ち消してやりたいです」


 塚田は大きく頷くと「その当時の竹内君は、山岳遭難の事件を担当していた。ちょうど去年の今頃だった」と、語り始めた。



「そこは、長野県に在る中央アルプスの千畳敷だ。そこまではロープウェイで上がる。一般客はここの絶景やトレッキングなどを楽しんだりして、下りのロープウェイで麓に戻るのが普通だ」


「だから、みんな普段着のまま、山頂駅に降りたっていた。その中に、本格的な登山の服装にザックを背負った若い女性の姿があった。そのザックからは、ピッケルが光っていたという」

「のちに女性は、その先に在る最高峰の木曽駒を目指していたと述べている」

「登山道を少し外れた尾根沿いの崖っぷちは、絶景ポイントだ。女性はこの崖っぷちへと、男性を案内した」


「遭難はここで起きた」


 岡島は「え。まさかその女性が竹内さん」と訊く。


 塚田は笑いながら「いや、そうじゃない。竹内君は、遭難を目撃したカップルの供述から、案内したというピッケルの女性を担当したんだ」と続ける。


「転落した男性と、目撃したカップルとの距離は、数十メートルもあったそうだ。だから、転落の瞬間をはっきりと目撃した訳ではない」


「また女性は、突き飛ばす目的で至近距離に居たという訳でもなさそうだ」

「だが女性の後ろを登っていた男性が、叫び声と共に突然転落した」


「カップルが言うには、転落の瞬間、男性と女性との具体的な距離は4~5メートルほどに観えたという。この距離では、突き飛ばすことは出来ない。また、突き飛ばせば、その挙動自体を目撃された筈だ」



 岡島は「それがなぜ事件に」と聞く。


「こんな時の登山仲間は、急を報せたり、自らの事情などは顧みず、まずは救助に奔走するのが当たり前だ」

「いや、それ以前の問題だ。ところが根室吹雪ことこの女性は、さも何事も無かったかのように登り続けたというんだ」


「それで救助要請も、目撃したカップルが行った」


「その結果、女性からの事情聴取では、(そんな事があったなんて、知りませんでした)と、平然と答えたという」


 岡島は「それは、叫び声も落下する石の衝撃音も、彼女には聞こえていなかった。と、いうことですか」と、質す。


「そうなんだ」


「山岳では、地形の状況や風の影響次第で、音の伝わりには著しい違いがあるそうだ。特に上下方向では、崖際を一歩外れば聞こえなかったは起こり得るという」


「転落した男性は、叫び声と共に、いくつもの石や岩までも巻き込みながら、落下してきたという」

「崖下から目撃したカップルにとっては、石や岩も落下しながら、迫って来る衝撃音だ。だが、崖上にいた根室吹雪には、音の反響がない地形だった。しかも崖下へと遠ざかっていく音だ」


「ドップラー効果と言っていいのか分らんが、線路際で、迫って来る電車の音と、過ぎ去る音には違いがある。それと同じことが、崖下と崖上で起こった」


「崖上にいた吹雪には、過ぎ去る音が聞こえなかった。と、いう理由は確かに一理ある」

「加えて、転落した男性とは、登山を開始した時が初対面で、名前も年齢も出身に至るまで、詳細の全ては何も知らない人だったと供述している」


「更に、玲子が観えない男性の姿に気が付いたのは、山頂が観えてからで、最後の会話から、一時間以上は経過していた。それに男性曰く(僕は写真が趣味で、撮りながら勝手に登るから、先に行ってくれ)と、言っていたそうだ」

「この供述から、わざわざ登山道を外れて、絶景ポイントの崖っぷちへと案内した、根室吹雪の説明には、辻褄の一致がある」



「以上が、担当した竹内君の調書によって判明した事だ」

「当初は、事件と事故の両面で捜査が開始されたが、事故であることが認定された。よって捜査本部も解散」


「それが何で、竹内さんがホシになるんです」


「そこだよ。俺もこの耳を疑った。それは解散して八か月ほど経った頃だ。問題の女性である根室吹雪と、転落した男性こと黒河英雄との間には、関係があったんだ。つまり、初対面と供述した筈が、以前からの知り合いだった」


「え。初対面は、嘘だったと」


「そう言う事だ」



「竹内さんは、根室吹雪の嘘を見抜けなかった。だから、ホシだと」


「まあ。そう急ぐな」

「そこで、洗い直しのお鉢がこの俺に回ったきた。と、いうわけだ。その時の竹内君は、とっくに寿退職した後だった。住所は分かったが、できればこんな事を、新婚家庭に持ち込みたくない。そこで、先ずはこの根室吹雪から当たる事にした。すると、この吹雪には婚約者がいたんだ」


「ところが、婚約者である佐山正も、転落事故で亡くなっていた。吹雪との、結婚式の日取りまで決まっていながら、屋上から転落したというんだ。これを知った瞬間に、この背景には何かがあると直感した。俺は、その現場に急行した」


 塚田は「その現場とは、吹雪の婚約者である、佐山正の勤める銀行だった」そう言って、はす向かいを指す。「しかも、その銀行には、岳で転落死した男性こと黒河英雄も務めていた」


「捜査するうち、この黒河英雄の事が嫌でも耳に入ってくる。興味を持ったという訳ではなかったがこの男、洗えば洗うほど腹黒い奴で、人間(ひと)の汚い部分の全てを凝縮したような奴だ。同期はもちろん先輩や上司までも蹴落とすという強欲の策士だった。そのためか、二十代という若さで、次期支店長代理と目されていた。四~五年前に結婚して既に幼い子が一人ある。こんな奴を捜査していくうちに、人間とは一体何だろうと考えさせられたもんだ」


「こんな奴に共通するのは、親兄弟親戚にも同じ類の策士が居るってことだ。すると、出て来るは出て来るはゴロゴロと。特に酷かったのは、嫁の麻矢だった。行く先々で、この女房を初め、黒川一族の悪評を嫌というほど聞かされた」


「俺の想像だが、こんな汚い奴らは一族同士でも、悪行の数々を競い合っているもんだ。もちろん奴らには、罪の意識なんてものは無い。どころか、悪の競い合いこそが、生きる上での摂理とまで信じている」


「そいつらの言葉を借りれば、腹黒いは、即ち上手いことなんだとまで言い放つ」

「確かに間違ってはいないと思う。だが、人間(ひと)として本来の姿ではない」


 続けて塚田は「残念だが、そんな汚い奴が、この社会には至る所に居るってことだ」そう言って、天を指した。「伏魔殿だ」


「いや、おそらくどこの世界にもいるんだろう」


 すると、岡島が驚いたように塚田を観る。

「もしかして、昇進試験の推薦を蹴ったという噂は、本当なんですか」


 塚田は、声を上げて高笑いした。


「そんな噂があるか」

 そう言って、今度は若い岡島の眼を覗き込んだ。


「その噂の出どこはどこだ」


「あ。いえ、これは噂なので、どこと言われても…」


 なおも、笑いの止まらい塚田は「まあ。言えないってことは、俺に変わり者のレッテルを貼った奴だろう」そう言うと、再び天を指して「あいつらは、腐ったリンゴだ。樽とは伏魔殿の事だ」そう言って、また天を指す。そして、お茶のボトルを乾杯でもするかのように掲げた。



「確かに俺は、変わり者なんだろう。だがな、これだけは、よく覚えておけ」


「魚は頭から腐る」


 そう言うと、また天を指してもう一度乾杯した。


 それにつられてか、岡島もコーヒーの缶を掲げるような仕草を見せる。すると、塚田の口元が少し和らいだ。


「ところで塚田さん。仮に事件だったとして、岳で黒川英雄を転落させた可能性のある、根室吹雪の動機とは何ですか」


「そうだな。これに関しては、直接示唆する記録が無かったからな」


「だが、君も刑事を目指してきたはずだから、何となく推測はしているんだろう」


 岡島は、小さく「はい」と頷く。


「吹雪は、婚約者の佐山正を、誰かに殺されたと思っているのではないだろうか。竹内君がとった調書にも、同じことが示唆されていた」


「これらの状況を、事実とすれば、動機はもう言うまでもない」


「復讐だ」


「これは明らかに復讐だよ。殺された婚約者の敵を討つための、復讐以外には考えられない。君が聞く動機とは、復讐なんだ」


「でも、方法が解りません。一体、どんな方法で転落させたんでしょうか」


 尚も岡島は「六月の中央アルプスと言えば、まだまだ深い残雪に覆われています。竹内さんの調書によれば、現場となった崖っぷちの尾根沿いは日当たりが良かった。その為、登山道に限っては、残雪がほとんどなくて、素人が軽装でも登れるとありました」そう、確認する。


「そうか。そこは読んでいたか」

「はい。でもざっと目を通しただけで、たまたま記憶に残っていた部分ですから」


 すると塚田は「では、どうしたら大の男を、外力無しに転落させられるか、君自身の見解を聞きたい」


「解りません。僕には、どうやったら転落させられるのか、まったく見当もつきません」


「そうか。そうだろう」


「残念だか゛俺にも解らん。そして、屋上から転落した佐山正はもっと解らん。彼の場合は、その屋上に誰一人いなかったという確証がある。突然の衝撃音に驚いて、外を観ると佐山正が倒れていた」


「これには、通行人や周辺のビルに居た人たち全員が、同じ証言をしている」


「そして、屋上は喫煙所を兼ねていた。佐山正には喫煙の習慣があった。これは、行員から支店長に至る全てが知っていた。もちろん、黒河英雄もだ」


「竹内君が残した記述には、(なんでこんな奴が生き残って、佐山氏が転落しなければならなかったのか)と、メモが残されていた。結局は、このメモがホシにされる要因となったそうだ」


「俺も捜査してきた中で、黒河をこんな奴と思った事が何度もあった。その一方で、佐山正は、誰からも好かれる好青年だった」


 岡島は「正直すぎても、律儀でも爽やかでも、誰からも好かれていても、この世の中は生きずらいという話を、親を初め先輩からも聞かされてきました。世の中には、佐山さんのような正直で律儀な人を嫌う風習があるのではないでしょうか」


「もちろんあるさ。昔から言われるように、正直者がばかを見るとは、このことだろう。だが、風習を、仕組みと考えればもう少し具体的なものが観えてくる」

「その前に、あれを観ろ」そう言いうと、銀行支店の三階建てビルを指した。塚田は双眼鏡を覗き、岡島は、三階の窓から微かに漏れる光を見つめた。


「あそこには、正直で律儀な佐山正がいた。同時に、悪党のような黒河英雄もいた。人望があるはずの佐山正は係長。一年後輩のくせに、ずるくて卑怯な黒河英雄は次期支店長代理。この違いを選んだのは誰だ」


「上司では」


「その通りだ。だが上司は、なぜ、人望より、ずる賢いを選ぶんだ」


 まだ考えの纏まっていなかった岡島に代わって、塚田が言う。「その上司も、黒川と同じずる賢いを抱えていたからだ」と、示唆した。


「その上司の上司も、同じものを抱えているんだ。その繰り返しが、仕組み全体を構成している」そう言って、天を指す。


「おそらく、佐山正はフェアに頑張って来たのだろう。だが、こんな仕組みの中ではフェアも人望も評価されない」


「それは、ずる賢い奴が、評価するからだ」


 双眼鏡を、最上階の三階に向けると「だから見ろ。どこの組織も、天辺に居る奴らの姿を。ガキの頃から勉強漬けで、友情を知らない人情を知らない世間をしらない、人と人とのお付き合いはもっと知らない」


 塚田は、遠くを観るような眼で言う。


「そんな奴が、謝罪という立場に立たされた時、どうするか解かるか」


 岡島は「敷居の外から棒立ちのまま、血の通わない言葉を、被害者に伝達する」と、答えた。


「その通りだ」

「これは、人を知らないから、被害者を人格ある人間として観る事ができない。そんな奴の、心の露われだ」そう言うと、再び天を指して乾杯する。

 今度は、岡島も積極的に乾杯した。


「この世の仕組みとは、上手い事やった奴が登りやすく出来ている」


「だから、佐山正は係長止まり。黒河英雄はそのうち店長となったはずだ」


 岡島は「それでは、黒河英雄には佐山正を蹴落とす動機が無かった。と、いう事になります」と質す。


「当然、ある筈がないさ………」


「では、なぜ殺人事件に」


「………黒河のような奴には、もう一つ共通するものがあるんだ。それは、上手い事に慣れた奴の延長線上には、必ずある」


「汚職だ」


「その汚職を佐山正に知られてしまった。正直で律儀な佐山には、取引なるものが通用しないと、みたんだろう」


「その結果、残された道は一つ。殺害だった」



「それで、黒河が佐山を、屋上から突き落とした」


「早まるな」

「何らかの方法で転落死させたと言え。とにかく、どんな方法で、あの屋上から転落させたのか今は解らん」

「だが、この事に気が付いた、婚約者の根室吹雪は、黒河を岳に誘い込み、復讐を果たした。更に、捜査から気が付いた竹内君は、転落させる絡繰りを解明したのかもしれない」そこで、指で天を指す「あろう事か、その竹内君と根室吹雪が繋がっているのではと、嫌疑を掛けてきたようだ」


 塚田は、フンと吐いて「退職まじかの竹内君が、そんなことをしてどんな利益があるんだ」と、少し声を荒げた。



「暫くして、この嫌疑は撤回されたようだが、竹内君への名誉は毀損されたままだ。もちろん、謝罪などは一切なかったと聞いている」


 塚田は「また、箝口令とまでは言わないが、この俺に黙っていろと言ってきた。その俺も気が付けば、あと一月で定年だよ」そう言って笑う。


「すると、伏魔殿から解放されるわけですね」そう言って、コーヒーの缶で塚田のボトルを待つ。


「乾杯」と、高笑いした。




 双眼鏡を覗いていた塚田が「動きがあった」そう言って、背を低くするように合図する。


 潜めた声で「あれは女だ」と告げた。


「こんな深夜に、女が一人あのビルの裏口と思われる、駐車場の方向へと回り込む姿を確認した」

「誰だろう」


「暗くて分からないが、あのシルエットから想像すると、黒川の女房に観えた」

「黒河麻矢だと」

「そうだ」



 岡島が「さっき、佐山正が転落した時、あの屋上には誰も居なかった確証があると仰ってましたが」と聞く。


 双眼鏡のままの塚田は「うん。屋上に上がるには、三階にある支店長室と警備室の前を通らなければならない。その、警備室には監視カメラのモニターが有り、誰がいつ通ったかの録画が残されるんだ。その監視カメラに録画されずに、支店長室前と警備室前の廊下を通過することは出来ない。勿論、その廊下を通過しない限り、屋上へも出られない」と、説明した。


 その時、微かな明かりが一階の奥から走った。

「暗い中での君もそうするように、あの明かりはスマホだ」

「勝手知ったる他人の家で、裏口から入った女は、一階の内部を知り尽くしている。だから躊躇いなく走れるんだ。これが麻矢である証拠だ」


「それにしても、何をそんなに急ぐ。いや、慌てると言った方が正解なのか」


 車内のスポットライトで手帳を照らして、支店ビルの内部構造を確認する。


「麻矢は、おそらくエレベーターに乗ったのだろう。そろそろ三階の乗り場に着く頃だ。


 扉が開いた瞬間の光が、廊下の窓から漏れる。

「ほら。出て来た」


 微かな明かりは 支店長室に向かって移動している。


「塚田さん。我々も」と聞く。


「まあ。待て」

「警備からの非常ベルがない」


「これは、どうしたことだ」


「俺の想像だが、持っていた鍵で開けたとはいえ、外部からの侵入者だ。非常ベルが鳴らないとは、何かの細工がある筈だ」


 塚田は、懐から印刷物を拡げて「一階の裏口横に空き室というのがある」そう言って岡島に渡した。


 岡島は、その日付を見て「これが印刷されたあとに、改装があった」と、想定した。


 塚田は「その空き室が、元々の警備室で、三階にあるのは控室だ」


「こりゃぁ、もしかすると、単なる汚職ではなさそうだ。厄介な事にならなきゃいいが」と漏らす。




 岡島は「出てきませんね。中で何を」と、支店長室らしき扉を観ている。


「知れたことよ」

「こんな深夜に、人目を忍んで女がやって来た。そこは、去年の今頃、岳で遭難した夫の上司の支店長室だ。他には誰一人いない。そろそろ正体を露してもいいころだと思っていた。当分は出てこないだろう」


 岡島の口元が緩んだ。



「ところで、佐山正が転落死した詳細を知りたいのですが」


「さっきも言ったように、転落の原因については全く分からない」

「だから状況だけを言うと、二月になったばかりの寒い日の朝、八時三十分に起こった。行内は勿論、自宅を初め関係先からも遺書などは見つかっていない。転落した屋上にも、自殺の痕跡は残されていなかった」


「遺留品なども一切なく、いつもと同じ小さなビルにある屋上の風景だ」

「結果として、たばこ好きの佐山は、屋上に出ていつものようにたばこを吸っていた。その屋上には、安全の為のフェンスが設けられている。ところが、そのフェンスを乗り越えて転落したとあるんだ」


 岡島は「何故、乗り越えたのか、具体的に映像とかはあるのでしょうか」と聞く。


「無い。屋上に出る為の三階には、監視カメラが設置してあるが、屋上そのものにはカメラの類などは一切無い。しかも、例え支店長であろうと、そのカメラを操作することは出来ない仕組みだ。操作出来るのは、警備会社の監視センター以外には無いってことだ」


「その監視センターとはどこに」

「ここから、車で十分ほど離れた警備会社の支社の中だ」


「では、支店長室に入る監視カメラは」

「無い。だが、一階と二階には何台ものカメラが監視している。これを通過せずに三階へは上れない。また全ての監視カメラは、物理的に操作出来ない仕組みになっている」


「でも、分電盤はどこかにあると思います。そして、警備員が待機するのは控室ですか」


「いや、あの支店に、常駐する警備員はいない」


「だから、現在あのビルに居るのは、支店長とたった今入っばかりの二人だけだ」


「ところで岡島君。非常ベルを操作する仕組みを、知っているか」


「知っています」

「それは、どんな仕組みなんだろう」


 岡島は「基本的に非常ベルは、防犯カメラとか監視カメラとは独立していて、ほとんどの場合は、組織の人物が手動で押すようになっています。勿論、人感センサーとかカメラとかに連動していて、自動で鳴るものが主流だとは思います。ただし自動でも、ベルを止める場合は、警備員とか責任者が直接止めるようになっていると思います」そこまで言うと、何かに気が付て頷く。


「そうか。あの支店の長ならベルを止められる。いえ、端から鳴らないようにも出来る」


「だが、映像だけはどうにもならんだろう」


「なります。ちょっとした知識さえあれば、簡単です。きっと誰にでも出来る筈です」

「おそらく、警備支社への送信機とレコーダーがある筈です。そのレコーダーに、別の日に撮った同じ時間のすり替え映像を流せばいいだけの事です」

「ミッションインポッシブルのような専門家でなくても、家庭にあるテレビとレコーダーを接続する程度の知識があれば、子供でも出来る事です」


「そうか。そんなに簡単なんだ。では、そんな簡単な作業を、支店長が行っていたとしても、ちっとも不思議ではない」

「そうです」


「では、その送信機とレコーダーは、控室にあるんだ」


「多分、そうでしょう。でも、すり替え映像を流す為の増設レコーダーが必要です」

「その増設レコーダーは、第三者に発見さない場所に隠す必要があります。これは、間違いなく支店長室以外には考えられません」


「支店長が、警備会社への映像をすり替えた。そこへ麻矢がやって来た。警備会社では、まさか支店長ともあろうものが、映像のすり替えをするとは思わない。麻矢は誰からもその姿を観られず、支店長室に入る事ができた」



「岡島君、君のおかげで転落した時間に、屋上には誰も居なかったという確証は崩れた」


「同時に、犯人と想定される人物が、屋上に居たという可能性が高まった」



「その二人は、当分出てこない」


「では、転落した屋上の様子を、もう少し詳しく教えてくれますか」

 塚田は「分かった」と頷く。


「屋上と言っても、出入り口前にある僅か六畳ほどの空間だ。廻りは、どこの建物にもあるような、傾斜のついた金属製の屋根に囲まれている」


 岡島は「傾斜の付いた金属の屋根ですか」と、復唱した。


「そこに、遺留品などの類は無かったのでしょうか」


「遺留品かどうかわからんが、行員を対象に配られた手帳が落ちていたそうだ。中には何も書かれていなかった。誰が落としたのか置き忘れたのかも、分からない。この手帳を全員が所持しているかどうかを確認すれば、特定は出来たと思う。だが、そうなる前に、転落は事故であると断定された。と、いうより端から事件性はないとして、手帳の特定には至らなかった」


「ちょっと待って下さい。その手帳は、どこに在ったのですか」


「屋上の平面部と、金属の屋根との間には、安全の為のフェンスが囲んでいる。そのフェンスの外側に落ちていたそうだ。また置いたとも言える」


「では、その手帳を拾う為に、フェンスを乗り越えるという事はあり得ますか」


「もちろんだ。乗り越えなければ拾うことなど出来ない」


「逆に、手帳を置く者も、乗り越えなければ出来ない」



「いや、出来るかもしれない。手帳を折り曲げて、フェンスの網目から通せば何とかなる。あとは、網目から腕を伸ばしても届かない位置に置く事と、滑り落ちないように工夫するは必要だが」


「そうですね。恐らく両面テープなどを利用する程度の細工で、滑り止めとなるでしょう」


「その手帳が、拾おうとする者を、フェンスの外へと誘い出す事になる」


 思わず岡島は塚田を見る。「塚田さんは、フェンスの外に誘い出した佐山正を、誰かが突き落としたと考えているのですか」


「この時点では断定できない。だが、フェンスの外に誘い出せば、佐山は無防備となる。この足場の悪い状態で、誰かに攻撃されればなす術なしだ」


 岡島は「その可能性があるのは、支店長と黒河の女房しかいない」と想定した。


 塚田は「そのように想定すると、当時の支店長と黒河英雄の女房は不倫関係にあった。しかも、夫の英雄は存命中で、おそらくは何も知らないまま、支店長の部下として勤務していたんだ」


「すると、一番の悪党は支店長」


「そういう事になる。そして黒川の女房が、巨額な保険金でも受け取っていれば、もう決定的だろう」


「では、黒河英雄には巨額な保険が掛けられていた」


「今は可能性の段階だが、そういうケースは実に多い」



 三階を見つめていた岡島は、思い付いたように「あの支店長室に宿泊することはあるのでしょうか」と聞く。


「宿泊設備が整っているのかは知らないが、応接セットぐらいはある筈だ」


「そうか。泊った可能性もあるんだ」


「支店長は、佐山正が転落したその日、前の夜から支店長室に宿泊していた」


「翌日の朝、銀行が配布した社員手帳が屋根に落ちているのを、佐山正が発見する。書かれている内容によっては、大切な情報を公開する事にもなり兼ねない」

「支店長は、そんな状況を想定して、手帳をフェンスの外に置いた」


「大切な社員手帳が、一般道に落ちる事を危惧した佐山正は、拾おうとしてフェンスを乗り越えた。傾斜のある金属屋根は滑りやすい。安全の為、一方の掌でフェンスを掴み、もう一方の掌で手帳を拾うと腕を伸ばす」


「この瞬間、無防備となった」


「そこへ宿泊していた支店長が現れる。佐山が掴んでいるフェンスの掌を外そうとして、指を強引に剝がそうとする」


「違うな。これでは時間がかかり過ぎる。その間に叫び声はいくらでも上げられるし、助けを呼ばない筈がない」


「では、刃物か何かで」

「いや、これも違う。佐山正の遺体には、打撲以外の傷は一切無かった」


「ちょっと待って下さい。警備のしっかりした銀行なんですから、さす又の一つも置いてあるのでは」


「そうだ。置いてない筈がない。それは警備の控室だ。支店長室に隣接している控室になら、さす又の一つぐらいは絶対にある」


「それを使ったんだ」


「佐山正がフェンス乗り越えて、無防備になった瞬間、さす又で突き落とした」

「これなら、助けを呼ぶ前の一瞬で、突き落とせる」


「許せない」



 その翌日、支店長と黒河の女房の二人は、殺人の容疑者として逮捕された。


 塚田が懸念していた、銀行ぐるみの汚職には発展することなく解決したが………



 ………その三日後の朝、塚田と岡島の二人は、千畳敷カールから登山道を少し外れた崖っぷちへと続く斜面を登っていた。黒河英雄が転落死したという尾根沿いの絶景スポット目指して。



 その、同じルートを一人の若い女性が、十メートルほど先を登っていた。そのザックからは、ピッケルが、朝の陽光を反射して輝く。


 岡島は先行する女性を指して言う。「なにか、因縁めいたものを感じてなりません」


 そんな事には答えず、塚田は「この辺りで休ませてくれ」と言う。


「はい。無理はいけません。それに高山病とという危険もありますから」そう言うと、自ら腰を下ろした」


 そして、女性を指して「佐山正の婚約者も、あんなふうにして登っていたのでしょうね」そう言ったあと、記憶を辿る。


「婚約者の名前は根室吹雪。出身は北海道の釧路とありました」


 塚田が「釧路は、雪深いところなんだろうか」と質す。


「いいえ。日本海側のように降るわけではありませんが、同じ雪国の内と考えていいでしょう」


「実の父親は、吹雪が誕生して間もなく、工事現場で亡くなっています。そのあと、母の幼い連れ子として、義父のいる根室に連れられて行ったとあります」


 彼女が小学六年の時、漁に出ていた母親も義父も遭難、二人とも亡くなっています。その後、親戚をたらいまわしにされたり、施設に預けられたりと、周りじゅうから虐められて、落ち着く暇もなかったようです。なんとか高校は卒業したものの、それまでに掛かった費用だの何だのと言っては、家や僅かな土地も小さな畑まで、剝ぎ取られるように全てを失ったようです」


「そんな背景から、上京を決意したのでしょう」


「僅かに残った現金を頼りに、先ずは住所を決めなければ、まともな職には就けません。でも、アバートを借りるにも、保証人が必要です。だからといって、ハゲタカのような親戚を頼るは、十八の彼女にとって無理からぬ思いがあった事でしょう」


「とにかくその日は、夜の宿泊場所をなんとかしなければなりません。そこで、当時、流行りだったネットカフェに向かった。そこで、アルバイトをしていた、大学生の佐山正に出会った」


「彼は献身的に、彼女の面倒を看たそうです」


「アパートも職場も、佐山の実家が保証人となり、養護学校の事務職員として、現在に至っているという事です」


「根室吹雪にとっては、佐山正こそ地獄で会った仏だったと思います。きっと、生きる上での宝であり、たった一つの生命線でもあった その生命線をを一瞬にして断たれた。まるで不幸を背負う為に生まれてきたような根室吹雪を思うと、言葉が出ません」


 塚田は「この話は、調書など関係書類の全てに無かった事だ。俺が、いま初めて聞いた話だ」

「一体、どこから出た話なんだ」と質す。


 すると岡島は「そろそろ行きましょうか」そう言って先に立った。


 暫く登ると、尾根沿いの崖っぷちが観えてくる。



 遥か眼下を振り返れば、伊那谷を隔てた南アルプスの山並みに、思わず目を見張った。その奥には、富士の山影が遠く望まれていた。


 崖っぷちまでは、もう時間は要さない。


 その崖際に立った塚田は「なるほど、これは確かに絶景だ」と言って近くの石に腰を下ろそうとする。


 突然「そこは危険です」の声が響いた。


 上の岩陰から、若い女性の姿が現れて「その石は浮き石です」と叫んだ。


 その姿は、塚田たちの前を登っていたザックの女性だった。握ったピッケルがまぶしい。


 岩陰にある三脚を残して、降りて来る女性に塚田は「浮き石」と復唱する。


「そうです。浮き石です」


 女性は陽光に掌を向けて「日中の気温で、溶けた雪が石の下にある僅かな空間に沁み込むのです。それが夜の冷え込みで氷となって膨張する。氷とはいえ水道管を破裂させるほどのパワーがありますから、その石でも持ち上げられるのです」

「翌日には、持ち上がった隙間に、溶けた雪が新たに染み込み、この繰り返しが、その石の足場を崩します。足場を失った石は不安定で、僅かな刺激でも落石と化すのです」


「こうした状態を、浮き石と呼んでいます」 


「それで、我々を観ていたのですか」


 女性はにっこりとしながら「いいえ。そうではありません」そう言って、南アルプスの山並みをピッケルで指し示す。

「私は、この絶景が好きで、撮影のために登って来たところなのです。今日こそは仙丈ヶ岳を撮るつもりなのですが、これまでと同じように、雲が掛かっていて叶いません」そいうと、腰を下ろそうとした石を指した。

「その石に三脚を立てて、雲の切れ間を待つことにし、シャッターチャンスを狙うつもりでした」


「ところが、その石、浮き石だと分かったのです」そう言うと、持っていたピッケルをテコのように石の下に差し込んだ。「この通り、ぐらつくんです」


 塚田も岡島も、思わず息をのんでいだ。

「これだ」と岡島が呟く。


 塚田は「その浮き石を、見た目で判別できるんですか」と訊く。

 そくざに「私には、そんな神業なんて、とてもありません」と、またにっこりした。


「でも、私たち先輩の中には、それが出来る登山家は何人もいます。彼らは観た瞬間に浮き石と判るそうです」


「では、今のあなたは、どうして判ったのですか」


 女性は、ピッケルを掲たあと「いまのように、石の隙間に入れてみたり、叩いて音の響き具合などで判断します」と説明した。


「そうでしたか。それでピッケルが必要なんですね」


「まあ。そうですね」

「ピッケル本来の役割は勿論ですが、そんな使い方もしています。でも私にはやっぱり難しい技です」と、笑いながら答えた。


 このやり取りを観ていた岡島の顔色が変わっていた。


「塚田さん」

 頷くと「解っている。全ての謎が解けた。根室吹雪もピッケルを持っていたという。雪国に近い彼女も、浮き石の判別方法を知っていた可能性がある」



 塚田は「だが、どう立件する」と訊く。


「こんな状況証拠では、とても公判の維持は出来ない」


「ところで、もう一度訊く。根室吹雪の情報はどこから出た」


 岡島は黙ったまま、登山道に向かって降り始めた。その背中に「竹内君は、男の子なら情司、女の子なら情子とするそうだ」と、叫んだ。


 思わず岡島が振り返る。「それ、竹内さんに合ったと………」


 塚田は「竹内君に伝えてくれ」と、言って天を指す。

「このヤマは、あの伏魔殿にいる奴らの、能力の問題であって、解決に至らなかったのは他の誰のせいでもない。これからも竹内君は、大手を振って、胸を張って生きていくことが、人間(ひと)として本来あるべき姿の、お手本になる」と叫んだ。



ずるい奴が得をするという社会構造を描いた。

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