定年教師、第二の人生スタート
夢を見ていた気がする。
長い、長い夢を。
自分自身のことを忘れてしまうと思えるくらい。
それこそ、永遠とさえ思えるくらい長い夢を。
(うっ……ううん……)
ゆっくり目を開けると、見知らぬ天井。
(ここは……どこだ?)
眠りから覚めたばかりの身体を起こして辺りを見渡す。天井ばかりか、室内にさえ見覚えがない。
天井かと思っていたそれは豪奢なベッドの天蓋であり、辺りはアンティーク調の高そうな家具の数々。そして室内三方の壁と同じ高さのガラス窓。薄いレースのカーテンから朝日が差し込んでいた。
(まるで英国の上流貴族の部屋だな。一体何がどうなって……)
「痛っ!」
何があったか思い出そうとしたその時、ズキンと鋭い痛みが頭に走る。直後、脳内に大量の記憶が流れ込む。それもまるで吹き出した間欠泉のように。目紛しく湧き出る今までの記憶。噂に聞く走馬灯というものだろうかと考えたが、どうやら様子がおかしい。何故なら、覚えのない記憶まで混ざっていたからだ。
それはこの建物で過ごした記憶。
父と母に甘やかされて育てられた記憶。
ワガママとイタズラで使用人たちを困らせた記憶。
まるで他人の記憶と自分自身の記憶が混濁しているかのような感覚を覚えた。
強烈な頭痛と猛烈な吐き気にベッドの上で蹲りもがいていると、ドアの外からノックが響く。
「お目覚めですか? お嬢様」
先程まで聞き覚えのなかった女性の声。
だが、今なら聞き覚えがある。
それ即ち、自分ではないこの部屋の元の主との記憶の結合が完了しつつある証拠であった。
「おっ、起きてますわアネモネ! ただ少し寝覚めが悪くって」
発した自分の言葉に違和感を覚える。
老人男性のそれとは違う、うら若き女性の声。今までの人生で一度も放ったことのないお嬢様言葉。そして扉の向こうにいるアネモネという人物。まるで自分が自分で無くなった気味の悪い感覚。
「大丈夫ですか? 開けますよ?」
「い、いいえ結構よ! それよりも目覚めのお茶の支度をしてきてちょうだい!」
「……かしこまりました。只今用意して参ります」
扉の向こうにいた人物が去っていく足音を聞きながら、深い溜息を吐く。一時的とはいえ、時間を稼ぐことが出来た。だが、時間を稼いだところでどうなるというのか自分でもわからない。わからないが、わからないなりに現状を把握することが先決。
動かしづらい身体を気合いで動かしてベッドから降りると、大きな鏡のある化粧台へ向かった。
そして愕然とした。
鏡に映っている自分の姿に。
「なっ、なっ、なっ、なんなんですのー!? この姿は!? この顔は!?」
還暦を過ぎた老人の姿はそこにはない。
あるのは黒く長い髪に薄赤い虹彩の双眸。
透き通るような白い肌に細い四肢。
紫色のネグリジェを着た、十代そこそこの少女の姿が映っていたのだった。
驚きのあまりに素っ頓狂な叫びを上げたせいで勢いよくドアが開き、色んな人間が室内に入って来た。
「どうしたんだロザリア! なにがあった!?」
「何事ですかお嬢様!?」
特別身なりの良い夫婦と思しき二人と、彼らに雇われていると思しき使用人たち。
目紛しい状況変化と記憶の結合。
既に常人の脳が処理出来るスペックをとうにオーバーしている。
少女は振り向き、儚げな笑顔を浮かべて集まって来た皆に向かってこう告げた。
「……二度寝させて頂きますわ」
彼——改め、彼女は一時的な現実逃避を選択。
とりあえず、その場で気を失っておくことにした。




