関係正常化イチャイチャ甘やかし作戦 4
ふたりの天秤がようやく釣り合う。
やがてオリビアは気を失うように眠りに落ちて行った。
あれ、私、夢を見ているなという明晰夢の自覚があった。
場所は、初めて就職した職場だ。
上司は朝遅れてやって来た。酒臭い。顔に苛立ちと、飲酒して機嫌の悪さから情緒が嫌な方に昂っているのは分かった。オリビアは空気の読めない発言をするが、全く空気が読めないわけではない。相手が不機嫌なのだけは理解できる。一目見た瞬間から嫌な予感がした。
デスクに、伝言メモを残している。上司はそれを見て、真顔から急転直下顔色がどす黒く、怒りに醜悪な顔つきとなった。
前世の自分はその時、自分のパソコンを見ていたので、彼の変化には気づかなかったが、明晰夢を見ているオリビアは微細な表情の変化も観察できた。今更何の役にも立たない情報ではある。
すると、上司が「〇〇~~~~~~~ッッ」と前世のオリビアの名字を呼び、オフィス中に響き渡る怒声を上げた。
驚いた前世のオリビアの前で、伝言メモをびりびりに破く。
後はもう、罵声に次ぐ罵声だった。
空気が読めない。役立たず。異常。
オンパレード過ぎて呆然とする。
人格否定をされているという自覚もなかった。
前世のオリビアは帰る時に泣いたが、自分がおかしいから仕方ないのだと思った。
しばらくはその職場で耐えていたが、結局そこを辞めて、次の職場でもまたうまく行かなくて。
どこに行ってもトラブルを起こす。
だったら、多分自分が悪いのだろう。
だれともうまく人間関係を作ることができない。
自分の心が傷ついているという認識もなかった。それが当たり前だったので。
何故うまくいかないのだろう。
自分を客観視することを始めて、どうにか人生の立て直しを図る頃には、オリビアは貯金もなく、薄給で、現代社会とは思えないくらい栄養状態も悪くなっていた。
でも、職場の年上の女性たちに、家で採れた野菜や果物をわけてもらい、ランチに誘われ、かわいがってもらった。自分の悪いところを直視して、何を言うべきか、むしろ何を言わないべきなのか。相手からどう見られるかではなく、相手はどう感じているのか。評価されたいからではなく、その人のことを考えて行動する。そうやって少し気をつけるだけで、嘘のようにオリビアの前世の世界は開けて行った。
まだ友人と呼べるような人たちがいたわけではない。
でも、職場の同僚とトラブルも起こさず、親切にしてもらえるだけで、前世のオリビアは本当にうれしかった。
だが、それも長くは続かない。
やっと人生の立て直しが始まったばかりだったのに、前世のオリビアは死んでしまった。恐らく体の中がボロボロだったのだろう。
また経験値を失って、環境は強くてニューゲームだが、中身はルナティックモードで始まったオリビア・バートンの人生。
そのオリビアの人生で、大好きな男の子に、酷い仕打ちをした。
花を摘んで来いと言いながら、差し出されたそれを叩き落して、従兄弟に目の前で踏ませるなど、残酷なことがよくもできたものだ。
男の子――ディランは震えていた。まるで、上司に怒鳴られて何が起きたのか分からないと硬直していたオリビアの前世のように。
オリビアは笑っていたけれど、本心全てで楽しんでいたわけでもなかった。
それはそうだろう。だって彼女はディランが好きだったのだから。
同時に、ディランは残酷なオリビアを何故か好きでいてくれたのだから。
彼が、リアの花を叩き落され、踏まれても、馬鹿みたいにオリビアへ献身していたのを知っていたから。
ディランは、彼の小さな木箱の中に、きれいだから、オリビアに上げたいと思ったものを蒐集していた。そして、オリビアはそのことを知っていた。
白い花。綺麗な石ころ。ぴかぴかのどんぐり。古い硬貨。ガラス玉。トカゲのしっぽ。
オリビアに直接くれるわけではない。
でも、手の中に握りしめて、物陰から、オリビアをじっと見つめていた。オリビアが従兄弟たちと遊び始めると、ぎゅっと握り込んで悲しそうにしていた。
――くれたらいいのに。
そうしたらオリビアは受け取っただろうか。
ある日、従兄弟たちが、ディランの木箱を見つけて、オリビアに見せびらかしに来た。
「あいつ、こんなゴミクズ集めていたんだぜ」
「気持ち悪い~」
ゲラゲラと笑い、オリビアの興味歓心を買いたくて、ことさら囃し立ててみせる。
オリビアは気のない興味なしといったふりをして、木箱の中をちらりと見た。
従兄弟たちの言うように、ゴミクズでガラクタだ。
でも、とっても綺麗で、ぴかぴかして見えた。
蒐集物を公開されているのに気づいたディランが、真っ青な顔で取り返しに来た。当時栄養状態が悪かった彼は、大柄な男児ふたり相手に、かえして、かえして! と飛びつくようにする。
当然従兄弟たちは木箱を掲げ、蓋を締めたそれを乱暴にボールのように投げ合った。
ディランはあまりの辱めに呆然としていた。
好きな女の子の前で、こんなことをされたら当然だ。それも、彼女への贈り物を、そうとは知られずに酷い仕打ちをされている。
当の本人は、興味もなさそうに座り、横を向いているのだ。
どれほど惨めだっただろう。
「ねえ、オリビア。これもしかしてオリビアに」
従兄弟のひとりが気づいたかのように言いかけた。というか、そもそもわかっていたのかもしれない。告げ口して、こんなみっともないゴミクズをオリビアに⁉ と更に辱める意図があったのだと思う。
しかしその時初めて、オリビアはすっくと立ちあがった。
ぽん、ぽん、と自分のスカートを払うと、
「くだらない」
無関心だとはっきり態度に示し、オリビアは「私もう行くから」とひとりすたすた歩きだした。慌てたのは従兄弟たちで、顔を見合わせると、もう蒐集箱はどうでもいいとばかり投げ捨ててオリビアを追いかけた。
「待ってよ、オリビア」
「おりびあ~」
幼いオリビアの背を、木箱を回収したディランがじっと見つめている。その頬は汚れ、涙の痕で濡れていた。
オリビアは――明晰夢を見ているオリビアも、泣いていた。
どうしてこんなことができたんだろう。
本当にどうして。
わかっている。
私が、他人の目を気にして、その人の気持ちを考えるなんてできない人間だから。
上司に怒鳴られたり、惨めな思いをしたり、人間関係で何度も失敗し、散々苦労してようやく身につけたその気づきも、リセットされてしまった。
それらのツケを払うのは本来オリビアだったはずなのに、幼いディランが払う羽目になってしまったのだ。
やり直せたら。
そう思う。
でも、全部何もかもなかったことにしてやり直したら、もうそのオリビアはオリビアだろうか。ディランはディランなのだろうか。
経験することが違えば、その人も変わっていく。
今のオリビアはもう、今のオリビアにしかなれない。
やり直したところで、それは違うオリビアだ。別人なのだ。
あの時、あるいは前世のある時点まで、オリビアはずっと自分のことだけだった。他人なんて、その目を気にしているのに、実はオリビアの世界に彼らは存在しなかった。存在したとして、彼らは影絵のような、書き割りのようなものでしかなかった。
でも今は違う。
ディランがどんな気持ちなのか。ディランが辛くないか。ディランが幸せか。
オリビアの中に、一人の人間としてディランがいる。
目が覚めたら、私――
オリビアはそう思って、ふわりと意識が浮上した。
覚醒すると、オリビアの頬に涙の筋が伝っていた。寝台の中である。ディランが青ざめた顔でオリビアを見下ろしていた。
「……嫌でしたか」
確認され、何が? と思い、昨日は驚きの人間椅子ごっこをして、そのまま酔っ払いのごとくベッドに大の字ダイブをし、気持ちよく寝てしまったのだと思い出した。
本当に酷い。人としてどうなのか。
なお、嫌だった? と質問を受けるべきなのは、ディランの方ではあるまいか。椅子にされたんやぞ、君、とオリビアは無の顔になる。
しかしふと、違和感に指先で自分の顔に触れた。
濡れている。
夢の中で泣いていたから、現実にもそうなっていたらしいと気づいた。
顔色の悪いディランに、誤解を与えてしまったのだと理解する。
オリビアは上半身を起こし、服着せてくれたんだなと思いつつ、首を振った。
「違うわ。子供の頃の夢を見ていたの。貴方の木箱……蒐集箱の夢」
「……ああ」
ディランが表情を硬くする。彼は唇を引き結び、やがて決心したように微笑して提案した。
「今の俺なら、何でも貴女に差し上げられます。欲しいものがあれば何でも仰って下さい。宝石でも霊果でも、貴女が欲しいなら国でも差し上げますよ」
嫌味からではなく、本当に何でも貢ぎますといった感じに言う。
オリビアは少し考えて、「いいわ」と首を振った。
ディランが凍り付いたので、また誤解を与えているなと自分の言い方に頭痛がした。
「あ~、ええと、宝石はまあ。特にほしくもないし、身につけるのもそんなに好きじゃないの。でもあなたが必要なら買って。あと霊果はちょっとわからないわ。国はいらない」
「……実質、何もいらないということですか」
「いいえ、欲しいものはあるわ。さっき言った蒐集箱――あの中身が欲しい」
ディランが大きく紅玉の双眸を見開く。
「同じものをというのではなくて。子どものお前が、良いものだから、私に見せたいなと思ってくれたのでしょ。これがきれいだとか、ぴかぴかしてるとか、珍しいとか。そう思って、用意してくれたあれが欲しい。お前がどこかに行く時、同じように感じたら、それを私にも分けてちょうだい。お前がどうしてそう思ったのか、聞かせて」
ディランは沈黙した。短くない間彼は押し黙り、シーツに手をつくと、少しだけオリビアに顔を寄せて、どこか戸惑うように半身距離を置く。
「そんなものが欲しいんですか。がらくたですよ」
「——欲しいわ。ディラン。今度こそ持って来なさい」
お前がうつくしいと感じたものを。それをどうしてそう思ったのか。お前がどう感じたのか。聞かせて。教えて。
オリビアはそこまで口にはできず、ただふたり目を合わせたが、沈黙はもう余所余所しさを含まなかった。
それから。ディランは後日、一輪の白い花を持ってきた。一度目は幼い頃、オリビアが神木の花を請うて叩き落し踏みにじらせた。二度目はディランが希求し、オリビアに一度目のように扱えと迫った。三度目は――それはいわば雑草の一種だ。ただ小さくてかわいらしい。黒い外套に、血のように紅い目、うつくしい顔、柔らかに濡れるような黒髪の蛇の化身の青年は、その威容を轟かせておきながら、小さな花を震える指でオリビアに捧げた。
今度こそオリビアは指を伸ばして受け取り、ディランの震えるそれに絡めるようにした。
「ディラン、嬉しいわ。ありがとう。素敵な花を見つけてくれたわね」
彼の愛は、この花のようだった。オリビアは大事に花を胸元に押し当てるようにした。
もう二度と、どんな花も、捧げられる献身も、踏みにじられることはない。
ディランが外気を遮るようにオリビアを外套の内に囲い入れ、二人の影が重なった。そこに敵意も、拒絶もなく、ふたりは身を寄せ合うようにお互い離れがたかった。
番外関係正常化イチャイチャ〜は終わりです。
お読みいただきありがとうございました!
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