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5 僕が死んだとき

 音は上へ昇るものらしい。

 階下で教室のドアを開け閉てする音が数回して、静かになった。まだ、夜間の部が始まるまで時間がある。

「二分やってくれ」

 僕は、大人がタクシーの運転手に行く先を告げるみたいな口調で、川上に言った。

 百日紅の木から落ちた時、川上は一分半死んでいた。二分ぐらいなら大丈夫なんじゃないか? 一分じゃあ、きっと探しきれない。

 江田と富岡が顔を見合わせた。小柄な富岡は川上の肩ぐらいまでしか背がない。

 江田が、華奢な腕に不釣合いのスキューバダイビング用の腕時計を見る。

「きっかり二分だな」

 僕は背中を踊り場のコンクリートの壁に押し当てた。

ズボンのポケットを外からまさぐると、分厚い古銭がじゃらじゃら手に触れた。父さんがお棺に入れ忘れた六文銭だ。これがないと、お祖母ちゃんは三途の川が渡れない。

 僕は深呼吸を始めた。

 踊り場の高いところにある明り取りの小窓から、夕暮れ時の日差しが長く斜めにのびて、その中に埃の粒がきらめいている。

 僕は思いきり大きく息を吸って、止めた。

 川上の大人なみの大きなこぶしが、僕の胸に振り下ろされる。

 どん!

 息が詰まる。

 どん!

 トンネルに引き込まれるように視野が狭まる。

 そして次の一発は超出力の大音響となって、僕は後に吹っ飛んだ。

眼の隅に、前のめりに倒れこむ自分自身の姿と、僕の体を必死で受け止めている富岡と、それを助ける川上の坊主頭が見えた。まるで高速で走っているバイクの後部座席から振り落とされるみたいに、僕は背にした壁をすり抜け、遠く後へ吹き飛んだ。

空中で体勢を立て直そうと、僕は必死でジタバタともがいた。白くまぶしい光なんて嘘だ。お花畑なんてないじゃないか。

 たちまち全身を冷気が包む。

鼻を打つかびと苔の匂い。

 目を開けると薄暗い。夜が明ける前だろうか。緑がかった薄い靄がかかっている。

背中を胎児のように丸めているせいで息が苦しい。背中を伸ばそうとして、はじめて気が付いた。僕の体は、ごつごつとした木の根っこがからみ合った間にすっぽりとはまりこんでいたのだ。

僕は両手と両足を踏ん張って根っこの間から起き上がると、思い切り深呼吸をした。

清涼に胸底にしみるオゾン。

 目の前にあるのは暗緑色の苔におおわれた巨木だ。杉だろうか。樹齢何千年だろう。大人が五人くらい腕を広げてやっと抱えられるくらいの大木だ。見上げると、霧を透かして、はるか上方で枝が重なり合い、その先は闇と霧に飲まれ、見えない。

 見回すと、同じような灰緑色の巨木が何本も、濃淡のついた霧の向こうに見渡す限り続いている。太古の原生林の中で僕は立ち上がった。

 そうだ。時間がない。

 僕は口の周りを両手で囲い、大声を出した。

「お祖母ちゃーん」

 深く暗い木立の間を僕の声が、遠くなるまで何度も反響する。

 凛々と重なり合う木霊はだんだんと、僕じゃなく、弟の秀二になっていく。生ききれず、おんぶお化けみたいになって、いつも僕に取りついている幽霊だ。

 いや、違う。今は僕のほうが半幽霊なんだ。僕がおぶさって連れて行ってもらうんだ。すると、神話に出てくる少年たちのように、いつも怖がりの僕が今は少しも怖くないのに気がついた。

 木霊が波紋のように広がり消えて行くのを確かめて、僕はもう一度ありったけの声を出した。

 足元には灰色の木の根が複雑に絡まり合い、地面は見えない。僕は木の根に足をとられながら歩き始めた。来ていたTシャツが湿気を吸ってすぐに冷たくなった。

 耳元で秒針を刻む音がする。僕は江田のごっつい腕時計を思い出した。

 時間がなかった。

 僕は立ち止まって、全身を耳にした。

 どこからか微かに水音が聞こえる。

――川だ、川があるんだ。

 水音をさえぎるように、どこかでうるさく蝉が鳴き始める。あちらの梢で一匹。こちらの高みで二匹。その数が次第に増えていく。

 ――そうだった。

僕は古文の講義を思い出す。橋の向こうは異世界。川のたもとにたたずむ木の洞や洞くつには霊が集まりやすい。宇津は虚ろ、神聖な空洞。

 蝉の鳴き声が次々に和し、霧に渦巻いて行く。やがてそれは何百という蝉の大合唱となり、化石の森に朗朗と響き渡り、いつしか深い読経に変った。

やがて、大勢で和す読経の単調な響きとともに、青臭い黴の匂いに混じって、覚えのある線香の匂いが流れてきた。

視界はどこまでも薄い霧でかすんでいる。

 僕は水音のした方角へ目をこらした。

 薄暗く深緑に霞んだ樹海のはるか向こう、灰色の巨大な木立の間に、かしぎ、古錆び、苔むした自動販売機があった。

 そのしめ縄に垂れ下がった四角い紙の白さが、遠くから鋭く僕の目を射た。



「ワン、サウザンド」

 ひじを曲げず垂直に両腕を伸ばし、掌を重ね、みぞおちの少し上を圧迫する。ワン、で横たわっている人の胸に体重をかけるようにして圧迫し、サウザンドで手を引く。そうだ!

「トゥー、サウザンド。救急車だっ、救急車呼んでくれっ!」

 川上健介は坊主頭を振り返らせて怒鳴った。

 狭い階段の踊り場を、それぞれ三階と四階から数人の顔がのぞき込んでいる。

「スリー、サウザンド。早く!」

 ほとんど悲鳴に近い。

 かたわらにいっしょにひざまずいていた富岡が飛び上がり、転げるように階段を駆け下りて行く。

 水難救助法の講習会は三年になってから体育の時間に受けた。心臓マッサージも人工呼吸も、水泳部で何度かやらされた。ふたり一組でやった。でも、あの時は、目も鼻も白いばかりのダミーだった。

「フォー、サウザンド。誰か呼んできてっ! 早く!」

 手がわなないている。落ち着けえ、自分! 

 階段にあわただしい足音がして、塾長のいかつい白衣姿が現れた。

 どうした、と言いかけて、ただちに見てとり、横たわった俊一の頭部にまわり、ひざまずく。

「続けろ!」

「ファイブ、サウザンド」

 川上が重ねた掌で心臓の部分を圧迫する。

 塾長が俊一の頭をそらし、喉をまっすぐにして気道を確保する。俊一の額に手を当て、ごっつい親指と人差し指で鼻をつまみ、大きく開けた口に静かに息を吹き込んだ。

 胸が動いているか見て、呼気を確認する。

 だめだ。

もう一度、ゆっくりと吹き込む。

「もう一度!」

 川上がわななく手を俊一の胸に重ねる。

「ワン、サウザンド」

 押して、引く。

「救急車まだか!」

 塾長のだみ声が薄暗い階段に震撼する。

「トゥー、サウザンド」

「今、救急車来ます」

 階下から事務の職員らしい女の人の緊張した声がする。

 救急車来るって、救急車来るって、来るってよ、来るって、来るって。

生徒の間に木霊がリレーする。

「先生、今、救急車来ます!」

 誰かが叫ぶ。

「スリー、サウザンド」

 階下には、若い先生たちが生徒に混じって立ちつくしている。

「倒れてどれくらいだ?」

 俊一の手首を取って脈を探していた江田が、腕時計を見ながら早口に答えた。

「ええと、二分たって息を吹き返さなくって、それから川上が心臓マッサージはじめて、ええと、もう、三分半くらい、いやもっと」

「フォー、サウザンド。俺、人殺しになっちゃうよ、この年で」

「ならないようにがんばれっ!」

「ファイブ、サウザンド!」

 川上の動きに合わせ、江田と富岡が声を合わせた。

 塾長が俊一に顔を寄せ、ふたたび息を吹き込む。吹き込んだ息で胸が一瞬もち上がるが、それが出て行ってしまうと、あとはしんと動かない。

 塾長は俊一の鼻と口に自分のほおを近づけて呼吸を慎重に確かめる。

だめか。

続けてもう一度息を吹き込む。

 塾長の剃り込んだような額に汗の玉が浮かび上がっていた。

「もう一度!」

 押して、引く。

「ワン、サウザンド」

 もう泣き声だ。

 それを励まし、踊り場の上と下で声を合わせる。

「トゥー、サウザンド!」

 救急車のピーポーという音が近づいてくる。

 声を合わせながら、その場にいる全員がいっせいにその方角へ耳を澄ます。

「スリー、サウザンド!」

「ちっくしょう、怨むのは俺のほうだからな」

「フォー、サウザンド!」

 坊主頭から流れる汗とぬぐえない涙で、顔がびしょびしょだった。

「ファイブ、サウザンド!」

 誰か階段の上で、女の子が口を押さえて泣き始めた。



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