6 新学期
一進塾の夏期集中講座は終わり、中学校も塾も新学期が始まった。
この事件があってから、もう臨死体験をするヤツはいなくなった。もっとも、誰も受験のことで忙しくなり、もうそんなバカをやってるヒマはなかった。僕ら受験生は最後の追い込みに入った。
病院には一晩泊まっただけで、僕は翌日家に帰された。父さんにはもちろんこっぴどく叱られたし、母さんは病院に駆けつけて来てくれたときから泣きどおしだった。
なぜかそれを境に、母さんは悪阻がおさまり、よく食べるようになった。顔が少しずつふっくらとして、勤めにも出始めたし、暇さえあれば生まれてくる赤ちゃんの準備をしている。真新しいベビー服だの、よだれかけだの、出したりしまったりしている。
僕を「シュウちゃん」と、呼び間違うことはなくなった。いったいどんなのが生まれてくるのか、それを考えるとちょっと怖い。苦労性の僕としては、またなにか怖いことが増えたような気がする。
僕は父さんに連れられ、塾長の家へお詫びと礼に行った。夜だったから、塾長はステテコに腹巻で、ドスの利いた声はそばで聞くともっと迫力があったし、僕はつい口元にばかり眼がいって困った。
例の自動販売機はいつの間にか撤去され、乾いた地面には四角いあとが残っていた。
それでも、塾の行き帰りには、橋のたもとに立っている背の高い街灯の下に、僕は今でもあの販売機を探してしまう。
僕らはもうあの時のことを話さないが、川上も僕と同じように目で探しているのを、僕は知っている。あのちょっと怖かった自動販売機を。
生き返るのはたいへんだった。
塾長の顔が離れると、僕は咳き込んだ。生まれてあんなひどい咳はしたことがないというくらい、肺の底をしぼるような苦しい咳だった。フルマラソンでも走ったあとみたいに、僕はぜいぜいと激しい息をした。
塾長が、節の立ったごつい手で、僕の胸をさすっていた。川上がひざまずいたまま、こぶしで顔をぬぐう。富岡と江田が何度もうなずきながら、顔を見合わせた。
白いヘルメットをかぶった救急隊員が階段を駆け上って来た。階下の人垣がくずれる。
塾長が白衣の裾を叩きながら立ち上がった。自分の膝を揉んでいる。不自然な姿勢がこたえたらしい。
僕は、まだ顔をしきりにぬぐっている川上を指先で招き寄せた。また、むせそうなのをこらえ、苦しげな顔になる。川上は遺言でも聞くみたいに真剣な表情だった。
僕は川上の耳に嗄れ果てた声でささやいた。
「初キッスが塾長なんてあんまりだ」
救急車に搬入されるとき、僕は、そこまでついて来た川上を安心させるため、担架の上からこっそり手首だけ立ててピースサインを送った。
いつもは僕が言う台詞を、川上が口にした。
「おまえ、ほんっとに、長生き……、しろよな」
もちろん、僕は言い返したさ、小さな声で。
「オマエモナー」
救急車の固い寝台の上に横たわったまま、僕はズボンのポケットを外から探った。六文銭の入った封筒はもうそこになかった。
太古の原生林で僕と向かい合ったなにか。かびの匂いのする霧の中で、僕が見送ったなにか。もう僕が知ってるお祖母ちゃんではなくなったなにか。
あの清涼な霧が、また僕の胸に流れ込んだ。
中学三年の夏休み、こうして僕は、僕の神話をつくったんだ。
(了)