響と野菜泥棒
枝からぶら下がるそれに手を当てる。まだ繋がれたままであるにもかかわらず、ずっしりとした感覚が手に伝わった。
ちょん、と鋏で枝との繋がりを断つと、伝わるのは想像していた以上の重み。掌では赤い果実が太陽の光を浴びて輝いている。
黒髪を麦わら帽子にひっつめて、宮辺響は手にした果実を収穫用のコンテナに入れた。
彼女の目の前には無数の珊瑚樹。何とも立派なトマトの木が屹立している。実り実った無数のトマトで枝がしなり、なんとも重たげだ。
「……いまさら言うのも何だけどさ、トマトってこんなだったか? 木になる果実じゃなくて野菜だった気がするんだが」
「そのとおりですわ。でも、トマトは多年生。年月を経ると木質化してこのようになるんですの」
「詳しいな」
「マチュ・ピチュについて書かれた本に記載されていましたわ!」
ふんす、と得意げな表情を向けてくるのは金髪青眼の美少女、滋野妃。世界有数の大財閥の御令嬢である。
金色の頭の上にあるのは響同様に麦わら帽子。白いワンピースでも着ていたなら様になったのだろうが、今、高校生には不釣り合いな彼女の蠱惑的な肉体を包んでいるのは、年季の入った農作業着。御伽噺の御姫様の様な彼女の容姿には酷く不釣り合いに見える。
「まあ、不思議なのは間違いありませんわね。トマトは日本の冬には耐えられないとありましたから、露地栽培ではここまで立派に育つことはないはずなのですが」
「これも魔王様の魔力のおかげ……なのかね?」
ようやっと枝の一つから真っ赤な実を全て取り除いた。久々に軽くなったのだろう、鈴生りのトマトの重さで項垂れていた枝が解放感に喜ぶかのようにピンッと空に先を伸ばす。
どうにも芽かきや葉かき、適芯などしていない様子だが、それにもかかわらず立派なトマトが豊作だ。
周囲には響にとっては見慣れた魚面の面々が黙々とトマトを収穫している。後ろにも、ナスの木の収穫作業に追われる者達の姿。ダゴン秘密教団の面々だ。
今、響達が夏野菜の収穫作業を手伝っている場所は、堅洲町の最端に位置する多胡部という集落である。堅洲町と月之宮町を遮る平沼山、その下に広がる森林地帯に面する小さな居住地だ。
ダゴン秘密教団堅洲支部の代表、摩周蔵人からの依頼でここ多胡部に赴いた響達は、開けた畑を埋め尽くす色とりどりの野菜の数に圧倒されつつ、いつ終わるとも分からない収穫作業に精を出していた。
同じく手伝いにきた教団員の数に初めは大袈裟だなと苦笑していた響であったが、なるほど。こうしてみると全然人手が足りていない。満載のコンテナがそこかしこ山積みになっているのが確認できるというのに、畑を彩る鮮やかな色彩達は些かも減ったように思えない。
畑仕事を中断し、響達が麦茶で夏の暑さを鎮めていると、数匹の犬を従えて彼女達の下に駆け込んで来る少女の姿が見えた。
「やっほ~い! 見て見てヒビキちゃん、キサキちゃん! こんなおっきいかぼちゃとれたよ!」
夏の暑さなどなんのその、太陽に負けない程の明るい笑顔で巨大な南瓜を掲げるのは、響達の級友である加藤環だ。
小学生低学年の様な容姿に相応しい無尽蔵のスタミナの持ち主で、炎天下の過酷な畑仕事にもなんのそのと言った様子である。
彼女の後ろに追随するのは無数の大型犬。一見するとただの犬にしか見えないが、魔術の心得のある響にはこれらがこの集落を警備する使い魔である事が見て取れた。
「みんな~。御苦労でござるよ~」
「おにぎり作ってきたからいっぱい食べてねえ~」
休憩中の一同の前に、屋敷から現れた面々が間食を持って現れた。
「いやあ、響殿達は大丈夫でござったか? 拙者達には毎年の恒例行事でござるから慣れたでござるが、初めての畑仕事ともなると大変でござろう?」
鮫面の青年が響達におにぎりを差し出しながら労を労う。
彼の名は摩周秋水。摩周蔵人の孫であり、環の幼馴染。そして響達のバイト仲間であった。
「……正直甘く見ていたところはある。ってか、毎年こんなにとれるのか?」
「堅洲では何処も彼処もこんなもんでござるよ。伊達に雅殿の祝福を受けている訳ではござらん」
「魔王の魔力ってすごいんだな」
「そうなんだよお~。私もここに移り住んで三年になるけど、勉強していた農業の知識が全然通用しないんだよお~」
間延びした声で会話に混ざってきたのは、ややぽっちゃりとした女性。どことなく膨らんだ河豚を思わせる顔つきで、美人ではないが人を安心させるような不思議な愛嬌がある。
収穫したての野菜を切り分け、響達の前に置きながら、女性は続けた。
「肥料とか、特にあげてないのにねえ。土地が瘦せるどころか、ますます肥え太っていく感じがするよお。なんで普通のトマトが素の状態で越冬できるのか、訳わかんないよお」
「ほとんど放置状態って事ですの? 黒美様」
うんうん、と頷く河豚面の女性、上鳥黒美。環と秋水の知り合いらしく、学生時代からこの集落で収穫の手伝いをしていたらしい。
幼少時から多胡部が気に入っていたらしく、県外の農業の大学を出てからこの地で農家を営んでいるとの事だった。
「本当に魔王様の魔力ってすごいよねえ。何だか、野菜……というより、植物そのものの生命力が他の土地よりも凄い気がするよお」
「魔力でドーピングされてないか、ここの野菜」
「かもしれないねえ。大した世話もしてないのに味も形も大きさも、私が大学の実習で育てていた野菜とは比べ物にならないくらいだよお。なんか学んだ事を否定されてるようで理不尽だよねえ」
「まあ、憶えた知識は無駄にゃならんだろ。常識が通用しないのは堅洲だけなんだろ?」
「そうだねえ。でも、私は堅洲から離れるつもりはないんだよねえ」
和気藹々とした雑談。周囲の教団員達も、他愛の無い会話に花を咲かせている。
合間合間に口にする瑞々しい野菜の味。何と濃厚な事か。
環と秋水が犬達と戯れているのを響が眺めていると、犬達が一斉に一つの方向を向いた。よく躾けられているらしく、喧しく吠えたてることはしなかったが、ブンブンと勢いよく振られる尻尾が使い魔達の歓喜を如実に表していた。
「おおい、帰ったぞう!」
大きな声を張り上げながら森の中から姿を現したのは、猟銃を持った蛙面の男達。ここ多胡部の住人達だった。
担がれた天秤棒には鹿や猪、アライグマが吊り下げられていた。遅れて到着した荷車には巨大な熊が載せられている。
「凄い数ですわね……」
大量の獣の亡骸に、妃は目を丸くする。
「まだまだこんなもんじゃないよう、ほらあっち」
黒美の示した方向には、猟師連中とは明らかに違う雰囲気の、四人の和装の女性の姿があった。
快活そうな少女、アルビノと思しき小柄な少女、栗色の髪の大人しそうな少女。年齢的には響達と同世代に見える。
そして最後の一人。艶やかな黒髪を腰まで流す、絶世の美女がそこに居た。
豊満な双丘を持ちつつも、すらりとしたその長身は美しいまでに整っている。否、整いすぎであった。
この美女からはどこまでも無機質な印象を受ける。まるで彫刻のようだ。周囲の三人が生気に溢れた雰囲気を感じさせるため、余計にその無機質さが際立っている。
これ程容姿が整っていると、獣欲よりも先に畏怖の念が沸き上がるだろう。人によっては薄気味悪さや恐怖が先に来るかもしれない。たとえ人の目を引き付けたとしてもそれは芸術品への感嘆のようなもので、異性を魅了する類の美しさとは言い難かった。
そんな幽玄の美女は流麗な仕草で黒美の下にやってくると、おにぎりを一つ受け取って口を開いた。
「今年もすげえな。連中、雲霞の如く湧いてきやがる。毎年駆除してるってのに、尽きる気配が全く見えねえし」
心地良い声色からは想像できない乱暴な言葉遣いだった。常に静かな笑みを湛えている能面のような顔から発せられたとはとても思えない。
「特に猪! 増えすぎだろが。森の中を我が物顔で闊歩してやがる。他の動物……ていうか熊ですら委縮してたぞ」
そう言っておにぎりを一口。何とも上品な仕草である。それだけに、言葉遣いだけがどこまでも容姿に不釣り合いであった。
「みゃーちゃん、そんなにいっぱいいたの?」
「おう、大量だ、大量。ドタマ勝ち割りすぎて流石に手が痛え」
そう言って、白くたおやかな手を振る。
響が多胡部に来て顔を合わせたこの美女の名は武藤都。秋水曰く、堅洲の魔王である武藤雅の双子の妹との事だった。
たしかに、その無機質な美貌は日本人形を彷彿とする雅と共通している。雅が女性で、しっかり成長したらこのような姿になるだろう。都からはそんな面影を感じた。
都もまた、毎年この多胡部で住人の手伝いを行っているとの事だった。ただし、彼女が手を貸しているのは野菜の収穫ではなく、森での害獣駆除である。
安定して大量の、それも美味で大きな野菜が取れるこの場所を、森の獣達が放っておく訳はなかった。いかに大量の作物が実っても、それを上回る食欲を持った彼ら獣達にかかってはあっという間に畑が丸裸にされてしまうだろう。
魔王の魔力のおかげで森でも十分な食物が手に入るのにも拘らず、獣達は毎年畑を荒らしに人里に降りてくる。飢えとは無縁な巨体を揺らしながら。
人手が足りない、とは正にこの事であった。住人総出で定期的に山狩りをしなければならないが、そうなると畑仕事を行う人間が居なくなる。その間のヘルプとして、ダゴン秘密教団の面々は定期的にこの集落を訪れているのだった。
響達から離れた場所で、栗毛の少女が巻物を取り出した。少女が巻物の表面を下にして振ると、どういうカラクリなのだろうか、巻物の中から大量の猪が地面に転がった。
響が近付いてみると、どうにも頸椎が綺麗に圧し折られているようだ。少なくとも、都が言うように頭に一撃を貰ったと思われる個体は見られない。彼女なりのジョークだったのだろうか。それでも、猟師衆が仕留めた獣と違って銃創が見られないあたり、素手で仕留めたというのは事実のようだった。
「この獣共はどうするんだ?」
「大体は切り分けて売りに出すでござる。猪は加工してハムやベーコン、ソーセージにするでござるよ。カリン殿が仕留めたっていう熊はどうするでござるかな?」
「誰だよカリン殿って?」
「山神様でござる」
「ほーん……熊は熊でもアライグマは? 食えるのかこれ?」
「食べられるでござるよ。でも、これは別の需要があるでござるよ。兎や栗鼠も含めて町に卸すでござる」
教団員達が此度の獲物を処理施設に運び始めた。しっかりと下処理されていたらしく、一滴の血も地に落ちていない。
「おう、海もんの坊主」
そう秋水に声を掛けてきたのは古株の猟師だった。蟇蛙のようないかつい顔には、無数の獣の爪痕が見て取れた。
「石動殿、お疲れでござる」
「毎年助かるぜ。今の内に猪共の数を減らしとかないと、後で大変なことになるからな。これから畑仕事に戻るから、今日の残りは俺達山もんに任しとけ」
「かたじけないでござる。じゃあ、今日はこれで。ゆっくり休むでござるかな」
「そうだねえ。今日は採れたお野菜をいっぱい使ったカレーを作るから、みんな楽しみにしていてねえ」
黒美のその言葉に環と都は喜びのハイタッチ。犬達に別れの挨拶をした後、黒美に後に続く。
使い魔達も休息を終えたらしく、仕事場に散って行った。
夕食を終えて一段落。響達は宿を貸してくれた黒美の屋敷で各々くつろいでいた。
環と秋水、それに妃はアルビノの少女と一緒に双六に興じている。
快活そうな少女は食器洗いをする黒美の手伝いに入ったらしい。
そんな中、響は自身の「影の書」に今日の出来事についてペンを走らせていた。
「影の書」等と大層な名がつけられてはいるが、要は分厚い無地の帳面である。知り合いの魔女であるロビンから貰ったこの白紙の書の耐久性は折り紙付きで、魔術的加工によって防水・防火加工も施されているとも聞いた。携帯電話のメモ機能が使える現代において何ともアナクロな品物だと思わなくもないが、電波が通らなかったり電子機器の充電が難しい局地での記録方法として、ロビンの所属する魔女組織「車輪党」ではいまだに重宝されているとの事だった。
響の隣では、栗色の少女が熱心に本を読んでいた。響が肌身離さず持ち歩いているとある退魔士の遺品である。「ホプキンス・ノート」と名付けたそれに、魅入られるように目を走らせる少女の姿。それは日中に見た姿と若干異なっていた。
頭の上には立派な角が二本。感情に合わせてゆれる尻尾。人の物とは全く異なる形の牛の耳。彼女は牛から変じた魔女であるとの事だった。
村の人間以外に遭遇する可能性のあった昼間は、魔術で完全な人間の姿の化けていたようだ。彼女だけではない。都と一緒にいた他の少女も同族であった。現に今、双六で「振出しに戻る」に駒を進めて絶叫しているアルビノの少女の頭にも角が見える。絶望する彼女の気持ちに合わせるかのように牛の尻尾が力無く項垂れていた。
「なあ夕顔、そんなに面白いか? お前の方が凄い魔術とか使えそうに思えるんだが……」
栗毛の少女……夕顔は、響に微笑んで返す。
「すっごく勉強になるよ。私も色々と魔術は使えるけど、実戦向きの魔術かどうかを見極めるのには四苦八苦しているから、こう言った現場主義で書かれた魔導書は貴重なんだ」
「引き出しがあんまり多くても、それはそれで問題って訳か……んで、あんたは何で一緒になってそれを覗き込んでるんだ? それを読んだって真っ当に魔術使えないんだろ?」
そんな言葉に、夕影の手元のノートを覗き込んでいた都は心外とばかりに顔を上げた。
響が聞くに、都は障害持ちとの事だった。魔力を自力で外に放出できないのだそうだ。武藤の知り合いの魔術医曰く、珍しい症状であるがこういった障害は魔女以外にも見られるらしい。今現在、それを治療する術は見つかっていないとの事である。
要するに、都は取り込んだ魔力を自身の肉体内でしか消費できないのである。肉体の強化や治癒能力の増大等は行えるものの、他者に作用する類の魔術は彼女にはほとんど使えない。そんな彼女がノートを見て、得るものなどあるのだろうか。
「わかってねーな、響。真っ当に魔術を使えないからこそ、対処するためにこういった知識が必要なんじゃねーか。真正面から怪異や魔術師をぶち破るなんて姉貴達みたいな真似、俺や雅には出来ないからな。詠唱や儀式の手順を潰して魔術そのものを発動させないようにするには、こういった知識は絶対にいるんだよ」
「成程……と、遼、お疲れさん」
軽い魔術談義を行っていると、部屋にくすんだ金髪の少女が入ってきた。
来栖遼。彼女もまた、手伝いに呼ばれた一人である。
午前中は響達と一緒に夏野菜の収穫に精を出していたのだが、昼食後は屋敷に籠りっぱなしであった。
集落の住人が仕事で使う機材の不調を、昼休み中の彼女が直したのが原因だ。
他の不調な機器も治せるかと問う住人達から、壊れていたり調子が悪い家電を持ち込まれ、午後は修理作業に明け暮れていたのである。
「もう少し進めたかったんだけど。働きすぎは良くないって黒美さんに言われて切り上げたよ」
「ちゃんと休んどけ。お前、集中すると寝食忘れがちになるからな」
「うん……気を付ける。……あれ?」
「……なんだ?」
突如、外からけたたましい吠え声が聞こえてきた。この集落の番犬達だ。その声が段々と遠ざかっていく。
駆除しきれなかった獣が畑に忍び込んだのだろうか。
異変を感じた一同が屋敷の外に出ると、石動達と鉢合わせた。彼らもまた、番犬の警告を聞いていたようだ。
無人のはずの畑につくと、それが居た。月明かりが照らす、異形の姿。緑色の身体。無数の触手を顎髭の様に備えた蛸を思わせる頭部。背中からは蝙蝠を思わせる羽根。
目の前の存在を響は知っていた。ダゴン秘密教団の所有する神像そのままの姿。彼らの崇める大祭司がなぜ、こんな所で大根を両手に佇んでいるのだ?
大祭司と目があった。途端、頭の中に甲高いフルートのような声が響き渡る。
『ち、違うって! 誤解だよ皆! 私は決して泥棒なんかじゃ……!』
凄まじい脱力が響を襲った。
大根両手にあたふたとしている大祭司に秋水と環は全く動じず、普段通りの様子で声を掛ける。
「カリン殿、貴女が大根好きなのは知っているでござるが、黙って持ってくのはどうかと思うでござるよ」
「だいこんがほしかったら、ちゃんとみんなにきょかもらわないとダメだよ~」
『だから違うってばさ! シュウもタマも「しかたないなあ」みたいな顔しないの!』
威厳もへったくれもない思念を響達の脳内に振りまきつつ、目の前の異形は必至になって弁解しようとしている。
昼間、秋水が言っていた山神様とは彼女の事らしい。響が近くで苦笑している黒美に聞いてみると、教団が崇める大祭司とは種族が同じなだけで赤の他人との事だった。
カリンは手にした大根を黒美に渡しつつ、慌てた様子で捲し立てる。
『だから、泥棒だって泥棒! 私はそいつらが落していったのを拾っただけ! 番犬達に思念を送って追わせたけど、それだけじゃ不安があるから戦えそうな人は準備して付いてきて!』
「……ただの泥棒相手に大袈裟じゃないか?」
響の言葉に山神は首を横に振る。
『あいつら、人間なのに私を見ても何の反応もしなかったんよ』
「……何が言いたいかは分かった」
目の前の異形の存在を見ても動じない。そこから察せられるのは、泥棒達が響達同様に怪異側の人間である可能性が高いとの事だ。ならば、準備は厳重にしておくに越した事はない。
「中村、今田。お前ら、猟師連中を叩き起こしてこい。上鳥の嬢ちゃん達はしっかり戸締りしとくんだぞ。いざという時の猟銃の使い方は分かるな?」
黒美は慣れた感じで石動の指示に頷く。
「了解だよお。でもちょっと待ってねえ、おやつのおにぎりのまだいっぱい残っているから念の為に持っていってねえ」
「助かる。長丁場になったら栄養補給に困るからな。末姫様、済まねえが……」
「分かってる。俺も手を貸すさ。それが仕事だからな。朝顔がもう後を追っている」
「よっしゃ! 腕がなるぜ! 双六でぼろ負けした憂さ晴らししてやる!」
「昼顔、お前は待機だ」
「えーっ! なんでだよミャーコ!」
折角の気合が空回り、抗議の声を上げるアルビノの牛娘。
「お前、力加減できるのにしねえじゃねーか。悪戯に森を荒らすのは御法度だっての。大人しくここに残って防衛してろ。流石に人様の集落の中じゃ無茶できねーだろーしな」
「マジかよー……暴れさせてくれよー……」
昼顔の駄々を華麗にスルーし、都は響に向き合った。
「悪いが手を貸してくれねーか? 相手が魔術師だった場合、対処できる奴は多い方がいい。俺と夕顔だけでも何とかなると思うが、念には念を入れておきてーんだ。カリンの奴も魔術にゃ疎いしな」
「……了解した。あんたの兄貴には色々と借りがあるからな。その代わり、こっちはまだまだ見習いなんだ。しっかり守ってくれよ、武藤のお姫様?」
「当然だ。準備ができ次第急いで行くぞ!」
微かな星明りの中、暗い森を響達は進む。
今、野菜泥棒を追うメンバーの内訳は、山神のカリンを先頭に石動率いる蛙面の猟師達。その後に続き、響と夕顔。殿は都が務めている。
秋水やダゴン秘密教団のヘルパー達、環達は集落で待機している。ダゴン秘密教団では魔術師も多く在籍しているものの、今回多胡部に手伝いに来たのは魔術とは無縁の一般教徒ばかり。いかに人間より優れた身体能力を有していても、戦闘や魔術の素人では魔術師相手は荷が重い。
妃も同行したがったものの、どんな危険があるか分からない以上は連れて行くわけにはいかない。犠牲になるのは自己責任だとしても、それで皆の足を引っ張りかねない事を指摘すると、渋々ではあるが留守番を受け入れた。
『お! 次はこっちだね』
カリンは迷うことなく歩を進めている。
行く先々の木々の中、ボンヤリと光を放つ木が見て取れる。よくよく調べてみると、蛍光塗料が塗られているようだ。先行する朝顔が残した道標であった。
虫の鳴き声が響き渡る森の中。時々獣に出くわすが、一同の姿を認めるとそそくさと森の中に去っていった。
「森の奥の連中はこんなに大人しいのになあ……」
石動がボヤいている。これが獣が示す普通の反応らしい。集落に隣接する場所で盗み食いに命を懸けているバーサーカーの様な猪連中とは雲泥の差であった。
チンピラの如く人里を徘徊する無法者の猪達。その対処に苦慮している猟師達の苦悩に同情しつつも、響はカリンから教えられた情報を頭の中で反芻していた。
カリン曰く、野菜泥棒は二人組の若い男との事だった。害獣駆除の手伝いを終え、住みかである祠に向かっていた際に、森の中から現れたこの二人組を発見。
不審に思って付けてみると、やがて集落にたどり着いた男達は無言で畑から大根を抜き始めたとの事だった。
すぐさまカリンは姿を現し泥棒達を威嚇したのだが、男達は無表情のまま数本の大根を手にして森の中へと消え去った。
人よりも巨体で森の中では小回りが利き辛いカリンはすぐさま集落の番犬達に救援を求める思念を飛ばし、何か手掛かりは無いかと畑を調べていたとの事であった。
若い二人組。この男達が魔術師ならば、年齢に関しての情報は余り当てにならないだろう。若い容姿を保ったり、寿命を延ばしたりするのは魔術師としては珍しい事ではない。それだけに、魔術を齧ったばかりの素人なのか、それとも深淵に踏み込んだベテランなのかは判断ができなかった。
それ故に、相手の力量がどれほどのものなのか判断し辛い。魔術の心得がある以上、本来であれば個人の魔力を遠くからでも把握できるのだろうが、生憎ここは堅洲。魔王の魔力によって覆い尽くされたこの土地では、個人の魔力は霧の中に紛れるように魔王の魔力に埋没してしまうのである。
『次はこっち……ありゃ?』
素っ頓狂な思念を送りつつ、カリンが足を止める。
「山神様、どうなさいました?」
『なんか硬いもの踏んだ……なんだろこれ?』
その場を一歩後退ると、水かきの付いた足跡の中で土にめり込むのは黒光りする物体。
それを拾い上げた石動は怪訝そうな顔をした。
『鉄砲……だねえ』
「ですな。何でこんなとこに?」
「鉄砲? おい、俺にも見せてくれ」
石動から手渡された拳銃を、都はしげしげと確認する。
「サタデーナイトなんちゃらってか?」
「フィーバー?」
「スペシャルだ」
「知ってるならはぐらかすなよ。で、何でこんな安物がここに落ちてんだ? 近所のホムセンじゃ売ってないだろ?」
「何だよ響、お前も知ってんじゃんか」
サタデーナイトスペシャル。安価さだけが売りの粗悪な作りの拳銃だ。
「下らんボケは置いておくとして、だ。確かに妙だな。銃が落ちているのいるの自体は別に不思議じゃないが」
「マジかよ。堅洲の連中は銃刀法って言葉を知らんのか?」
「そんなもん気にしない連中が持ち込んでるに決まってるだろ。堅洲にゃ色んなカルト組織が活動しているが、外からは邪教と見られる連中だってわんさかいる。ダゴン秘密教団なんかはその典型例だ。そうじゃなくてもフリーランスの怪異連中がうろうろしているだろ? 人間の安全の為だとか正しき神への信仰の為だとかの理由でわざわざカチコミに来る退魔士みたいな連中も少なくないんだよ。まあ、大半は返り討ちに合うんだがな」
「治安悪いな、思ってた以上に。要するに私の持ってるノートと同じ勇敢な退魔士さんの落とし物って訳か?」
「それなんだがな。どうもおかしい」
「何がだ?」
「わざわざ人外相手にカチコミを掛ける連中だぞ? 装備はしっかり整えてくるのが普通なんだ。こんなチンピラが粋がる程度の粗悪品で怪異に挑もうとする阿呆は流石に考え難い」
腑に落ちない、と言った顔で都は夕顔に拳銃を預ける。夕顔は心得たとばかりに絵巻物を取り出すと、無地の部分に拳銃を押し込んだ。途端、拳銃は巻物に吸い込まれる。その場所には墨絵の拳銃が描かれていた。
「便利なもんだな」
「えへへ。制作に半世紀もかけた自信作なんだ~。名付けて紫金紅絵巻!」
「魂もってるのはしまえんけどな」
得意げに笑う夕顔につっこむ都。
名前の元である瓢箪とは違って何でも吸い込む事は出来ないらしかった。
「お~い! こっちこっち!」
木々の上から声がする。視線を上に向けると、角の生えた少女が手を振っていた。
大樹の枝から飛び降り、スタッと地面に着地する。牛の獣人というイメージからは想像できない程に軽やかな動きだ。
『朝顔、どうだった? あいつらの居場所を突き止められた?』
「バッチリだよカリンちゃん! こっちこっち、皆付いてきて!」
朝顔の案内で森を進むと、すぐさま開けた場所に出た。
そこに有るのは古めかしい洋館だった。集落の番犬達が、下手人を逃がすまいと周囲で警戒している。
「はい、魔術師確定。真っ黒だ」
「だね、みゃーちゃん」
はっきりとそう言い切る都に響は怪訝そうな顔を向ける。
「何でそんなのが分かるんだ?」
「こんな森の中にわざわざ大工がやってくるなら、集落の連中が気付くだろ。それに、こういった怪しい屋敷は町境にはいくつもあるしな」
「そうなのか?」
「うん。多分、やましい目的がある魔術師だと思う。みゃーくんの魔力の恩恵は受けたいけれど、堅洲のルールを守っていては目的が果たせない。そんな魔術師って、人目が付かなくて、かつみゃーくんの魔力がギリギリ届く場所に住処を構えがちなんだよね」
「ったく、狡い奴らだぜ。バレなきゃ問題ないって考えの奴らには、バレたらどうなるかはっきりと分からせてやらねえとな」
そう言って都と夕顔が館に近付く。物理的、魔術的なトラップが無いかを調べているようだ。
調べ終わった都が戻ってきた。表情は相変わらず変わらないが、明確に解せぬと言った雰囲気を纏っている。無機質で彫像のような容姿の割には、不思議と漏れ出る感情が分かりやすい魔女である。
「なーんか、拍子抜けするな……空城の計か?」
「罠、無かったのか?」
「それどころか鍵すらかかってねえ。魔術師以前に人として警戒心が無さ過ぎる」
「みゃーちゃんの言う通り、怪しいのは怪しいんだけど。でも、やっぱり何も無さそうなんだよね」
頷く都。そんな彼女の前に、緑色の巨体が躍り出る。カリンだ。
『そんなに心配なら私が先陣切るよ! 君達よりも体ガンジョーだしさ! 安全確認出来たら皆も来て!』
「まあ、虎穴に入らずんばなんとやら、か。頼むぜ山神様」
『ほいさっさ! じゃあカリン突撃隊長、逝っきまーす!』
「結局何にもなかったな」
「無防備にも程があんだろ……」
いささか呆れた様子で都は呻いていた。
玄関はおろか、洋館の中にさえ罠らしい罠が全く見られない。それどころか、人影一つ見当たらなかった。
しかし、誰かが住んでいる事だけは確かである。
ぼそぼそとした声が聞こえたので入ってみた部屋は台所だった。かけっぱなしのラジオの側、わざわざ町に出向いて買ってきたと思わしき数日前の新聞が広げられていた。
「広がる闇バイト……閑静な月之宮町で発砲事件。犯人の三人組、今だ逃走中、ねえ……そういやニュースでやってたっけ。ん~……特段変わった記事はないな」
「ねえ、みゃーちゃん。何かおかしくない? 何かこう、メアリー・セレスト号の中を見ているような……」
「だな」
どうやって引いているのか分からないが、電気は所々つけっぱなし。冷え切った飲みかけのコーヒーや、すっかりパサパサになった手つかずのトーストがジャムを半端に載せたまま放置されている。
無造作に置かれた携帯電話。触れてみると、バッテリー切れのようだ。充電用のケーブルが接続されているが、その先はコンセントには刺さっていない。
このように、そこかしこに住人の痕跡はあるのだが、住人が消えてからそれなりに時間が経っているようにも見える。日常生活を送っていた最中、急に失踪したかのような雰囲気だ。
盗まれた野菜がここにはないかと響達が視線を彷徨わせていると、館の一室からドタバタという音が聞こえると共に、頭の中にフルートの音ような思念が流れ込んできた。
『いたいた! 泥棒見つけた! 二人ともそろってる! 皆急いでこっち来て! 地下だよ地下! 地下室がある! 私が先に踏み込んであっづぅ!』
音を頼りにカリンの下に駆け付けると、緑色の山神は電気の消えた扉が開けっ放しの部屋で、足を抱えてぴょんぴょんとはねていた。
「なにやってんだ?」
『ふおぉぉぉ……星踏んだ……暗くて気付かなかった……』
夕影が電気をつけると、床一面に描かれていたのは奇妙な五芒星。中心には地下室への扉があり、そこには燃える瞳の様な模様が描かれていた。
「末姫様、済まねえがこの忌々しい印を消してくれねえか? これじゃあ盗人どもを追いかける事もできねえ」
離れた場所から覗き込む猟師達。床に描かれた五芒星を見て、あからさまに不快そうな表情をしている。
『石動、ちょいまった』
「何です、山神様?」
痛みのピークがようやく去ったらしく、カリンは落ち着いた声を頭に流す。
『ここに星があるってことは、なんかヤバいの封じているって事じゃない? 突撃するのはしっかりと情報を集めてからの方がいいと思う』
「しかしですな。この地下室が外に繋がっていたらどうします? ちんたらしてると取り逃がす事になるのでは?」
『その時は外のワンちゃん達が知らせてくれるっしょ。魔術師相手に対しては用心はできるだけしたほうがいいって』
「分かりました。牛の嬢ちゃん、済まねえが俺ら魔術に関してはさっぱり何でな、情報収集を頼めるか?」
「了解しました。響ちゃん、お手伝いお願いね」
『私とみゃーこがここ見張ってるよ。石動達は念の為、外に抜け道が無いか調べといて。地下に何が居るか分かったら私が知らせるから』
短い探索の中で見つけた二階の書斎。響と夕顔はそこで書物を漁っていた。念の為護衛についた朝顔が周囲に注意を向けている。
「お、これっぽいな……ビンゴだ」
「やったね、響ちゃん」
響が手に取っているのは表題の無い分厚い冊子。ここの住人の日記だった。
魔術師は大抵、自身の収集した知識が失われるのを嫌う。特に、教団などに属さず個人で探求している魔術師ほど、不意の事故で亡くなった際に知識の引継ぎが難しくなる。
故に、魔術師は日記を残すのだ。自らの探究を受け継いでくれるものがいるのなら、例え見知らぬ人物であろうとも知識を託したくなるのが魔術の探究者の性である。最も、流石に後継者の選別はするのだが。
大体の場合、魔術知識に関する記載は暗号で記され、容易には読み取れないようになっている。念には念を入れ、関係のない日常に関する記載ですら暗号化を徹底する魔術師も少なくはない。日常使いが前提のこの程度の暗号が解けなければ、魔術の知識を受け継ぐ資格など無いという事だ。
さて、響が適当にページを開いてみると、案の定暗号の羅列が顔を出した。
パラパラと日記を捲っていく。日記は暗号だらけではなく、日常の出来事に関してはそのまま日本語で書き連ねているようだ。
流し読みの最中、響は気になる文字を見つけていた。
例えば、以下の記録である。
やらかした!
良質な贄を探してこの地に居を新たに構えたのだが、一生の不覚!
堅洲のルールから外れて人身御供を行おうと、隠れ家は厳重に選んだはずだった。
魔王殿の魔力の恩恵は街中でないにしろ、この森の中でも十分に届いている。儀式や生活の為に行う魔術に関しては、街中で暮らしていた頃と比べても不自由はない。不便なのは精々、日用品を買いに出かける手間が増えた程度だ。
流石にここまでは武藤の者達も監視はしていまい。近場には小さな集落。そこからBに捧げる贄を頂こうと考えていたのだが……ちゃんと下調べしておけばよかったと絶賛航海中な吾輩である。
狙っていた集落の住人はものの見事に蛙面ばかり。明らかに海の魔神の血族である。魔術に関しては無知な様子。魔術の深淵を極めようと研鑽を積んでいる吾輩なら、物の数でもなかろう。
しかし、だからと言ってこの連中を贄にする訳にはいかない。もしも手を出してしまえば、町中のダゴン秘密教団と敵対しかねない。そうなれば、彼奴等が懇意にしている武藤の連中……あの恐るべきリリスの末裔達と、その配下の鬼共からも狙われる事になる。いくら何でもオーバーキル過ぎるではないか! いい加減にしろ!
不幸中の幸いなのは先程も記したように、ここでも魔王殿の魔力が生きているという点である。森は肥えに肥えている。豊富な草木や果実のお陰で、鹿や猪と言った獣が大勢で闊歩している。狩るのは容易そうだが、隠れて堅洲のタブーを破ろうとしているのに、狩猟免許を取る勉強をしなければとの考えが頭をよぎってしまい、若干自分自身が嫌になる。吾輩猟師じゃなくて魔術師ぞ。しかし、これも我が神Bのため!
大体、堅洲のルールは厳しすぎるのである。吾輩なんかじゃとても定められたルール内で人身御供をできそうにない。
狩りの対象となる犯罪者連中は、堅洲があまり人の寄り付かない悪名高い地と知ってやってくる奴らが割かし存在するのではあるが……。とかくマンパワーが足りないのである。
吾輩が放浪中の若き雄獅子だとすれば、カルト連中はまさにハイエナ! 字面だけ見れば吾輩の方が強そうに見えるが百獣の王という肩書が見せる幻想でしかない! 吾輩一人では狩りの成功率があまりにも低すぎる! 大半が多勢に無勢で狩りをするハイエナ達に掻っ攫われてしまうのだ! しかもこのハイエナ連中、獅子たる吾輩より明らかに強いのがチラホラと……。
武藤殿にはもう少し個人経営の魔術師には優しくしてほしいところである。もっと吾輩を思いやってくれれば、堅洲のルールを破らずとも済んだというのに! 我が神Bも地下で空腹を訴えている。今日の所はセールで買ってきた食パン数斤でなんとか勘弁してもらわないと……。
記されている魔術師の愚痴は受け流しつつ、重要そうな情報だけは見て取れた。
我が神B。地下に存在するのはこの魔術師が崇拝する、何らかの存在のようである。
響は日記を遡っていく。やがて、魔術師がBと初めて接触したと思しき記述にたどり着いた。
此度のイギリス旅行は中々に得るものがあった。
毎度の事、未知を求めての目的の無い旅路であったが、今回は旅の途中で面白い話を耳にした。
セヴァン渓谷において姿を消したという魔術師、モーリー卿。何でも「バークリーの蟇蛙」なる奇怪な怪異を従えていたらしい。
この魔術の先達がいかなる知識を秘めていたのか気になり、神秘の残滓が残ってはいないかと衝動的にその足跡を追う事にしたのだった。
森の中にある城の跡地に赴いた吾輩であるが、何とも酷い荒れ具合であった。所々に焦げや煤が見える。
近場の町で話を聞くに、過去にどこぞの旅行者がとち狂ってこの跡地に侵入し、放火していったらしい。全く、マナーの悪い奴もいるものであるな。遺跡というものは過去からのかけがえのない遺産であるというのに、全くもって嘆かわしい。
そんな訳で吾輩こと森井男爵は深き森の中、今は亡きモーリー卿の面影を求めて彼の居城跡を散策したのである。森井がモーリーの住んでいた森の中で……会心の出来であるな。笑いが止まらん。
さて、爆笑冗句でインクを無駄にしている場合ではなかった。吾輩、この城の地下にて奇怪な生物を発見したのである。発見当初は切断された触手にしか見えなかったのだが、吾輩が近付くと反応を見せ、蠢き、やがて奇怪な生物に姿を変えたのである。
単眼で、象の様な鼻を持ち、鋏を持った奇怪な生き物である。蠢いている髭に思わせる器官は蛇を思わせた。よもやこれがモーリー卿が従えたという「バークリーの蟇蛙」なのだろうか? 思っていたよりも随分小さいし、大した力も感じない。
ぐうぐう腹を鳴らしているものの、生憎吾輩は食料をそれ程持っていない。僅かばかりの携行食を分けてるとこの生き物は嬉々とした様子でそれを平らげ、すやすやと寝息を立ててしまった。
怠惰の極みとも言えるこの生物を、吾輩は旅行鞄に押し込んで日本に帰ってきた訳である。
旅行先でモーリー卿について調べた際に図書館で読んだサングスター氏の著書には「バークリーの蟇蛙」がかの神Bと同一の存在だとあったが、はてさて本当の事なのだろうか。
旧支配者たるBであれば、いかな強大な魔術師である吾輩でさえ歯牙に掛けぬ程の強大な力を持っていても不思議ではないのだが。今、吾輩の目の前で買ってきた鶏肉(セールで物凄く安かった。助かったのである)と格闘しているこの小さな生物がBだとは、些か信じがたい。
「バークリーの蟇蛙かあ……どんな生き物なんだろうね?」
「さあな。詳しくは分からんが、これは僥倖だ。読んでみた限り、このBってやつは人間の魔術師でもどうにかなる程度の存在のようだ」
「油断は禁物だよ、響ちゃん」
「当然だ。戦力は集中させるべき、だろ? 朝顔、外の連中に地下室にいる奴の正体が分かったと伝えてきてくれ」
「了解だよ!」
窓際に足をかけてサムズアップする牛娘。そのまま館の外へと飛び降りる。
夕顔が几帳面に窓を閉めるのを確認し、響は日記を持って猟師達が一階へと降りて行った。
再び集結した一同と、響は情報を共有する。
『この下に何がいるかは大体分かったよ。後は最後の仕上げだけだね』
夕影はカリンの思念に頷くと、絵巻を広げる。
「石動さん、地下室だと狭くて猟銃じゃ小回りが利かないかもしれないから、拳銃貸してあげるね」
「おお、ありがてえ。頼む、牛の嬢ちゃん」
「拳銃って、さっき拾ったアレか?」
「ううん。流石にあんな玩具じゃ心もとないよ。夜ちゃん……私達の仲間の一人から護身用として預かっているのが数丁あるんだ。響ちゃんはどうする?」
「……念の為、頼む」
夕影が絵巻の中の拳銃の墨絵を触れると、墨絵は二次元から三次元へと変化する。
猟師達の後で響に手渡されたそれは、三八口径のリボルバーだった。確かに、先程拾っていた安っぽい拳銃と比べて、随分と頼もしく見える。
「みゃーちゃんは何か武器はいる?」
「いや、閉鎖空間で長物は不利だ。素手の方がいい」
朝顔に忍刀と手裏剣を手渡す夕影にそう返しつつ、都は星の一角に立つ。全員が武装を終えたのを確認すると、その拳を床に叩きつけた。床材が砕け散り、星を構成する線が崩れる。途端、星は魔力を失った。
『よし! これで障害はなくなった! 者共、私に続け! 突撃だ~!』
石動達の鬨の声を背に、カリンは地下へ続く穴に巨体を捩じりこむ。明らかに穴の方が小さいのだが、カリンの緑色の肉体は脅威の柔軟性を発揮し、するりと階段に降り立った。
地下は暗い。階段を下りた先には闇が広がっている。がやがやと声を上げ、降りてくる猟師達。彼らを守る盾になるべく、注意深く足を進めていたカリンの足元に、硬いものが当たった。
人骨だ。肉が綺麗に削ぎ取られており、そのまま骨格模型として使えそうな程に磨かれているように見える。ただ、頭蓋骨には不自然な穴が開いていた。
銃創だろうか。カリンが詳しく見てみようとしたその矢先だった。暗闇の中から異形の怪物が飛び掛かってきた。象の様な鼻を持ち、鋏を備えた一つ目の生物。日誌にBと記されていた怪異が、カリンに迫る。
カリンは慌てなかった。元より奇襲には慣れている。あの悪賢い泥棒猪に比べれば、何とも素直な突撃。対処は容易い。
その水掻きを備えた剛腕を持ってその突撃を受け止めると、流れるような動きでバックドロップを怪物に決めた。
石動が電灯のスイッチを見つけて付けると、明るくなった手狭な地下室で怪物が一つ目を回している。カリンは夕影にロープを催促し、気を失った怪物を縛り始めた。
「……泥棒はどうした?」
響の呟きに、怪物に気を取られていた一同は本来の目的を思い出す。
部屋の中を探すまでもなく、そいつらは居た。盗人と思しき二人の男。足元にはカリンが見つけたのとは別の、しかし同様に綺麗に肉がこそげ取られた人骨が一つ。さらに、その側には奪ったと思わしき食べ掛けの大根が転がっていた。
猟師達が盗人に詰めかける。拳銃をちらつかせて脅しているが、どうにも様子がおかしい。二人の男は虚ろな目をしたまま、微動だにしない。その様子に気付いた響が男達の前に立つ。
「あ、おい、嬢ちゃん下がれ! 危ないぞ!」
石動の声を聞き流しつつ、二人の瞳を覗き込んだ。
「こいつら、催眠にかかってる。どうやら操られていただけのようだな……そこで伸びてる怪物にやられたなら、そいつが目を覚まして命令しない限りは動けないだろうな……ん?」
「どうした嬢ちゃん? まだ何かあるのか?」
「こいつらってまさか……」
「あ、そうだよ響ちゃん。この二人、さっき見た新聞に載ってた闇バイトの実行犯だ」
「じゃあ、当然魔術師じゃないって事で……つーか森井とかいうここの主はどこだ?」
疑問に頭を捻っている響の側で、朝顔は盗人二人をロープで縛り上げる。犯罪者を無力化した後、夕影が二人に指を向けると、虚ろなの瞳に生気が宿った。催眠を解除したのだ。
その途端、瞳の生気は狂気に染まり、二人の男は地下室を揺るがす絶叫を上げた。怯えながら早口で何かを捲し立てている。とりとめのないその言葉を都は最後まで聞き取ると、戒めから逃れようともがく男二人に当身を食らわせ、気絶させた。
『ねえみゃーこ、あいつら何て言ってた?』
「ん~あ~……帰ってから話す。そこの一つ目にも聞きたい事があるしな」
『って事は?』
「事件解決。撤収撤収。もう俺達がするべき事は残ってねーよ」
何とも呆気ない終了宣言だった。念入りに準備し、情報を追い求め、物々しく武装をしたわりには、弾丸一発も使っていない。山神様のバックドロップ一発で片が付いてしまった。
釈然とはしないが、これでいいのだろう。魔術師に係わって淡白な終わりを迎えられるのは、とても幸運な事であると響は理解していた。
皆で館の外に出ると、番犬達が迎えてくれた。無事を喜び猟師達の腕に飛びこむ犬もいれば、縛り上げられた盗人二人と怪物を興味深そうに前足でつついている犬もいる。
供養するためであろう、地下室で見つけた二人分の人骨もまた、館の外に出されていた。
最後の仕上げとして、これ以上ここに変な連中が住みつかないよう、都は夕影に頼んで館を絵巻の中に封印させた。
更地になった事件現場を後にする。
夜の虫の鳴き声が支配する森の中。天秤棒にぶら下げられた単眼の怪物の腹から、凄まじい轟音が鳴り響くのだった。
赤い光が去っていく。闇が支配する道路へとパトカーが消えて行くのを見届けてから、響は上鳥家へと戻っていった。
警察を呼んだのは勿論、闇バイトの実行犯二人を引き渡すためである。とは言え、普通の警官相手では此度の騒動を信じてなど貰えないだろう。その事は都もよく理解していたようで、専門の部署の知り合いに連絡をかけるとの事だった。
やってきたのは若いのにくたびれた雰囲気を醸し出す糸目の男。都がショウキと呼ぶその男は、彼女からの報告に日常会話でも聞くような雰囲気で頷いている。盗人二人と森で拾った彼らの物と思しきあの瓦落多銃を引き渡すと、後は任せろと言って撤収していった。
後日、怪異の事は伏せられたまま、闇バイトの実行犯が捕まったとだけ報道されるだろうと、都が言う。事実、その通りになるのだった。
さて、響達が上鳥家の客間に足を踏み入れると、件の怪物が用意された食事をかっ食らっていた。凄まじい食欲を見て猟師達はゲンナリしているが、黒美は自分の手料理を沢山食べてくれるのが嬉しいのか、ニコニコ顔で給仕している。
『いやあ、ほんとに美味しいよくろみん! 森井はあんまり料理とかしないみたいでさ、こういう多彩な味付けの食べ物って食べた事無かったんだよね』
「あらあら、嬉しいねえ。たんとお食べ~」
『しっかし、人間って何だってあんなに人身御供に拘るんだろね? 正直、食べられるんなら供物は別に人間じゃなくても構わないんだけど。てか、ここ百年くらいで人間の味って随分落ちてるように思えるんだよね。魔力もあんまり蓄えてないし、自然の下でのびのび育ってないのが原因かな?』
「それはそれで人間にとってはいい進化だろ? 食っても旨くないってのは生存戦略上明確な強みだ」
都の言葉に頷く怪物。相変わらず口は料理を楽しみ続けている。口が塞がっていても思念で会話できるのは便利なものだと響は思った。
『まあ、それでもお腹空いてたら食べるけどさ。ただ、食べて供養した手前、森井にも見知らぬ兄ちゃんにもこんな事言うの何だけどさ、正直の所いつも供えられていた猪の方が数倍美味で魔力も多かったんよね。文明が発達して人間達は自然離れしているみたいだし、味も魔力も落ちる一方になるんだろうな~。となると、人身御供なんてされても正直嬉しくないって言うかさ。やっぱり献上されるんなら美味しいもの食べたいよね』
もりもりとお握りを頬張りつつ、客間に集まった皆に思念を送ってくる。何とも流暢な日本語だ。聞くに、森井との生活の中で学んだのだそうだ。
この怪物、森井がBと呼んできた単眼の生物から得た情報と、盗人二人の話。それらを総合すると、此度の騒動の顛末は以下の通りだった。
Bは「バークリーの蟇」と呼ばれる怪物で間違いないらしい。正確には、その搾りかすとの事だが。住処の廃城をどこぞの誰かが放火した際、地下でゴロゴロ生活していた「バークリーの蟇」は、ダイエット不足で肉体が膨れ上がり、物理的に城の地下から脱出できなくなっていた。仕方なく緑色の気体に姿を変えて抜け出したわけだが、気体化が完了する前に焼け焦げて落ちた体組織が残された。それが一個体として再生を果たしたのがBの正体であった。
要するにBは「バークリーの蟇」の分霊みたいなものであった。B自身は本体の記憶こそ引き継いでいるとはいえ、力は本体に遠く及ばない。分裂した後の記憶は本体と共有出来ないようで、困った事に現在本体がどこに消えたかは分からないとの事だった。
本体と再び一体となるため、あるいは分身体自体が本体と同じ力を身に着けるため、森井の庇護下で弱体化した自分を守っていた訳である。
この森に引っ越してしばらくは森井が魔術で仕留めてきた獣の肉を食べて過ごしていたB。毎度申し訳なさそうに人間が用意できなかったと謝る森井にはこの贄で満足していると告げたものの、森井には気を使わせているとしか思われなかった。Bとしては猪の方が美味しいからもっと捕ってきてと暗に伝えたつもりだったのだが。
そんなある日。この洋館に忍び込んできたものがあった。月之宮町から逃げてきた三人の手配犯であった。
新聞で彼らの事を知っていた森井は、これ幸いと事情を知らぬ世捨て人を演じて彼らを客として迎え入れたのだ。無論、人身御供として利用するために。
彼らを客間があると言って地下に誘い込み、Bに対面させた結果……当然の様に発狂した。銃を持っていた一人が暴れて手当たり次第に乱射した結果、森井は頭に弾丸を受けて即死。これはまずいと考えたBは巨大な魔眼を持って彼らを催眠し、鎮静化させたのだった。
この一連の騒動でBが困ったのは、森井が死んでしまった事だ。これでは食料が確保できない。地下室への入り口には森井が星の印を残していた。Bを封じ込める為ではなく、近所に住む深きものの末裔達が迷いこんだ時、まだ力の弱いBに危害を加えられないようにするため施されたものだった。
催眠した連中を使えば星の印を解除する事は容易だったが、森井に忠告されていた通り自らの身を護るためには星の印を破壊する訳にもいかない。
どうやってこれからの食事を確保しようと一通り考えたB。いつも森井は猪を捕って来てくれるが、それは魔術によっての成果だという事も知っていた。目の前には魔術の魔の字も知らない三人組。三人……一人では難しくとも、三人もいればいけるか? 幸い、森井を殺した鉄砲も持っているし、いけるいける。そう判断したBだったのだが。
とりあえず物言わぬ骸となった森井を感謝の意を込めて胃の腑に収めつつ、操り人形と化した三人組が猪を狩ってくるのを待つ。
ところが、戻ってきたのは三人組だけ。望みに望んだ猪は影も片伴い。いな、よく見ると獲物が増えるどころか操り人形が一人欠けていた。先程銃を乱射した男が大腿動脈から血を垂れ流している。抵抗する猪の一撃をもろに受けたらしい。残りの二人が彼を地下に運び込んだ時には既にこと切れていた。何とも不幸な事に、地下室での乱射で弾丸はとっくに無くなっていたのだ。
人間って、こんなに脆いんだっけ? 自身の浅はかな考えで、貴重な労働力を一人分失ってしまった。もう少し安全に食料を確保する手を考えなければならない。
自分のために儚く散った男を謝罪の念を込めて食しつつ、頭を働かせる。
そうだ。よくよく考えたら、この二人にも食事は必要ではないか。今、この場で用意できる食べ物はと言うと。Bは申し訳の無い気持ちでいっぱいになりながらも、残った二人組に食べ掛けの肉を分けてやった。とはいえ、こんなに少なければ空腹がすぐに訪れるだろう。
何かいい手は無いか。いまや養われるのではなく養う側になってしまったB。天井を見上げ、閃く。
そう、森井が言うにはこの屋敷の近場には人が住まう集落があるとの話ではないか。そこならば食料もあるに違いない。例え追手が来たとしても、森井の話が確かならば奴らはこの地下室まで追っては来れないはずだった。
そのような理由から、残った二人の男に出来る限り安全な方法で食べられる物を持ってくるように命令を下したのだった。
途中まではうまく行っていたと言えるだろう。幸いにも今は夏野菜の収穫期。食料は山のように手に入った。山神であるカリンに目を付けられたのは想定外だったが、いかな彼女であっても星の印は越えられない。まんまと大ぶりの大根を手に入れ、ホクホク顔で齧りついていたのだが……。
Bにとって不運だったのは、星の印が通用しない者達が集落の手伝いに来ていた事であった。唯の人間に過ぎない響。リリスの末裔である武藤の魔女達。イレギュラーな彼女達によって、星の印はあっさりと解除されてしまう。
こうなったら徹底抗戦だと覚悟を決めたB。大切な労働力を守るため、一番乗りしてきたカリンに飛び掛かり……一撃で玉砕されたのであった。
「それでBちゃん? これからどーするの?」
「住処も夕影さんが回収してしまったのでしょう?」
『そーなんだよねー。これからどうしたもんか……』
環と妃の問いに、天を仰いで考えるB。相変わらず口は咀嚼に忙しそうだが。
そんな悩める分霊に、救いの手を差し伸べたのは石動だった。
「なああんた、ここの森の猪の味が気に入ったんだろ? だったら、俺らに手を貸してくれねえか?」
『どゆこと?』
Bがカリンに尋ねると、彼女は溜息をつくような仕草をした後、Bに思念を送り返す。
『ここら辺、バイタリティに溢れ捲ってる猪連中のせいで、果物や野菜が常に狙われているんだよね。私としても、人手? が増えるのは大歓迎なんだけど』
「金は無いんで払えねえが、代わりに牡丹と野菜は腐るほどとれる。料理も村の連中に任せるし、衣食住はこちらが面倒を見る。どうだ?」
カリンと石動の勧誘。Bはその申し出を黒美の料理共々嚙み締めて。
『不肖B、これから厄介になります!』
「有難い! よーし、お前ら酒だ! 家から酒もってこい! 新しい山神様を迎えるための宴じゃあ!」
歓迎の声を上げる猟師達。もう夜も開けそうな時間帯だというのに何ともエネルギッシュな連中だ。あるいは徹夜明けでハイになっているだけなのかもしれなかったが。
「えんかいだ~!」
「えんかいでござる~!」
楽し気に準備に取り掛かる環と秋水。
妃は黒美を手伝うべく、台所へと姿を消した。
「響ちゃん、大丈夫?」
心配げに話しかけてきた遼に、響は「大丈夫じゃない」とばかりに首を振る。
「畑仕事の後の徹夜は流石に堪えた。少し眠らせてくれ」
「うん。お布団は敷いてあるからゆっくり休んでね」
「そう言うお前も適度に休みを挟めよ?」
「分かった。気を付けるよ」
そう言って響は寝室に足を運び、着替える事も無く布団に飛び込んだ。
楽しげな談笑が遠くから聞こえてくる。若干騒がしいが、気にせず眠らなければならない。
まだまだ野菜は畑を埋め尽くしているのだ。収穫作業の続きに支障が出ないよう、しっかりと体力を回復させなければ。
やはり徹夜で疲れが溜まっていたのだろう。あれだけ耳に響いていた猟師達の笑い声は、思った以上にあっさりと微睡の中に溶けていった。